①誕生〜幼少期
ある日ふと自分の人生を振り返ってみたくなりました。今一度自分を見つめ直し、なんとか一からやり直したいと思ったからです。
思えば幼い頃から悩みの絶えない子供で、その原因を作るのはたいがい母でした。
子供の頃から消えない嫌な記憶。大人になっても忘れられない記憶。
内容はそこまで酷いものではないのかもしれない、だけど小さな事でも傷を負ってしまえば同じ事だと私は思う。
1988年8月、厳しい残暑が続く夏の終わりに私は生まれた。
女の子にしては大きくずっしりとした赤ちゃんで、我が家では2人目の子供だった。
私には両親と3つ上の姉がいた。少なくともこの瞬間は幸せだったであろう、そうであったと願いたい。
こうしてこの世に産声を上げた私は、これからの人生がどう傾いていくのかも知らず生きていく事になる。
母親は重たいと言って幼い私を抱くことはほとんどななかった。変わりに溢れんばかりの愛情を注いでくれたのは祖父だった。
父や母に遊んでもらった記憶などない。物心ついた頃には祖父が大好きで、今もなお私の人生の中で最も偉大で愛すべき人だったと思う。
一方母親に対しては不信感を抱くようになった。意味もわからずぶたれることがあったからだ。
あるとき幼い私は覚えたてのおまるで用を足した。褒められるとばかり思っていたが掃除が面倒だったのだろう即座にぶたれた。
正しいことと悪いことを純粋に見分けていた幼心に「どうして?」という疑念だけが日々積み重なっていった。
母親は一見普通に見えたが事あるごとにヒステリーを起こし、大声で怒鳴り散らすような人だった。
子供相手にそこまで怒るものだろうかという形相で「お前なんか死ね」「バーカ」「産まなきゃよかった」。幼い子供に決して言ってはいけない言葉である。生まれてたった数年で私は生涯忘れることのない傷を負った。
大人になった今、これは一種の虐待だったと思っている。ニュースなど話に聞くような大きな怪我を負わされたこともなかったし、それ以外は普通の母親だったことが私を惑わせた。
3つ上の姉は幼稚園や学校で昼間はいなかった。姉は比較的マイペースで穏やかな性格だった。姉自身のことは詳しくは聞いていないが、この毒母に精神的に追い詰められていた事が少なからずあったと思う。
しかし母の血を存分に受け継いだ私だけがうまく交われず、今後の人生を絶望に変えていくのである。