素直な君に
「……んっ」
朝。目を覚ますと真っ先に、熱による倦怠感を覚えた。この頃の三ヶ瀬は雪こそ降っていないものの、気温は低く空気は乾燥していて、風邪をひくのも仕方がないと自分に言い訳をする。枕元のスマートフォンを手に取り、毎日一緒に同じ高校へと通う幼馴染、紗耶香へメッセージを送信すると、部屋を出てお母さんに風邪をひいたことを伝え、学校への連絡を頼んだ。
風邪薬を飲み、スポーツドリンクや体温計などを持って自室へ戻ると、紗耶香から返信がきていることに気づいた。『そう、お大事に。放課後にお見舞いに行くわ。』と予想通りの素っ気なさだけど、それが今は少し寂しくもあった。そうこうしているうちに体温計が計測を終えて、電子音を鳴らした。一般的には微熱と言われる程度だけど、平熱の低い私にとっては微熱というには少し高かった。私は体温計を机に置き、もう一度布団に入っておとなしく眠ることにした。
少しの間眠り、起きてはスポーツドリンクを飲み、また眠る。それを繰り返すうちにお昼頃になっていた。汗で蒸れて気持ち悪いため、体を拭いてから下着やパジャマを替え、お母さんが用意してくれたお粥を食べることにした。お粥を少しずつ頬張りながら、小さい頃にも風邪をひいて、こうしてお粥を食べていたことを思い出し、なんだかおかしくなって小さく笑いをこぼした。
まだ熱っぽさはあるものの、心なしか朝よりは元気になった気がする。この調子で明日には治ってくれるといいのだけれど。そんなことを考えながら食器を台所の流しに運び、部屋に戻って布団に入る。頭が少しぼーっとして、今頃みんなは授業かしら、とか、紗耶香は一人で大丈夫かしら、とか、とりとめもない考えが浮かんでは消えていく。次第に眠くなってきて、ゆっくりと目を瞑った。
気が付くと、私は学校の中に居て、合唱同好会の部室である第二音楽室へ向かっていた。ドアを開けると、既に私を除いた4人が集まって練習をしていた。「遅れちゃった、ごめんね」と言おうとするも、声が出ない。そして、誰一人として私の方を向く素振りを見せない。まるで私が見えていないみたい。手を振ったり、目の前を歩いてみても、何の反応もない。ああ、これはきっと夢なんだと思うと同時に、私が居なくなっても何も変わらないということを思い知らされ、私は突如として足元にできた穴に落ちていく感覚に襲われた。
「っ! はぁはぁ……」
夢から醒めた私は上体を起こして、胸に手を当てながら呼吸を整える。
「……すみれ、大丈夫?」
声のした方を見ると、さやかとわかなちゃんとかずねちゃんが心配そうに私を見ていた。
「大丈夫よ、少し嫌な夢を見ていただけ。それより、お見舞いに来てくれたのね、ありがとう」
すぐに笑顔を作り、お礼の言葉を述べる。窓の外は薄暗く、夕方であることがわかった。しかし、それと同時に二つの疑問が生まれた。
「みんな、練習は? それと、こはるちゃんは……?」
「心春は用事があるそうで、練習も出られないから、菫先輩が休みなら今日は練習なしにしてもいいって言われて」
「そう、わかったわ」
用事があるなら仕方がない。真っ先にそう思った自分に嫌気が差した。そもそも用事がなかったとしても、お見舞いに来てもらえることを当たり前だと思うなんて……。胸の奥が少しチクっと痛んだ気がした。
「これ、来る途中で買ったんですけど、良かったら食べてください」
かずねちゃんがコンビニの袋に入ったプリンを渡してくれた。
「ありがとう、後でいただくわ」
袋を傍らに置き、3人を見ながら口を開く。
「うつしても悪いから、あんまり長居しない方がいいと思うわ」
「でも……」
かずねちゃんは本当に優しい子だと思う。
「気持ちだけで十分よ、ありがとう」
「……大丈夫よ、行きましょう」
「それじゃあ、お大事に」
後ろ髪を引かれるような表情のかずねちゃんの背中をわかなちゃんが軽く押して、3人は部屋を出て行った。
それから5分程が経ち、インターホンが鳴らされた。宅配便だろうかと思っていると、ドアがノックされ、聞き慣れた声が聞こえた。
「園内です。お見舞いに来たですが入っていいですか?」
「えっ、うん……」
驚きのあまり、気の抜けた声が出た。
そして、部屋に入って来たのは本当にこはるちゃんで、私は目をこすったり、腿を軽くつねってみて夢じゃないことを確認した。
「どうしたですか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔して」
「どうしたって、だって、用事があるって聞いてたから。それに、お見舞いなんて来ないと思ってた……」
こはるちゃんは一瞬だけ、しまった、という表情をして、目を逸らしながら口を開いた。
「思っていたより用事が早く済んだので。それに、同好会のメンバーを気にするのは会長の務めです」
「そっか。嬉しい……」
熱のせいではなく、体の奥の方が熱くなっていく感じがした。
「菫先輩が居ないと同好会の調子が狂うですから、早く戻って来るです」
「本当……?」
あんな夢を見たせいで、確かめたくなってしまった。
「……っ、本当です」
こはるちゃんは一度逡巡した後、今度は私をしっかりと見て言った。その直後にそっぽを向いてしまったけれど。
「思ったより元気そうなので、私はもう帰るです」
そそくさと立ち上がってこはるちゃんは出て行ってしまった。ほんの少し頬を染めながら。
翌朝には、体調はすっかり元通りになっていた。いつものように朝ご飯を食べて、お母さんに昨日のお礼を告げてから家を出る。そして、さやかの家の前に着くと、ちょうどさやかが玄関から出て来て、目が合った。
「おはよう、さやか」
「……おはよう。その様子だと大丈夫そうね」
「ええ、お陰様で。心配かけたわね」
さやかと二人で歩くのがとても久しぶりな感じがして、少しでも長く一緒に歩きたくて、普段より少しだけ遅く歩いた。
学校に着いても、早く同好会のみんなに会いたくて、一日中落ち着かなかった。
ようやく放課後になると、私はさやかの手を引いて第二音楽室へ急いだ。
流石にまだ誰も居なかったものの、5分とせずに3人がやって来た。
「みんな、昨日はありがとう。お陰様ですっかり元気になったわ」
「良かったです!」
「またみんなで歌えますね」
嬉しそうに言うかずねちゃんとわかなちゃんとは反対に、こはるちゃんは仏頂面をしている。
「それなら早く練習を始めるですよ」
昨日できなかった分の遅れを取り戻したいのか、はたまた照れ隠しの類なのか。確かめるべく、私はこはるちゃんに話を振ってみる。
「こはるちゃんも、お見舞いありがとうね」
「あれ、心春ちゃん、用事があったんじゃないの?」
私とかずねちゃんの言葉に、こはるちゃんがピクリと反応した。
「そ、そうですよ。何言ってるですか」
平静を装いながらも、少し食い気味で言い返してくるところが可愛い。多分、私にこの話をされたくなかったのだろうと思うけれど、こはるちゃんのこんな姿はあまり見られないから、もう少し見ていたい。
「じゃあ夢だったのかしら? 菫先輩が居ないと調子が狂うから、早く戻って来るですって言ってくれたのよ」
「若菜さん、何ニヤニヤしてるですか」
「いや、夢の中の心春は素直で可愛いなって思ってさ」
「……普段からそうすればいいと思うわ」
「紗耶香先輩には言われたくないです」
もちろん、夢じゃないことはわかっているけど、今はみんなとのこの時間を楽しめればそれで十分だから。