プロローグ
あの日、当時10歳だった私は居間のテレビの映像を兄と共に食い入るように見つめていた。
地球と月を隔てる「世界線」の安定化を観測した人類は、約170年ぶりとなる「月面着陸」を実行するべく様々な準備を重ね、一大プロジェクトの名称である「ムーントリップ計画」は流行語大賞にもノミネートされた。
地球外生命体の脅威が過ぎ去って間もない栖歴2132年1月、世界各国から選抜されし「宇宙飛行士」と人類の夢を乗せたSSTO「エンデバー」がオリエント連邦・ヴォヤージュ宇宙基地を飛び立ち、38万km先の月世界を目指した。
高校生になってから知ったのだが、エンデバーはそれ自体が月面へ降り立つのではなく、同機に格納されている小型艇「エクスプローラー」を実際に着陸させるはずだったらしい。
……あの時の光景は未だに目に焼き付いている。
「飛鳥、もうそろそろ着陸するみたいだぞ」
隣に座っていた兄がテレビの中の宇宙飛行士を指差しながら、宇宙図鑑で月について調べていた私に教えてくれる。
「わあ……図鑑の絵と同じだ……!」
エクスプローラーのカメラで捉えられた月面の様子が日本のお茶の間まで届けられる。
私はそれを可能とする科学技術、そして最果ての世界の姿に感動を覚えていた。
全世界の人々が見守る中、小型艇はついに月の大地へと降り立つ。
「エクスプローラーよりエンデバー、そして地球上の皆様へ。人類は再び月へと辿り着いた。今日、我々は170年前の先人たちが記した足跡を越え、新たな宇宙開発時代を切り拓く!」
船長と思わしき宇宙飛行士が力強く宣言した時、エクスプローラーの船内に「ガンガンガン!」という激しい音が鳴り響く。
「キャプテン、この音は外部からのようです……!」
「外部から? ははーん、さては月星人のお出迎えだな?」
笑いながら宇宙服のヘルメットを被る船長。
スペースコロニー周辺とは異なる現人類にとって未知の環境である以上、しっかり身を固めるに越したことはない。
装備を整えた彼がハッチを開け、目の当たりにした光景は……。
「ん? 生身の人間だと……待て! 撃つなッ! グ、グワーッ!!!」
船長が最期に見た光景―それは自らへ銃を向けるヒューマノイド型宇宙人たちの姿だった。
異邦人を躊躇無く撃ち殺した宇宙人たちは船長の遺体を踏み付けながらエクスプローラー船内へ突入し、残りのクルーに銃を突き付ける。
「待ってくれ! 我々は貴女たちに危害を加えに来たわけでは……ウッ!!」
密着状態で背中を撃ち抜かれた宇宙飛行士が項垂れる様に倒れる。
不運にも彼の左手がコンソールパネルに触れてしまい、その影響で通信機能が全てシャットダウンしてしまう。
当然ながら生中継の映像も途切れ、世界各国のテレビ局は放送事故の対処へ追われることになった。
「こちらエンデバー。エクスプローラー、応答しろ! 何があった!?」
一方、小型艇の異常を察知したエンデバーは何度も通信を試みるが、エクスプローラーからの返事は無い。
「クソッ……月に行って帰って来るだけの簡単なミッションじゃなかったのかよ!」
クルーの一人が悪態を吐いていた時、通信回線が想定外の反応を示し始める。
「所属……への……する……も……抹殺……よ」
「何だ? こんな大変な時に通信の混線か―?」
周囲に他の宇宙船がいないにもかかわらず発生した謎の混線。
「抹殺」というかなり物騒な言葉だけは聞き取れたが、その真相を究明するよりも先にエンデバーが宇宙の塵と化してしまうのだった。
「ムーントリップ計画の失敗」と「参加した宇宙飛行士の全員死亡」がNASAから発表されたのは、それから約1ヶ月後のことである。
だが、私はハッキリと覚えている。
映像が途切れる直前、ウサギのような耳を持つ人間と視線が合ったことを。
NASAの残念な発表からわずか数日後、20世紀末の隕石災害で荒廃したアフリカ大陸に再び大量の流星が降り注ぐ。
偶然として片付けるにはあまりにもタイミングが良すぎたが、私を含む多くの地球人たちは「志半ばで倒れた宇宙飛行士たちへの弔いだろう」と勝手に解釈していた。
……あの日、地球人類は思い出すべきだったのかもしれない。
この広い宇宙には自分たち以外の知的生命体がまだ存在すること。
そして、彼女らが必ずしも友好的ではないという現実を。
地球から38万km先に浮かぶ「月」。
2132年3月6日、月に住まう者たちが牙を剥いたことで戦争が始まった。