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「大丈夫?お嬢ちゃん」
心配して慮る声に顔をあげる。そこには少しでも安心させようとする笑顔があった。しかし声をかけられた少女__シエルの反応は男の予想と反するものだった。
「大丈夫って!むしろあなたが大丈夫ですか!体見て体!全身に狼が群がってるからぁ!」
荒野に少女の叫びが響きわたった。
砂狼。この荒野の原種にして、もっともポピュラーな生き物だろう。成体になれば大人の人間ほどの大きさになり、牙はするどく噛みつかれれば簡単に皮膚を破って骨を砕く。
そんな馬鹿げた生き物が6匹、男に群がって全身に噛みついていた。普通なら激痛に転げ回り悲鳴をあげてもおかしくない状況に男は、まるで気がついていない様な雰囲気で能天気な笑顔を浮かべている。
控え目に言ってシュールだ。気持ち悪い。
彼女の思いと裏腹に、男は何を勘違いしたのか近づいてくる。ずるりずるりと2メートル近い砂狼を引きずってくる様に恐怖しかない。
「本当に大丈夫か、お嬢ちゃん。顔色が悪いけど気持ち悪い?日射病?」
気持ち悪いのはお前だよ、と声を大に主張するのを抑えたのは幼い少女にしては大層な自制心だ。しかし。
「とりあえず近寄らないで!」
怖いものは怖い。肉食の野生生物の血走った目も、くい込んだ牙と肉の接合部も、それらを何の痛痒にも感じない男の精神性も、すべてが怖い。その発言を受けて男はとまった。
ピシリと笑顔に罅が入る。砂狼に全身を噛まれたまま、シエルの発言に彼は膝を屈した。
「近寄らないでって、そんな嫌そうな顔で言われると地味につらい。え、俺そんなに気持ち悪い?変質者か人攫いに見える?」
まとわりついた砂狼が彼の様子に気をよくしたのか、よけい顎に力を入れるが男は与えられた精神へのダメージにそれどころではない。
そこで傷付くのか。
妙な感慨に襲われたシエル。どうしようか、フォローを入れた方がいいのかと考えていると唐突に男は立ち上がった。
そして納得した様に頷く。
「そうか、お嬢ちゃん狼がこわいのか」
間違えてはないけれど、お前の精神構造の方がこわいよとは口には出さずにシエルは精一杯肯定する。
この辺りの生き物は荒野と言う気候のせいもあり、少ない獲物を求めて獰猛で凶悪。格上にも容赦なく飛びかかるものばかりだ。
そんなものが目の前にいるのは、やはりこわい。
少女の恐怖の色を察したのか、男はゆらりと立ち上がる。そして、まずはと言わんばかりに腕についた砂狼を足に食いつく砂狼にたたきつけた。
砂狼はヒャン、と情けない声をあげて口を外して吹き飛んだ。同じ質量の物質が当たる衝撃は想像以上だったのか、倒れたまま起き上がれない。
男はそれに頷き、同じことを他の食いついた砂狼にも繰り返した。
「こんなものかな?」
都合6匹の砂狼を地面にひれ伏せて男は笑った。食いつかれた部分には不思議なことに傷はない。
世の中には傷を治す奇跡というものがあるらしいが彼の様子を見るに、そもそも砂狼の牙は男の皮膚を破ることすらできていなかったようだ。驚きはすれど、納得もした。
そう言う加護を与えられた人間がいると言うことを聞きかじりではあるが、彼女は知っている。お陰で今までの男の発言や行動にも多少ながら理解が追いついた。
かに見えた。
「よし、お前ら。お嬢ちゃん怖がるから帰れ」
虫でも払うかの様に「シッシッ」と手を振る男。野生生物にまるで人間と相対するのと同じと言わんばかりの声をかけ、この荒野の獰猛な生き物が言葉を解する訳もなく、理解できたところで挑発にしかならない行動はやはり意味がわからなかった。
だけれど、それだけにとどまらず、更に理解不能なことが起きる。あの凶暴な砂狼たちが彼の声を受けて首をかしげ、去っていったのだ。
「元気でなー」
立ち去る砂狼の背中に能天気な声をかけてから、彼はシエルに向き直った。安心させるための笑顔、安心させるための声を意識ながら。
「大丈夫?お嬢ちゃん」
その能天気さがとても腹立たしかった。