鳴高市の悪役事情⑧
「は、はーい。皆さん、席に着いてください……」
そんなことを考えていると、担任の英語教師、花畑春菜先生が入ってきた。大学を卒業してまだ数年、あどけなさと自信のなさが目立つ初々しい童顔の女性。青春真っ盛りの高校生達に真っ向からぶつかっていこうとはするものの、いかんせんその小さな体や顔つきから舐められてしまうことが多い。最も、からかうことはあっても、馬鹿にしたり、言うことを聞かないなんて無法者はここにはいない。皆、あくまでもペット感覚で、愛でている。教師をペット扱いしている時点で問題だが、それも一種の愛情表現。実際、この教師を中心に皆が緩やかな雰囲気で纏まっているのも確かである。
「ん?」
春菜先生の声かけに、皆がぞろぞろと席に着く中、肩を落として教室に入ってきた祭を発見した。
大方、転校生、つまり、伊月の情報をもっと知ろうとして職員室にて立ち聞きしていたのだろう。そこを見つかって怒られたってとこかな。ま、自業自得かな。
「きょ、今日は皆さんに新しいお友達を紹介します」
『新しいお友達』、その言葉に教室が湧いた。
無理もない。これは、退屈な日常を吹き飛ばしてくれる数少ないイベントの一つと言っても過言ではないのだ。
「ふふふ、皆さん、聞いて驚いてください。なんと、転校生は女の子です!」
その喧騒に油を注いだのは、案の定というべきか、祭である。さっきの落ち込みようは何処へやら、自分が仕入れた情報をここぞとばかりに放出する。って、ちょっと待て。それはさっき、俺が教えてやったネタじゃないか!
さすがは新聞部、と称賛され、一層盛り上がったクラスメート達に、恍惚な笑みを浮かべる祭。だから、それを教えてやったのは俺だろうが。
「は、はい、皆さん、静かにしてくださいね。片桐さんの言う通り、転校生は女の子です。くれぐれも意地悪しないように!」
指を立てて威厳たっぷりにびしっと言い放った春菜先生に、一同は揃って返事をした。本人は厳しく忠告したつもりだろうが、残念ながらその威圧感は誰一人として伝わっていない。揃いも揃って、期待で目を爛々と輝かせている。
「ちっ……」
今からこの盛り上がりじゃ、伊月が登場した瞬間にお祭り騒ぎ間違い無しじゃないか。……イライラする。
「それでは永倉さん、入ってください」
ガラッ、と教室の扉が開く。
右端前列にいた男子生徒が息を飲んだ気配が伝わってきた。その驚愕の気配は、次々に教室内を駆け巡っていく。伊月を初めて見た、昨日の俺と同様の憧れが。その気配は、伊月が壇上に上がるまでの間、消えることはなかった。
「それでは永倉さん、自己紹介をお願いしますね」
「はい」
伊月の口から出たその可憐な声が、ざわざわとしている教室に静寂をもたらす。
「今日からこのクラスの一員になる永倉伊月です。まだこの街のことはよく知りませんが、一日でも早く馴染めたらいいと思っています。よろしくお願いします」
真面目な自己紹介の後にぺこりと頭を下げた伊月を、クラスメートの大歓声と拍手が迎え入れた。俺もまた同様に、いや、誰よりも大きな声と音を彼女へと送る。
「あ……」
偶然、こちらに視線を向けた伊月と目が合った。
ドクン、と一際大きく跳ねる心臓。
伊月が、俺を見て微笑んだ。俺だけに向けた、彼女の微笑み。
その微笑みの心意はわからない。知人を見つけた安堵なのか、それとも……、なんてな。
「先生、ちょっとよろしいでしょうか?」
すっと手をあげた祭。なんだか嫌な予感がするのは俺だけか。
「どうしましたか、片桐さん?」
「はい、転校生の永倉さんにいくつか質問をしたいなって。僕、あ、私だけでなく、皆もそうかと思います」
祭の奴、余計なことを!
一旦は落ち着いていたクラスも、新たに火種を与えられ、またも騒ぎ出す。それはもはや、餌を前にした野獣そのもの。
「そうですか。私としては、一限目の授業の時間を少しぐらいなら使ってもいいですが、永倉さんはどうでしょう?」
「あ、あの、えと……」
野獣達の咆哮に圧倒された伊月の顔が、わずかばかり引きつっている。
伊月は、おそらくこういう風に質問攻めされることが好きじゃない。昨日だって、大騒ぎしていたクラスの様子に複雑そうにしていたし。
……仕方ない。
「せんせー、質問もいいけどさ、早く授業しなくちゃまずいんじゃない? 他のクラス、次の不定詞だかなんだかに進んでるってさ」
あくまでも興味無さげに、それでいて気だるそうに頬杖をつき、伊月への質問の流れを逸らすべく、俺は先生の不安を煽った。
「へ、ほ、本当ですか? ああ、どうしましょう。どうしてそんなに遅れが出たのかしら……」
俺の一言が予想以上の効き目があったのか、春菜先生は途端におろおろとし始めた。
うぐ、ちょっと申し訳ない気がしてきた。
先生の授業は確かにスローペース。だが、その分丁寧で分かりやすい。ついていけない人間がいないよう、しっかりと復習も欠かさない。
が、残念なことに遅れている原因はそれだけではない。伊月が見学に来た時のように、俺達が授業中に茶々を入れたりして、進行を著しく妨げるからだ。要するに、俺達のせい。いや、むしろ大部分は俺のせいかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいい。今は、遅れているという事実のみを指摘する。
「質問なんかしてたら、また授業遅れちゃうぜ。学年主任に怒られたりして……」
「ひ、ひいぃぃぃっ!」
あ、地雷踏んだ。
遂には悲痛な叫びをあげ始める先生。ヤバい、可愛いけど見てられない。
「せ、先生、質問はいつでもできますし、やっぱり今は授業を進めましょう!」
よし、先生のあまりの痛々しさに、とうとう祭が折れた。
「う、うぅ、ごめんなさい、片桐さん、皆さん」
「い、いえ、むしろ僕の方こそ悪かったです……」
祭も俺同様に、授業の進行を妨げている主犯格だからな。きっと責任を感じたのだろう。
「ごめんなさい、永倉さん。せっかく皆と仲良くするいい機会だったのに」
「あ、いえ、いいんです。皆さん、休み時間になったらたくさんお話しましょうね」
伊月の天使のような微笑みは、クラスメートだけでなく、先生の心までをも癒した。
俺としては、なんとなく面白くないけど、伊月がクラスに馴染むいいきっかけになったんだ、良しとしよう。
「で、では永倉さんの席はあそこの――十代くんの後ろの席に座ってください」
「え?」
い、今なんと?
「はい、わかりました」
ふわりと頷いた伊月がこっちに近づいてきた。俺の横を擦れ違いざまに、初対面を装って挨拶をする。
「初めまして。よろしくね、十代くん」
「ああ、こっちこそ」
なんたる幸運。まさか、空いていた俺の後ろの席に伊月が座ることになるなんて。華の学園生活になるかと思って浮かれていたけど、どうやらそれ以上のことが期待できるかもしれない。
「……さっきはありがと。改めてよろしく、善斗くん」
着席した伊月は、授業を始めた先生の隙をつき、俺にそう耳打ちをした。
ああ、昨日と同じ、伊月の声が俺の耳を擽る。後ろが空いていて良かった。