鳴高市の悪役事情⑱
「なによ。もしかして、ううん、絶対にそうね。あんた、伊月にめちゃくちゃ言われたんでしょ?」
「ど、どうしてわかったんですか?」
思わず顔をそちらに向けて驚きの声を上げてしまう。
「そりゃわかるわよ。引っ越してきてから数日は、善斗くん善斗くんってご機嫌で話をしてたのに、少し前から急に機嫌が悪くなったもの。なにかあったな、って、逆に私が考えてたくらいよ」
柚月さんは、膝の上に肘をつき、ため息をついた。
「あの子ってすぐに顔に出るでしょ。おかげで、疲れるのなんのって。それで、なにがあったの? ……いや、なにをしたの、かしら。お姉さんが聞いてあげるから、言ってみなさい」
この時点で、俺の負担が少しばかり軽くなった。もしかしたら柚月さんの方が、さりげなくそういう展開に持っていってくれたのかもしれない。
「実は一週間前、伊月を怒らせてしまったんです。俺が、嘘をついたから……」
一つ一つ、言葉を選んで話を続ける。
「伊月からお父さんの事故のことを聞かされたんです。その後で、伯爵の正体が俺なんじゃないかって問い詰められたから、思わず違うって嘘をついてしまって」
俺が話している間、柚月さんは黙って聞いていてくれた。
「それで、伊月が怒って帰って……」
「そう。で、なんで怒ったのかが聞きたいの?」
「いや、それもありますけど。その、……お父さんの、容態なんかを……」
「お父さんの? どうして?」
「お父さんはもう帰ってこない、って伊月が寂しそうに言っていたから」
俺のせいで、なんて冷たい言葉と共に。
いつしか俺は、消沈し、責任を感じて俯いてしまっていた。隣で、柚月さんが立ち上がったことにすら気づかないぐらいに。
「ちょっと、失礼なこと言わないで」
「え? うわっ!」
口の中に、土の味がした。それは俗にいう比喩表現ではなく、本当に。
自分が背中から蹴り飛ばされ、地に倒れ伏せたのだと気付き、その足の主へと困惑の眼差しを向けた。柚月さんの爪先が当たった箇所が、じんじんと痛む。
「な、なにするんですか、柚月さん!」
「あんたが失礼なこと言うからでしょ?」
ブランコを跨ぎ、不機嫌そうに足音を立てながら、俺の眼前へと歩み寄ってきた柚月さん。その足に見惚れる暇すら与えず、俺の背中へぐりぐりと爪先を押し当ててくる。
「いだっ。いだだだだっ、痛いですって!」
「お父さんは絶対に帰ってくるわ。じゃなきゃ、こうしてわざわざ鳴高に引っ越してきた意味がないじゃない」
手足をばたつかせ、悲痛な悲鳴をあげる俺に対して、柚月さんははっきりと、それでいて感情のこもった熱い口調で言い切った。
「鳴高に、引っ越してきた意味?」
「そうよ。ここにいれば、ヒーロー達や伯爵の馬鹿騒ぎがいつでも聞こえてくるでしょ。ヒーローが好きでしょうがないお父さんが、その声を聞いて、目を覚まさないわけないじゃない。きっとすぐにでも飛び起きて、その騒ぎに突っ込んでいくに決まってるわ」
ようやく足を上げた柚月さんが、そっと手を差し伸べてくれた。その手に捕まり立ち上がると、体についた砂を払う。
「そっか。柚月さんが、鳴高に引っ越してくることを決めたんですね」
「えぇ。伊月には猛反発されたけどね。お父さんが馬鹿な夢を見て、事故に遭ったのに、まだヒーローなんかに拘るのかって」
そういえば、初めて会った日にそんなことを言っていたな。
「どうして、伊月は反対したんでしょうか?」
「さぁ、怖いんじゃないの?」
「怖い?」
「あの子、本当は寂しがり屋なのよ。今は、ヒーローや伯爵を嫌いになることで、無理矢理寂しさを圧し殺しているけど。今まで好きだったものを、そう簡単に嫌いになれるわけないでしょ。だからこそ、怖いの。この鳴高に住むことで、またヒーローを好きになっちゃうんじゃないかって……」
「え、好きになったら、まずいんですか?」
「……あんた、本当に鈍感ね。よく言われるでしょ?」
「い、言われませんよ!」
「せっかく寂しさを圧し殺す努力をして強がってみたのに、なんの意味もない。また、お父さんのことを思い出して寂しくなる。あの子は、それが怖いのよ」
そっか。ヒーローや伯爵の話題になると、やたらと嫌いと強調するように連呼していたのは、自分自身に言い聞かせるためだったのか。
でも、そんなの、なんだか悲しいだろ。自分の好きなものを無理矢理嫌いになるなんて。しかもそれが、ヒーローというお父さんとの大切な絆であるなら尚更。
「あ、そうか……」
今ようやくわかった。
俺に、なにを期待していたのか。
伊月は、胸の寂しさを消してほしかったんじゃないのか。またヒーローを好きになれるように。お父さんとの絆を取り戻すことができるように。
そうだ。そうに違いない。となると、俺があの時、素直に認めて、事故の責任を謝ってさえいれば全ては丸く治まったわけだ。伊月は再びヒーローを好きになることができて、寂しくなくなったんだ。だとすれば、今からでも遅くない、柚月さんに頼んで伊月との話し合いの場を設けてもらって……。
……。
…………。
………………。
いや、ちょっと待て。本当に、それは正しいのか?
伊月に媚びて、彼女の思うままになっているだけではないのか?
『謝る』なんて、安直な解決策を見出だそうとした俺を制止した者がいた。それは、他でもない、俺自身。
でもなんだ、俺はなにを迷っている。また伊月と仲直りするためには、それしかないだろう。一方の俺が叫ぶ。それは多分、伊月に好きになってもらいたいという、十代善斗としての本心。
それはそうかもしれない。だが、俺が頭を下げることによって、失ってしまうものがあるんじゃないか。それならば、そうやって叫ぶこっちの俺はなんだろう。十代善斗ではないとしたら、一体なんだ?
「ちょっと、十代くん、大丈夫?」
ぼんやりとしていた俺を心配してくれたのか、柚月さんが肩を揺さぶってきた。
「あ、ああ。すみません」
「突然ボーッとしちゃって。そんなに私といるのがつまらないのかな?」
う、ヤバい。顔が強張っている。一瞬だけど、この人の背後に鬼が見えたぞ。
「ち、違います。違うんだけど、なんていうか、その……」
しどろもどろになりながら、必死に答えを探していると、やがて柚月さんの顔に呆れの色が広がっていく。
「……もういいわ。それで、君の用件はもういいの?」
「え? あ、俺の用ですか? 俺の用は、えっと……、なんでしたっけ?」
そういえば、俺、なんで柚月さんに会いに来たんだっけ。伊月のことを知らなくちゃって、あの時は思っていたけど、今となっては少し違う気がする。
多分、なにもせずにじっとしているのがイヤで、いてもたってもいられなくなったんだ。
「……なによ、それ。ま、いいわ。君の顔、凄く男らしくなったし。さっきまでとは別人みたい」
「え、そうですか?」
おだてられたことに気を良くし、自分自身の顔を触って確認していると、柚月さんの手が俺の肩に置かれた。
「頼むわよ、十代くん。伊月の事、助けてあげて?」
「……できますかね、俺に?」
「なに言ってるのよ。貴方にしかできないんでしょう。期待しているわよ、二代目くん」
そう言い残した柚月さんは、俺の学ランのポケットに反対側の手を突っ込むと、満面の笑みを見せた。そのまま、ポケットから抜いた手をひらりと振りつつ、公園を後にする柚月さん。
その後ろ姿を見送った俺は、ポケットを確認する。
そこには、一枚の紙が入っていた。
『なにかあったら連絡して』
そう書かれたメモの下には、電話番号とアドレス。
忘れない内に登録をしておこうかと、取り出した携帯の着信ランプが光っていることに気付く。
着信とメールがそれぞれ一件ずつ。サイレントマナーにしていたせいで全く気付かなかった。
メールは那由多から。その後の様子はどうかと、心配してくれている。後で返信しておくとしよう。
着信の方は――
「祭?」
着信時間は、ほんの数分前だった。
そのままかけ直すと、数コールもしない内に、祭に繋がった。
「もしもし、祭か?」
『あ、善斗くん。すみません、突然電話なんてしてしまって……』
心なしか、祭の声が沈んでいた。
「いや、それはいいけど。なにかあったのか?」
『……いえ。ただ、なんていうか、急に怖くなってしまって』
「怖い? なんだよ、どうしたんだよ?」
俺の声も、次第に大きさを増していく。祭の身になにかあったのか。一抹の不安がよぎった。
『あ、でも、善斗くんからしたら、全然大したことじゃないのかも』
「なんだよ、いいから言えって!」
急かすような物言いに、祭はしばらく黙り込んだ。
「な、祭。お前らしくないぞ。どうしたんだよ?」
今度は比較的優しく、促すように問いかける。
『……本当に、大したことじゃないんです。ただ、ジョーカー伯爵が現れなくなってから、もう一週間も経つんだなって考えたら、なんだか怖くて。このまま、僕の夢が費えるんじゃないかって……』
「祭……」
受話器の向こうから、祭の鼻を啜る音が聞こえてきた。
「あ……」
その声に、俺の頭は、まるで鈍器でぶん殴られたような衝撃を覚えた。
なにをしている。……なにを立ち止まっているんだ。
そうだ。俺は、自分のことで頭が一杯で、祭や、待ってくれている人のことを考えてなかった。
いや、違う。祭やおっちゃんが、俺に話をしてくれていた。ただ、俺が目を逸らしていただけだ。
伊月が怖い?
責められるのが怖い?
ふざけるな。なにを甘ったれている。俺は……、俺はジョーカー伯爵だぞ。鳴高を恐怖のどん底に叩き落とす、悪の帝王なんだ。それを、小娘一人に脅えているなんて、馬鹿じゃないのか!
『ぜ、善斗くん。どうかしたのですか?』
受話器の向こうから、慌てた祭の声がする。いきなり無言になったから、心配してくれたのか。ま、さすがに伊月のことを小娘扱いしながら、悪の帝王としての自覚を取り戻していた、なんて考えないよな。
「悪い悪い。ちょっと考え事してた」
『か、考え事? 全く、僕が一生懸命話している時になにをしているですか!』
祭は、ようやく笑ってくれた。呆れていたり、話すのも馬鹿馬鹿しいと思ったのかもしれないけど、祭はやっぱり笑顔が似合う。なんにせよ、今日はよく人から呆れられる日だな。
「あのさ、祭……」
『なんですか?』
「今さ、昔よくお前と遊んだ公園にいるんだ」
『公園に? なんでまた?』
「それでさ、ふと思ったんだ。最近は、公園で遊んでいる子供なんて少ないだろ。でも、この場所は無くならない。それは多分、ここを必要としている人がいるからだと思うんだ」
『はぁ。それが、なにか?』
「だ、だからだな、その……。伯爵も消えないよ。お前みたいに、必要としてくれる人がいる限り、絶対にな」
再び訪れる沈黙。それが、俺を急激に恥ずかしくさせた。……ちょっと格好つけすぎたかな。
『……善斗くん、たまに悟ったようなこと言いますね』
ようやく、返って来た言葉がそれだった。
「な、なんだよ、馬鹿にしてるのかよ!」
『いえ、その……、励ましてくれてありがと、です』
消え入りそうな感謝の声。向こうでは、祭が照れて赤面しているのだと考えると、なんだかおかしさが込み上げてすらきてしまう。
『つ、次は善斗くんの番です!』
俺の口元がにやけていることを本能的に察したのか、それとも、自分だけやられっ放しでいるのが癪だったのか。不意に、祭がそう切り返してきた。
「俺の番ってなんだよ?」
『と、とにかく! 次は善斗くんが話す番です。なんでもいいですよ、僕がすぐに解決してやります!』
なにを意気込んでいるんだか、こいつは。俺が祭に相談することなんて、なに一つあるわけが……、ある、わけが……――ない、のか?
ふと気になった。
もしも祭が、同じ立場だったら、どうするんだろう。
「あのさ、祭……」
『は、はい。なんですか?』
伊月のお父さん同様に、ヒーローを好む祭が同じ場面に遭遇したとしたら。
「もしお前がさ、事故の現場に遭遇したらどうする?」
『はい?』
祭は、俺の言いたいことを理解できていないようだった。それはそうだ。圧倒的に、言葉が足りていないのだから。
先走り過ぎていた気持ちを落ち着かせるために、もう一度ブランコに腰かける。
「悪い。今の無し。そうだな、お前は今、学校前の道を歩いている」
『え、今は自分の部屋にいますけど?』
「あー、そういうことじゃないって!」
『わ、わかりましたよ。歩いている設定ですね』
わかってるなら最初からやってくれ、まったく。
『それで、どうしたんですか?』
「ああ。そしたらさ、車道で事故が起こった。車同士の衝突事故だ。片方の運転手は車の中で気絶してる上、車は車線のど真ん中で停止中。そんな時、お前ならどうする?」
『なんですか、それ。心理テストかなにかです?』
「ん、まぁ、そんなところかな」
しまった。もう少し脚色するべきだったか。伊月のお父さんの実話だなんて知られたら、なに言われるかわからないぞ、これ。
『警察に電話します』
なんて、勘ぐってはみたものの、祭は即答した。
いや、確かにそれは正しいけど。もっと別の答えはないのかよ。
「あー、あれだ。警察には、もう誰かが通報してるってことで」
『ならやれることなんてないんじゃないでしょうか?』
「んー、そうなんだけどさ。もっとイメージを膨らませてくれよ」
『そんなこと言われましても、善斗くんの話し方が下手なだけじゃないですか! あ、でも待ってください。まだ運転手の方が車の中にいるんですよね? だったら――』
次の瞬間、俺は息を飲んだ。
『――助けに行きます!』
祭の、迷いのない発言に。
「助けに行くって、お前……、できるのか?」
『できるのか、という言い方は少しひどいですね。人を助けるのに、できる、できないではないと思います。ありがちな言い方ですが、やるか、やらないか、でしょう』
「あ……」
そうだよ、俺は大切なことを見落としていた。
危険な目に合っている人を助けようと思う気持ちは確かに素晴らしい。けれど、それを実行できるものが、果たして何人いるだろうか。
当然だ。思うだけでも難しいのに、それを行動に移すには、一層の勇気が必要なのだから。祭のおかげで、ようやく気づくことができた。
『それに、こういうこと言うのは恥ずかしいですけど、なんだか、ヒーローみたいで格好いいじゃないですか? だから、途中で僕の方が車にひかれたとしても、別に構わないです』
「……どうして?」
『だって、……ヒーローにピンチは付き物ですから』
どことなく擽ったそうに、冗談めかしくそう言い放つ祭の言葉に、頭の中の靄が晴れていくかのようだった。
出会ったことのない伊月のお父さんもきっと、同じことを言うんじゃないかと、不思議とそう思えた。
「……祭、ありがとな」
『え? 僕はなにもしていないと思いますが……』
「いいんだよ。とにかく、ありがとな!」
『んー、よくわかりませんが、元気になったようでよかったです。では、僕はこれで。ありがとうございました、善斗くん。お休みなさい』
礼を言いたいのは、むしろ俺の方だよ。
「ああ、お休み、祭」
一拍置いて、通話が切れる。そのまま空を仰ぎながら、大きくブランコを漕ぐ。
初めは座ったままで、スピードがつくにつれて立ち上がる。そして、数回リズミカルに足を屈伸させて勢いを生んだ後に、そこから飛んでみた。
綺麗に着地、なんてことはもちろん出来ない。態勢を崩し、地面に手をつく形の情けない着地。それでも、何故だか清々しい気分だった。
「さて、そろそろ帰るとするか」
伸びをして、誰にともなく呟いた。
公園を出て、少しだけ歩く途中で、ふと考える。今日は、色々なことがあった一日だった。それでも、確実に前には進めたと思う。
自宅の扉を開ける前に、もう一度向かいのマンションを振り返った。後は、どうやって伊月との決着をつけるか。
「……ただいま」
玄関を開けると、廊下の電気は消え、リビングの電気が戸の隙間からこぼれ出ていた。ま、そんなことは特に気にすることではないため、自分の部屋へと向かうために階段を上がろうとした。
「……善斗、ちょっと来なさい」
すると、母さんに呼び止められた。
帰ってくるのを待っていたかのように声をかけてくる辺り、用件は一つしかないだろう。
抵抗するつもりなどなく、大人しくリビングへと入ると、親父と母さんが向かい合うように座っていた。少しばかり迷った末、椅子を引き、親父の隣に座ることにする。
「善斗、母さんが呼んだ理由はわかっているわね?」
「ああ、わかってる」
「そう。あんた、今日もなにもしなかったらしいわね」
おっちゃんから連絡があったのか、それとも市の掲示板か、はたまたアカウントか。なんにせよ、俺の行動は筒抜けなわけだ。
「あんたね、わかっているの? 伯爵は、市からちゃんとしたお給料を頂いている、れっきとした仕事なのよ? 今までは大目に見てあげていたけど、今度ばかりは許さないわよ」
母さんの声に、次第に怒気がこもっていく。
「まぁまぁ、母さん。善斗だって色々と忙しいんだよ。な?」
本気で怒っているらしい母さんの迫力に押され、顔を俯かせた俺の肩に回されたのは、親父の太い腕だった。
「それに、伊月ちゃんとひと悶着あったそうじゃないか?」
ばね仕掛けのように、ハッとして顔を上げてしまった。
よくよく考えてみれば当然だ。おっちゃんからの連絡があったなら、その件を話さないわけがない。
「それはそうかもしれないけど……」
その件に関して、母さんも思うところがあるのか、口ごもってしまう。
「来週には俺の腰も良くなるし、しばらくは伯爵お休みってことでいいじゃないか。作戦を練っていたとかで、復帰一発目に派手なイベントを起こせば、皆も納得してくれるだろ?」
「でも――」
「先生には、俺から言っておくから」
普段はおちゃらけている親父が、こうもはっきりと自分の意見を言うのを、俺は初めて目にした。これには母さんも、渋々ながら納得せざるを得ないようで、返事の代わりに嘆息が漏れた。
「そう。仕方ないわね」
「と、いうわけだ。善斗、今までお疲れさん」
回していた腕をほどき、そのまま頭に手を置かれる。
その仕草は、頑張った息子をねぎらうというよりはむしろ、酷なことをさせてしまったことへの申し訳なさが伝わってきた。それだけ、伊月のお父さんの事故の内容は、親父にとってもショックだったらしい。
「ちょ、ちょっと待てよ。それって、俺はもう伯爵でいられないってことか?」
「あぁ、そうなるな」
話し合いは終わりだと、テレビのリモコンへと手を伸ばした親父。母さんの方は、キッチンへと行き、夕食の準備を始めている。
「待ってくれ、待ってくれよ、親父!」
思わず机を叩き、俺は立ち上がった。
「……善斗。本当なら、俺や母さんはお前を叱るべきだろう。あれだけ伯爵としての仕事をすっぽかしたんだからな」
感情を露にする俺に、テレビへ視線を向けたまま、落ち着き払った口調で語りかけてくる親父からは、迫力と威厳、そして、今まで伯爵として鳴高を盛り上げてきた者としてのプライドを感じた。
「……うん」
「だけどな、さすがに怒れんさ。お前がどれほど悩んでいたのかを、聞かされたらな……」
「聞かされた?」
「那由多ちゃんから、な」
ようやく親父がテレビから視線を移し、母さんに失笑した。母さんの方は、何食わぬ顔で、鍋に火をかけている。
そうか、母さんがなにも言ってこなかったのは、那由多から俺の様子を聞かされていたからだったのか。
「だからもういい。伊月ちゃんに嫌われたままじゃ、学校に行き辛いだろ。こっちはもういいから、仲直りしてこい」
『仲直り』、その優しく甘い響きに、俺の決意は思わず揺るぎかける。この先、伊月にするであろう俺の行為は、仲直りなんてものとは程遠いものだったから。
しかし、ここで引いてはいけないと思った。ここで引いたら、伊月との勝負のステージにすら上がれない。それはつまり、二度と伊月と解り合う機会が無くなるということ。それだけは、絶対に避けなくてはならない。
「……親父、それ……嬉しい話だけどさ。悪いけど、俺にはまだ、やらなくちゃいけないことがあるんだ」
「ん?」
「あと一週間、いや、一回だけでいいから、伯爵の仕事、任せてくれないか?」
「なにをするつもりだ?」
「いや、なにをするかは、まだ決めていないんだけど……」
親父の目が、俺の心意を見透かすように細くなった。その迫力に、ぐっと奥歯を噛み締めながら、俺は親父の言葉を待つ。
「どうしてそこまで、伯爵にこだわるんだ? 伊月ちゃんと話をするだけなら、わざわざ伯爵として行動する必要なんてないだろう?」
「……違うんだよ、親父。伊月だけじゃないんだ」
親父の眉が、わずかに動く。
俺は、一呼吸置いて、親父の眼を真っ直ぐに見つめ返しながら言い放った。
「伯爵としての俺が、決着をつけなくちゃいけない人がいるんだ」
傷つけてしまった伊月に――――
「伯爵としての俺を、待っていてくれる人がいるんだ」
友達として悩んでくれた祭に――――
「伯爵としての俺の、力になってくれた人がいるんだ」
力を貸してくれた那由多やおっちゃんに――――
「伯爵としての俺に、期待してくれている人がいるんだ」
厳しくも優しく後押ししてくれた柚月さんに――――
――――――――――俺は、向き合わなくちゃいけないから。
「……………………そうか」
短い沈黙の後で、それだけを呟いた親父は、再びテレビに顔を向けた。
「お、親父?」
沈黙を保ったまま、無言になってしまった親父に呼び掛けるものの、答えはない。
「はい、ご飯」
楕円形の皿に盛られた大盛りのカレーが、母さんの手によって目の前に置かれた。
「しっかりと食べなくちゃ、また伊月ちゃんに言い負かされちゃうわよ?」
そして、俺が焦っている素振りを楽しむようにそのままウインク。
「え?」
「善斗、これだけは忘れるな」
未だにテレビを見ているはずの親父。しかし、その背中から、俺は眼を放すことはできなかった。その背中越しに、親父は尚も語りかけてくる。
「お前は、正義の味方じゃない。鳴高の平和を乱す悪の怪人、ジョーカー伯爵だ」
「……うん」
「だからな、無理して格好をつけたり、いいところを見せようと力む必要はないんだ。泣いている女の子を慰める役目はヒーローに任せて、お前は本当の伊月ちゃんと向き合うことだけを考えろ。悪役が、女の子一人泣かせたぐらいでめそめそするな。お前の本音、全部ぶつけて、泣かすぐらいの覚悟がなくてどうする!」
「……うん、うん……」
「俺達も、期待しているぞ、善斗。伊月ちゃんを――俺や母さんの親友の娘を、助けてやってくれ」
振り返った親父が、そして母さんが、暖かい眼差しで俺を見つめていた。
「……………………ありがとう、親父……」
そう小さく呟いては、椅子に座り、出されたカレーをかっ込んだ。
おかしいな。今日のカレー、辛すぎるだろ。目につんときて、ぼやけて前が見えないや。




