鳴高市の悪役事情⑯
「おい、善ちゃん。善斗ってば、おーい……。ダメだ、こりゃ。完全に魂飛んでるぞ」
「もう、善斗。今日で何日目よ?」
カウンターの裏に置いてある椅子に腰を下ろし、ぼんやりと虚空を見据えている俺の眼前をなにかが通過する。それが、那由多の掌だと遅れて気付いた時には、二人が覗き込むようにして心配そうにこちらを見つめていた。
今日は金曜日だ。
あれから一週間が経過した。しかし、その間、俺がジョーカー伯爵として活動したことは一度たりともない。
その理由として、色々と口にした。やる気が無くなったとか、面倒くさくなったとか、主にそういった内面的なことを言い訳にして。
最も、それがただの口実だということぐらい、二人からしたら明らかだったのだろう。一切の質問や叱責は一度たりともなく、心配そうに見つめているのみだった。
そう、本当のところは違っていた。
俺は怖いのだ。あの格好で伊月に遭遇するのが。
あの日、伊月は俺の嘘を責めていた。では、初めから俺が正直に話していたとしたら、なにかが変わっていたのだろうか。
期待した私が馬鹿だった、と彼女は言っていた。俺になにを期待していたのだろう。
なにひとつ分からない。考えれば考えるほど、彼女の心の中が分からない。
こんな状態で、また伊月に出会ったらと考えるだけで、とてつもなく怖い。
ジョーカー伯爵のアカウントに日に日に増えていく心配してくれる市民の声。おっちゃんの話では、市役所の意見板もまた同様の書き込みによって溢れているらしい。
幸いだったのが、母さんがなにも言って来ないことだった。いつもなら、すぐさま落ちるであろう雷が全く落ちない。それはそれで、不気味ではあったが。
伊月はというと、まともに顔を合わせようともしてくれない。プリントなんかを後ろに回す時は不自然な程に顔を背け、授業が終わればすぐさま帰ってしまう。クラスメートと二言三言会話をすることはあっても、打ち解けているとは言い難く、鳴高市民との間にはっきりとした溝をつくっていた。
初めの内こそ、その状況をなんとかしようと、あれやこれやと奮闘していた祭も、俺達のただならぬ雰囲気を察知しただけでなく、憧れであり、夢としていたジョーカー伯爵の不在というダブルパンチに意気消沈のようだ。それでも、健気に待ち続ける様子を見るのは、ちくりと心痛んだ。
「……善斗、もうすぐ五時だぞ?」
店内の壁にかかっている時計を横目に、おっちゃんは静かな口調で知らせてくれた。
「……ああ、そうだな」
この店に来たのは、大体四時を少し過ぎた頃だったはずだ。もう五十分近くこうして座っていることになる。
「善斗、早く着替えなくちゃ間に合わないよ?」
努めて明るい声と共に、那由多が柔らかく微笑んだ。
とはいえ、俺の体は反応すらしない。むしろ、このままだらだらと座り続け、五時を待とうとすらしていた。自分自身の問題でありながら、どこか他人事のように感じてすらいる。
「……重症だな、こりゃ」
五時を回っても、一向にその場から動こうとすらしない俺を見て、おっちゃんはしみじみと呟き、頭を振った。もしかすると、おっちゃんには、俺の無気力な考えが読まれてしまっているのかもしれない。
「あー、もう!」
一方で、那由多は苛立ちを口にしては、その度合いを表すように荒々しく床を蹴りつけた。
「善斗がこうなったの、この前の永倉って女のせいなんでしょ?」
鋭いな、那由多。そのことに関して、誰にも話してはいないというのに。
なにも答えずにいると、その沈黙を肯定ととらえたらしく、那由多は口を開いた。そこから飛び出てくるのは、案の定というべきか、伊月への暴言や悪口。
「大体、あの女、上から目線で気に入らないのよ。ちょっと善斗が仲良くしたからって、伯爵の悪口を言いたい放題言っちゃってさ。そんなに鳴高が気に入らないなら、わざわざ引っ越してくるなっての!」
ショーケースに肘をつき、ぶつくさと呟く那由多。
「どうせ、家に帰ってから、家族で笑ってんのよ。伯爵だのヒーローだの、馬鹿みたいってね!」
「……いや、それは違うと思うよ、那由多ちゃん」
それをなだめ、制止したのは、驚くべきことにおっちゃんであった。これには俺も予想外で、思わず椅子から身を乗り出し、食い入るようにたずねた。
「伊月の事、なにか知ってるの?」
「あー、いや、知ってるって程じゃないんだが……」
口を滑らせたのだろうか。しまったという苦い顔つきで、おっちゃんは後頭部を掻いていた。
「家族って言ったけど、あの子は可哀想な子なんだ。元々体の弱かったお母さんは、あの子を産んですぐに亡くなってしまっていてな……」
「え?」
煙草に火をつけ、言いづらいであろうその言葉を、煙と共に一息で吐き出すおっちゃん。
「当時は俺達も泣いたさ。なんたって、彼女のお母さんは俺やお前の両親の同級生なんだからな?」
「同級生? あ、ってことは……」
「そう。先生の教え子仲間ってことだ」
「そう、だったんだ」
「誠くん――ああ、伊月ちゃんのお父さんの事故のことを新聞で読んだ時は驚いたが、あの子達が鳴高に引っ越してきたと聞かされた時は、もっと驚いたな」
「聞かされたって、伊月に?」
「あれ、知らないのか? 伊月ちゃんには大学生のお姉さんがいるんだよ。ほら、お前に転校生が云々って聞いたことがあっただろ。あの前の日――あ、お前が帰った後だな。わざわざ挨拶に来てくれてさ。昔、お父さんと一緒に店に来たことがあるってだけなのにな」
「ああ、そうか。だから伊月が転校してきたことを知ってたんだな?」
「ま、そういうことだ」
煙草の煙をくゆらせ、遠き日に思いをはせらせているのか、目を細めたおっちゃん。はせている先は、伊月の姉と名乗る女性が訪ねてきた日か。それとも、同級生である伊月の母親が亡くなった日にか。
「ま、そんなわけでさ、伊月ちゃんのこと、あんまり悪く言わないでやってくれよな?」
「……わ、わかった……」
事情を知り、少なからずばつが悪くなった那由多は、顔を背けて素っ気なく言い捨てる。もしかしたら、海外出張が多い自分自身の父親のことを重ね合わせ、同じ境遇を感じているのかもしれない。
その様子を横目に、俺にも思うものがあった。
母親がいないからこそ、父親が事故に遭ったことに対して、あれほど深いショックを受けていたのだろう。そして、今も尚その悲しみに暮れている。
「なあ、おっちゃん……」
「ん?」
「俺さ、伊月のこと、なにも知らなかった。お姉さんがいることも、母親が亡くなってることもさ」
「おいおい、そういうことって、不用意に口にするものじゃないだろ? 知らなくて当然だって」
確かにその通りだ。他人の家庭事情をあれこれ詮索するのは良くないし、話をする義理もない。
「そりゃそうかもしれないけど。でもさ、俺……」
だけど、俺は知りたかった。家庭事情云々はともかくとして、永倉伊月という人間の事を。
伊月が今、なにを考えているのかはわからない。でも、悲しみの渦中にいることだけは間違いない。その責任の一端は、俺にもある。だからこそ、力になりたかった。俺が好きになった、彼女の力に。
そのためには……!
「……那由多!」
「へ?」
唐突に話を振られた那由多は目を見開く。そのまま手を取り、顔を真っ直ぐに見詰めると、どういう訳か、那由多は赤くなり俯いてしまった。……どうしたんだろう。
いや、今はそんなことは問題ではない。
「お前に、頼みがあるんだ!」




