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作者: 雷坊


 子供の頃からアニメが好きで、将来はアニメーターになろうという夢を抱いたのは中学生のときだった。パソコンでアニメのDVDを1コマずつ静止させ模写をするのが長期休暇の定番の暇つぶしになり、授業中も教師の話などろくに聞かずに、教科書の隅にパラパラ漫画を描くようになった。描いたパラパラ漫画を友達に見せるとすげえ、と必ず賞賛されいい気になった。それで私の夢は決まったのだった。

 高校時代もさほど変わらぬ日々を送り、部活は漫研と美術部を掛け持ちしたが、相変わらずパラパラ漫画を見てくれるのは友人たちだけだった。その頃にはGIFアニメやFLASH動画を作ってみたりもしたが、何となくネットにそれをアップしようとは思わなかった。それで満足してしまったらきっとアニメーターになる前に自分の夢は満ち足りてしまうと本能的に察していたのかもしれない。同じ漫研に所属していた部員のひとりがせっかく中堅の月刊漫画誌で新人賞を取ったというのに「何か賞取ったら充分な気がしちゃったんだ」と言い出し、以降全く漫画を描かなくなってしまったことにも少なからず影響を受けたのだろう。

 しかし今私は思う。高校時代に夢に充足して以来漫画から手を切ったあいつは今幸福に違いない。少なくとも私よりは。

 高校を卒業した後、専門学校に入り、何とかそれなりに有名なアニメ製作会社に入ることが出来た私を待っていたのは、来る日も来る日も、色々なキャラの口の動きを、口の動きだけを描くという、終わりのない地獄だった。

 口元しか動いていないシーンというのは、とりわけテレビアニメなどの製作期間に余裕がない現場では数多い。新人の私はそういったシーンの口元だけを担当させられることになったのだった。

 初めの内は、しばらく耐えていればいつか派手なアクションシーンを担当させて貰える筈だと希望を抱いて、熱心に仕事に取り組んでいた。しかしそんな情熱も、何ヶ月か延々口の動きだけを描き続けている内に擦り切れていた。その上職業病とも言える肩こり、腰痛に見舞われるに至り、今となってはとにかく与えられたシーンの口の動きを終わらせて早く家に帰り風呂に入りたいという欲求ばかりが高まっていくというありさまだった。

 その日も何とか一週間後に放映予定のアニメの口元の動きを描き終えて帰路につくことが出来た。周囲から見てどうだったかはともかく、私の心の中は這々の体だった。早く家に帰りゆっくりと湯船に浸かり暖まった身体にまだ新しく清潔な、ぎんぎんに冷えた湿布を貼りたい――その一心だったのだが、電車の中で腹の鳴る音に気が付いた。ああ、自分は腹が減っているのかとどこか他人事のように考え、仕方なく近所のスーパーで買い物をしてから帰ることにした。

 行きつけのスーパーに入ると、入り口のすぐ側に、父の日のさ

さやかな企画なのだろう、子供たちが父親を描いた絵が並べてあった。私は、疲れていた、どうしようもなく心身ともに疲れきっていて判断力もおかしくなっていたのだ。普段なら横目に見てすぐ通り過ぎてしまうそれをじっくり見てみようという気に、何故かなってしまった。頭も腰も悲鳴を上げているというのに、何故かその思いつきに逆らうことが出来なかった。

 絵のかけられているボードの前に立って観てみると、大体の絵が五六歳くらいまでの子供たちのもので、私は正直に「下手だなあ」と心中で思った。目、鼻、口はあるがそれらに対する観察眼がまだ育っていないのだ。或いはちゃんと対象が「見えて」いても、それを巧くアウトプットする技術が理解出来ていないのかもしれない。何枚か十歳くらいの子供の絵もあったが、こちらはアニメや漫画の影響か妙に目が大きく中途半端なデフォルメがされていて、「気持ち悪いなあ」と思った。

 次の絵はどうだろう、と視線をずらすと、思わず私は吹き出しそうになってしまった。周りの買い物客の視線もあるので辛うじて堪えたが、笑いの衝動は発散されない分、いつまでも下腹の辺りでくすぶった。

 それは、一歳児の描いた絵だった。ただ緑の線がぐにょぐにょと引かれているだけだった。「お父さんの顔」と枠外には描いてあるのに、そう題されたそれはどう良い目で見てもせいぜいぐにょぐにょの緑の毛糸である。わはは。シュルレアスティックでありカイギャク的である。脱解釈的でありダダイスティックである。たまらん。疲労した神経の妙なツボにハマってしまった。

 線で輪郭を描くというのは元々直感的なものではなく、むしろ抽象的なものだ。だから、そもそも人が輪郭を発見するのは何歳くらいからなのか分からないが、少なくともその絵を描いた子供にはまだその、一種の表現法が分かっていないのだろう。それから、色を近づけるということにも思い至っていない。だって顔ならまず肌色か赤か、その辺の色を選ぶ筈である。それが緑なのだ。非人間的である。

 ていうか、それ以前の話である。多分その子は「お父さんの顔」を「描く」ということすら分かっていない。ただクレヨンを与えられて「お父さんの顔を描いて」と母親辺りに言われたものの「描く」とはなんぞやと思い、とりあえずクレヨンを与えられたから任意の一本を手に取り、ぐちゃぐちゃとやってみただけなのだ。わはは、楽しそう。ピカソはあれだけのデッサン力を持っていたにも関わらず子供の描く絵を羨ましく思っていたというが、ちょっとその気持ちが理解できたように思った。子供は「お父さんの顔」という対象にしばられないどころか、「描く」という行為にすらしばられていなかった筈だ。クレヨンが紙の上に軌跡を描いた、それだけだろうと思う。その結果出来上がったその絵は痙攣的であり衝動的であり――いやおかしいなあ、これ。

 どうしても絵を描くとき「巧く描こう」としてしまうものだ。或いは凄まじさを、或いは華麗さを、静謐を、何らかの傾向に縛られ、それを観るものに対する効果を演出しようとしてしまうものだ。それはそれで素晴らしいのだけれど、ていうか絵というのはそういうものだと自分自身が縛られていたからだろう、意表をつかれたのだ。

 あー面白かった。

 私は絵のかけられたボードから離れながら、今晩の夕食は何にしようかと考えた。

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