第二十六節 最終節 出発
あれから2週間が過ぎた時、あの老人が尋ねてきた。
突然の訪問に驚いたが、ひとまず挨拶を交わす。
と言っても、お辞儀しか出来ないのだが……
おもむろに、老人は紙とペンを差し出した。
一瞬、何がしたいのか良く判らなかったが、
そう言う事か……
何か言いたい事は判って来たぞ……
まぁ、確かに意思の疎通を図るには描くのが一番だ。
老人が絵を書き始める。
紙の端に家のような物を書いて、その対角線上にこの洞窟らしき絵を描く。
間に書いた適当な線は、深い森の事だろう。
そこに矢印を書くと、遠くを指差した。
ほう……あの方向に、家があるのだな……
次に、人間を書き出した。
二人のようだ……
私と老人を指差して、また遠くを指差す。
洞窟から家までペンで線を引いた。
なるほど……
どうやら、付いて来るように促されているらしい。
私は腕を組んで眉間にしわを寄せながら、悩んでいる事をアピールした。
いや……実は、本当に悩んでいたのだ。
確かに、ここは激しく不便である。
明日を生きて行けるのかも良く判らない。
それに関しては、全く自信が無い。
だが、これまで試行錯誤を繰り返して少しは安定して来た。
本当に最低限の生活だが、暮らしては行けているのだ。
そして、この誰にも気兼ねない生活を私は気に入っていた。
実際に、人と関わる事自体にうんざりしていたのも確かだ。
あの人ごみの中で希望を失い、都会の片隅で死んでしまおうと思っていた。
そんな私が今更、言葉が通じない世界に放り込まれて、
どう対応して良いのかも判らないと言うのが本音だ。
それなら、まだここに居た方が数段マシに思えたのだ。
しかし、その時に何かを感じた。
上手く説明は出来ないが、第六勘が何かを知らせている。
行けと……言うことか?
それからもしばらく悩んだが、勘の意向は変わらないようだ。
まぁ、これで老人に付いて行ったとして別段損は無いはずだ。
この森の先に、何があるのかも気になる。
目を閉じて、静かに決意を固めた。
私は大きく頷くと、身振り手振りで説明を始めた。
すると、老人も理解したようだ。
笑顔で頷いている。
私は黒猫を呼んだ。
抱きかかえながら指を差すと、笑顔のまま頷いている。
猫も受け入れてくれるようだ。
私の解釈が、間違っていなければ良いが……
そうと決まれば、さっそく準備を始めなければいけない。
荷物をまとめ、移動に備える。
とは言え、ここに在る物を全部は持っていけない。
まぁ、基本的には必要無いだろう。
もし必要なら、取りに来られるだろうし……
必要最低限の装備を選んだ。
私が毛皮を放置していると、老人が指を差して何か言っている。
これも持って行けと言っているのだろうか?
まぁ、幸いさほど重くは無い。
仕方が無いので、それも荷物に追加した。
私は竹コップに水を入れて、洞窟の奥へと向かう。
十字架の前に置くと、その場で手を合わせて黙祷した。
「これまで、有難う御座いました。本当に助かりました。貴方の事は忘れません」
これまでの事を思い巡らせながら手を合わせていると、
黒猫も側に来て十字架を見つめている。
やがて老人も隣に来て、一緒に黙祷を捧げた。
荷物を持つと、必然と両手が塞がってしまう。
私が困っていると、黒猫が肩に飛び乗ってきた。
さすがは猫、不安定な肩の上でも一切バランスを崩さない。
「それで、大丈夫か?」
私が問うと、黒猫は一声鳴いた。
いよいよ、出発の時だ。
この先、何が待っているか判らない。
だが、この老人に付いて行く事を選択したのだ。
私に、後悔は無い。
洞窟を振り返り、静かに思いにふける。
今思えば、色々な事があった。
これほど、本格的なサバイバルをしてきたのも初めての事である。
本当に、良く生き残ってこられたものだ……
ふと、老人に声をかけられた。
視線を向ければ、神妙な顔つきで何度も頷いてくれている。
私も老人を見つめ、大きく頷いた。
さぁ、行こう。
どうせ、一度は死んだ身じゃないか。
もはや、恐れる事など何も無い。
振り返るな。
これから起こる事は過去じゃない。
歩き出せ。
留まれば、そこには闇が待ち受けるのみ。
立ち向かえ。
恐怖におののけば、そこには死が待ち受けるだけ。
いつも、そうして来たじゃないか。
あの絶望の中で、そうして生きて来たじゃないか。
今、誰よりも信用できる私の勘が行けと言っているのだ。
それを信じなくて、何をしようと言うのだ。
もはや、他に選択肢は無い。
新しい世界への切符を手に、静かに覚悟を決めた。
いざ、さらばだ……
私は生涯、この愛すべき時を忘れる事は無いだろう。
やがて洞窟を背に、未来へと歩き始めた。
第一章 完
これにて、第一章が完結です。これまで読んで頂いた皆様、本当にありがとうございました。