第二十一節
あれから地道に練習を重ねてきたカイリーだが、
今ではすっかり軌道が安定して、もはや的を外す事は無い。
これなら、いけるはずだ……そろそろ試し時かもしれないな……
私は、微かな笑みを浮かべた。
今までの傾向からして鹿が川に現れるのは、朝から昼の間と、夕方の僅かな時間だ。
いつも時間が微妙にずれているのは、狙われない為の本能かもしれない。
時間が特定出来ないのは厄介だが、毎日現れるのは確かだ。
狙い時は必ずあるはずだ。
私は朝から、川原で待機していた。
来た……
一頭の鹿が、ゆっくりと川に近づいてくる……
私は静かに目を閉じた。
そう、何も考えてはいけない……
私はマシンだ……手順を只こなすだけだ……
やがて、音が消えてゆく。
そして、静かにターゲットを見据えた。
カイリーが、川沿いを翔け抜けた。
その回転が浮揚効果を生み、速度が衰える事は無い。
目標へと一直線に襲い掛かった。
鹿は叫ぶ間もなく、その場に倒れこむ。
チャンスは一瞬、ここで意識を取り戻し逃げられたら鹿は二度と現れない。
私は竹槍を持って走った。
そして、その側頭部に向けて渾身の一撃を放とうとした時……
私は、異変に気付いた……
こいつ……目が、おかしい……
すぐに首に手を当ててみるが、すでに脈は無い。
当然のように呼吸も止まっている。
完全に開いた瞳孔……
これは……即死だ……
横に転がったカイリーを拾い上げて真剣に見つめた。
そこまでかよ……
いったい何だよ、この威力は……
鹿はこれほどにデカイのだ。頑張っても、せいぜい気絶が良い所だと思っていた。
まさか一撃で仕留めるとは……
たかだか木の棒の恐るべき威力に、すこし背筋が寒くなった。
両手を合わせて黙祷を捧げると、いつもの場所まで鹿を運ぶ。
しかし、重い……
本当に、重い……
しかし、移動しない訳にはいかない。
もし仲間が来れば、ここは一気に警戒地域に指定されてしまう恐れがある。
動かせない事は無いのだが、簡単に担げる重さではない。
それに、妙にクネクネするので余計に持てない。
下流に移動するなら川が使えそうだが、上流に向かうとなると水の抵抗が凄いはずだ。
最悪の場合は、そのまま鹿ごと下流に流されてしまう。
私は、ひたすらに川原を引きずってきた。
もう無理……
何とか辿り付くと、汗だくで座り込んだ。
あぁ……力を入れ過ぎて、目眩がする……
ダメだ、しばらく休もう……
硬い岩場に倒れこむように横になった。
こんな風に空を見たのは、何時の事だろうか?
記憶を辿っても、子供の頃の事しか思いつかない。
大の字に横になって青空を見ると、雲が静かに流れていく。
鳥の声と、川のせせらぎが心地よい。
なんか、のどかだよなぁ……
30分ほど休憩すると、気合を入れて立ち上がった。
さてと、再開するか……
まずは鹿を川の水際まで持ってくると、
喉の真ん中辺りの間接にツールナイフを突き刺す。
グルリと回すと首の骨が分離した。
さらに切り口を広げて、頭を川に突き出した。
動脈を一気に切断すると、大量の血が溢れてくる。
足を持ち上げたりしながら、ひらすら血を川に流した。
さて、これからが大変だ。
肛門から首にかけて切断していく。
う~ん……かなりキツイ……
まだ、しぶとく血が出てくる……
確かに食べようと思って狩ったのだが、
その血生臭さは予想以上にキツかった。
切断が終わった切り口に力を込めて引き裂くと、それが出てきた。
内蔵がデカイ……
うわ~……
これは……たまらん……
思わず吐き気を伴うが、目をそらして耐える。
この手の仕事をしている人は、どういう精神状態なのだろう?
全く、理解できん……
もし、この手のバイトをしたなら、その日に逃げ出しただろうな……
だが、この作業をする人が居ないと肉なんて食べる事が出来ないと考えたら、
その仕事を続けている人々は、本当に凄いなと素直に思った。
あと、もう少しの辛抱だ。頑張ろう……
黒猫が、内蔵に興味を示している。
「おい、生肉は辞めておけよ……腹を壊すぞ……」
私の声で、それ以上近づくのを辞めた。
少し残念そうだが、諦めてくれたようだ。
よかった……生肉を食べた口で舐められたら、たまった物ではない。
さっきからキツネらしき生物が、遠くでこちらを見ている。
そうか、これは丁度良い……
内蔵を適当に水で洗って、キツネが居る所へ持って行った。
私が歩いていくと、キツネは警戒して森に隠れたが
物を置いて川に戻ると、恐る恐る寄って来た。
やがて、それを咥えて森へと帰っていく。
なかなか良い処理班が居たものだ。
その他の半端な所は、素直に川の藻屑となってもらった。
きっと、サカナ君が処理してくれるだろう。
これを餌に集まってくれれば、私達の食料も増えると言う物だ。
内臓が無くなったら、皮を剥いでいく。
大きいだけに、なかなか大変だ。
だが、この皮はどうしても欲しい。
慎重にツールナイフを入れていった。
一枚の革状になると、血と肉片を綺麗に洗った。
もろに肉の状態になったら、各部位に切り分けて川の水につけて肉を両手で絞る。
じゅわっと血が出てくる……
さらに川底の岩に押し付けて、搾り出す。
血が出なくなったら、流れの穏やかな場所をせき止めて肉を水に晒した。
そして、このままじっと待つ。
しばらく経って肉を引き上げると、すっかり血生臭さも抜けているようだ。
これなら、大丈夫だろう……
何とか、作業は終わった……
しかし、もうたまらん……
何か具合が悪くなっているような気がする……
作業を終えた私は、その場にしばらく座り込んでしまった。
この疲労感は何だ?
そして、この罪悪感はいったい何なのだ?
私の心の中で、何かに押し潰されそうな感覚がひたすらに続いていた。
しかし、見れば使えそうな部位がまだ一杯ある。
特に、この骨と角は色々と使えそうだ。
川で洗い流しながら、持ち帰るものを見繕った。
全てを洞窟に持ち帰ると、今日食べる分以外の肉は適当にぶら下げておく。
まぁ気温は低いし、風通しも良いのですぐには腐らないだろう。
さて、今日は足の部分を食べてみよう。
肉を適当に切り分けて暖炉にかけた。
先ほどの生臭さとは一転して、辺りに良い香りが立ち込めてくる。
こうなると、まったく別物だな……
先に焼きあがった肉を、猫皿に入れて冷ます。
しばらくすると、私の分も焼きあがった。
「さて、食べようか」
私の声に、黒猫は一声答えた。
おもむろに肉を食べてみる……
うん、美味い……
臭みは強いが、れっきとした肉である。
そして、満腹になるほどに食べる事が出来た。
黒猫も、満足そうに毛繕いをしている。
苦労した甲斐があるというものである。
今日は、私も大満足だ。
しかし、まだ肉は大量に残っている。
何か保存法を考えなければ……
だが、とりあえず眠い。
今日は、本当に疲れた。
私達は夕方から床に突いた。