↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

明日の私へ。毎晩記憶を消しに来る婚約者を信じてはいけません

作者: 石崎さかな
掲載日:2026/08/20

 朝起きると、机の引き出しに手紙が入っていた。


『明日の私へ。


 ルシアン殿下を信じてはいけない。


 彼は毎晩、私の記憶を消している』


 公爵令嬢エレノアは、その三行を二度読み、侍女のマリーを呼んだ。


「私、寝ぼけて手紙を書く癖があったかしら」


「少なくとも、わたくしは存じません」


「では、誰かが私の筆跡を真似た可能性は?」


「句読点の位置までお嬢様そのものです」


 マリーの返答は容赦がない。


 便箋を光に透かし、匂いを嗅ぎ、端を指でなぞる。紙はエレノアが日記に使っているものだった。インクも机の上にある青。封蝋はなく、折り方にも見覚えがある。


「つまり、私が書いたのね」


「そのようです」


「でも、書いた記憶がない」


「手紙の内容が正しいなら、消されたのでは?」


 物騒なことを平然と言って、マリーは窓を開けた。


 春の風がカーテンを揺らす。


 窓辺には白い花が一輪置かれていた。


「またこれ?」


「今朝も王太子殿下から届きました」


「手紙は?」


「いつもどおり、花だけです」


 白い花の名は月鈴花。夜に開き、朝には香りを失う、どこにでもある花だ。


 婚約者のルシアンは、ここ一月、毎朝欠かさずそれを一輪だけ届けていた。


 心のこもった贈り物と言えなくもない。しかし、毎朝同じ花を一本、説明もなく送り続ける男性は、愛情深いというより少し怖い。


 さらに昨夜、エレノアは妙な夢を見ていた。


 寝台のそばにルシアンが立ち、彼女の額に手を触れている夢だ。


 夢の中の彼は、今にも泣きそうな顔をしていた。


「マリー。今日の予定を変更します」


「午前は王妃様とのお茶会、午後は婚約式の衣装合わせですが」


「午前中に殿下へ婚約破棄を申し入れ、午後の衣装合わせを不要にします」


「合理的ですね」


 マリーは止めなかった。


「驚かないの?」


「最近のお嬢様は、殿下とお会いした翌朝になると、必ず少しだけ不機嫌ですので」


「そうなの?」


「はい。そして昼には殿下を擁護し、夕方には楽しそうにお手紙を書き、翌朝にはまた不機嫌になります」


 まるで一日で同じ恋愛を繰り返している。


「それを早く言ってちょうだい」


「お嬢様に尋ねると、毎回『気のせいよ』とお答えになります」


「今日の私は気のせいにしません」


 エレノアは白い花と不穏な手紙を持ち、王宮へ向かった。


     ◇


 王太子ルシアンは、婚約者から突然呼び出されても、書類仕事の手を止めなかった。


 金色の髪。青い瞳。整いすぎて近寄りにくい顔。王国一の美貌と評判だが、エレノアにしてみれば、表情が乏しくて何を考えているのか分からない男性である。


「お話があります」


「聞いている」


「こちらを見ていただけます?」


「見たら、話しにくくなるかもしれない」


「私ではなく、殿下が?」


「私が」


 妙に素直だった。


 エレノアは出鼻をくじかれたが、手紙を机へ置いた。


「ルシアン殿下。私との婚約を解消してください」


 ペン先が止まった。


 ルシアンは手紙を見た。驚きはしなかった。


「見つけたのか」


「否定なさらないのですね」


「君の筆跡だからな」


「毎晩、私の部屋へ入っていることも?」


「否定しない」


「私の記憶を消していることも?」


「それも否定しない」


 あまりにあっさり認めるので、エレノアは用意していた追及の言葉を忘れた。


「何かおっしゃることは?」


「すまない」


「ほかには?」


「今夜までは、私を君の婚約者でいさせてほしい」


 エレノアは椅子から立ち上がった。


「今夜もう一度、私の記憶を消すおつもりですね」


「そうだ」


「正直に言えば許されると思っていらっしゃるの?」


「許されるとは思っていない。ただ、必要なんだ」


「理由をお話しください」


「話せば、君は忘れることを拒む」


「すでに拒んでいます」


「それでもだ」


 ルシアンはようやく顔を上げた。


 青い瞳の下に、うっすら隈がある。


「婚約破棄は受け入れる。ただ、明日の朝までは待ってほしい」


「お断りします」


「では、日没まで」


「なぜ値切るのです?」


「少しでも長く婚約者でいたい」


 そんな台詞を無表情で言われても困る。


 エレノアは頬が熱くなるのを感じ、腹立たしさを補充するために手紙をつかんだ。


「日没までに理由を突き止めます。私が納得できなければ、その場で婚約を解消します」


「分かった」


「私の調査を妨害しないでください」


「努力する」


「妨害しない、とお約束ください」


「君が危険なことをしない限りは」


 どうやら妨害する気である。


 エレノアは執務室を出た。


 扉が閉じる直前、ルシアンが白い花を手に取るのが見えた。


     ◇


 調査は自室から始めた。


「犯人が殿下であることは確定していますよね」


 マリーが言った。


「目的を調べるのです」


「お嬢様への執着では?」


「それなら、記憶を消す必要はないでしょう」


「ご自分に都合の悪いことを言ったから、とか」


「毎晩?」


「殿下は意外と失言が多いのかもしれません」


 あり得なくはない。


 エレノアは日記を開いた。


 直近一月分のページが、ところどころ破り取られている。乱暴に引き裂いたのではなく、糸から丁寧に外されていた。


 残った記述も奇妙だった。


『今日は殿下と庭園を歩いた。月鈴花がきれいだった』


 次の日。


『殿下から白い花が届いた。理由は分からない』


 その次の日。


『今日は殿下と庭園を歩いた。月鈴花がきれいだった』


 まったく同じ文章が、三日おきに現れる。


「私、文章の引き出しが少なすぎない?」


「同じ出来事を初めてだと思って書いたのでは?」


 引き出しの奥を外すと、二通目の手紙が落ちてきた。


『明日の私へ。


 彼は私が眠ったあと、必ず部屋に入ってくる。


 ただし、今のところ乱暴なことはされていない。


 寝顔を見られるのは大変恥ずかしい』


「緊張感が足りないわ、昨日の私」


「お嬢様らしくて安心いたしました」


 さらに本棚の恋愛小説、第七巻と第八巻の間から三通目が見つかった。


『明日の私へ。


 私の記憶が消えるたび、彼は悲しそうな顔をする。


 騙されてはいけない。あれも演技かもしれない。


 ただし、殿下は演技が非常に下手なので、本当に悲しい可能性もある』


 エレノアは額を押さえた。


「昨日の私は、殿下を疑いたいのか庇いたいのか、どちらなの?」


「恋をしている方は、たいてい両方です」


 マリーは恋愛経験がないはずなのに、妙に達観している。


「ほかに隠しそうな場所は?」


「お嬢様なら、絶対に人に見られたくない場所でしょうか」


 二人は同時に衣装棚を見た。


 最上段、子供のころに着ていた舞踏会用ドレスの袖から、四通目が見つかった。


『首飾りを外してはいけない』


 それだけだった。


 エレノアは胸元に触れた。


 銀色の細い鎖に、透明な石が一つ。婚約が決まった日にルシアンから贈られたものだ。


 毎晩記憶を消す男が贈った首飾り。


 どう考えても怪しい。


「外してみましょう」


「手紙は外すなと」


「殿下を信じるなと書いた私が、殿下の贈り物だけ守れと言っている。矛盾の理由を確かめます」


 留め具へ指をかけた瞬間、扉が勢いよく開いた。


「外すな!」


 ルシアンだった。


 息を切らし、いつもの無表情を完全に失っている。


「女性の部屋へ許可なく入らないでください」


「すまない。だが、それは外すな」


「理由を言わない方の命令は聞きません」


「君の記憶を守っている」


「記憶を消している方がおっしゃると、説得力がありません」


 ルシアンが一歩近づく。


 エレノアは一歩下がった。


 彼は傷ついた顔をしたが、止まった。


「その石には、君が失った感情が保存されている」


「感情?」


「記憶を消す魔法は、出来事だけをきれいに切り取れない。喜びも悲しみも、一緒に薄れていく。首飾りはそれを留めるためのものだ」


「では、外したら?」


「この一月、君が感じたものが散る」


 エレノアは指を離した。


「最初から、そう説明すればよかったでしょう」


「説明した」


「いつ?」


「昨日も。一昨日も。その前も」


 彼の声には、わずかな疲れがあった。


「君は毎回納得して、毎回自分で忘れることを選んだ」


「それなら、なぜ私はあなたを信じるなと手紙を書いたの?」


「それは私にも分からない」


 ルシアンが手紙をのぞき込む。


「ただ、この追伸には見覚えがない」


「追伸?」


 便箋の裏に、ごく薄い文字があった。


『追伸。本人がここまで読んでいるなら、本棚の最上段を調べること。踏み台はマリーに押さえてもらうこと。以前一人で登って落ちた』


「誰が落ちたのです?」とマリー。


「私でしょうね」


「記録しておきます」


 ルシアンは自然に本棚へ手を伸ばした。


「お待ちください。これは私への指示です」


「君では届かない」


「踏み台を使います」


「また落ちる」


「殿下は私の過去の失敗を知りすぎです」


「毎回、同じことをするからだ」


 結局、ルシアンが最上段から小箱を下ろした。


 箱には、エレノア自身の魔力で封印が施されていた。


 触れると、封印がほどける。


 中には破り取られた日記のページと、一冊の薄い研究記録が入っていた。


 表紙には、エレノアの筆跡で題名が書かれている。


『生命連結術式に関する、非常に反省すべき研究』


「身に覚えは?」


 ルシアンが尋ねた。


「題名の付け方には覚えがあります」


     ◇


 記録によれば、三年前、ルシアンは国境で魔獣討伐の指揮を執り、胸に致命傷を負った。


 治癒魔法では間に合わない。


 当時十七歳だったエレノアは、王宮図書館で見つけた古代術式を使った。


 術式の目的は、二人の生命を結び、片方の生命力をもう片方へ送ること。


 研究記録の余白には、当時の彼女の書き込みが残っていた。


『殿下は絶対に反対するので、眠っている間に実行する』


『起きたら怒られると思う。生きて怒られるなら問題ない』


『配分は私九、殿下一。これなら私は数日寝込む程度で済むはず』


 そこまでは勇ましかった。


 次のページから、文字が乱れている。


『術式が止まらない』


『殿下を思うたび、生命力が流れている』


『恋愛感情を発動条件として誤認した可能性』


『そんな条件を書いた覚えはない。古代語の「大切にする」と「生命を維持する」が同じ綴りなのが悪い』


 エレノアは本を閉じた。


「昔の私、ずいぶん大きな翻訳間違いをしたのね」


「私がどれだけ叱ったと思う」


「覚えていません」


「三日間叱った」


「長いです」


「君は二日目に寝た」


 重い事実のはずなのに、ルシアンの話し方のせいで、エレノアは少し笑ってしまった。


「つまり、私があなたを愛するほど、私の生命力があなたへ流れる?」


「正確には、君が私との記憶を意識するたびに流れる」


「それで、記憶を消したのですね」


「ああ。術式を解除しようとすると、君が勝手に別の方法を試すから」


「勝手に?」


「一度目は術式を逆流させた。二度目は私の記憶を消そうとした。三度目は『いっそ殿下を嫌いになれば解決』と言って、私の欠点を百個書き出した」


「百個もありました?」


「八個で止まった」


「意外と少ない」


「最後の二つは『顔が良すぎて腹が立つ』『私を大切にしすぎる』だった」


 それは欠点ではない気がする。


 マリーが研究記録をめくった。


「こちらに、記憶を消すことを選んだ理由がございます」


 そこには、さらに新しい筆跡があった。


『術式を解くまで、ルシアンに関する直近一日分の記憶だけを毎晩封印する』


『完全に忘れると不自然なので、婚約者だという知識は残す』


『感情は首飾りへ保存する』


『朝には月鈴花を一輪置き、封印が正常に動作したか確認する』


「花にはどんな意味が?」


 エレノアが尋ねる。


「君が朝、花を見てどう感じるか確かめていた」


「どう感じれば正常なのです?」


「少しうれしくて、少し腹が立つ」


「毎朝そのとおりでした」


 マリーが即答した。


「では、殿下は悪くないのですね」


「毎晩女性の寝室へ忍び込み、本人の記憶を消していた点は、十分問題かと」


 マリーは公平だった。


「私が同意していたそうよ」


「今日のお嬢様は同意しておりません」


 その一言で、部屋が静かになった。


 ルシアンが目を伏せる。


「だから、今夜まで待ってほしかった。今日の君が拒むなら、もう記憶は消さない」


「そうしたら、私は?」


「術式が動き続ける。すぐに倒れるわけではないが、一月も持たない」


「殿下は?」


「必要以上に元気になる」


「腹立たしいですね」


「ああ。私もそう思う」


 エレノアは研究記録を最初から読み直した。


 記憶を消せば、彼女は生き延びる。


 ただし、毎日ルシアンを知り直し、毎晩その一日を失う。


 婚約を破棄して遠ざかれば、術式は弱まるかもしれない。


 それが一番安全で、簡単な方法だ。


「婚約解消を受け入れたのは、私を遠ざけるためですか」


「それが君を守るなら」


「少しでも長く婚約者でいたいと言ったのは?」


「それは私の希望だ」


 ルシアンは本当に、こういうところだけ正直だった。


 エレノアは首飾りの石を握った。


 胸の奥に、説明できない温かさがある。


 思い出せない日々の感情が、そこに残っている。


 彼を疑った朝も、彼と笑った午後も、自分で忘れることを選んだ夜も。


「日没まで、まだ時間があります」


「何をする気だ」


「術式を解きます」


「却下する」


「これは私が作った術式です」


「だから不安なんだ」


「今回は古代語辞典を三冊使います」


「前回も二冊使った」


「一冊増えています」


「安心材料にならない」


 マリーが静かに手を挙げた。


「王宮魔術院の先生方をお呼びしてはいかがでしょう」


 二人は顔を見合わせた。


「なぜ今まで思いつかなかったの?」


「君が誰にも知られたくないと言ったからだ」


「私が?」


「翻訳間違いが恥ずかしいと」


 エレノアは机へ突っ伏した。


「命より見栄を優先していたのね、過去の私」


「十七歳だったからな」


「殿下も従わないでください」


「泣いて頼まれた」


「それでもです」


「分かった。次からは断る」


「次があっては困ります」


     ◇


 王宮魔術院の院長は、研究記録を一時間読み、最初にこう言った。


「若さとは恐ろしいですな」


 副院長は術式を確認し、次にこう言った。


「殿下も殿下です。三年も二人だけで抱え込むとは」


 助手たちは首飾りを調べ、最後にこう言った。


「これ、解除できますよ」


 エレノアとルシアンは同時に立ち上がった。


「できるのですか?」


「はい。ただ、正面から解除すると令嬢の生命力が一気に流れます。恋愛感情を発動条件から外し、別の供給源へ接続すればよいでしょう」


「別の供給源?」


「月鈴花です」


 助手が、朝届いた白い花を掲げた。


「この花は夜に魔力を蓄え、朝に放出します。首飾りへ一月分の花の魔力が残っています。十分な量です」


 エレノアはルシアンを見た。


「毎朝の花に、そんな役割が?」


「知らなかった。封印の確認に使っていただけだ」


「偶然ですか」


「どうやら」


 院長が豪快に笑った。


「お二人は、互いを守ろうとして難しく考えすぎたのです。結果として、毎朝贈った花が解決策になった。なかなか洒落た話ではありませんか」


 解除作業は日没前に始まった。


 床へ大きな術式を描き、中央に首飾りを置く。エレノアとルシアンは向かい合って座った。


「痛みはありますか」


「少し熱い程度です」と助手。


「失敗した場合は?」


「殿下が一週間ほど眠れなくなるくらいです」


「私ではなく?」


「余分な生命力を受け取っているのは殿下ですから」


 エレノアは少し安心した。


「なぜ笑う」


「殿下だけが困る可能性もあるのだと思いまして」


「君は今日だけで性格が悪くなっていないか」


「昨日までの私も同じだったと思います」


 術式が淡い光を放った。


 首飾りの石から、白い光があふれる。


 失った記憶が戻るのかと思った。


 しかし見えたのは、はっきりした場面ではなかった。


 ルシアンを見て安心した気持ち。


 庭園を歩いたときの楽しさ。


 彼が無表情のまま冗談を言い、笑っていいのか迷った困惑。


 記憶ではなく、感情だけが胸へ戻ってくる。


 エレノアは泣きそうになり、慌てて瞬きをした。


「どうした」


「殿下が、思ったより好かれていたようです」


「誰に?」


「昨日までの私に」


「今日の君には?」


 こんなときまで確認するとは思わなかった。


「術式が終わってから考えます」


「そうか」


 ルシアンは残念そうに目を伏せた。


 その顔を見た瞬間、エレノアは胸の内側が温かくなるのを感じた。


 術式のせいではない。


 今、この瞬間に生まれた感情だった。


 床の光が一本ずつ消えていく。


 最後に首飾りの石が澄んだ音を立てた。


「完了です」


 助手の声と同時に、ルシアンが椅子から立ち上がった。


「体調は?」


「問題ありません」


「めまいは」


「ありません」


「胸の痛みは」


「殿下が近すぎて、少し」


 ルシアンが素早く一歩下がった。


「それはすまない」


「冗談です」


 彼は珍しく、しばらく言葉を失った。


 院長たちが気を利かせたのか、笑いをこらえながら部屋を出ていく。


 二人きりになると、ルシアンは姿勢を正した。


「婚約解消の件だが」


「はい」


「君の意思を尊重する」


 エレノアは少し考えた。


「では一度、解消しましょう」


 ルシアンの顔から表情が消えた。


 いつもの無表情とは違う。本当に何もなくなった顔だった。


「分かった」


「そのうえで、もう一度申し込んでください」


「何を?」


「婚約を」


 青い瞳が、ゆっくり見開かれる。


「私は、あなたと過ごした一月を覚えていません。三年前のことも、あなたが毎晩どんな説明をしてくれたのかも。ですから、知らないまま元に戻るのは嫌です」


「ああ」


「改めて知りたいのです。あなたが何を好きで、何が苦手で、なぜこんなに説明が足りないのか」


「最後のものは、私にも分からない」


「一緒に調べましょう」


 ルシアンは、ようやく笑った。


 派手ではない、小さな笑みだった。


「エレノア・グレイス公爵令嬢」


「はい」


「私と、もう一度婚約してくれないだろうか」


「条件があります」


「毎晩、記憶を消さない」


「当然です」


「問題を二人だけで抱え込まない」


「ああ」


「古代魔法を使う前に、専門家へ相談する」


「それは君の条件では?」


「二人の条件です」


 ルシアンはうなずいた。


「すべて守る」


「では、お受けします」


     ◇


 一月後、二度目の婚約式が行われた。


 最初の婚約式をエレノアは覚えていたが、その後の三年間にはところどころ穴がある。


 失った記憶は戻らなかった。


 けれど、不思議と寂しくはなかった。


 記憶がなくても、そこで感じたものは首飾りを通じて残っている。


 そして今は、毎日新しい思い出が増えていく。


 式の朝、ルシアンは白い月鈴花を一輪持ってきた。


「またこの花ですか」


「嫌いだったか?」


「いいえ。少しうれしくて、少し腹が立ちます」


「封印は正常だな」


「もう確認する必要はありません」


 エレノアは花を受け取った。


「この花、好きかもしれません」


「知っている」


「また、私の知らない私の話ですか?」


 ルシアンは少し考え、首を横に振った。


「いや。今日から知っていく君の話だ」


 エレノアは笑った。


 彼を愛した記憶のすべては戻らなかった。


 けれど彼をもう一度愛する未来は、まだ何一つ失われていなかった。

長編も投稿しています。

少しでも気に入っていただけたならぜひ他の作品もチェックしてみてください!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。