八十話「婚姻の火種」
岐阜城の空気は、どこか落ち着かない。
細川が破綻し、都が沈黙した。
誰もが「終わった」と口では言う。
だが玉には分かっていた。
終わったのではない。
形が変わっただけだ。
細川が消えれば、次の者が現れる。
都が黙れば、別の鎖が伸びてくる。
そしてその鎖が狙うのは――自分。
玉は廊下を歩きながら、胸の奥に小さな痛みを抱えていた。
(また婚姻の話が出る)
(今度は誰が、どんな名分を持ち出す)
(細川よりも、もっと巧妙な相手かもしれない)
その考えが浮かんだ瞬間、喉が渇いた。
(嫌だ)
(私は、細川に嫁ぐ未来を知っている)
(あれは地獄だ)
玉は拳を握り、心の中で呟いた。
(私はガラシャになるために生きているわけじゃない)
(私は、未来を変えるためにここにいる)
「玉」
背後から声がした。
振り向くと女中が頭を下げている。
「帰蝶様がお呼びです」
玉の胸が跳ねた。
(帰蝶様……)
帰蝶は、玉を守ってくれている。
だが守りとは、時に縛りにもなる。
玉は静かに頷き、帰蝶の部屋へ向かった。
襖を開けた瞬間、玉は息を呑んだ。
帰蝶が座している。
そして、その隣に――信忠がいた。
信忠はいつもより姿勢が硬い。
目線が畳に落ち、膝の上で手を握りしめている。
ふと見上げた際には信長が居た。
玉は胸がざわつくのを感じた。
(信忠様……?)
(なぜここに)
嫌な予感が、背筋を撫でた。
玉は深く頭を下げる。
「帰蝶様、信忠様……」
帰蝶は扇を閉じ、淡々と告げた。
「玉。お前の処遇について話がある」
処遇。
その言葉だけで、玉の身体が固くなる。
(処遇……)
(まさか)
(婚姻……?)
玉は息を吸う。
だが肺がうまく膨らまない。
帰蝶は静かに続けた。
「織田としては、お前を織田のものとして扱う」
玉は目を伏せた。
織田のもの。
守られる。
それは救いだ。
だが同時に、逃げ道を失う言葉でもあった。
玉は心の中で呟く。
(織田のもの……)
(私は、道具になるのか)
(それとも、守られるのか)
どちらも同じに思えた。
帰蝶はさらに言った。
「明智も、殿への報告を欠かさぬ。
忠誠を誓う者として、真面目すぎるほどだ」
玉の胸が痛んだ。
父の忠義。
それがある限り、玉は守られる。
だが忠義は、時に刃にもなる。
(父上……)
(お願いだから、追い詰められないで)
(追い詰められた父上が選ぶ未来を、私は知っている)
玉は唇を噛んだ。
本能寺の火が、胸の奥で小さく揺れた気がした。
帰蝶は玉を見つめたまま、言葉を落とすように言った。
「そして……お前も、もうそろそろ十四だ」
玉の指先が冷たくなる。
十四。
戦国の女にとって、運命が決まる年齢。
玉は喉の奥が締め付けられる。
(十四……)
(私は、まだ何も成していない)
(本能寺を止めるためにここにいるのに)
帰蝶は続けた。
「またぞろ婚姻の話が出ぬとも限らぬ」
玉の胸が跳ねる。
(やっぱりだ)
(また婚姻の話……)
(細川じゃなくても、誰かが来る)
玉は背筋に汗が滲むのを感じた。
(嫌だ)
(私は、選ばれるだけの存在ではいたくない)
(私は……選びたい)
帰蝶はふと、信忠の方へ視線を向けた。
その瞬間、信忠の肩がわずかに揺れる。
信忠は緊張している。
それが玉にも分かった。
帰蝶は短く言った。
「信忠。申せ」
信忠は喉を鳴らした。
「……今回の事を受け、玉は織田に欠かせぬ存在で……」
言葉が回りくどい。
信忠は真面目すぎるほど真面目だ。
玉は信忠を見つめた。
(信忠様は……何を言おうとしている)
(まさか……)
帰蝶が即座に言った。
「信忠。男ならはっきりせよ」
その一喝に、信忠の背筋が跳ねた。
玉は思わず目を見開いた。
(帰蝶様……容赦がない)
だが、その容赦のなさは、信忠を守るためでもあるのだろう。
信忠は拳を握り、顔を上げた。
その視線は、玉を見ていない。
信忠は襖の奥――信長がいる方へ向かって言った。
「殿……!」
玉の心臓が跳ねた。
(殿!)
襖の向こうに気配がある。
確かに、誰かが座している。
信忠は息を吸い、言い切った。
「玉との婚姻を、認めてはいただけませぬか」
玉の身体が凍りついた。
(……え?)
(信忠様が……私を?)
頭が真っ白になる。
嬉しいのか、怖いのか分からない。
胸が熱くなるのに、指先は冷たい。
玉は小さく震えた。
(私が、信忠様の妻になる……?)
(そんな未来が……あるの?)
その未来は、細川に嫁ぐ未来よりは遥かに良い。
だが――それは歴史を変える未来なのか。
(私は織田の嫁になって、本能寺を止められるの?)
(それとも、歴史に飲み込まれてしまう?)
次の瞬間。
信長が腹を抱えて笑った。
「ははははは!」
部屋の空気が一気に崩れる。
信忠の顔が真っ赤になり、伏し目がちになる。
信長の声が響く。
「信忠、お前がか?」
信忠は唇を噛み、低く答えた。
「……はい」
玉は胸が苦しくなる。
(信忠様……)
(こんなに恥を晒してまで、言ってくれたのに)
帰蝶が微笑んだ。
「信忠、よく申した」
その声には確かな誇りがあった。
信長はまだ笑いを残しながら、帰蝶を見る。
帰蝶は淡々と言った。
「玉は織田家には欠かせぬ存在です」
「役職で縛ることも可能でしょう」
玉は息を呑む。
(役職で縛る……)
(私を、台所役にして、誰にも渡さない)
それは確かに安全だ。
だがそれでは、私は生きた道具だ。
帰蝶は続けた。
「ですが、それでは第二の細川が現れぬとも限りませぬ」
玉は背筋が冷えた。
(第二の細川……)
(そんな未来、考えたくもない)
帰蝶は信長へ視線を向け、言い切った。
「殿。玉では不足ですか?」
玉の胸が締め付けられた。
(帰蝶様……)
(私の価値を、殿に問うている)
信長はしばらく黙った。
その沈黙が、玉には永遠のように長く感じた。
(もし殿が断れば――)
(信忠様は……)
(私は……)
(次はどこへ嫁がされる?)
(細川ではなくとも、地獄はまた来る)
玉は喉が震えた。
やがて信長は口元を歪め、短く言った。
「……よし」
玉の呼吸が戻った。
信忠が顔を上げる。
信長は言った。
「婚姻の約、済ませてやる」
玉の胸が熱くなる。
(……助かった)
(守られた)
だが信長は続けた。
「だがすぐではない」
玉の身体が固くなる。
(条件……)
信長は帰蝶を見た。
「帰蝶。玉の教育を任せる」
帰蝶は微笑み、頷いた。
「承知いたしました」
信長は指を一本立てる。
「一年後だ」
玉は息を呑んだ。
一年。
その一年で、玉の人生が決まる。
信長は言い切った。
「それまでに武家の嫁としての教育を終えよ。
それを見て、かなうかどうか判断する」
玉は背筋を正した。
(私は試される)
(信忠様の嫁にふさわしいかどうか)
(織田の嫁に足るかどうか)
帰蝶が静かに頷く。
「はい、殿」
信長は立ち上がり、信忠を見下ろした。
「信忠。お前にしては、よく踏み込んだ」
信忠は小さく息を吐いた。
信長は笑った。
「だが良い」
そう言い残し、信長は笑いながら部屋を出て行った。
残されたのは、帰蝶と信忠と玉。
玉はまだ、現実を飲み込めずにいた。
(婚姻……)
(信忠様と……)
その言葉を心の中で繰り返すたびに、胸が熱くなる。
だが同時に、胸の奥に冷たい影が残る。
(これで細川は完全に消える)
(でも……本能寺は?)
(歴史は変わるの?)
玉はふと、信忠の横顔を見た。
信忠はまだ赤い顔をしている。
だが、その表情には安堵があった。
帰蝶が信忠を見て言った。
「信忠、よう言ったな」
信忠は顔を伏せたまま、ぽつりと答えた。
「……恐ろしゅうございました」
帰蝶は笑った。
「それでよい。恐れを超えて申したのだ」
帰蝶は続けた。
「綺羅びやかな着飾った娘より、
城の従者の着る飾り気のない玉ではあるが……」
帰蝶は玉を見た。
「お前はよく玉を見ていた」
「磨けば凄いぞ、あの娘は」
玉は胸が痛くなった。
(磨けば……)
(私は、磨かれる石なのか)
(それとも、火種なのか)
帰蝶の声が少し柔らかくなる。
「あの瞳には決意が出ている」
「そんな娘は探しても他に一人もおらぬ」
信忠は小さく息を吸った。
そして、言葉を絞るように言った。
「私は……あの瞳に引かれておりました」
玉の胸が跳ねる。
信忠は続ける。
「優しさだけではない……覚悟がある」
「なぜか……守りたいと思ってしまう」
信忠の拳が震えた。
「細川に取られると思った時……焦りました」
「怒りもありました」
そして信忠は、静かに言った。
「その時、分かったのです」
「私は玉を……欲しているのだと」
玉の頬が熱くなる。
(信忠様……)
(そんなふうに思ってくださっていた)
だが玉は、すぐに心を引き締めた。
(私は浮かれてはいけない)
(私は未来を知っている)
(この優しさを、火で焼かせてはいけない)
信忠は立ち上がり、帰蝶へ深く頭を下げた。
「母上玉のこと……これからも、よろしくお願い申し上げます」
帰蝶は微笑んだ。
「心配することはない」
「玉は賢い。
学べば必ず伸びる」
信忠は頷いた。
「……はい」
その夜。
玉は庭に面した縁側に座っていた。
夜風が頬を撫でる。
空は静かで、月が薄く光っている。
玉は膝の上で手を握りしめた。
(信忠様と婚姻……)
(これで私は細川から逃げられる)
それは確かに救いだ。
だが救いは、同時に重い責任でもある。
(私は織田の嫁になる)
(それは……信忠様を守るということ)
(信忠様の未来も、私が背負う)
玉の胸が苦しくなる。
本能寺。
あの火が燃えれば、信忠も焼かれる。
玉は月を見上げ、静かに呟いた。
(私は……止めなければ)
(光秀の謀反を)
(殿の苛烈さを)
(都の鎖を)
そして何より――
(信忠様を、死なせない)
玉の瞳に、決意が宿る。
婚姻は火種だ。
だが火種は、燃えるだけではない。
火種は、灯にもなる。
玉は胸の奥で誓った。
この一年で、私は変わる。
ただ守られるだけの娘では終わらない。
そして必ず――
未来を、書き換える。




