第百三十五話「龍の咳、花嫁の疑念」
夜襲は失敗した。
兵站の砦は落ちず、荷も焼けず、橋も落とせなかった。
加賀の陣に戻った上杉兵たちは、冷たい空気の中で沈黙していた。
声を上げる者はいない。
ただ焚火の火が揺れるだけだった。
傷を負った兵が運ばれていく。
腕を裂かれた者。
顔を切り刻まれた者。
陶器の破片は矢よりも厄介で、肉の奥に食い込んで抜けぬ。
直江兼続は歯を食いしばり、報告の文を整える。
そして謙信の幕へ入った。
謙信は火鉢の前に座していた。
背筋は真っ直ぐ。
だがその顔色は、焚火の赤に照らされても青白い。
兼続は膝をつく。
「殿……夜襲、失敗にございます」
謙信は目を上げなかった。
「分かっておる」
兼続は続けた。
「砦の上より、爆ぜ物が投げ込まれました」
「陶器が砕け、破片が飛び散り……盾でも防げず」
「想定以上の損害にございます」
謙信はゆっくりと息を吐いた。
「火縄ではないな」
兼続は頷いた。
「はい。火矢でもございませぬ」
謙信は目を細めた。
「籠城戦を壊す道具か……」
その瞬間、喉の奥が焼けるように痛み、咳が漏れた。
「……ゴホッ……ゴホ……」
兼続の顔が曇る。
「殿……!」
謙信は手を上げ、制した。
「よい。些事だ」
そう言いながら袖で口元を拭う。
兼続は見た。
布の端に、わずかな赤が滲んだことを。
だが兼続は目を伏せた。
見なかったことにした。
殿が強くあろうとするなら、家臣もまた強くあらねばならぬ。
謙信は地図を広げた。
砦の位置、道の線、川の流れ。
そして指が止まる。
「砦は落とせぬ」
「兵站を断つのも容易ではない」
兼続が問う。
「では、次は……?」
謙信は淡々と言った。
「奪う」
兼続の目が鋭くなる。
「奪う……?」
謙信は頷く。
「荷を奪えば、織田は追う」
「追えば道を離れる」
「道を離れれば、砦は孤立する」
兼続は背筋が冷えた。
これは戦ではない。誘いだ。
敵を動かし、形を崩すための策。
謙信は静かに言った。
「信長は守りを誇る」
「ならば守りを崩すのではない」
「守りを動かす」
兼続は深く頭を下げた。
「承知いたしました。精鋭を選抜いたします」
謙信は小さく頷いた。
その直後、また咳が突き上げた。
「……ゴホ……ゴホッ……!」
今度は長い。
胸の奥が痛み、息が乱れる。
兼続は耐えきれず言った。
「殿、医師を――」
謙信は鋭い目で睨んだ。
「要らぬ」
そして、低く続けた。
「……時間が惜しい」
その一言が、兼続の胸を刺した。
謙信は戦に焦っている。
それは上杉の勝利のためではない。
まるで――己の命を急かすように。
兼続は黙って頭を下げた。
その背中に、重い不安が沈んだ。
龍は、病を抱えながらも牙を研いでいた。
一方――岐阜。
北からの報せは、すでに信長の元へ届いていた。
「上杉、夜襲を仕掛けるも失敗」
「損害多数」
「撤退した模様」
信長は文を読み、静かに笑った。
「当然だ」
家臣が言う。
「殿、これで上杉は引きましょうか」
信長は首を振った。
「引かぬ」
「謙信は、負けたと思っておらぬ」
帰蝶が静かに言った。
「殿。次は道ではなく、荷そのものを狙うやもしれませぬ」
信長は頷いた。
「読める」
そして淡々と命じた。
「荷の護衛を増やせ」
「道を守るのではない。荷を守れ」
岐阜の広間の空気は、冷たいほど整っていた。
信長は焦らない。
帰蝶も動揺しない。
だが玉だけは、胸の奥がざわついていた。
(謙信は、引かない)
(しかも……急いでいる)
玉はふと思い出していた。
どこかで聞いた話だ。
上杉謙信は、酒を好む。
過ぎるほどに好む。
そして――酒は、身体を蝕む。
もし、謙信が己の寿命を察しているのなら。
だからこそ無理を押しているのなら。
(それなら、説明がつく)
(なぜ、ここまで執着するのか)
勝つためだけではない。
時間がない者の戦い。
玉は帰蝶の横顔を見た。
帰蝶は静かに茶を注ぎ、何も言わずにいる。
玉は意を決した。
「帰蝶様……」
帰蝶が目を上げる。
「何だ、玉」
玉は慎重に言葉を選んだ。
「謙信は……酒を好むと聞きます」
「それが原因で、身体を悪くしているという話も……」
帰蝶の眉がわずかに動いた。
玉は続けた。
「もし、謙信が己の寿命を悟っているのなら……」
「この戦は、ただの牽制ではなく……」
「最後の戦として、無理をしているのではないかと……」
帰蝶はしばし黙った。
茶の湯気が、静かに揺れる。
そして帰蝶は、低い声で答えた。
「……可能性はある」
玉の胸が締め付けられる。
帰蝶は続けた。
「酒の噂は、昔からある」
「そして謙信は、身体を壊しても不思議ではない男だ」
玉は息を呑んだ。
帰蝶はさらに言った。
「だが、だからこそ厄介だ」
「命を削る者は、止まらぬ」
玉は唇を噛んだ。
(止まらない謙信……)
(止まらない信長……)
そして、その狭間にいる者たちが削られていく。
玉は胸の内で呟いた。
(私は、花嫁になる)
(だが、花嫁になった瞬間に終わる話ではない)
(この戦が終わらねば、婚姻も安堵にはならぬ)
岐阜の庭に冷たい風が吹き抜けた。
枯葉が舞い、冬の匂いが濃くなる。
帰蝶は静かに茶碗を置いた。
「玉。お前は、よく気づいた」
玉は顔を上げた。
帰蝶は淡々と告げる。
「謙信が急ぐなら、こちらは焦らせてはならぬ」
「焦った者が負ける」
玉は小さく頷いた。
だが心の奥では、確信していた。
謙信は急いでいる。
それは、戦のためではなく――命のためだ。
そしてそれは、次の一手が必ず来るということ。
(信忠との婚姻まで――あと二十七日)




