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勝山春記  作者: 李孟鑑
8/9

(七)

 御屋形様の話に戻ることと致します。館に着きますと、御屋形様は小姓らを集め身仕舞いにかかられました。帯を取り、小袖から下帯から全て解かれ、素裸になりました。手伝わせて真新しい下着を着けているところへ、お召しものが運ばれて参りました。ぬめるような練り絹の布で仕立てられた素襖(すおう)でございます。つややかな銀鼠に染め上げた衣の、胸元と裾には金糸で観世水の文様がこまごまと描かれ、翻る度におもてに光の流水が浮かびます。何とも豪奢(ごうしゃ)なお召しものでございました。


 二人がかりで広げますと、薫き染めてあった沈香の香りが、それこそ溢るる水のように部屋を満たしました。後ろへ回って着せ掛けますと、衣は意志あるものの如くに御屋形様の肩へつるりと(まと)いつきました。香油を塗り込んだ櫛で髪を梳き直させ、頬に薄く紅おしろいを差しました。これらは全て昨夜のうちに、衣装はこれを、薫く香はこれをと、一つ一つ示しながら御屋形様が手ずから、用意させたのでございます。最後に伽羅(きゃら)の小片を、口中に含まれました。


「――参ろう」


 滴るばかりの貴公子の装いを凝らして、御屋形様はお立ちになりました。静かに歩み出しますと、酔う程の香が、あたかも影の慕うが如くに、あとに付き従いました。廊下を進み館を出ると、諸将の方々がもう、駕籠の周りに集まっておられました。御屋形様のお姿を認めると、一斉に視線を落とし小さくこうべを垂れました。言うべき言葉を失っているようでもあり、御屋形様のお言葉を待っているようでもありました。


 と、その中から急に、備前守様が、崩折(くずお)れるようにがっくりと地に片膝をつかれました。太い腕で顔を覆い、声は聞こえませぬが泣いておられるようでございました。備前守様は最後まで開城に異を唱えられたおひとりでございましたから、城を去られる御屋形様のお姿がとりわけ、堪え難きものであったのでございましょう。御屋形様は備前守様の方へ歩み寄られました。肩に手を置き、身を屈めると低い声で二言、三言、何事か申されました。小さな啜り泣きの声がおちこちに広がりました。


 身を起こし、あとは一言も発せられず、居並んだ諸将らひとりひとりにじっとまなざしを注がれたのち、わずかな供を連れて御屋形様は、長福寺へと向かう駕籠の人となられたのでございました。


 それからのことは手短にお話し致します。我々が長福寺に着き、一刻ばかりも過ぎた頃、毛利より使者が参りました。福原貞俊殿ではなく、毛利元就殿の使者でございました。その者は元就殿の意向であるとして、御屋形様に、「ご辞世致し賜りたく」と告げたのでございます。場は騒然となりました。無理もございません。御屋形様の助命が、和睦の条件であったはずでございました。そしてそれと引きかえに、隆世様は腹を斬られたはずでございました。宿老の野上房忠様などは、やむを得ぬとは申せ、はたちそこそこの隆世様に詰め腹斬らせたことに心を痛めておいででしたから、


「腹を斬らせたそのうえ、恥知らずにも約定をたがえて騙し討ちにするとは、もののふの、いや人のすることか」


 と鬼の形相で斬り捨てんばかりに使者に詰め寄りさえしました。しかし、唯御屋形様だけは、うろたえた様子をお見せになりませんでした。眉ひとつ動かさず皆を押しなだめると、


「身を清めたい。仕度せよ」


 一言、命じられました。その時、わたくしは気づいたのでございます。主郭で、御屋形様は朝げはいらぬと申されました。腹を空にしておきたいのだと。あれは、御腹を召される用意であったのではございますまいか。自らの命がどのみち助からぬと、御屋形様は知っておられたに相違(そうい)ございません。

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