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勝山春記  作者: 李孟鑑
7/9

(六)

 明け方の主郭にて、御屋形様は柵にじっと身をもたせたまま、長いこと、日の高くなるにつれ眼下に様々と色あいを変じてゆく林野や山々を、目に映じておられました。海はその間中、ずっと穏やかでございました。人は波の立たぬ海を喜びまするが、まこと左様でございましょうか。波頭の一片も見えぬ海は如何にも寂しゅうございます。命も、時の流れすらも絶え果てたような、風音もなく、波音もなく、ただ碧いばかりの海は物悲しゅうございます。これはわたくしの心に、あの宴の日に主郭からのぞんだ波の輝く周防灘の海原が、強く灼きついているせいでありましょうか。


 そうして、そのまま二刻以上も時を過ごした頃


「御屋形様――」


 遠くに呼ばわる声がして、土橋の方から人影が駆け上がって参りました。


「そろそろ館にお戻り下さい。じき駕籠の仕度が整いまするゆえ」


 急な山道を急ぎ駆けて参ったのでございましょう、肩で荒い息をつきながらそう言いました。御屋形様は頷かれて


「相分かった、すぐ参る」


 とご返事なされました。わたくしは、御屋形様がお目覚めから何も召し上がっておられないことに気づき、その者が一礼して戻りかけたところを呼び止め、朝げの用意をしておくよう申しました。が、御屋形様は、いや、朝げはよい、とわたくしの言葉を遮られました。


「ですが、御屋形様は昨夜も、あまり量を召し上がってはおられませんでした。ご気分がすぐれないのでございましたら、せめて葛湯なりと召し上がって下さいませ。お体に障りまするゆえ」


「何、そうではない、ただ今日は腹を空にしておきたいのだよ。心配をかけたな」


 御屋形様は口元に笑みを浮かべ、わたくしの肩の辺りをいたわるように掌でさすられました。重ねて強いるのもためらわれ、また御屋形様の申されたことの意味がよく呑み込めなかったわたくしは、ただ曖昧(あいまい)な返事をしたばかりでございました。


 くびすを返し、御屋形様はすぐに主郭を下りられました。勝山より一里ばかり南へ下った長福寺に、御屋形様は今日のうちに身を移されることとなっていたのでございます。わたくしも、供することを許されておりました。


 ――山遊びの思い出を追うあまり語るのを忘れておりました。左様でございます。勝山城は開城と相成ったのでございます。


 一昨日でございました。青山の出郭に毛利より、和睦を求める矢文が、投げ込まれたのでございます。和睦の条件は次の通りでございました。勝山城を明け渡すこと。城主内藤隆世は逆臣陶晴賢の親族であるために、同様に謀反人とみなす、よって腹を斬ること。ただし当主大内義長については、晴賢らに擁立されただけであるため罪は問わず、助命し実家である大友家に送り届けること。


 軍評定の席にわたくしはおりませんでしたから、どのようなやり取りがなされたものかくわしくは知りませぬ。ただ、最後まで戦いたいと訴えた御屋形様に対し、諸将の間には、御屋形様のお命が何よりの大事と、和睦を唱える声の方が多かったそうでございます。そして何より、隆世様が、和議を容れるよう、御屋形様に説かれたのだそうでございます。


 その夜、御屋形様は部屋に隆世様をお呼びになりました。雨戸を開け放ち、縁先に簡単な酒の膳を用意させ、傍らの灯明に照らされ闇間にうっすらと浮かび上がる庭の景色を眺めながら、御屋形様は隆世様を待っておられました。月もない夜の中に、城山の全体が、何か物凄いばかりに静まり返っておりました。まだ夜更けという程の刻限でもなく、常ならば雑兵どもの陣小屋の集まっている盆地の方から、何やかやと騒ぐ声が聞こえるのでありましたが、恐らく毛利より書状の届いたことは既に城じゅうの耳に入っていたのでありましょう、その夜に限ってはそういった物音は唯の一つも聞こえて参りませんでした。


 昼のうちは、ともすれば汗ばむほどの日もございましたが、しかし日が落ちたのちは、勝山は未だに寒うございました。殊にこの夜は、城山を覆う静けさがそのまま寒さとなったような、何とも言えぬ底冷えが肌身に沁みました。隆世様はじきに参られ、御屋形様はわたくしに人払いを命じられました。部屋を下がりしな、わたくしは隆世様の方をそっと窺いましたが、その様子は御屋形様と座談するために訪う普段と何ひとつ変わりなく、しかしそこに隆世様の決意のほどが表れておりますようで、部屋を下がり暗い廊下をひとり歩みながら、わたくしは心に、と申しますよりは肉の一筋一筋に、切るような痛みの走るのをどうすることも出来ませんでした。


 勿論のこと御屋形様は、自害を思いとどまるよう説得するため、隆世様を呼んだのでございます。けれど如何にお言葉を尽くされようとも、隆世様の心を翻すことは出来なかったのでございました。翌日、つまり昨日のことになりまする、隆世様は御屋形様に慌ただしく別れを告げられますと、そのまま、毛利方の検使役の前で自害なされたのでした。

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