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勝山春記  作者: 李孟鑑
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(三)

 わずかに半月の日かずしか経っていないと申しますのに、今こうやって振り返りますと、山口のことは既に(ことごと)く、夢のように遠い日々に感じられまする。しかし思えば、大内家自体が、陶様が厳島で亡くなられてから今日までの一年半のうちに、これがあの大内であろうかと我々自身が疑る程に、見る影もなく衰えてしまったのでございますから、山口の町が左様に感じられるのも道理かもしれませぬ。


 ――陶様に代わり筆頭家老となられました隆世様は、何をおいてもまず、その前年より続いていた毛利とのいくさを如何にすべきか、決めねばなりませんでした。陶様亡き後の家中はひとかたならず動揺しておりました。と申しますのは、七年前、陶様は政変にて先代当主であらせられました義隆公を廃位致し、先代様の甥御である御屋形様――義長様でございます――を豊後大友家より、新しき当主として擁立されたのでございますが、御屋形様は他家より参られて大内の家政には慣れておられぬとして、そののちも一貫して、政の大事な部分は悉く、陶様が動かしておられたためでございます。


 この時毛利の軍勢は既に周防との国境を破り、玖珂(くが)鞍掛(くらかけ)城を、杉隆泰(たかやす)様はじめ一千人の城兵もろとも平らげて、岩国に食い込んでおりました。今毛利と戦うのはあやうい、和議を結ぶべしとの声もございましたが、隆世様はいくさの続行を強く説かれ、常の隆世様とも思えぬかたくなな姿勢で、和議の声にはいっかな耳を貸そうとはなさいませんでした。


「ならばお聞き致しまする。和議を唱えられる方々は、逆臣に頭を下げよと、御屋形様に申されるのでございますか」


 評定の席で、隆世様は激しい口調でそう申されました。逆臣とは申すまでもなく毛利元就殿のことでございます。元就殿は、先代義隆公を廃位なされました陶様のやり方を謀反と断じられ、主義隆の仇を討つためと、周防とのいくさに及びました。なれど七年前の変の折、元就殿はその前々より陶様とは密かに気脈を通じておられ、兵こそ出さなかったとは申せ、間違いなく陶様の側に立たれ、共に義隆公に背かれたのでございます。そして共に御屋形様を新しき当主に戴いたのでございます。それをのちになって義隆公への義を楯に御屋形様に刃を向けるとは、謀反はどちらでございましょうか。


 ――無論わたくしとても承知致しております。主の仇討ちなど元就殿の本意ではございません。元就殿が袂を分かたれたのは、知行あてがいなどを巡って陶様にご不満を抱かれたのが第一なのでございます。そして、元就殿のように陶様に何かしらの不満を持つ者は、国の内外に少なからずおりましたから、先だっての陶様の所業を謀反と言い立てるのは、そういった者たちを自らの与同(よどう)者に集めるためには都合が良かったという、それだけのことに過ぎません。


 隆世様は陶様を実の兄の如く慕っておられました。その隆世様にしてみれば、離反し、陶様を討った毛利は断じて赦せぬものでございました。そしてまた、それは隆世様の後ろ楯となっております陶家家臣団の意向でもあったのでございました。


 山口の守りを固めるということには、隆世様は随分と努められました。京の公家屋敷の風であった大内館には堅牢な塀を構え、堀をめぐらせ、また長きの籠城を考え、山口西方の鴻嶺(こうのみね)山上に大がかりな城の普請(ふしん)を急がせました。しかし、我々にとって誤算であり痛手であったのは、家臣団より離反の相次いだことでございました。陶様を失った動揺は我々が思う以上に大きかったのでございます。大内の行く末を危ぶんだ者が次々と傘下を離れ、一方では国のおちこちに国人衆同志の揉め事も起こりました。その内紛を、御屋形様と隆世様には治めきることが出来ず、結果、更なる離反を招くこととなったのでございました。


 毛利がいよいよ本腰を入れて攻略を始め、それでも一年近くの間は、徳山の須々万(すずま)(ぬま)城にて山崎興盛(おきもり)様が敵を食い止めておられましたが、そこが落ちてしまいますと、あたかも山が崩れるかの如く、山口へ通じる徳地、防府両関の押さえであった右田ヶ嶽(みぎたがたけ)城も落ち、石見にて抵抗を続けていた益田藤兼(ふじかね)様も力尽きて吉川元春殿に下り、たちまちのうちに山口は、裸同然となってしまいました。


 御屋形様の身を案じられ、隆世様はとうとう、山口を捨て御自身の領地である長門の城へと兵を退かれる決意をなさいました。左様でございます。それが先程からわたくしが話しております、勝山城でございます。勝山城は内藤家代々の居城でございましたが、南を青山、東を四王司山、西を竜王山が囲み、背後には白山、狩音山から峰を伸ばした大小の連山を負うという、天然の要害でございました。こうして我々は、まるで追われるが如く、二十四代弘世(ひろよ)公より二百年に渡って都であった山口の地を捨て、長門の長府勝山城に入ったのでございます。

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