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勝山春記  作者: 李孟鑑
3/9

(二)

 灯を掲げても足元は暗く、昨夜の内に降った雨が歩みをしばしばあやうくし、わたくしを冷やりとさせました。城に入って間もなくの頃にも一度、ちょうどこのように、かたわれどきの中を御屋形様の供をして主郭へ参ったことがございました。その時は先達(ぜんだつ)はわたくしではなく、隆世(たかよ)様でございました。御自身が生まれ育った城だけに道に慣れておられまして、「私の踏んだあとを歩めばよろしゅうございます」と言いおき松明を手に一足も踏みためらうことなくすらすらと山道を登って行かれましたが、その後ろ姿は頼もしいようでもあり、うっかりすると取り残されそうで怖いようでもあり、御屋形様もわたくしと似たことをお感じになられたのでございましょうか、「隆世、わたしを置き捨てる気か」と、笑いながら度々そのようなことを申されて後ろから声をかけておられました。


 隆世様と申しますのは、御屋形様の側近を務めておられました、家老の内藤弾正忠隆世様にございます。一昨年、大内の筆頭家老であった陶晴賢様が、厳島にて毛利に不覚を取り討ち死になされましたのを覚えておられることと存じますが、その陶様に代わり側近に侍したのが、隆世様でございました。御屋形様に近侍なされた時ははたちになるかならぬかというお若さでございましたが、内藤の家は陶家、杉家と共に代々家老職を務めて参られたお家柄でございましたし、そしてまた、隆世様の姉君は陶様の元に嫁いでおられ、隆世様はつまり陶様の義弟でございました。そうしたお立場上の関わりから、内藤の家臣団、のみならず何よりも陶の遺臣の方々が、陶様の後を引き継ぐべきは隆世様であると、御屋形様に強く後押ししたのでございました。


 勾配を上り切りますと、道は二の郭に入り、土橋を経て主郭へと至ります。主郭は山の頂を削り柵をめぐらせて東西に細長く伸び、中央に館、西端の奥に鎮守の社を置くという造りとなっておりました。柵ぎわまで寄られ御屋形様は遠方へと目を注がれました。眼下には長府の平野が、平野の向こうには海が広がっております。西が響灘、東が周防灘で、この潮が長門と九州とを隔てる境でございました。


 いつしか東より朝の光が覗いておりました。御屋形様と共に館を出た頃には暗碧に沈んでいた空はその色も薄らぎ、明るさを増しつつ徐々に遠のいて行くようでございました。そして大地の彩りは、光とも闇ともつかぬ薄青いもやの下から、明けゆく空に遅れまいと次々に甦って参りました。樹林の濃緑があり、若芽の萌黄がございます。黒く見えておりますのは土を起こした田畑でありましょう。ごくわずか、飛沫(ひまつ)の如く窺える紅の色は春椿の花でもありましょうか。全ては水を覗き込んだように澄明(ちょうめい)でございました。そして全ては水底(みなそこ)に没したかのように静謐(せいひつ)でございました。かすかに、潮の匂いが致しました。


「民部、海が穏やかだ」


 御屋形様が申され、海の方を指差されました。まことに、波ひとつない海でございました。潮のおもては白い波頭も行き交う船もなく、光ばかりをたたえて静まり、あたかも磨き上げた瑠璃石の板を景色の中に碧く象嵌したかのようで、美しいような、物寂しいような、何とも不思議な眺めでございました。対岸の九州の山影が、筆でもって描きつけたようにくっきりと見えておりました。


「九州が見えまする」


「この方角ならば、見えておるのは門司(もじ)の辺りであろう。向こうは晩春も過ぎて初夏の風が吹いておるやもしれぬ」


「やはりお懐しゅうございまするか」


 わたくしが尋ねますと、御屋形様は海の彼方を見やる視線はそのままに、()びたような笑みを薄く滲ませこうべを振られました。


「いや、それは違う。晴賢(はるかた)に乞われ叔父上の跡を継いだ時より、わたしの中では豊後も、大友の家も、帰るべき場所ではないのだ。こうして、この目で九州の地を見ても感慨はない。むしろ折にふれ気に病まれるのは山口のことだ。もはやわたしが考えるべきことでないのは分かっておるが、それでも、今は如何様な有様になっておるかと思われてならぬ。無論毛利の軍勢は入っておるであろうが……」


 御屋形様は、遣る方ないため息をかすかに洩らされたようでございました。

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