令嬢のお礼
弟? そう言われてすぐには気がつかなかった。
「ヒルデ……知ってるでしょ?」
「ヒルデ? ……ああ! あの子か。ずっと病気で大変だった」
すると、アリスのこちらを見る瞳が深くなった気がした。目に幾つもの宝石が浮かんでいるかのように、キラキラとした涙が浮かぶ。
「やっぱり……そうだったんだ。この前、ひーくんの所に行ったの。ずっと病気で、もう長くないって司祭様に言われてて。でも、とっても元気になってた。優しいお兄ちゃんから貰った薬のおかげだって」
「あの薬があれば大丈夫だよ。遺跡の奥に眠っていた、万能の秘薬なんだ。ヒルデとは、ちょっとしたきっかけで知り合ったんだけどさ。まさかアリスの弟だったとは」
あの人里離れた草原にポツリと立っている家が、ローゼシアと関係があったなんて。原作では、アリスとヒルデの繋がりは描かれなかった。
「どうしてヒルデは、王都からずっと離れた家に住んでいるんだ?」
「それは……お父様が嫌がっていたからなの。弱い子は、うちの子じゃない……そういうお考えなの」
やっぱりライオンみたいな人だ。フランソワ公爵の白い立髪と、岩のようにゴツい上半身が頭に浮かぶ。
弱い者を決して認めない。だから大人しそうなアリスもまた、こうして売りに出されている。
大貴族っていうのも、それはそれで大変なんだよなぁ……などとうっすら考えていると、目の前に只事ではない光景が広がっていることに気づく。
向かいに座る令嬢の瞳から、光るものが止めどなく流れ落ちていた。
「大丈夫?」
「……ん」
見ているこっちまで悲しくなってくるような、その涙に戸惑いつつ、彼女の頬が赤く色づいているのがなんとも綺麗だと考えてしまう。
「……りがと。ありがとう。ひーくんを、救ってくれて」
それから何度も感謝を伝えてきた。泣き止むまで、僕は落ち着かない気持ちで宥め続けるしかなかった。
しばらくして、濡れたハンカチを畳みながら、彼女は一つ重要なことを教えてくれた。
実はヒルデがかかっていた病とは、徐々に体が異形の存在に近づいてしまう、というものだったらしい。つまり魔物になるとか。
僕が聞いていた話とは違う。きっとあの家にいた人々は、僕にもヒルデにも嘘をついているのかもしれない。それは優しさからくるものだと思うが。
原作では、ヒルデはある時期を過ぎると姿を消してしまう。その後にあの家に訪れると、メイドが「ぼっちゃまは亡くなられました」と言ってしくしく泣いていた。
ただ死ぬのではなく、化け物にされてしまうという大病だったとは。なんて恐ろしい話だろうか。でも、古代の文化はそれすらも凌駕する。
やはり古代文明の素晴らしさは別格だと、僕は改めて痛感する。というわけで、明日も明後日も暇になったから遺跡に行こう。
すでに頭の中では、みんな解決しているような気分でいた。だが、肝心の問題は終わったどころか、むしろ悪化している。
それに気がついたのは、アリスがようやく笑顔を見せた直後のことだ。
「ひーくんを助けてくれた恩は、一生忘れない。私、あなたにお礼がしたい」
「気にしなくていい。当然のことをしただけだ」
「ううん。そんなことない。私……決めた」
嫌な予感がした。こういう唐突な切り出しには不安しかない。
「他のみんなとの婚談は、全部断る。もう一度お父様に言う」
「ちょ、ちょっと待った」
やめろって。そんな決意を持たれても困る。
「だって、私……」
彼女の目が今までと違う。こんなに真っ直ぐに見つめられたことが、かつての人生であっただろうか。
いや、ない。一回も。
気がつけば、僕は唾を飲み込んでいた。
しかし、アリスの言葉が続くことはなかった。さっきよりも頬が朱に染まり、地面を向いたかと思ったら上目遣いにこちらを見たり、落ち着きをなくしている。
これは反則だ。あまりに可愛すぎて、僕はコロっと落ちそうになってしまった。
しかし忘れてはいけない。目の前にいるのは、あの極悪過ぎる裏ボスなんだ。
僕はどうしても忘れることができない。原作で主人公とヒロインをつけ狙い、多くのプレイヤーにトラウマを植え付けたあの姿を。
少しの間、不思議な空気に包まれていた。気まずいということはない。決して嫌ではない。
むしろなんだか暖かい。そんな不思議な気持ちになっていた時、店員のお婆さんが静かに近づき、僕の空になっていたカップに紅茶を注いでくれる。
「ありがとう」
お礼を言うと、店員さんはニコリと笑った後、耳元でこう囁いた。
「頑張ってね。最後は男の人が言わないとダメよ」
「え」
突然何を言い出すのか。どうやらお婆さんは、僕とアリスが結婚直前の恋人で、プロポーズ一歩前にでも見えているのかもしれない。
そう思われていると考えた途端、僕も恥ずかしくなってきた。
だがそれ以上に、これまでとは比較にならないほど、危険な状況に置かれていることに気づく。
いつの間にか、プロポーズを切り出す流れになっている。しかもお婆さん店員の援護付きで。
僕は悩んだ。この後に何を語ればいいのか、よく分からない。気がつけば澄んだ瞳に吸い寄せられ、思考が止められてしまう。
膠着状態になったと思いきや、ここでアリスが動いた。彼女の目線は僕の背後、もっと上を見つめている。
「あ、そろそろ……帰らないと」
そうか。お忍びでやってきた彼女は、早く帰らなくちゃいけない。この世界では、時計よりも太陽の位置で時間を測ることが多い。
そういうざっくりした感覚は嫌いじゃない。時計を見ない生活に慣れた僕は、なんだかホッとして腰を上げた。
◇
帰り道でも、アリスは今までと違い明るい雰囲気に溢れていた。
僕はとりあえず雑談をしつつ、彼女を馬車屋まで送るため、近道にあたる路地裏を歩いていた。
「アリス。君はもうちょっと、冷静になったほうがいいよ。こういうのは危ないから」
「うん。気をつける」
「僕は伯爵家の……それも後継ぎにもなれない男なんだ」
「でも、キースは素敵」
「まったく。君はお上手だ」
「ふ……ふふ」
もう少しで路地裏を出るところだった。なぜか笑い声がしたので振り向いてみると、彼女の手に予想もしないものが握られている。
それは青く光る剣だった。しかも鞘から抜かれている。
「な……それは」
「あ、これ……この前お話ししていた剣。あなたの為に作ったの。これ、あげる」
大事そうに袋に入れていたのは、これだったのか。
僕の心に震えが走った。さっきの笑い声は不自然だったし、振り向いた時、彼女はこちらに剣を向けていたはずだ。
つまり、この路地裏で僕を始末しようとしていたのか!?
「良かった。しばらく磨いてなかったから、汚くなってるかもと思ったの。でも綺麗なままだね」
彼女は剣を鞘に収めると、両手で丁寧にこちらに手渡してきた。唖然としているこの顔をどう思ったのかは知らない。
でも、アリスは最後まで上機嫌だった。その後馬車に乗ってお別れになったのだが、窓から顔を出して「またねっ」と微笑みながら手を振っていた。
彼女の謎すぎる行動に戸惑いながらも、とにかく無心で手を振りかえした。
僕の左手には、澄み切った青色をした氷の剣が握られたままだ。




