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ちょっとした奇跡

作者: 執行 太樹

6月下旬。

私は、宛もなく旅に出た。

そこで出会ったもの、それは「ちょっとした奇跡」だった。



 6月下旬。


 私は、週末の休みに旅行に出掛けた。

 私の旅行は、少し変わっている。行くあては無い。駅の路線図を見て、今日行くところを決める。今回も、気の向くままに電車に乗り込み、こうやって車窓からの田園風景を眺めている。

 その時の気分で旅行する。そんな旅が、私は気に入っている。



 ある駅で降りた。海沿いにぽつんとある、小さな駅だった。すぐ近くに山が見えた。山の向こうの遠くの空に、うっすらとすじ雲が見えた。

 私は、駅のバス停に向かった。ちょうど目の前で、乗りたかったバスが出発してしまった。時刻表を見ると、次のバスまでは1時間ほどあった。

 仕方なく、近くの観光案内所に向かった。入口のガラス戸に、レンタサイクルと書かれたポスターが見えた。私は案内所に入った。眼鏡をかけた、やさしそうな女性が受け付けてくれた。レンタサイクルが、ちょうど1台だけ残っていた。私は、その1台を借りた。

 海が一望できる展望台があると、女性は教えてくれた。行ってみます、そう私は応えた。良い旅を、と女性が微笑みながら言ってくれた。


 海沿いの国道を走った。車通りはなく、海からの風が潮騒だけを運んできていた。全身で浴びる海風が、気持ちよかった。ふと、小さい頃の夏休みに友だちと海へ、自転車で出掛けた時のことを思い出した。

 風を浴びながら走っていると、緩やかな坂の途中に、小さな喫茶店が見えた。軒先の氷旗が風に揺られていた。私は、お店の横に自転車を止めた。入口の戸を開けると、パイプチャイムの軽やかな音色が店内に響いた。

 いらっしゃい、と店の奥から若い女の子の声が聞こえてきた。高校生ぐらいの店員さんだった。お家の手伝いをしているのかもしれない。私はそう思った。店員さんは、水の入ったグラスを持ってきてくれた。私はコーヒーフロートを1つ注文した。店員さんは紙に何やら書き込んでから、店の奥に戻っていった。

 私は店内を見回した。トルコランプの灯りが、薄暗い店内を温かく灯していた。店の中を、クラシックが静かに流れていた。ふと隅の方に目をやると、腰の高さぐらいの小さな本棚があった。私はその本棚へ向かい、気の向くままに1冊の文庫本を手に取った。

 私は、本の中身をパラパラとめくった。主人公の少年が、夏休みに旅に出る内容だった。面白い本だった。『ちょっとした奇跡』と表紙に書かれていた。

 店員さんが、コーヒーフロートを持ってきてくれた。ごゆっくりどうぞ、そう言って店員さんは、また店の奥へ戻っていった。私は、デザートスプーンでクリームをすくい、一口食べた。ひんやりとした甘さが、口いっぱいに広がった。美味しかった。

 のどが渇いていたため、私は一気にクリームを口に運んだ。頭が痛くなり、私は慌ててこめかみを押さえた。


 店を出た。ありがとうございました、と店員さんが言った。こちらもありがとうと言って、私はまた自転車に乗った。

 坂道を登った先に、展望台があった。私は自転車を止め、そして海原を眺めた。遠くで、海と空の青さが混ざりあっている。どこからか、波の音とカモメの声が聞こえる。そこでは、時間がゆっくりと流れていた。



 今日ここに来なければ出会わなかった人、出会わなかった景色、出会わなかった気持ち。そして今、私が生きているということ。それらは全て、ほんのちょっとした奇跡の上に成り立っているのかもしれない。

 生きていることは、素晴らしいことだと思った。月並みな言葉かもしれないが、風を浴びながら私は、そう優しく感じた。




 次はどこに行こうか。

 そう思いながら、私はまた自転車に乗った。







お読みくださり、ありがとうございます。


ご感想等ありましたら、よろしくお願いします。

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