春の狼煙
笹原瑠奈 様
元気ですか? 手紙なんて初めて書くので、書き方がよくわかりません。字が汚くて読みにくかったらごめん。
そんなに経っていないのに、卒業した日がずっと昔のことのように感じます。あの日言えなかったけど、笹原が卒業式で弾いた『旅立ちの日に』は、とてもきれいな音で感動しました。
高校一年のころ、放課後に笹原がピアノを弾いているのが音楽室から校庭に響いて、部活中の俺はそれを聴くのがひそかに好きだったな。
大学では新しい生活にも慣れてきて、新しい友達もできました。大学ではサッカーじゃなくて、フットサルを始めました。(フットサルわかる?)
高校ほどじゃないけど、毎日それなりに楽しくやっています。
また、いつか、笹原のピアノが聴きたいです。
中身のない手紙でごめん。迷惑じゃなかったらまた書きます。
◇
馬鹿みたいに赤いポストの前で、真実の口に手を入れる直前のような気持ちで、馬鹿みたいに悩んだあげく、勢いよくその口に手紙を突っ込む。もちろん、手が抜けなくなるなんてことはないが、心はその限りではない。
なにか笹原の気に障ることを書いていないか、つまらない手紙だと思われないか。
「楽しくやっている」なんて、書かないほうが良かったか。
手放したあとはどうしようもない。持ち前の切り替えの早さで諦めて、家に戻る。
見上げた晴天に新緑がよく映えて、あのしょうもない手紙を書き終えるまでにかかった時間を思い知らされるようだった。
少し前、白い桜が散り始めた春の終わり。彼女は遠くへ行ってしまった。風に乗った花びらが、いくつも俺を追い越していったみたいに。
◇
四つ葉のクローバーが描かれた封筒に、可愛らしい花のイラストの切手。笹原からの手紙を見て、俺はすぐに後悔した。家にあったなんの変哲もない白封筒で手紙を送ったことを。コンビニで買っただけの切手を何も疑わずに貼ったことを。
けれど、それらはすぐに消滅した。初めて書いた手紙に、初めての返事が来たのだ。クリスマスプレゼントを貰ったときの気持ちを思い出したのはいつぶりだろう。
ほかの郵便物は置き去りにしたまま、郵便受けの扉を閉める。玄関でかかとを踏んでスニーカーを脱ぎ、夕飯の準備をしている母親に気のない「ただいま」を言ったあとで、そそくさと自分の部屋へ直行した。
机からハサミを探して、丁寧に封を切る。慎重すぎるくらい、慎重に。ベッドに寝転んで深呼吸をする。飛び上がりそうな心拍を落ち着かせてから、取り出した便箋の文字をひとつずつ追いかけた。
◇
金森弥生 様
こんにちは。元気ですか? 私は元気です。
手紙すごく嬉しかった。ありがとう。私はついこのあいだのことみたいに卒業式の日を思い出します。『旅立ちの日に』のピアノは絶対に弾くと決めていたから、きっとあの日のことは一生、忘れないと思います。
音楽室のピアノ、金森くんが聴いてくれていたなら、もっと上手く弾けるように練習しておけばよかったなぁ。
憶えていますか? 私と金森くんが初めて話したのも音楽室だったこと。実は、私も音楽室からサッカー部の練習をよく眺めていたんだよ。
フットサルも(なんとなくだけど)知ってるよ! いつか、フットサルやってる金森くんを観に行けたらいいな。ううん。きっと観に行く。楽しみにしてます。
時間のあるときでいいから、また手紙を書いてくれたら嬉しいです。待っています。
◇
無意識に止めていた息を一斉に吐き出す。手紙を胸の上で伏せて、白い天井に笹原の顔を思い浮かべた。すぐに読み返したかったが、今は心臓がもちそうにない。
ゆっくりと瞼を閉じて、俺は春に想いを馳せた。高校に入学して間もない、あの音楽室の春だ。
◇
まだ慣れないジャージに着替えたあと、部活へ向かう途中の廊下で、ピアノの音色は弾むように踊っていた。
耳では知っているのに名前は知らないこの曲が、部活中にも何度か聴こえて、明るい曲調はサッカーボールを追いかける俺をよく鼓舞してくれた。
ピアノのこともクラシックのことも、ほとんどわからないはずなのに、どうしてか気になった。その音を奏でているのが誰なのか。
通りかかった音楽室の重い扉を押してみる。躊躇がなかったのは、音楽の先生が弾いているのだろうと思い込んでいたからだ。開けた先を見て、俺は驚いた。旋律の主は同じクラスの女子だった。
扉を開けたせいで音楽室の窓から俺に向かって強い風が吹き抜けた。ピアノを止め、風の方向を追って見た彼女と初めて目が合う。
あの時期、もう葉桜になっていたかどうか思い出せないけれど、音楽室の中だけは、その瞬間だけは、なんだか満開の桜に囲まれているような心地がしたことだけは、よく憶えている。
「あ、邪魔してごめん。同じクラスの笹原……で合ってる?」
そろそろクラス全員の顔と名前は、話したことがなくても一致してきていた。念のための確認をすると、笹原が恥ずかしそうに二回頷いた。
「ピアノ、すげぇうまいんだな」
率直に感想を伝えると、ピアノ越しの笹原は「ありがとう」とはにかんだ。その表情が俺の中の春をより高揚させたのに驚いて、ひとりで勝手にたじろいでいると、唐突に彼女が言った。
「私、春が好きなんだ」
「え?」
「金森くんって、三月生まれだから弥生って名前なの?」
あぁ……と頭を掻いた。自分の名前の話をするときはどうも気恥ずかしい。きらきらした瞳でこちらを見ている笹原を直視することができない。
「そう。三月の最後、三十一日生まれ。なぜか親が絶対女の子が生まれるって思い込んでさ。腹の中にいるときから弥生って呼んでて、そのまま名付けたらしい。あと一日生まれるの遅かったらどうすんだよなぁ」
茶化して答えたのに、笹原の声はまっすぐだった。
「すごく素敵な名前だと思ったよ。クラスの自己紹介のとき、すぐ名前覚えちゃった」
「まぁ、男で弥生なんていないから、すぐ覚えてもらえるのはありがたいかな」
本当は、今の今までそんなふうに思ったことなんてなかった。
「金森くんも春休み中の誕生日なんだね。私も七月の三十一日生まれで、夏休み真っ最中だから、忘れられがちなんだよね」
「あーそれすげぇわかる。ていうか同じ三十一日生まれなんだ。じゃあ俺、笹原の誕生日忘れないよ」
そう言うと、ピアノを褒めたときよりも嬉しそうに、「ありがとう」と笹原は笑った。
笹原は夏生まれっぽくない。控えめに笑う。翳があるような、みんなから一歩引いているような雰囲気があって、そこがなぜか気になる。ぼんやり自覚したのは、進級して別々のクラスになったことに落胆している自分に気づいてからだった。三年でまた同じクラスになって、再認識した気持ちがやっと実体化した。
そのすべての始まりが、あの音楽室の春だった。
自分自身の気持ちさえずっと曖昧だったから、笹原の気持ちなんて考えたこともなかった。どんな気持ちでいたか、どんな気持ちで笑っていたか。本当は、今でもわからないままなんだ。
◇
笹原瑠奈 様
元気ですか? 返事ありがとう。年賀状以外で手紙が届くなんて初めてだったから、手紙も悪くないなぁと思いました。
初めてのテストがあったり、フットサルの大会に向けて練習があったりして、返事が遅くなってしまいました。ごめん。
毎日暑いけど、体調崩していませんか? フットサルは屋内でやることが多いからマシだけど、去年とかよくこんな暑い中でサッカーやれてたなと思うよ。
笹原がフットサル観に来れるようになるまで俺も練習頑張るよ。気長に待ってるから、笹原も無理だけはしないでください。
話は変わるけど、笹原、七月三十一日が誕生日だったよな。誕生日おめでとう。
音楽室で初めて話した日から、笹原の誕生日はずっと覚えていました。高校のとき一回も言えなかったけど、毎年、ちゃんと思ってたよ。本当は直接伝えたかったし、そうすれば良かったんだけど。
俺は笹原に『弥生』って名前を褒めてもらって初めて、嫌いだった自分の名前を、自分自身を、悪くないなって思えるようになりました。笹原がいなかったら、今の俺はいないと思う。だから笹原がいてくれてよかったです。
生まれてきてくれてありがとう。
まだまだ暑い日が続くと思うけど、お互い身体には気をつけましょう。
◇
散々悩んで買った空のような青色のレターセットに文字を綴った。時間のかかった最初の手紙と違い、一気に書き上げた。読み返すことはしなかった。できなかった。きっと、読み返したらこの手紙は投函できないとわかっていたから。ほとんどラブレターのようなこの手紙を、届けなきゃいけないとわかっていたから。
雑念がこれ以上入り込まないように、のり付けして封を閉じた。
家の外に出ると、持っている手紙さえ傷んでしまいそうな夏の日差しが突き刺さる。暑さのせいで赤みの増したポストを眺めながら、笹原の手紙は誰がポストに投函しているのだろう、とふと考えていた。
考えてもわからないことを考えない主義の俺は、すぐに疑問を振り払う。
その口に手紙を落としてから、ポストの赤を鳥居の朱に見立てて、お参りするように手を合わせる。自分以外のことを強く願ったのは、生まれて初めてだった。
◇
金森弥生 様
こんにちは。元気ですか? 手紙ありがとう。返事が遅くなってごめんなさい。実は、夏風邪で体調を崩してしまって。今はもう大丈夫です。すぐに返事をしたかったのに、もう秋になっちゃったんだね。
誕生日、覚えててくれてすごく嬉しかった。もうすぐ二十歳だなんて信じられないよね。成人式、みんなと一緒に出席できたらいいんだけどな……。
でも、金森くんが気長に待ってるって言ってくれたこと、こうして手紙をもらえること、生まれてきてくれてありがとうと言ってくれたこと、全部が私の支えになってます。
私も金森くんがいてくれてよかった。本当にありがとう。来年の誕生日こそは、直接おめでとうって言ってもらいたいから、金森くんに会えるように頑張るね。
また手紙待ってます。金森くんも、風邪には気をつけてください。
◇
真夏に送った手紙の返事が届いたのは、半袖の服をすっかり押し入れに追いやってしばらく経ってからだった。
素直に喜んでいい内容だったのに、不安のほうが不協和音のように鳴り続いていたのは、体調を崩した、という一文のせいだった。
笹原は無理をしているんじゃないだろうか。手紙を書くのもつらいほど、具合が悪いんじゃないだろうか。
知りようのない真実のかけらを探して、何度も手紙を読み返した。
わからないことを考えても仕方がないのに、だからこそ、自分がどうすれば良いのか、その答えも出なかった。
ただ、また手紙を書いてほしいという笹原の言葉を信じた。信じて言葉を紡ぐ。
彼女に対して「頑張れ」とも「頑張らなくていいよ」とも言えない自分にできることは、それだけだと信じていた。
◇
卒業して半年以上が経った。まだ半年。もう半年。どっちなのか決めかねていた。けれど、天井に思い浮かべる笹原の顔は、以前よりもぼんやりと霞んでいる気がする。罪悪感に駆られて、本棚から卒業アルバムの背を掴む。軽く積もった埃をなかったことにして、ゆっくりとめくっていく。一ページずつ、この半年の空白を埋めていくように。
アルバムの最後、白紙だったページには友人たちからの無数のメッセージが書き込まれている。『元気でね』とか『三年間ありがとう』とか、ふざけた落書きとか、楽しかった高校生活の縮図のようだった。
その中にある笹原からの言葉を、大切なものに触れるようにそっと指でなぞる。
『金森弥生くん もっと色々話したかったなぁ。弥生くんってすっごくいい名前だと思う。自信もってね。三年間ありがとう! 笹原瑠奈』
◇
高校生活最後の日、卒業式を終えて、教室での残りわずかな時間をみんなが名残惜しそうに過ごしていた。
泣いたり笑ったり、表情がそれぞれに違っても、それぞれの根底にあるのはきっと等しく寂しさだったと思う。
「金森くん。最後だから、私のアルバムにメッセージ書いて!」
それでも笹原がやけに明るく振る舞って、白い部分なんてほとんど残っていないページを開いて笑ったので、最後だから、という言葉に特別な悲壮感はなかった。
「これ、もう書けるとこねぇじゃん」
アルバムを受け取り、苦笑いしながら油性ペンの蓋を開ける。
「じゃあ裏表紙に書いてもいいよ。金森くんのアルバムに私も書いていい?」
うん、と了承するより前に書き込んでいた笹原の横顔を覗き見ると、教室の窓から吹いた風が彼女の髪を揺らした。
最後の日、最後の教室、最後の言葉。
あっという間に過ぎ去った三年間に、いまさらの「最後だから」がだんだん大きくなる。
「なぁ、笹原」
「ん? なに?」
「今度、手紙書いてもいい?」
笹原のペン先が止まったのがわかった。俺はそれに気づかないふりをして平然を装っていたけれど、沈黙の中で書く文字だけは馬鹿正直に震えていた。
アルバムを返すとき、笹原はほとんど泣きそうな笑顔で「ありがとう」と言った。書かれたメッセージの最後には、小さく住所が書き添えてあった。
◇
笹原からの手紙に返事をする前に、俺は考えていた。
自分がどうすればいいか。その答えは考えてもわからない。それなら、自分がどうしたいのか。
大学から帰る途中には並木道がある。木々は夕陽を閉じ込めたように彩られ、新緑の色も夏の暑さもとっくに忘れた秋の顔をしている。
俺はもみじの葉を一枚、拾い上げた。
笹原に会わなかったら、もみじを気にかけることもなかったかもしれない。
今、笹原はどんな景色を見ているんだろう。
そう思ったら、自分がどうしたいかの答えも自ずとはっきりしてきた。
急ぎ足で家に帰り、今の気持ちが枯れないうちに閉じ込めようと、俺はペンを執った。
◇
笹原瑠奈 様
それから体調はどうですか? だんだんと寒くなってきたので心配です。
このあいだ、きれいなもみじを拾いました。笹原にも見せたくて、フィルムを買って押し葉にしようと決めました。
なんで急にもみじ? って思うだろうけど。
前回、笹原の手紙をもらってから考えていました。思い出を懐かしんで卒業アルバムを見返したりもしたけど、なにか違う気がして。
俺は、笹原を忘れないようにするんじゃなくて、今の笹原と同じ景色が見たいです。
頭悪いから、今はこんなことしか思いつかないし、押し葉もうまくできてるかわからないけど。
来年でも、再来年でもいつでもいいから、俺は笹原と一緒に、同じ景色が見たい。
笹原の誕生日を祝える未来とか、一緒に季節を楽しむ未来を信じて、勝手に待ってる。
この手紙が笹原の負担になったらごめん。
冬が近づいてきたので、暖かくして過ごしてください。迷惑じゃなかったら、また手紙書きます。
◇
読み返した便箋を半分に折って、水分を抜いて押し葉にした深紅のもみじをあいだに挟む。
部屋着にダウンコートだけ羽織って手紙を出しに行く。日が落ちるのが早くなった夕闇に、行くあてもない白い息は頼りなく漂ったあと、すぐに消えた。
◇
年が明けたころ、手紙の返事は届いた。
『金森弥生 様』と書かれた手紙の続きを読むのが、俺は怖くなった。
いつもと同じ文字の羅列のはずなのに、まるで違う言語のような印象を受けたのは、笹原の文字が薄く、細く、弱くなっていたからだ。
別人のような筆圧の、だけど紛れもなく笹原の筆跡で感謝の言葉が並んでいた。もみじを大切にしている、とも書かれていた。そして、体調は大丈夫です、と少しも大丈夫に見えない文字で綴られていた。
すぐに返事を書こうとしたのに、握ったペンは一ミリも動かない。
目の前がぐらぐらとして、言葉を乗せるべきまっすぐな罫線が歪んで見える。気休めの言葉も、激励も、願いさえ、もう届かない場所に笹原が行ってしまったように思えた。
◇
厳しい寒さがいくらか和らいできて、長い春休みが終わるころ、俺は誕生日を迎えた。
気丈に振る舞う彼女に気丈な言葉で塗り固めた手紙を送ってからしばらく経ったけれど、まだ返事は来ていない。
やっぱり体調が良くないんだろうか。
桜が満開で綺麗ですね。今週末はお花見日和です。
アナウンサーがそう告げたところで、テレビを消して外へ出た。
その日、俺は大学二年生になり、新学期を迎えるはずだった。
久しぶりに大学へ行くために家から駅へ向かう。道路沿いに並んだ桜は白い花びらをたっぷりと咲かせていた。
強い風が吹くと、心なしかまだ寒い気がしてポケットに手を突っ込む。花冷えのせいだろうか。
俺は満開の桜を見上げても、春が来たような気持ちになれなかった。散っていく白い花びらは、まるで雪が降っているようにしか見えない。俺はまだ、自分が真っ暗な冬の中に閉じ込められている気がしていた。
服にまとった雪の花びらを払っていると、ポケットの中で携帯が鳴った。
表示された『吉田風花』の名前を見て、一瞬、電話に出るのをためらった。通話ボタンを押す指が、無意識に震えている。
「もしもし?」
吉田風花は笹原の一番の親友だった。
遠くから聞こえる息づかいで、吉田が泣いているのがすぐにわかった。俺はただ立ち尽くして、吉田になんて返事をしたのか、よく覚えていない。
ただ目の前で皮肉のように咲いている満開の桜だけが、いつまでも記憶に残っている。
◇
呼吸を確かめることもなく、鯨幕の前に立つこともなく、これが現実だと突きつけられても、受け入れるなんて到底できなかった。
大学へ行って家に戻れば、また手紙が届いているんじゃないかと郵便受けを覗いた。何度も、何度も。
からっぽの郵便受けを見るたびに心がすり減って、しんどさは時間が経つほどに深くなった。寝つけない孤独が、なにも変わらない朝が来るのが、怖かった。
突きつけられた現実が徐々に刃物のように鋭くなって、俺を追い詰めていく。
吉田から再び電話がかかってきたのは、なにもかもを放棄して、冬眠するように布団の殻にこもりながら時間をやり過ごしていた週末だった。
「金森、明日時間ある?」
「なんで?」
「瑠奈の家にお線香あげにいこう」
「行きたくない」
それだけ言って通話を終わらせようとしたのに、吉田の一言を聞いて、できなくなってしまった。
「瑠奈のお母さんが、金森に会いたいって」
◇
電車に乗り込むべき右足がすくんで動かない。
仕方なく、一本見送ってから次の各駅停車に乗り込んだ。
窓に映る黒いスーツを着た自分は、どこか違う世界線に迷い込んでしまったような顔をしている。
流れていく景色を見てごまかそうとしたけれど、座席に伝わる揺れがずっと落ち着かなかった。
「金森―久しぶりっ」
黒いワンピースを着た吉田は待ち合わせ場所で手を振っていた。遅れてごめん、と謝ると、吉田も「こっちこそ、急にごめん」とばつが悪そうに笑った。
俺は吉田のようにうまくできずに、ぎこちない表情のままでいた。
笹原の家の最寄り駅に俺は初めて降り立った。電車で小一時間のこの場所に、何日もかけて書いた手紙を送っていた自分が滑稽に思えた。
「ここだよ」と吉田が言ったのは、駅から歩いて五分ほどの閑静な通りだった。二階建ての白い家には『笹原』の表札。ここから彼女は高校に通っていたのだろうと想像すると、すぐにでも玄関から笹原が迎えてくれそうな気さえする。
文字では何度も見ていたこの住所に、こんな形で足を運ぶことになるなんて考えもしなかった。高校のときに何回か遊びに来たことがあるという吉田は、慣れた様子でインターホンを鳴らす。
「いらっしゃい。今日はどうもありがとう」
出迎えてくれた笹原の母親は、顔は似ていないのに柔らかい雰囲気や控えめな笑い方が似ていて、胸がきゅっと締まる。
リビングに通されると、奥の部屋の仏壇が嫌でも目に入った。桜の花が供えられている傍らに写真が飾られている。俺が知っている翳のある笑顔ではなく、春を喜ぶような、屈託のない笑顔の笹原だった。
二人で線香をあげて、手を合わせて目を閉じると、同じようにポストの前で手を合わせた日を思い出す。
あの日願ったことも、こうして偲ぶことも、今の俺には意味のないことにしか思えなかった。
立ち上がろうとしても吉田が動かないので横を見ると、彼女は手を合わせたまま唇を噛んで、涙を溜めた瞳で写真を見つめていた。
平気なはずないんだ。
笑ったふりができる吉田は強いわけじゃない。笑えない俺のほうが悲しんでいるわけでもない。表情が違っても、それぞれの根底にあるのは、きっと等しく同じものだ。
俺は吉田と笹原に気を遣って先にリビングに戻ったあとで、笹原の母親に頭を下げた。
すぐに帰ろうとしたけれど、「渡したいものがあるから」と引きとめられた俺と吉田は横並びに座り、テーブルに置かれたお茶に視線を落としながら、一言も話そうとはしなかった。
そのうち奥の部屋から戻ってきた笹原の母親は、紙袋を二つ手にしていた。
「家族葬だったから、ちゃんとお別れさせてあげられなかったのが申し訳ないんだけど」
そう言って大きい紙袋を俺に、小さい紙袋を吉田に手渡した。
「瑠奈に言われてたの。お葬式のときに金森くんの手紙は棺に入れて一緒に燃やしてほしいって。あの子、卒業したあとはずっと入院してたから、家に届いた金森くんの手紙を私が持っていくとすごく喜んでた。生きる希望に、なってたと思う。風花ちゃんも最後まで瑠奈のこと支えてくれて、ありがとうございました」
◇
帰り道の電車内で、吉田は紙袋をそっと覗いた。紙袋から取り出した小さな白い箱にはシルバーのブレスレットが入っていた。
「これ、瑠奈がよく着けてたやつ……」
言葉に詰まった吉田の手は震えていた。
中身を覗く勇気さえなかった俺は、膝の上に置いた紙袋をただ外側から眺めるだけだった。
「金森、手紙が入ってる」
突然、吉田が泣きそうな声で言った。
紙袋の中に入っていたらしい封筒には『吉田風花 様』と書かれている。
吉田の視線に促され、おそるおそる自分の紙袋を確認すると、中に入っていたのは滑らかな質感の木製の箱だった。
「この大きさ……瑠奈、金森からの手紙をここにしまってたのかもしれないね」
光沢のある蓋を持ち上げると、中には一通の手紙が忘れられたようにたたずんでいた。『金森弥生 様』と書かれたその字が、見知った笹原のものだとわかると、思わずすぐに蓋を閉めてしまった。
隣で吉田が独り言のように呟く。
「手紙、見たら絶対泣く」
「絶対今読むなよ」
「部屋でひとりのときに読むよ! 金森だってそうでしょう?」
なにも言わなかった。読める自信がない、なんて正直に言ったら殴られそうな気がした。
沈黙が通りすぎたあと、吉田が「なんで手紙だったの」と訊いた。
俺が声を出さずに顔だけ向けると、吉田は続ける。
「私も卒業してからは瑠奈に会えてなかったけど、スマホでも何でも連絡手段はあったでしょう。どうして手紙だったの?」
あの卒業式の日、どうして俺は手紙を書きたいなんて言ったんだろう。
少し考えて、答える。
「手紙を書きたいなんて、嘘だよ」
困惑している吉田から視線をはずして、俺は窓の外を流れる無機質な景色に笹原の顔を思い浮かべながら言った。
「手紙を書きたかったわけじゃない。最後じゃなくて、もう一回会いたかったんだ」
笹原の「最後だから」という言葉を否定したかった。最後にしたくなかった。ただ、それだけだった。
そっか、と消え入りそうな声のあと、そうだよね、と吉田は泣き出した。向かいの乗客がちらちらとこちらを見ていたが、少しも気にならなかった。俺も吉田につられて涙を流さないようにするだけで精一杯だったからだ。
「俺は笹原が良くなるって信じてたけど、信じるって何なんだろうな。自分の望む未来以外を見ないように、考えないように、排除するのが信じるってことだとしたら、そんなの笹原の負担でしかなかったんじゃないかって、ずっと後悔してるんだ」
窓から背中を照らす夕陽は、真っ暗な冬の中にいる俺に体温を取り戻させようとする。構わずに進む電車は、立ち止まって動けない俺を笹原と反対側の世界に運んでいく。認めたくないのに、抱えた紙袋の重さがそれを許してはくれない。
涙を拭った吉田は首を左右に振った。
「信じるって結局は自分のためなんだよ。きっと、ひとって自分のためにしか生きれない。だけど金森の『信じる』も、金森の手紙も、金森の存在も、きっと瑠奈の希望に――生きる希望になってた」
泣き終わってもまだ鼻の頭が赤みがかっている吉田と別れて、家までの道を歩いた。そのまま帰る気分になれなかったのは、ひとりで部屋にいたら、笹原からの手紙を読まなきゃいけないという圧迫感に押し潰されそうな気がしたからだ。
ふらふらと公園に入っていくと、散った桜が白いじゅうたんのように積もっていた。誘われるように近くのベンチに座る。
満開だった桜はいつの間にか散り始め、緑の葉が顔を出してきていた。笹原だけがいない春を置いて、季節は移り変わろうとしている。
笹原からの最後の手紙を手に取った俺は、懐かしい字で書かれた自分の名前をしばらく眺めていた。
どれくらい時間が経っただろう。
すると突然、強い風が吹いて、桜の花びらが封筒の上に滑り落ちてきた。その様子がまるで俺を急かしているように感じられて、思わず失笑してしまった。
結局はなにを信じても、なにを願っても、自分の意思ではどうにもならない。この手紙を読むタイミングさえ。
それなら、それでも俺は信じるだけだ。
この桜の木の下なら、きっと笹原が見守ってくれていると。
手で封を破り、いつもより乱雑に開けられた封筒から便箋を取り出す。浅いなりに呼吸を整えて、弱々しい筆跡をたどった。
◇
金森弥生 様
元気ですか? この手紙は最後になると思って書いています。いきなりでびっくりしてるよね。ごめんなさい。
これを読むころには、金森くんの誕生日は過ぎてしまっているかな。誕生日おめでとう。
私もずっと覚えてたのに、一回も言えなかったな。学校で一言「おめでとう」って伝えるくらいなんてことないのに、それができなかった。弥生くん、って呼んでみたかった。呼べばよかった。そんな簡単なことができる明日が、もう来ないのに。
私は手紙を書くとき、金森くんに嘘をついていました。現実の私はもっと弱くて、性格が悪くて、「どうして私だけが」っていつも見えない何かを妬んでいて、治療を頑張るなんて嘘でも言えなかった。だけど、金森くんとの手紙の中だけは、私は、自分のなりたい自分になれていた気がします。
本当は卒業式に出ることも反対されていました。でも卒業式に出なかったら、金森くんと手紙のやりとりをすることもなかったかもしれない。四季のない真っ白な病室で、もみじを見て秋を感じることもできなかったかもしれない。誕生日を一緒にお祝いする未来を夢見ることもできなかったかもしれない。
今の私がいるのは、金森くんが「信じて待ってる」と言ってくれたおかげです。だから、金森くんに生まれてきてくれてありがとうって言いたかった。
もちろん、もっと良い未来だったら、って考えないわけじゃない。だけど、私にとって『今』は不幸じゃなくて『奇跡』です。奇跡をくれてありがとう。離れてても見守っています。幸せになってね。
◇
読み終えたあと、空虚な世界だけが残った。それでも取り乱さなかったのは、笹原が最後まで「自分のなりたい自分」のまま、弱音なんて吐かずにいようとした決意と覚悟が手紙に込められていると思ったから。そして、終わりかけの桜が見守るように風に揺れていたから。
手紙をしまおうと木製の箱を手に持ったとき、裏側に突起の感触がした。下から覗くと、そこには巻きネジが見える。
木製の箱は、オルゴールボックスだった。
ネジを反時計回りにゆっくり巻いてみると、あの春へ戻っていく。初めて笹原と会った、あの音楽室の春に。
流れてきたのは、彼女が弾いていたあの日と同じ曲。けれどピアノの弾むような旋律ではなく、金属で鳴るオルゴールの音だ。
巻きネジの横には小さい文字でこう記されていた。
『ヴィヴァルディ/春』
ずっと知ろうともしなかった曲の名前を、今日初めて知った。そして、あの日からずっと、大切なことを伝えようともしてこなかった自分を知った。
「私、春が好きなんだ」
笹原がはにかんでいる気がした。
いてもたってもいられずに、手紙とオルゴールを紙袋へ戻して、駆けるように家へと戻った。郵便受けにも母親にも目をくれず、自分の部屋へと飛び込んだ。引き出しに眠っていたレターセットを引っ張り出して、転がっていたボールペンで何の文脈も考えず、文章にも文字にもなっていない思いを書きなぐる。便箋に、ちいさな水溜まりのような染みがひとつだけ影を落とした。
最後に、俺はこう綴った。
◇
俺も笹原に嘘をついていました。フットサル頑張ってるとか、毎日充実してるとか、本当は嘘だよ。笹原がいないと寂しいよ。今も、きっとこれからも。
こんなに簡単なことが、どうしてお互い言えなかったんだろうな。
俺は忘れません。弱い笹原のこと。強がってる嘘つきな笹原のこと。出会った春のこと。奇跡みたいな日々のこと。
少し先になるかもしれないけど、また会おうな。今はゆっくり休んでください。
出会ってくれて本当にありがとう。
◇
しっかりと封を閉じて『笹原瑠奈 様』と宛名を記した。
「母さん、庭で手紙燃やしてもいい?」
庭に出て、リビングに向かって聞こえるように声を張る。
「いいけど、シュレッダーじゃダメなの?」
「手紙を送りたいんだ」
いよいよ息子がおかしくなったかもしれないと心配そうにうかがっている母親を横目に、庭の一斗缶の中に雑草や落ち葉が溜まっているのを確認する。少しだけ、桜の花びらも混じっていた。
そこへ火をつけたマッチを投げ入れて、煌々と赤い炎が大きくなってきたところへ、手紙をそっと入れてやる。
この残酷な春を祝福することに決めた。
黒い文字たちは炎に溶けて、白い煙になってまっすぐに昇っていく。狼煙のような恋文が迷わず空に届くように、いつまでも、いつまでも見上げていた。