事故に対する適切な対策
アンダーウッドは機内サービスの中でも座席から伸びるイヤホンで有線放送を聞くのが一等好きなたちである。軌道エレベーターの客席にも同じものを見つけてうれしくなった。そんな放送が静かになる時間がある。曲の合間と、機内アナウンスの時間である。
「皆様、お待たせして申し訳ございません」
キャビンクルーは冷静で明瞭な声でこういった。
「現在、弊社のフライトAA123 は、ここアースポート駅で出発を見合わせております。これは、軌道を確保することが難しい状況のためです。」
「乗客の皆様の安全が最優先でございます」
「お客様には、ゲートエージェントからの指示に従っていただくようお願い申し上げます。お急ぎのお客様もどなた様もご着席のままお待ちください」
「スタッフが迅速に対応し、問題を解決いたします。」
「また、最新情報をご案内いたしますので、搭乗口近くのモニターやアナウンスをご確認ください。」
「ご不便をおかけし誠に申し訳ございません。皆様のご理解とご協力に感謝いたします。」
アナウンスの最後に合わせて近くのキャビンクルーが丁寧に腰を折った。
ことは1時間前にさかのぼる。離陸の直前、管制室はフロートの一つと通信がとれていないことに気が付いた。そもそも軌道エレベーターの構造は海に浮かんだ5つのフロート基地から月まで伸びるカーボンナノチューブをより集めて1本のチューブとしてつかんで月まで高速輸送する構造になっている。その1本が仮に暴走して移動し、寄り集まったチューブをほどくように位置していたとすると、エレベーターは宇宙に投げ出されてしまう。
そうでなくとも通信できていないことは大きな問題であった。
管制室はエンジニアチームに通信を試みると同時に、船で洋上フロートに直接出向くように指示し、機長には出発を遅らせるように指示した。
機長はこれを受けて乗客にアナウンスを出した。内容は先の通りである。
アンダーウッドは機内放送のチャンネルをいくつか回して切り替えた。フリック入力をしている。
〈軌道エレベーターの軌道確保が難しい状況というと何が考えられますか?〉
「お答えしましょう」滑らかな合成音声はこの世界のすべてを教えてくれる。この番組の女王であった。なお、もちろん男声Verもある。
「エレベーターの軌道確保が難しい状況は、技術的、物理的、および経済的な要因から発生する可能性があります。これから、軌道エレベーターの軌道確保が難しい状況として考えられるいくつかの要因を挙げてみましょう」
ムーディな音楽が流れ始めた。要はAIが即興で作成した曲なのだが、彼女が悠々とレコードを掛けているイメージ画像が公開されており、全体的に重厚感ある紺色の書斎で我々の疑問に答えてくれている。という情景を、彼は大切にしていた。
「材料の強度と耐久性に問題が生じたってことがありますね」
「軌道エレベーターは長い距離にわたる材料で構築されるでしょう?」
「材料の強度が不足すると、軌道エレベーターが適切に機能せず、安全性が損なわれる可能性がありますから、進行が難しくなるんじゃないかしら」
「宇宙のデブリとの衝突リスクも考えられます」
「軌道エレベーターが宇宙の中を伸びるため、宇宙のデブリ―廃棄物や衛星の破片などとの衝突リスクが増加します。これらの衝突は軌道エレベーターに損傷を与え、安全性を損なうので取り除く時間が必要になりそうです」
「もっとも単純なことに航行設備の準備に時間がかかっているという可能性もあります」
「たとえば機体整備や燃料充填、チューブの整備、到着予定時間の調整などが必要です。これらの調整は通常は無人で自動的に行われますが時間通りであることよりも安全性を記録できることを優先して作動することとされています」
「これらの要因は軌道確保が難しい状況の一例にすぎません」
「詳しい説明をいたしましょうか?」
〈順番におねがいします〉
「ふふふ、わかりました。お答えしましょう」
「エレベーターの機体は宇宙船と同じものです。軽くて丈夫。」
「チューブが特殊ですね。これだけの長さを結ぶひも状のものというのは長らく空想上のものにすぎませんでした。カーボンナノチューブが発明されて、さらに細くて軽くて長くできるように改良されて現在の形になりました。」
「宇宙デブリとの衝突は避けられない課題でした。進路が決定されているのですから、線路上に物が落ちているのと同じことです。撤去が必要ですね。チューブ上を専用の機械が移動して作業にあたるのです」
ウイーン、ガシャ。と機械音を鳴らして見せた。愉快な効果音である。宇宙でその音は聞こえないだろう。
「チューブについて詳しいお話をいたしましょう。もし宇宙空間でチューブが切れたらどうなってしまうことでしょう」
〈大変なことですね〉
「ご安心ください、5本のチューブが寄り集まっているのですからそういったことは起こりません」
「各チューブは太平洋上に浮かぶフロートから伸びています」
プカプカと。
「なぜ地上に固定化されていないのでしょうか、それはもう片方の端に秘密があります」
「反対側の端には私たちの目的地である月につながっています。月と地球の位置と距離を適切に維持するために固定することはできません」
「もともとの計画・端はチューブ自身の重さと遠心力によって維持する計画になっていました。この計画は、理論的には魅力的で、地球単独で解決するものですから、月・太陽の位置や距離の変動に適応する能力を持っていました。しかし、その実現には高額なコストがかかるという課題が付いて回りました。」
「そんなものですから、理論上可能であっても大変長らく実現に至りませんでした。ある問題が発覚するまでは」
〈月の後退ですね〉
「その通りです。ご説明を省きましょう」
「人類は、ある選択に直面しました。見慣れた月を永遠に見失うか、月の位置の変動を支配するのか。その後者を選択した結果こそ、この軌道エレベーターなのです」
「二つの惑星の位置を支配するためには、慎重な計算を必要とすることになります。まず洋上フロートの導入が検討されました。計画の信頼性を高め、地球と月の位置や距離の変動によるリスクを軽減するための戦略として。このフロートの存在により、計画の成功確率が大幅に向上し、あわせて宇宙探査計画の実現が可能となることが期待されました」
〈月を計画に組み込んだことで最初の宇宙産業が大口の投資に踏み出したことはうれしい誤算でした〉
「そうでしたね、そんなこともありました」
機械エンジニアが、1番フロートに到達した。移動予定地点に正しく収まっており、到達時間にも異常はなかった。ただし通信設備に異常がみられる。点検が必要なことを確認した。
機長は再度、機内放送を考えた。
「確認が取れました。誠に勝手ながら本日の運行は取り止めとさせていただきます。お急ぎの皆様にご迷惑をおかけして申し訳ございません」
一人の客は、大変不服そうに騒ぎ出した。本日中に飛び立たなければならず、降りることはできないらしい。
その後ろから女性がスタスタと歩み寄る。喉元を軽くたたいて喉を調整してこういった。
「お客様、申し訳ございません。では、飛びます」
「!? い、いや、いい。いい。すまなかった」男は冷静になって、自身の不見識を恥じることができた。
女性は、にっこりと、笑った。