プロジェクトのリスク評価:財務的なリスク
銀行破綻の新聞記事(2023年)を参考にしました。
会計士の森本武久は眉間に親指を添えた。自分が会計監査人をしている会社の会計監査報告書を書いている。
資産価値の測定には時価評価と簿価評価がある。特定の時点における市場価格で実際の価格を常に認識する時価評価。資産購入時点の価格で認識する簿価評価。金融市場では市場価値があるならつねに時価評価しておくのが通例だ。
会計監査人も自社の債権の価値を市場価値で算定しなおす。当社は不動産の売買と利殖を目的とする公開会社である。不動産は購入時の価格で記載する。購入時よりも実質的に価値が高まっているものも多い。評価しなおせば業績が一時的に向上したかのように見えるかもしれない。
「実際、現在価値にしちゃだめなんですか?」
矢作先輩に聞いたことがある。
「価値が上がると、どうなる?」矢作は説明の仕方に迷うそぶりをした。
「どうって、いいますか。本当はどうもなってませんから」
「そうだな。わかってる人には何も変わらない。数字だけ見る人が買うかもしれない」
「数が少ないですか」
「人数という意味では多いぞ、金額が少ない。たくさん投資する時は気を付けるだろう」
「なるほど」
「それより、人数の問題があるからな。もっといい使い道があるんだ」
使い道というよりは、つかいどきか。矢作は言い直した。
「何かあったときに損失が出ていないように書面を整えられるだろ」
「でも、本当は損失がありますから」
「だが、多くの人は気にしないんだな。大人数が投資分を回収しようとすると売りが多くなるな。すると、価値が落ちて、もっと落ちる前に売りたくなる。悪循環だ。大人数が気にしないようにしてあげればいいんだ」
市場価値は自ら買い物にでて確認するのではない。売ってみて値段がついてから買い戻すわけにいかない。
調査会社が同種の商品の取引価格や割引率を使用して評価する。基本的には満期日に手に入る金額よりも安くなる。その日まで他のことに現金を使えないから。あと倒産しちゃって返ってこないことがあるからそういうリスクも計算する。
おかね、たりないかも
月の土地を扱う不動産業者の会計帳簿を計算しながら、彼はそう気が付いた。
短期資金を長期資金に投資して解約リスクに備えていなかった。投資という形で資金を集めていなかったので、解約を想定することがなかった。一口が28ドル程度であるため解約による影響は小さいものと考えられていた。報告書を読み進める手が止まりがちになる。
都度最初からめくりなおす。数字の足し引きを確認する。
赤字ではない。ひとまず胸をなでおろす。ただ、投下しないでよけて置いた分を超えたのだ。解約に備えて返金用資金に充てる予定だった分を。想定を超えた人数が返金を求めている。
「想定が甘かったんだ」
突拍子もない計画にかかわること自体を敬遠する層は多かった。成功するにせよ失敗にせよ、何かにかかわることは結果を生じてしまう。
返金用の資金をねん出しなければならない。もし返金できないなら今は懸念していない人まで引き上げる、騒ぎになりかねない。
しかし、長期資金への投資は、短期で回収できないから長期というのだ。けして価値が下がっていないのに評価額では15%の評価損を計上している。損失が大きいように見える。
では隠滅を? 会計監査人森本の脳裏に会社法429条2項がよぎった。教室でしか使ったことのない知識が突然思い起こされた。
429条2項の責任。
会計監査報告に記載し、または記載すべき重要な事項について虚偽の記載または記録をして損害が出たときはそれを賠償する責任を負う。
過料もある。976条1項7号会計監査報告に記載すべき事項を記載せず、虚偽の記載をしたときには100万円以下の過料だ。前科ではないが、無用のリスクに思われる。
では、正直に公表するか。支出できる資金があるのに。事業の失敗を自分の報告書一枚が決めることには抵抗があった。だが、すくなくとも内部的にはすべてを共有する必要がある。
彼は課長に相談するために席を立った。しかし、椅子をなかなかしまわない。腰を痛めそうな姿勢のまま報告書から目を離せないでいた。
なんとかする方法も同時に上げなければ。そう思っていた。
担当する会社がまずい経営をしても彼自身の懐は痛まない。何度もあれば縁起が悪いが、その程度だ。同期の間で『ついてる』などと噂され、小突きあって、そのうち飽きておしまい。
用事があって立ち上がってから机の上の作業が止められないのは彼のいつもの癖だった。上司に相談することもあればトイレに行くだけのこともある。隣席から矢作は一瞬横目を上に向けてそれきりであった。
一方調査書を読み直している彼は報告書の内容を考えていた。よくよく考えた。
不動産の評価と合わせて資産部分に記載することである。あまり資産の部に時間をかけられない。破綻はまぬがれられないのか。
不動産の評価を変えても駄目である。合算したら損がないからといって損失が見過ごされるものではない。
では、債権のほうの評価を変えるのはどうだ?
天啓である。取得したときの評価であれば、評価損を計上する必要がない。今でも取得した時と同じ資産を有していることになる。そしてそれは決して虚偽ではない。
昨年3月にシリコンバレー銀行が破綻した。銀行は健全な債権を時価評価して実際に有しているよりも資産が少ないと誤解されたのではなかったか。それなら、健全な長期債券は簿価評価が妥当だ。と、言っても嘘ではない!
代表は会計状況をよく把握していた。事業としての撤退も視野に入れるほどのことだ。彼の会計監査報告書は決して虚偽を含まず、粛々と承認された。
同社は今日も安泰である。
以上