概念実証と試験モデルの開発
「昨日ね、あのね。おれね。エレベーターに乗ったの」
両角あかりの職業は保育士である。現在は浩太くんの工作の解説に付き合わされている。彼は四角い菓子箱をビニルの紐でつるして上下に運動させた。
「昨日ね、お母さんのかいもんについてってあげたの。そしたらこういうハコに乗ってね。うんと高いところまで一瞬でついたんだよ。ぐんぐん高くなってね」手を上にいっぱいに伸ばして折り紙の箱を持ち上げた。「お母さんはね、下みたら怖いよっていうんだけどね、おれ全然怖くなかった!」
両角はその説明でビルの名前に思い至った。建物自体が高く、下が見えるようなガラス張りといえば、駅前の百貨店のエレベーターのことだとわかる。
「これがもっと高いところにあったらさ、お日様を取り換えるのがらくになるなっておもったの」
浩太くんは傍らに置いていた百科事典を指さした。年長さんの彼は漢字交じりの説明文を読み飛ばして綺麗な絵に見惚れていた。オレンジ色の太陽の写真がページいっぱいに映し出され、それを取り巻く惑星と、惑星に付属した衛星が細かく描かれていた。本当の縮尺ではないが、それを模している。
「知ってる? 昼間は明るいけど、夜は暗いけど、それはね、誰かがお日様とお月様を取り換えてるんだよ。お母さんが言ってた」浩太くんの両手が太陽を覆い隠した。「ほら、これで夜になったの」
電話。着信音が部屋に響いた。あかりは黙って電話相手の指示に従って、浩太くんの方にマイクを向ける。なにかしゃべるように促すまでもなかった。
「あ!お父さんの声だ!!」
「ええ、こうして元気に遊んでいます。昨日は駅前の百貨店に行ったんですって? 楽しく教えてくれましたよ」良いところに買い物に行っていやがる、何を買ったんだ、という悪態は飲み込んだ。それはあかりの仕事ではない。
「百貨店がいいですね。人が多くて、たくさん荷物を持っている人が多いですから」
「お母さんもいっぱい荷物持ってたよ。おれね、持ってあげようかって言ったの」
「はい、すみません。おとなしくさせます」受話器を左手に持ち替え、自由にした右手を握りこむ。しかし、これで静かになるのだろうか。
あかりは、人差し指を唇にあてて浩太くんの目を見つめた。
彼女は慣れ親しんだ方法が良い結果を出したことに安堵した。つまり、浩太くんは静かにしてくれた。
「ええ、なにも問題はありません。手筈通りにいたします」そういって電話を切った。
浩太くんの興味は新しい工作に移っていた。お菓子を取り出し中身には目もくれず、箱を確保した。上下に紐が通るように穴をあけて、もう一台のエレベーターを作るつもりである。確かに百貨店は2台エレベーターを擁しているので、その再現をするつもりだろうか。
「浩太くん」ふと気になったことがある。「このお菓子好きじゃなかったの?」
ぴたりと彼の動きが止まった。「別に」憮然とした顔をしているようだ。何か怒っている。「ふつうだし」彼は取り出したお菓子に手を伸ばして、所在なく何度も位置や向きを変えている。袋をもって立ち上がったかと思えば、一つ目の箱から出したお菓子のとなりに置いた。ちなみに一つ目は甘いチョコレート菓子で二つ目はしょっぱいスナック系のであるが、位置と向きを直す対象が2つに増えた。
実は単純にお菓子の時間を守る子供だったということである。お菓子が欲しいと頼む必要がないため、それ以外の時間にねだるということがない。欲しがってはいけないとさえ思っていた。
さりとて、ねだらないことが純粋さとか純真さを示しているという結論は性急である。二つ目を開封するのは、彼にとって大きな賭けだった。目もくれないのは、無関心を装っていた。「開けちゃったし、二つとも食べていいよ」となるか。
「二つも開けちゃだめだよ、一つも食べちゃダメ」となるか。
かわいい賭け事が、見抜かれてしまったのではないかという恥ずかしさから、彼は不機嫌になってごまかそうとしていたと、こういうわけなのである。
「嫌いじゃなくてよかった。3時になりそうだしお菓子食べよっか」
作りかけのエレベーターが百科事典の太陽系ページ上に置き去りになった。
「じゃあね、お父さんのお友達がお迎えに来てくれるから、ここでいい子にして待っててね」両角あかりは浩太くんを置いて倉庫街を後にした。
身代金のうち彼女の分け前が詰まったカバンを握りしめながら。