八の段 危機一髪!
義苗さまたちが川越し人足に肩車してもらって川越えをした半刻(約1時間)後、大井川に一人の男がやって来ました。
その男とは、松平定信さまの隠密・疾風の一郎でござる。
義苗さまたちよりも2日遅れて出発したのに、もうここまで来ましたか。さすがは名前に「疾風」とつくせっかちさん!
「おい、川越し人足。オレを向こう岸までかついでいってくれ」
「悪いんだけど、ついさっき、お役人さまから川止めの命令が出たから無理っす」
「何だと⁉ いつ川止めの命令が出たんだ!」
「だから、ついさっきですよ。四半刻(30分)前ぐらい」
「が、がびーん!」
ありゃりゃ、運が悪かったですな。川止めになったら、いつ解除されるかわかりませんぞ? 義苗さまたちは、ぎりぎりで川越えができたようです。
「そ、そんな……。オレは疾風のごとく走り、疾風のごとく仕事をこなして、ずっと体を動かしているのが生きがいなのに……。こんなところで足止めをくらって、数日間ボーっとしていたら死んでしまう……」
泳ぎ続けないと死んじゃうマグロじゃないんですから……。
何はともあれ、しばらくは疾風の一郎は菰野にやって来られないようです。
では、視点を義苗さまご一行に戻しましょう!
義苗さまたちはその後もいくつかの川を川越えしましたが、それらの川では運よく増水しておらず、問題なく渡ることができました。
旅の7日目には、遠江の国に置かれている新居の関所を偽造通行手形で無事にクリア。8日目には三河の国(今の愛知県の東部)を通過しました。
そして、とうとう9日目。
尾張の国(今の愛知県の西部)の港町・宮で船に乗り、二刻(4時間)ほど伊勢湾の海をどんぶらこ~どんぶらこ~と揺られて、伊勢の国・桑名に到着したのでござる。
「や、やった……。ついに伊勢の国に入ったぞ。あともう少しで菰野……おえっぷ」
義苗さまは船酔いでかなり弱っているご様子。まあ、旅の間ずっと弱ってばかりいましたが……。
「こんなところでへばっていないで、歩きましょう。がんばったら今日中には菰野藩の領内に着きますから」
「お、おええ……」
「やれやれ、困りましたねぇ~。……おや、ミヤどのも船酔いですか?」
義苗さまだけでなくミヤまでへたりこんでいるのを見て、南川先生はおどろきました。
旅の間に一度も疲れたそぶりを見せたことがなかった元気いっぱいのミヤも、船は苦手だったのでしょうか?
「いえ……ちがいますです。私は……ただ……お、お腹が空いて動けないだけで……」
そういえば、ミヤは半日食事をぬいただけで死にそうになるという弱点がありましたね……。
実は、義苗さまたちは残りのお金が少なくなってきていたのです。
持っていた食料も底をついてしまい、昨日から満足な食事にありつけていなかった、というありさま。
すぐに腹ペコになってしまうミヤには辛いでしょうなぁ~。
「お、お金の管理をしていた私のせいではありませんよ? 菰野藩のお給料が少ないから、3人分の旅費が途中で足りなくなってしまったわけで……」
南川先生、拙者のほうを見ながら言いわけしなくていいですから。拙者はただの物語の語り手なので、気にしないでくだされ。
「南川先生。ミヤをおんぶしてやってくれ。急いで菰野の城に入って、ご飯を食べさせてやろう」
「え? 菰野の『城』?」
「ん? どうかしたか?」
「いいえ、別に……。それより、彦吉さんは大丈夫なのですか?」
「女の子が弱っているのに、オレをおんぶしろなんて言えるかよ。……おえっぷ」
「おお、彦吉さんが珍しくかっこいいセリフを……! 最後の『おえっぷ』さえなかったら花まるでしたね!」
「う、うっさいわ! さっさと船着き場から離れよう。海にぷかぷか浮いている船を見ていたら、また気分が悪くなってきた。……おええ」
というわけで、義苗さまご一行は菰野めざして歩き始めました。
義苗さま、がんばってくだされ! 長かった旅もあとちょっとで終わりですぞ!
……な~んて言っている時にかぎって、思わぬピンチが待っているんですけどね。
「彦吉さん、南川先生。気をつけてくださいです。誰かがあそこの木のかげに隠れて、私たちを狙っていますです」
菰野に一番近い東海道の宿場・四日市がもう目の前というところで、南川先生におんぶしてもらっているミヤが小声でそう言いました。
義苗さまは「え⁉」とおどろき、前方の大きな木を見ました。すると、
「ククク。完璧に気配を消していたオレさまに気づくとは、なかなかやるな」
編み笠をかぶった一人の男が、不気味に笑いながら姿を現したのです。
うげげ⁉ こ、こいつは何者でござるか⁉ 定信さまの隠密・疾風の一郎は、大井川が川止めになったせいでまだ伊勢の国にはいないはずですよ⁉
しかも、めっちゃ強敵っぽいオーラをひしひしと感じます……!
「あなた、さっきプーっておならをしましたよね? 地獄耳の私にはハッキリと聞こえたです」
「くっ……。し、しまった。なるべく音はおさえたつもりだったが、聞こえてしまったか」
強敵……なのかはわかりませんが、とにかく怪しいヤツでござる!
「おまえは何者だ! なぜ、木のかげに隠れてオレたちを見ていた!」
「フフフ。なかなか威勢がいいな、菰野藩の若殿さまは」
「な、何を言っている。オレは殿さまなんかじゃ……」
「しらを切ってもムダだ。オレさまの名は、邪眼の二郎。闇の力を封印せしわが左目は、敵のどんな秘密も見破ることができる。おまえが菰野藩主・土方義苗であることはバレバレだ!」
なぞの男・邪眼の二郎はそう言うと編み笠をぬぎすて、義苗さまたちにその素顔をさらしました。
「邪眼とか闇の力とかよくわからないが、おまえの左目、眼帯じゃん。その左目で何を見破るって言うんだよ」
「オレさまは左目が見えないのではない。左目に宿る闇の力を眼帯で封印しているだけだ」
「ごめん。言っている意味がわからない」
こ……この男、まさか……中二病⁉
こんな時代にも、頭の中の妄想をベラベラとしゃべり、ちょっと痛いキャラづくりをしちゃう、思春期の中学2年生頃にかかりやすい中二病を患っている人間がいたのでござるか⁉
しかも、思春期の少年少女ならまだいいけど、こんなおっさんが……!
「う、うるさい! 黙っていないと、たたき斬るぞ!」
あっ、はい。すみません……。拙者は余計なことは言わないので、物語を進めてください。
「オレさまは、主人の命令で、菰野でおこなわれる大相撲をめちゃくちゃにし、菰野藩の弱みを探るために伊勢の国にやって来たのさ。そして、三河の国から伊勢の国へと行く船の上で、たまたまおまえたちを見つけた。
オレさまは、主人が憎んでいる菰野藩の江戸屋敷に忍びこみ、隠居の土方雄年を何年も監視してきていた。だから、若殿さまのおまえの顔もよく知っているのだ」
「菰野藩を憎んでいるおまえの主人って、何者だよ。菰野藩みたいな小大名を目の敵にするヤツなんているのか?」
「オレさまの主人が誰なのか知りたかったら、オレさまと一緒に江戸まで来てもらおう。そして、幕府に許しもなく江戸をぬけだした罰を受けるのだ」
この邪眼の二郎も、どうやら江戸幕府の関係者のようですな……。
大変です、義苗さまが勝手に江戸をぬけだしたことが幕府の関係者にバレてしまいましたぞ!
「つ、連れ戻されてたまるか! オレは、自分の領地がどんなところなのか知りたいんだ!」
義苗さまはそう叫ぶと、腰にさしていた脇差をぬきました。父上の俊直さまに形見の品としてもらった刀です。
義苗さま、こういう絶体絶命のピンチの時になると勇気がわくタイプのようですな。火事場の馬鹿力みたいなものでしょうか?
「殿さま。その勇気は花まるですが、ここは逃げましょう。私は剣術の心得がないから戦いでは役に立ちませんし、頼りのミヤどのは腹ペコで動けません。殿さま一人であの男と戦うのは危険です。ヤツは自分の任務の内容を敵にベラベラとしゃべるようなお馬鹿さんですが、腕っぷしは強そうです」
「私が戦えないばかりに、ごめんなさいです……。本当だったら、あんなお馬鹿な忍び、優秀で可愛いくノ一である私があっという間にやっつけてやるのですが……」
「心配するな、二人とも! かまってくれる人間が屋敷に一人もいなくて暇だったオレは、小さい頃から木刀の素振りを毎日やっていたんだ! たぶん、きっと、おそらく、それなりに強いはず! あんなお馬鹿な敵になんか負けない……かも知れない!」
「お馬鹿さん、お馬鹿さん、うるさいぞ貴様ら! おのれ……。捕まえる前に痛い目にあわせてやる!」
激怒した邪眼の二郎は太刀をぬき、義苗さまに刃の切っ先を向けました。
「オレは強い! たぶん、きっと、おそらく! オレは負けない! たぶん、きっと、おそらく!」
義苗さまは、初めての真剣勝負で頭に血がのぼっているのか、そんな雄叫び声をあげながら、邪眼の二郎めがけて突っこんでいきます。脇差をめちゃくちゃに振り回していますが、大丈夫でしょうか……。
(ま、まずいですね。普段はへたれなくせに、こんな時だけ血気盛んになるなんて……。
菰野藩の殿さまは、戦国時代の覇王・織田信長の血を受け継いでいるから、こういう危機一髪の時に不思議な勇気がわいてしまうのかも……)
南川先生が心の中でブツブツとつぶやき、決闘を始めてしまった義苗さまを心配しました。
実はそうなんですよ。菰野藩の初代藩主・土方雄氏さまの奥さんはあの信長公の孫娘で……。
って、ああー! そんな歴史豆知識を語っている場合じゃない!
「くらえ! オレさまの究極奥義…………目つぶし‼」
「うぎゃー⁉ め、目が見えない‼」
邪眼の二郎が、地面の砂をひろって投げつけ、顔面に当たった義苗さまは一時的に目が見えなくなりました!
うっわ! こいつ、めちゃくちゃ卑怯でござる!
「菰野の若殿よ、これで終わりだぁ!」
終わっているのはおまえのほうでござる! そんなしょうもない反則技で主人公を倒そうとするのはやめなされ!
「待て‼ 待て待てまてーーーい‼」
「おいらたちの殿さまをいじめるな、でござる!」
義苗さま危うし! というタイミングで、なんという奇跡でしょう。ここで予想外の助っ人が登場しました。
「むむっ⁉ なにやつ!」
背後から聞こえてきた二人の男の怒鳴り声におどろき、邪眼の二郎は後ろを振り向きました。ただし、うっかり首を左に曲げて後ろを向いたため、何も見えませんでした。左目に眼帯をしていたことを忘れるなんて、本当にお馬鹿さんでござる。
「な、なぜだ⁉ なぜ何も見えない! ぐべぇ!」
駆けつけた助っ人の一人――お相撲さんの伊勢ケ浜萩右衛門が、邪眼の二郎に強烈な張り手をくらわせ、邪眼の二郎は吹っ飛びました。
「菰野藩士・宇佐美彦左衛門、見参‼ 我らの殿さまに無礼を働くヤツはゆるさーん‼」
もう一人の助っ人――義苗さまより2、3歳年上に見える少年の侍が、大地が震えるほどの大声をあげ、太刀を高々と振り上げました。
ようやく右目で敵の姿を確認した邪眼の二郎は、「う、うわわ!」と慌てながら、振り下ろされた刀をかわします。
「貴様ら! 不意打ちとは卑怯だぞ!」
いやぁ~……。さっき目つぶしなんて反則技をしたあなたに言われてもねぇ……。
「何だ? いったい何が起きているんだ?」
まだ目が見えない義苗さまは、何が起きているのかさっぱりワケワカメなご様子。
「くそっ! ここはいったん退却だ!」
あらら、意外と根性がないヤツですな。邪眼の二郎は、あっさりと逃げていってしまいました。
「殿さま。もう安心してください、でござる。曲者は逃げました、でござる」
「……その声は、もしかして萩右衛門か? どうしてここにいる?」
「馬公子さまのご命令で、殿さまたちをお迎えに来ました、でござる」
「馬公子……? 馬公子って、誰のことだ?」
馬公子さまとは、いったい何者なのか。
その答えは、次のエピソードで!