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前編



はるさん、おめでとうです――。


 講義中じゃないのかよ。思わず苦笑いする僕に、飛鳥あすかはスマホの向こうで何度もおめでとうと繰り返した。大学受験の合格発表の時間だと知っていて、講義中にも関わらずメールチェックをしていたらしい。だけど、まさか教室を抜け出してまで電話をかけてくれるとは思わなかった。

 数日後、ポストには三千円分の図書カードが入っていた。「律儀な子ねえ」と僕の母親は感心していたけど、僕は図書カードよりも、飛鳥の通う大学に近い学校に四月から通えることが嬉しかった。示し合わせたわけではないけど、お互いに丁度よい偏差値の大学がほど近い距離にあったのだ。ちなみに、飛鳥の通う学部は僕のよりも十は偏差値が高い。

「俺の指導のおかげですね」

 入学式の前日、僕の引っ越しの片付けを手伝ってくれていた飛鳥は、近くのカフェで満足そうな顔で言った。一つ年上で、賢くて、僕より五センチ背の高い、新居屋(にいや)飛鳥。春の似合う爽やかな雰囲気の彼は、すっかり大学生が板についていた。

「まあ、最後は僕の努力だけどね」

 僕は皿のサンドイッチをつまむ。店頭の看板にも写真が掲示されていた、生ハムとキュウリのサンドイッチ。

「よく言うね、陽斗はると」シーフードドリアに手をつけながら、隣の席で椿つばきがにやにやしながら言った。「飛鳥がいなかったら、足切りだったかもしれないのに」

「うるさい」

 僕らのやり取りを見ながら、向かいでクリームパスタをつつく飛鳥が笑う。「椿も、こっちで一人暮らししてるんだよね」

「うん。今度遊びに来てよ」

 曰く、命にも等しく大切なストレートの髪を左肩にかけて、椿はスプーンを口に運んだ。

 僕ら三人は中学高校と同じ学校に通っていた仲良しだ。更に椿は僕と同じ大学に進学する予定だし、付き合いは更に長くなるだろう。

 店を出て椿と別れてから、飛鳥と僕の部屋に戻った。高校卒業までの十八年間、ずっと実家で過ごしていた僕にとって、一人暮らしのワンルームは、可視化された期待や希望に思えた。誰にも気を遣わず、好きな時間に食事を摂って、風呂に入って、寝ることができる。歩いて十五分のアパートに椿が、電車で一駅のところに飛鳥が住んでいるのを思うと、大した寂しさも感じない。

 少し休憩した後、だらだらと荷解きをして、夕方には近くのコンビニへ連れ立って弁当を買い、部屋で食べた。順番にシャワーで汗を流して、テレビを見ながら馬鹿話をした。

「カーテンも買わないといけないですね」

 飛鳥が掃き出し窓を振り返って、満月を見て眩しそうに目を細める。「朝、眩しいすよ」少し伸びた前髪が月光に艶を帯びて、もともと顔立ちの整った飛鳥の姿は、どこかの俳優と間違われてもおかしくない。

 だけど、彼には俳優にないものが一つあった。

 首に、桜の花びらが貼りついているのだ。

 親指程の大きさをした、花びらの形の赤黒い傷は、火傷の痕だった。


 新居屋飛鳥は僕の幼馴染で、とても悪い言い方をすれば、いわゆる居候だ。

 十四年前に僕の親父が、「幼馴染を我が家に住まわせてあげたい」と母に言ったらしい。母の元同級生とはいえ女性の幼馴染を家族三人の家庭に招き入れるだなんて、どうかしている。

 だけど、僕の母親もどうかしていて、学生時代の友人だからと、子持ちの彼女を家に招き入れた。DV旦那から逃げてきた母子は、土地の余った田舎にある、少し広い我が家で暮らし始めた。

 そんなのも、せいぜい数か月のことだと思うだろう。なんと、彼女と旦那との離婚が成立した後も、いくところがなければと両親は引き止めたんだ。僕も一つ年上の飛鳥に立派に懐いていて、いかないでとギャン泣きした、というのを母親から後々聞いて知った。それから何だかんだで、広瀬ひろせ家と新居屋家は同じ屋根の下で生活し、僕と飛鳥は兄弟のように育ったのだ。

 控えめで聡明で顔立ちが綺麗で、名前までかっこいい飛鳥は、親の言うこともよく聞いた。陽斗くんにも礼儀正しく接しなさい。実母の言いつけを守り、彼は年下の僕にも敬語を使った。よそよそしくて嫌だと言ってもこれだけは聞いてくれなくて、最初はむくれていた僕も、次第に慣れてくると特に何も思わなくなった。


「なにぼけっとしてるんですか」

 飛鳥の声にハッとした僕は、「別に」と慌てて返事をした。首の花びらに気を取られてて、なんて言わなかったけど、彼は察していただろう。「疲れてんなら、さっさと寝てください。明日入学式でしょ」そう言って笑うのに、僕は頷いて、そばの段ボール箱から新品の歯ブラシを探し当てた。


 大学生活は楽しく過ぎて、学校が違っても僕と飛鳥、椿に、仲良くなった同級生の夏帆かほという女子の四人でよく一緒に遊んだ。三回生になった夏休み、そろって単発のバイトで稼いだお金で、遠くの海辺まで旅行をした。二泊三日のひと時は本当に楽しくて、陽が暮れて男女別の和室で布団を並べた飛鳥とも、深夜までたわいの無い話をした。

 僕にとって飛鳥は、兄貴であり親友でもある家族だった。だから何でも話すことができたし、彼のことも理解できているつもりでいた。崩れた敬語を使いつつ、彼が僕に一番心を許している自負もあった。それでも、いや、だからこそ、僕は彼が自身の立場をより下に置いていることも知っていた。

 自分が飛鳥より優れているだなんて微塵も思わない。ただ、彼は常に僕に譲って、気を遣うのが当然だと信じ込んでいたんだ。

「僕、告ろうと思う」

 豆電球の橙の光の中、黒い花びらが視界の隅で微かに動いた。横を向くと、飛鳥も同時に僕の方を向いた。

「椿に?」

「わかってんのかよ」

「わかってるっすよ」

 彼が白い歯を見せて笑う。

「ずっと一緒にいたんだから、それぐらい」

 だから僕も知っていた、飛鳥も椿が好きだってことを。

 そして僕は信じていた、飛鳥は僕に譲ってくれるってことを。

「応援してますよ」

 この時の彼の静かな声は、鮮烈に僕の鼓膜に染み込んでいる。剥がれない花びらのように貼りついて、僕の罪悪感と羞恥心を猛烈に刺激する。自分が礼を口にしたことを思い返すたび、その幼稚さに鋭い痛みさえ覚える。


 夏休みが明けてしばらくして、僕は椿を空き教室に呼び出した。彼女と仲良しの夏帆が別の講義に出ている時間を狙って、近くに誰もいないことを確かめた。

「夏帆、授業終わったら来るって。そしたらお昼食べよ」

 特に疑問を持たず、長机の一つにつく椿の前の席に腰を下ろした。十年近い付き合いのあることが、尋常ではない勇気をいっそう必要とさせていて、僕はめまいを覚える。それでも必死に平静を装って、なんとか会話を続けた。早くしないと夏帆が来てしまう、だけど最後のひと足が踏み出せない。

「クリスマスさ、また去年みたいにみんなで過ごそうよ」

「あー、クリスマスね」できれば二人で過ごしたい、そんな台詞が喉元で燻る。

「来年なったらさ、飛鳥も社会人じゃん。そしたら予定が合うかもわかんないし」

「そうだなあ。飛鳥が社会人か……」

「言うて私らももうすぐ就活だよ。あーあ、やになっちゃう」

 落ち込む現実を突きつける椿を僕はじっと見つめる。さらさらの髪、ぱっちりした瞳、ほんのり赤い頬。やっぱり好きだと確信し、腹の中で勇気をぐるぐるとかき混ぜる。

「でもさ、よく内定取れたよね、飛鳥」

 勇気のスープを作っていたせいか、僕は椿の台詞の意味がすぐに理解できなかった。成績優秀で人当たりの良い彼に企業から内定が出ることは、何一つ不思議じゃない。

 何が、と阿呆な顔をした僕に、椿はとんとんと自分の首元を指先で軽く叩いた。

「あの傷、ちょっと目立つところにあるじゃん。面接とか上手くいくんだーって思って」

 彼女が触れる首の位置、飛鳥のそこにあるのは親指大の火傷の痕だ。桜の花びらの形をした、僕を苛む赤黒い傷跡だ。

「そんなん、選考に関係ないだろ」僕は少しムッとする。

「でもさあ、正直大丈夫なのかなって思ってたのよね。ほら、見た目って大事じゃん」

「仕事に火傷の痕なんて問題じゃないし」

「わかってるよ? だから、大丈夫なんだって感心したの」

 感心という言葉が不愉快でたまらない。椿は、飛鳥の傷なんて微塵も気にしていないと思っていたのに。

「火傷ぐらいで落とす会社があるわけないだろ」

「なにムキになってんのよ、飛鳥の悪口言ったわけじゃないし」

「悪口だろ十分」

「はあ? 全然違うじゃん! ただの感想を言ったまででしょ?」

 ただの感想を飛鳥が耳にしたらどう思うだろう。想像するだけでカッと怒りが燃えた。あくまで自分は悪くないと主張する椿にも腹が立った。彼女への告白だなんて、意識からすっ飛んであっという間に消えてしまっていた。

「飛鳥の火傷の話、二度とするなよ!」

「なんでそんなに怒んのよ、飛鳥飛鳥って気持ち悪い!」

「なにが気持ち悪いんだよ!」

「兄弟でもないのにべたべたして、それが気持ち悪いって言ってんの!」

 売り言葉に買い言葉だとは分かっていた。椿は気の強い女子で、なかなか自分からは引き下がらない。何年も一緒にいたから、本心で気持ち悪いなんて思っていないのは理解できる。それでも許せなかった。

 暴言を吐き合って、やがて椿は自分の鞄を掴んで足早に教室を出て行った。その背を追いかける気になれず、僕も苛々しながら廊下に出て、彼女と反対の方角を目指して歩いた。

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