その音は私の記憶の彼方から響く音、喜びと懐かしさを取り込んで
1.音色
「きっとこんな音だったのかな」
その人はそう言って、人差し指で鍵盤を3回叩いた。
調律がしっかりされているグランドピアノから出るその音はレッスン室を満たすように美しい音色で響き渡った。
2.礼拝堂
自然に包囲されたかのような田舎の広大なキャンパス、1番近い駅に行くにもバスで15分かかる。コンビニは歩いて15分、なぜこんな不便な所に大学を建てたのか、と疑問に思うのだが、そのおかげで私たち学生は心置きなく楽器を奏でることができるのも事実だ。
キャンパスを一歩入ると、あちこちで楽器の音が聞こえてくる。バイオリン、オーボエ、クラリネット、独唱しているのは声楽科の学生だろう。これだけ大音響をもってしても苦情がくることは全くない、それも周囲に人家といえるものがないからだ。きっとこの大学の創設者は楽器の騒音問題が起きない場所こそ音楽大学にふさわしい立地条件だと考えたのだろう。
敷地の一角にある礼拝堂、クリスチャンだった創設者が、建学とともに建て、校舎は幾度となく改修工事がされる中で、そこだけは建設当時の佇まいを残している。
私はこの礼拝堂の鐘の音が好きで、正午にだけなる鐘を聞くのに昼休みの休憩を兼ねてここに来ている。祈りを捧げるわけでもなく、ただ座って鐘の音を聞くのだ。
でも最近は鐘が鳴らない、どうやら礼拝堂の鐘を手入れしていた職員が辞めてしまい、それ以来放置されているのではないか、という話を聞いた。
「花音、やっぱりここか、実技試験のエントリーシート、今日までだぞ、門下で未提出なのが花音だけだって河合先生が心配してた」
振り向くと純平が礼拝堂の入り口に立っていた。
「ああ、これから提出に行くつもり」
「で、結局どうしたの?」
そう言うと純平はゆっくりと近寄って私の横に座り、持っていたエントリーシートをのぞき込んだ。
「あー、ドビにするのかぁ」
少しばかり納得できないような口調だ。
「う……ん、河合先生にも勧められたし」
「リストは駄目だって?」
「駄目って訳ではないけど、なんかさぁ、違うんだ……、公開試験だし、無理し過ぎるとって……」
「そうだよな、無理して不合格はヤバいよな」
「そうだね……」
「いいんじゃないか、リストはまたの別の機会に弾けば、な!」
純平は励まそうとしたのだろう、満面の笑みで私を見た。
「うん……」
返事をしたものの動こうとしない私に痺れを切らしたのか
「急がないと、午後のレッスンが始まる前にサインもらってしまおう!」
私の手を引っ張り礼拝堂から連れ出した。