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恋のアカナチオ・その5

「あら、ハンタマさんじゃない」

 ドアについた鈴が鳴るチリンチリンという音に続いて聞こえてきたのは、これまた鈴が鳴るような声だった。

「あっ」

 思わず声を上げて固まった。

 赤いエプロン姿で、とびっきりの笑顔を見せてくれたのは、赤光東照寺での仏道修行体験で出会った、あの女の子だったのである。

「どうなさったの?観光?」

「い、いえ、し、仕事で」

「そうなんだ。あ、こちらへどうぞ」

 入り口で突っ立ったままのハンタマを席へと案内する。

 店には他に客が二人しかいないようだった。

「仕事って、あれでしょ。オンセンロの取材に来たんでしょ」

「は、はい」

 走って喉が渇いていたハンタマは、出されたコップの水を一気に飲み干した。すぐさま女の子が二杯目を注いでくれる。

 なんという偶然だろう。新幹線の中でこの子のことを考えたばかりではないか。

 蹴一・お摩耶の銅像のように肩を組む様子を想像したことを思い出して、恥ずかしくなった。

「赤海の街も盛り上がってるわよ。久しぶりにJ 1に上がれるかもしれないってことで。でも、あれよね。私、ユニフォームは昔の方がよかったなあ」

 どんなものかは知らないが、赤い色だったということはハンタマも聞いている。

「私、赤が好きなのよ。今の黄緑のユニフォームは、うーんと、イマイチね。選手も誰が誰だかわからないし。ハンタマさんもそう思うでしょ?」

「は、はい。そうですね」

 ハンタマはただ、選手の名前を知らないだけである。そもそもチーム自体知らなかった。

「やっぱり?こないだも思ったけど、ハンタマさんと私って気が合うなあ」

「え、ええ!?」

 ハンタマは真っ赤になって、また水を飲み干した。

 女の子に免疫がないものだから、少しのことで舞い上がってしまう。また水が注がれた。

「あ、でもチームフラッグは変わってないのよね。あれだけは赤いまんまでよかったわ」

「そうなんですか。それは知らなかった」

 先程スタジアムまで取材に行ってきたばかりである。

 フラッグが揺れているのをハンタマも見ているはずなのだが、まったく記憶にない。

 そうでなくともいっぱしのスポーツ紙の記者であれば、知っておかなくてはいけないし、知らないことを認めるのも恥ずかしいことだと思うのであるが、ハンタマにはそういう観念すらない。

「今の監督はフラッグの色も変えようとしたんだけど、あれだけはどうしても奥さんが認めなかったんですって。なんでかしらね」

「は、はあ。なんででしょう」

「ハンタマさんはどう思う?」

 と、くりくりした瞳でハンタマを覗き込んだ。

 途端に体中が熱くなって、また、ぶわあっと全身の汗が噴き出した。

 ハンタマは奥手である。

 今まで女の子には、なによこのデブ、暑っくるしいわね、なんて目で見られたことは日常茶飯事でも、こんなふうにまっすぐ見つめられたことはない。

 おまけに、どこぞのアイドルかと見紛うような美少女である。

「え、えーっと、どうしてだろう?そ、その、だ、大事なものだったんでしょうか」

 顔を真っ赤にさせて、しどろもどろになりながら、至極当たり前のことを言った。

 そりゃそうである。大事なものだったからだ。

 問題は、いかなる理由があって、それが大事なのかである。

「そっか、大事なものなんだ。そうか、そうか。なるほどね。さすがハンタマさんよね。すぐそこに気付いちゃうなんて」

「い、いやあ、それほどでも」

 と、ハンタマは照れた。

 完全にお世辞というか、真っ赤な嘘なのだが、それにはまったく気付かない。ぐいっと水を飲み干して、また水が注がれた。

「それよりハンタマさん。ご注文は何になさるの?お食事にきたんでしょ」

 と言われて、ようやく本来の目的を思い出した。

「え、えっと、オムライスに、カツサンドに、ナポリタン。それからグラタン、ビーフシチュー、ハヤシライス。デザートにエビピラフもください」

 しばらくして料理が運ばれてきた。

 だが、せっかく楽しみにしていた赤海の洋食も、ハンタマはちっとも味がわからなかった。

 女の子が気になってしまうのだ。

 ちらっと厨房の方を見て目が合うと、ニッコリと微笑みかけてくれる。

 それを見て、また彼の顔は真っ赤になってしまうのだ。

 うわあ、僕は恋をしてしまったぞ、とハンタマは思った。

 ぐびぐびと、何杯目かわからない水を飲み干す。

 コップが空になれば、また女の子が近くに来てくれるかと、せこいことを考えたが、マスターらしきちょび髭の男性が大きなピッチャーを置いていった。それも3台も。

 もはやご自由にお飲みくださいということだ。

 だがその3台もあっという間になくなって、さらに水が追加された。

 顔を真っ赤にしたまま、フウフウいってオムライスを食べる。するとさらに体が熱くなって、余計に水を欲した。

 これはダメだ。お手上げだ。もうあの子の魅力に抗うことはできない。

 僕は完全に、決定的に、これ以上ないほどの明白さをもって、あの子に恋をしてしまった。

 でなければ、こんなに汗をかくはずはない。

 それでも、安物のスーツをぐっしょりと濡らしながら、全ての料理を完食した。

 すると女の子が話しかけてきた。

「ねえ、ハンタマさん」

「な、なんでしょう」

「今日はハンタマさん、旅館に泊まるのかしら」

「は、はい。あ、赤間旅館というところに泊まります」

「え、赤間旅館?すごーい、さっすが物を書いてる人よね。赤崎紅葉みたい」

「いえいえ、それほどでも」

 と、頭をかいた。漢字もロクに書けないハンタマと、有名な文豪を一緒にするのはおこがましい。

「ねえ、知ってる?赤崎紅葉が『蹴球夜叉』のお摩耶のモデルになった人に出会ったのって、赤間旅館なんだって」

 新幹線の中でハンタマが見ていたガイドブックにはなかった情報である。

「あそこも今は廃れちゃってるけど、その昔は文化人や財界の大物がよく泊まっていたそうなのよ。それで芸者の人たちもよく出入りしていたそうなの。特に赤崎紅葉は贔屓にしていてね。一年の大半を赤間旅館で過ごしていたそうよ」

「そうなんですか」

「でもね、作中ではお摩耶さんは芸者ということになっているけど、実在したその人は、実は赤間旅館の一人娘だったそうよ」

「そうなんですか。あれ?ってことは」

「そうよ。オンセンロの赤間監督の奥さん、赤間睦美さんのおばあさんよ」

「じゃあ、睦美さんは赤崎紅葉の血を受け継いでるんですね」

「うーん、そこが実ははっきりしないの。その、睦美さんのお母さんが産まれたときには、赤崎と既に別れていたとも言われているのよ。おばあさんは生涯独身だったみたいだし、なにぶん戦前のことだからね。赤崎は東京に家族がいて、その子孫の人たちも存命だから、睦美さんもおおっぴらに自分が赤崎の孫だと言いづらい状況なのよね」

 なるほど、そうなのか。昔の文豪にはありそうなことだと、ハンタマは思った。

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