心の垢は落とさずに・その6
2日目の夕食の後は、大掛かりな夜のお勤めがあった。
お寺のお坊さん全員が集まって、勤行をする。
定期的に大掛かりな勤行をするのであるが、これは修行体験に来た人に対するサービスの意味もある。
参加者の前途を祝して、特別にお祈りをするのだ。
ご本尊である、国宝・スリーモンキーズを前にして、お坊さんたちが勢ぞろいする。
祭壇には、大量のお線香が焚かれる。
独特の香りを持ったその煙が、広い本堂を満たす。
ハンタマが嗅いだことのない香りであった。
ジャーンと銅鑼が鳴り、おごそかな空気が張り詰める。
ハンタマも座布団の上で正座して、背筋をピンと伸ばす。
シンバルのようなものを打ち鳴らしているお坊さんもいる。
ジャーン、ジャーン、グワァーン、グワァン、ジャン、ジャン、ジャ、ジャ、ジャジャジャジャ、ブジァン!
ぶっせつ、まーかーはーらーみーたー、しー、んー、ぎょー。
住職さんがお経を唱えはじめたのに続き、全てのお坊さんたちが、巨大な合唱団のような声を響かせる。
空気は震え、それまで自由に飛び回っていた分子に秩序が与えられ、目的が与えられ、仏に仕えるために身を捧げる。
それがハンタマの鼓膜を震わせ、体を震わせ、心を震わせた。
力強い声で、お坊さんが一糸乱れずお経を唱える姿は壮観である。
これは単なる音ではない、とハンタマは思った。
心が洗われるのは元より、確かにパワーを感じる。
これを聞いたら、七代先まで祟るタチの悪い悪霊も、尻尾を巻いて逃げ出すだろう。
外はすっかり日が落ちて、闇である。
鳥たちはもう既に巣穴に帰っている。
人里離れた山中に、この世の垢を洗い落とし、衆生を光へと導く大合唱が響き渡った。
ハンタマも本を見ながら、お坊さんに合わせてお経を唱える。
体の外側から響いてくるお坊さんの声と、体の内側から響く自らの声が調和して、美しいハーモニーを奏でる。
自分の中にあるのは脂肪ばかりと思っていたが、こんなにも美しい調べが眠っていたのかと思うと感動する。
ああ、やはり私も仏の子なのだ。
護摩木にも書いたが、残りの人生、仏の手足となって働くのがよかろう。
暴飲暴食だけが取り柄の、砂糖と油に塗れた出来損ないの新聞記者の人生はもう終わりである。
それにしてもお坊さんというのは、なんと立派なのだろう。
特にあの住職さんは素晴らしい。
これだけ大勢の僧侶がいる中でも、住職さんの声は力強く響いてくる。
まるで耳のすぐ側で語りかけられているかのようだ。
私ももっと修行して、あのような立派な人になろう。
ハンタマは気持ちよくなってきた。
頭がボーっと痺れている感じで、何も考えられなくなってきた。
ただ遅れまいと、必死で本を見て目でお経を追い、喉を震わせる。
規則正しく木魚を叩く音が、直接頭の中に入ってくるようだ。
時折、チーンと、おりんの音が入ってくる。
住職の声が、一層響く。
こーしん、むーけいげー。むーけいげー。こーむーうーくー、ふーおんりー。
いっさい、てんどー。むーそう、くーきょー。
ねーはん、さんぜー、《《もんきーずー》》。
おーきーろー、はーんーたーまー。
わーがーこーえーにー、しーたーがーいー、すーりーもんきーずーをー。
あーかーずーきーんーのーもーとーへー。
夢遊病者のようにふらふらと立ち上がるハンタマ。
本尊の国宝・スリーモンキーズに近寄り、よっこらせと持ち上げようとする。
しかし、像が重くてなかなか持ち上がらない。
ほーかーのー、そーうーりょーはー。
はーんーたーまーのー。
きょーうーりょーくーをー、しーなーさーいー。
すると何人かの僧侶が、これまた夢遊病者のように立ち上がり、ハンタマの周りに集まった。
みんなで力を合わせて、えいやっとスリーモンキーズを持ち上げると、それをそのまま外へと運び出そうとする。
他の僧侶は、ハンタマたちのために道を開ける。
みんな目が虚ろで、何者かに操られているかのようだ。
外には3人の人影が待っていた。
真ん中の人物は、どうやら女性のようだった。
赤いずきんを目深にかぶっていて、顔は見えないが、頬から顎にかけてのシャープなラインは、相当の美少女であることをうかがわせた。
「ふふふ。ありがとね、ハンタマさん。あなたって、ほんとにかわいらしいんだから」
せっかく女の子にかわいらしいと言われたのに、熱に浮かされたようなハンタマの耳には聞こえていなかった。
ここで作者からタネ明かしをしておこう。
このとき何が起きたのか。
もちろんこれは怪盗赤ずきんちゃんの計画に沿って行われたことだ。
自分の手を汚さずにスリーモンキーズを運び出すためにハンタマを利用したのだ。
彼女たちは、最初から全員のお坊さんが集まるこの機会を狙っていた。
そのために、先に雲水さんに化けたおばあさんを潜入させ、準備させていたのだ。
おばあさんは、あらかじめお線香を催眠効果のある特殊なものに変えていた。
その煙を吸ったハンタマと他のお坊さんたちは、まんまと催眠術にかかってしまったのである。
おばあさんは住職に化け、お経の中に巧みに催眠術を入れ混ぜて、ハンタマたちをコントロールしたのである。
睡眠薬を飲まされて、眠らされていた本物の住職が目を覚まし、慌てて本堂に駆けつけてみると、すでにそこには怪盗赤ずきんちゃんの影はなく、ただあちこちで倒れているお坊さんたちとハンタマを見つけただけであった。
そして国宝スリーモンキーズがあったはずの場所には、「怪盗赤ずきんちゃん参上!」と書かれた一枚の紙があるばかりであった。
いやはや、護摩業の効果は凄い。
ハンタマは希望通りに本尊を支える手足となり、赤ずきんは赤ずきんで、希望通りにみんなで一致団結してスリーモンキーズを運び出したのだから。
「バカモン!お前は一体、何をしにいったんだ!」
それから数日後、東赤スポーツの編集部である。
いつものように編集長の怒声が響く。
ハンタマがいる限り、この人の血圧が下がることはない。
国宝スリーモンキーズが怪盗赤ずきんちゃんに奪われたことは、翌日の新聞で大々的に報道された。
それは不幸な事件として世間の人々に同情されたのであるが。
誰が写したのか、それには犯行の現場を収めた決定的な写真が使われていた。
そこには、中心となってスリーモンキーズを運び出すハンタマの姿が。
ハンタマが全国のお寺を出入り禁止になったことは、言うまでもない。