七章 雷帝と策略の破壊
セリアは、花園の間に立ち尽くしていた。この部屋には、インファが教えてくれた花だとわかる花々が、咲き乱れていた。インファの説明はとても的確だったのだなと、本物の花たちを見て思った。
リティルはすでに出て行って、セリアは一人取り残されていた。
──この件に責任を少しでも感じてるなら、最後に一度だけ、インファに会ってやってくれねーか?これは命令じゃねーよ。君の意志を尊重する。けど、頼むよ。セリア
考えておいてくれと言って、リティルは出て行ってしまった。
「会いたくない……会いたくない会いたくない!わたし……会いたくないわ……インファ……」
──会いたい!
セリアはその場にうずくまった。どんなに声に出して会いたくないと言っても、たった一度、心が会いたいと叫べば、セリアのすべてはその色に染まってしまう。
「インファ……あなたはわたしに会いたいの?どうして、ナイフをまだ持ってたの?どうして、帰ってこないの?どうして、あんなに怒ったの?どうして?どうしてよ!」
──今、あなたのことも引き裂きたくてしょうがないんです
──なんだ、兄貴、もの凄い言葉使って告白してたんだね
本当はわかっている。インファの心に、”セリア”がいることを。さすがにそこまで、鈍くない。
だから、ナイフを持っていてくれた。
だから、セリアに危害を加えたくないから帰ってこられない。
だから、顔のそっくりなノインと楽しそうに笑っていたから、嫉妬してくれた。
「わたしを、自惚れさせないで!わたしを、受け入れる気なんてないくせに……」
心にいるからといって、受け入れてくれるとは限らない。この城で過ごして感じた。皆、インファを頼りにしている。
応接間で書類の整理をしていたリティルが、不意に、インファ、これどう思う?と聞いて、ああ、いないんだったと仕事に戻ったり。
リティルがいない時、ボンヤリしていて失敗したシェラが、インファがいれば止めてくれるのだけれどと、笑っていたり。
レイシが、あーあ、兄貴がいればもっと魔法の練習できるのにと、ふてくされていたり。
インリーが、お兄ちゃん!この魔法どういう構造なの?と捜しにきたり。
ケルゥが、寝ぼけ眼で兄ちゃんは?と言いながら起きてきたり。
あのノインでさえ、インファ、今日の予定は?と何気なく聞いてしまったりしていた。
風の王の副官で、皆の兄であるインファは、この城になくてはならない人だ。恋愛に現を抜かしている時間はない。彼には、自分の時間はあるのだろうか。皆、頼りすぎではないだろうか。
──傷ついたインファを癒してくれて、ありがとう
違う。癒されたのは、セリアの方だった。呪いを解かれ、明日を迎えられるようになったが、いったいどう生きればいいのか途方に暮れてしまった。スワロメイラが世話を焼いてくれて、ルキルースのいろいろな所に連れて行ってくれたが、ボンヤリしていた。
インファに出会ったのは、そんな時だった。
泉の上に、突然落ちてきた金色の風。それがインファだった。
彼は身の丈に合わない力を使った代償で、体から弾き出されてしまったと言っていた。早く戻らなければと言いながら、その手段がなく途方に暮れていた。
困っているなと思って、とくにすることもなかったセリアは、体に帰る方法を一緒に探すと思わず申し出ていた。
定期的にルキがインファと通信していたが、ルキルースの王とどういう関係なのか、セリアが聞くことはなかった。興味がなかったのだ。あまり深入りすると戻れなくなる。そう思っていたからだ。最低限の接触しかしないつもりだった。それを砕いたのは、彼の歌う風の奏でる歌だった。
インファは泉のほとりに座って、叫ぶようにその歌を歌っていた。その歌が唐突に止んだ。そして、彼はおもむろに立ち上がると、再び歌い始めた。
──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない
──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに
──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……
それは、さっきまでの鼓舞するような力強い歌声ではなかった。誰かを想い、案じるようなそんな優しい歌声だった。
思わず泣いてしまった。そんなセリアに、インファは戸惑い驚いていた。
──オレの歌に、そんなに泣いてくれた人は、あなたが初めてですよ
照れたように笑ったその顔を見たとき、セリアは唐突に思ってしまった。
ああ、この人が好きだ。と……
花園の間で泣いていたセリアの耳に、風の奏でる歌が聞こえてきた。
その歌い方が、あの時インファが歌っていた歌い方に似ていた。
「リティル様……」
セリアは立ち上がると、走り始めた。
もう無理だ……偽るのは!泣きながら、セリアは応接間に続く白い扉を開いた。
リティルがこちらに背を向けて歌っていた。城の住人が、静かに聞き惚れていた。
──叫ぼう 悠久の風の中 君と生きていけると――……
最後の旋律を歌いきり、リティルがこちらを振り返る。その小さな胸に、セリアは飛び込んでいた。そして、ズルズルとその場に膝をついた。リティルはそんなセリアの両腕を掴んでくれた。顔を上げたセリアの瞳に、優しい微笑みを浮かべる風の王の姿が映った。
「リティル様!リティル様……わたし……インファが好きです!だから、会いたくないの……!あの人の、邪魔になりたくないから。それではダメなの?それでも、応えてくれないあの人に、会わなければならないの?」
「セリア、一つ聞きたいんだけどな。どうして、頑なにあいつが君に応えないって、思ってるんだよ?」
リティルは困ったように笑った。
──彼女はオレの、愛する人です
インファがそう伝えてきたことを知ったら、どんな顔をするのだろうか。リティルは、暴露したい気持ちをグッと押し殺した。
「あいつはたぶん、もう、観念してるぜ?だからな、一生会わねーなんてそんなこと、言わないでやってくれよ。インファには、責任取らせるからさ」
責任取らせる?セリアは瞳を瞬いた。その拍子に、瞳に溜まっていた涙がポロポロと宝石のようにこぼれ落ちた。
「責任って……?」
「うーん、内緒だ」
リティルはポンッとセリアの肩を叩いた。セリアは首を傾げて、笑うリティルの顔を見返していることしかできなかった。
インファとカルシエーナは、意外にも風の領域にいた。
風の城を襲撃する勢いで迫った魔物の出現を受けて、インファは作戦を変えたのだ。
あの時、欠片に侵された魔物は、一直線にセリアを目指していた。それで、気がついてしまったのだ。
精霊王の魂の欠片は、セリアを狙っていると。
なぜこんなことが起こったのか、インファは考えていた。
この欠片を、セリアから奪ったときは見境なかったはずなのだ。それなのに、今はセリアに固執している。なぜなのか……。
そして、インファは認めたくない結論に達したのだった。
インファは抗いようもなく、セリアを求めているということを。
それは、裏切るはずのないノインに嫉妬した時、薄々感じていた。しかし、認めたくなかった。認めてしまったら、手放せなくなってしまう。城に帰ったとき、彼女がいなかったら、どれだけ落ち込むか見当もつかない。仕事に支障をきたせば、リティルに何を言われるかわからない。そんなに好きなら落としてこい!落とすまで帰ってくるな!と言われかねない。
もう、時間はかけていられなかった。こんな、不愉快な魂とは、一秒たりとも一緒にいたくなかった。
「お兄ちゃん、準備いいよ?」
「ありがとうございます。では、呼びます!」
──さあ、来なさい!ここに、あなたの嫌いな愛に浮かれた魂がありますよ!
インファは心にセリアを思い描いた。たったそれだけだ。たったそれだけで、あれだけ探し回った欠片たちが集まってくる。
ゾワゾワと寄ってきたアメーバのようなモノを、カルシエーナが髪で叩き潰していく。たまに出てくる大物も、彼女の手にかかればイチコロだ。
もっと早く気がつけばよかったなと、インファは思った。
「はあ、はあ……」
「お兄ちゃん、無理しないで。ちゃんと休まないと、城に連れ帰るぞ?」
インファの中に居る邪精霊を押さえ込んで、欠片たちを呼ばなければならないために、疲労が急激に溜まってしまう。
今、城に連れ戻されるのだけは阻止しなければならない。あと、少しなのだ。あと少しで掃除が終わる。一つでも残せば、セリアが安心して暮らせない。こんなものに遅れを取る彼女ではないが、もしも、もしも、傷付けられたらと思うと、ここで音をあげるわけにはいかなかった。
気遣ってくれたカルシエーナが、ふと、虚空を見つめた。
「お父さん?なんだ?」
お父さん?そう聞いて、インファはすぐにケルゥを通して、リティルが探りを入れてきたことを知った。
「ケロッとしてるけど、あんまり寝てないから心配」
カルシエーナは素直に、現状を伝えてしまっていた。精霊王の魂の欠片を探し始めてから、二ヶ月が経とうとしていた。欠片の掃除はあらかた済み、あとは、避けていた風の領域だけになっていた。
「半月前」
半月?そんなに前から、寝ていなかったか?と、インファは自分で自分のことが、わからなくなっていることに、やっと気がついた。確かに、眠りは浅かったが、カルシエーナが心配するほど睡眠時間が短くなっているとは、思いもよらなかった。インファはそっと、カルシエーナの腕を掴んだ。
『カルシエーナ、今すぐ連れ帰れ!これは命令だ』
父の強い声が頭の中に響いた。こちらの身を案じての命令であることは、痛いくらいわかった。助けようとしてくれていることを、きちんと理解していた。
「……帰りませんよ?」
それでも、インファは父の命に背いた。
『インファ!戻れ!何考えてるんだよ!体が保たねーぞ?』
今は帰れない。この身の邪精霊を取り除かれたら、欠片の捜索が容易にできなくなってしまう。あと少しなのだ。あと少しで、セリアを解放できるのだ。
「嫌です」
『このヤロウ!わかった。迎えに行ってやる。だから、そこを動くんじゃねーぞ?』
心が揺れた。父が来てくれれば、そんな心強いことはない。だが、リティルはインファを助ける事を優先してしまう。こんなに怒ってくれるのだ、インファにはリティルの行動が手に取るようにわかる。リティルを説得するために、残り少ない精神力を使うわけにはいかなかった。
「風の王、捕まりませんよ?」
インファはそう言って、優しい父を拒絶した。
「ごめんね、お父さん」
カルシエーナは何の説明も聞かずに、インファの側に付いてくれた。
「移動するか?」
「いいえ、風を攪乱します。父さんに本気であることだけ伝わればいいですから。所詮、ケルゥにあなたを捜されたら、逃げ切れませんしね」
インファは意識を集中して、風達に風の王から身を隠したい旨を伝える。雷帝に従う風が頷き、辺りを警戒してくれた。
「ケルゥを味方に引き入れないと、お兄ちゃんは捕まるな。話す?」
「あなたに任せます。あと少しなんです……あと少し……」
座っていたインファの体がグラリと傾ぐ。カルシエーナがそっと支えると、インファはしばらく休むと言って、瞳を閉じた。といっても、あまり休息にはならないだろう。眠っているときでさえ、インファは邪精霊を押さえ込んでいるのだから。カルシエーナは、インファの体を横たえた。
「……ケルゥ、一人になったら、教えて」
しばらく待っていると、ケルゥから話しかけられた。
『待たせてすまねぇな。誰にも言わねぇから、話せやぁ』
「お兄ちゃんは、セリアを守りたいだけ。勝算はちゃんとある。だから、邪魔しないで」
『了解。リティルも兄ちゃんに任せるってよぉ。おめぇは大丈夫かぁ?』
「大丈夫。でも、ケルゥに逢いたい。あ、そうだ、セリア、どう?」
『おめぇ、可愛いかと思えば、可愛くねぇなぁ。セリアは、いろいろあって放心状態だなぁ。兄ちゃんが何してたか見せてやったら、かなり動揺してたぜぇ?』
「セリア、お兄ちゃんのこと、好きか?」
『好きなのによぉ、グチャグチャ悩んでるぜぇ?』
「こっちも重症。好きなのに、強がってる」
『なあ、カルシエーナ、モノは相談なんだけどよぉ……』
カルシエーナは、ケルゥの話に耳を傾けた。
「いいよ。でもたぶん、大変なことになるぞ?」
『大変なのはよぉ、いつものことじゃぁねぇかぁ!』
ワハハハと笑うケルゥの声を聞きながら、それもそうかとカルシエーナは納得してしまった。
中庭に、朝日が届き始めていた。
レイシは、瞳を閉じて朝日に向かっていた。城の影を動かして、ついにレイシを朝日が照らし出す。
精神を研ぎ澄ませて……イメージを膨らませる……見本なら、この城にたくさん……いる!
レイシはカッと瞳を開いた。その背に、揺らめく陽炎が立つ。透明に揺らめくそれを、朝日が金色に染める。
もう少し……もう少し……オレは空だ……オレは……空の翼だ!
解けるように揺らめいていた朝日の金色が、晴天の空の色に変わっていく。
「……っはあ、はあ……」
レイシの背から、幻のような空の色の翼が霧散した。
「難しいなあ……父さん達、どうやっていつも同じ形に出してるんだろう……」
リティルだけでなく、精霊達は皆、武器をいつも同じデザインで瞬時に取りだしていた。そして、手を離れるその時まで、具現化したままでいる。少しも疲れた様子もなく。しかし、レイシの翼は長くは保たないばかりか、瞬時にいつも同じ姿では出てこなかった。
「それは、イメージが固定化できていない証拠だ。だが、今のままでも、武器として使うなら申し分ない」
「ノイン、いつからいたの?」
独り言を聞かれたレイシは、慌てて取り繕った。
「ガラスのような翼に、金色が溶け、それが青に変わっていったところからだ。レイシ、セリアにイメージを伝えて具現化してもらえ。それを脳裏に焼き付けるのが、一番早い」
「それだけ言うために、わざわざ?」
「これから仕事だ。その前に、面白い物が見えたので、つい、な」
ノインは片手を上げると、応接間に去って行ってしまった。
「……ありがとう」
レイシは、鋭い瞳のまま小さくつぶやいた。
リティルの出した課題の通りに、力を具現化できるようにはなってきたが、まだ不十分で、原初の風の欠片を継承するまでには至っていなかった。
レイシは深呼吸するように溜息をつくと、リティルが持っている物と同じ、魔水晶の笛を取りだした。そして、吹き始める。奏でるレイシの周りに、鏡のような銀の雫のようなモノが、留まる雨粒のように現れた。徐々にその姿が小さなトンボの羽を背負った女性の姿になる。
銀細工のような妖精達は、フワフワとレイシの周りを舞っていた。
その様子を、応接間の窓越しにリティルが見つめていた。
「あいつ、器用だな。あれができるのに、どうして翼はうまくいかねーんだろうな?」
そんなリティルの隣に、中庭から戻ってきたノインが立っていた。
「妥協できないだけだ。我々も、かなり曖昧なデザインなのだが、レイシはそれを知らない」
「そうだな。いつも、この辺の装飾が抜く度に違うからな。寸分違わずには、誰もできてねーと思うぜ?シェラなんて、剥き出しだしな。それがまた綺麗だから、狡いよな」
リティルは愛用の剣を抜くと、柄の部分の僅かな装飾を指さした。この剣は、リティルが精霊になる前に使っていた剣を模していた。飾り気のないシンプルなモノだったが、それでも、具現化する度に少しずつどこかが違っていた。
「まあ、やろうと思えば、これくらいのことはできるけどな」
リティルの手の中にある剣の刀身に、金で羽根の模様が描かれていった。柄の形も、握りを覆うような翼の形になる。
「これで魔法が苦手だと、よく言う」
「咄嗟に使えねーなら、ないのと同じだろ?インファならその辺、瞬時に対応するぜ?最近、華奢な剣使ってるだろ?あいつ」
「槍と剣の使い分けがなかなか見事だな。リティル、ついでに偵察することもできるが?」
心配しているだろう?とノインは、リティルの心を見透かしたように、提案してきた。
「あいつが行方をくらませてまで、やるって言うんだ。信じるさ。失敗したら、助け出せばいい。邪精霊に喰われたって、死なねーよオレの副官は」
リティルは少し拗ねたように言った。その様子に、ノインは苦笑した。
「リティル、我々は、背後におまえがいるから、多少無茶もできる。インファは今でも、おまえに全幅の信頼を置いている。それは揺るがない」
「わかってるよ!インファの奴、邪精霊を滅してほしくねーんだろ?オレが行ってできるのはそれくらいだからな。あとなあノイン、オレ、おまえより弱いぜ?おまえが負けるような相手、オレが敵うかよ!」
リティルの言葉に、ノインはフッと吹きだして笑い出した。
「フッハハハハハ!わかったわかった、そういうことにしておこう。我が主君」
ノインは、行ってくると言って玄関ホールへ向かっていった。その途中で、インリーに会ったノインは、連れて行っていいかと聞いてきた。許可してやると、インリーは嬉しそうにしていた。インリーは最近少し元気がなかったが、浮上したのだろうか。行ってきます!と元気なインリーとお守りを買って出てくれたノインを見送って、リティルは腑に落ちない顔をしていた。
「何なんだよ、ルディルもノインも。どう見ても、オレの方が弱いだろ?けどまあ、信頼されて悪い気はしねーけどな」
リティルは嬉しそうに明るく笑った。
しかし、リティルは正しく自分の力を知っている。現に、インファに白い剣を使われたら、手合わせでも勝てるかどうか危うい。レイシも、あの力を使いこなせるようになれば、軽々と超えていくだろう。謙遜ではなく事実だとリティルは思っている。それなのに、リティルよりも初めから強い者達が、おまえは強い強いと言って持ち上げてくる。それはなぜなのか、リティルにはまるでわからなかった。
「リティル様、おはようございます。もう起きてるの?あー、レイシも?ちゃんと寝てる?」
リティルに並んで中庭を見やったセリアは、レイシが笛を吹いて妖精達を遊ばせている様を見た。前にも見たが変わった魔法だなと、セリアはしげしげとレイシを観察していた。
「おはよう、セリア。目が覚めたら起きるのが、風の城だぜ?それで、眠くなったら寝るんだよ」
「不思議なお城ね。一件バラバラに見えて、まとまってるなんて」
「まとまってるか?風の城動物園って呼ばれてるぜ?」
「動物園?」
「珍獣は逃げちまったけどな、猛がつく獣と鳥なら見たい放題だぜ?」
珍獣とは、ここを拠点に旅に出ているナシャのことだ。彼は、角を持つ白馬に化身する、世にも珍しい精霊だった。
「はあ、イヌワシとユキヒョウは、いつになったら帰ってくるんだよ?オオタカばっかり三羽集まっても、誰も喜ばないぜ?」
風の王三人衆の現職リティル、初代ルディル、前王の知識を持つノインは同じ大鷹の翼を持っていた。三人集まって会話をすると、話が通じすぎて大いに盛り上がれる。
「神樹の花はいつも見頃だぜ?最近じゃ、鉱物コレクションもあったりな。蛍石は展示中だしな」
エネルフィネラは遠慮していて殆ど来ないが、スワロメイラは定期的に遊びに来ていた。
「白鳥が飛んでるし、黒い猫と、白い狼もたまに徘徊してるな。な?動物園なんだよ、ここは」
白鳥はインリー、黒い猫は幻夢帝・ルキだ。そして、白い狼は、剣狼の女王・フツノミタマだ。
「もう一人、とても珍しい精霊が生まれそうだしね」
セリアは楽しそうに微笑みながら、窓の外に視線を向けた。
「混血精霊は、とても変わった姿に化身できるようになるわ。レイシは、翼ある何に化身するのかしらね?」
「それに気がつくまでに、あと三百年くらいかかるんじゃねーか?たぶんあいつは、鳥に拘っちまうからな」
「教えてあげないの?鳥には化身できないこと」
「今、傷付けることねーだろ?化身しなくたって、生きる分には、生きていけるんだからな。でもな、たぶん、あいつはライオンだぜ?」
「やっぱり猛獣なの?グレちゃう前なら、ウサギとかだったかもね」
「ハハ、かもな」
リティルは賢明に自分と向き合うレイシの姿を、眩しそうに見つめていた。
「リティル様、これを持っていて」
セリアは、黄色の石を手渡した。
「わたしの化身よ。今のわたしが壊れたら、これに転生するわ。もちろん、そうならないように気をつけるけど、わたしは……脆いの」
言いづらそうにセリアは言った。彼女がインファに対して臆病なのは、脆いことが原因なのだろうか。
「魔法で守っても、ダメなのか?」
「わたし達は人型をしているけど、分類的には中級精霊よ。強くはないわ。リティル様が欲しがるような、そんな宝石じゃないわ」
この城は過酷な城。そして、命をとても大事にする城。その中で、セリアのように能力の低い者は力になれない。せめて、スワロメイラくらいの硬度がなければ、心許ないが、望んでもセリアに今更得られるモノではなかった。
セリアは、自分がじゃじゃ馬であることを知っている。インファと手を繋げたとしても、そのうち外へ出たくなる。そうなったとき、インファは当然のように心配するのだろうなと思うと……。
「セリア、闘うだけが強さじゃねーんだぜ?それとも君は、インファと組みたいのか?」
「冗談。あの人とは死んでも嫌よ!」
一夜明けて、調子が戻ったらしい。セリアは冗談めかして笑いながら、中庭へ出て行ってしまった。
──わたし……インファが好きです!
泣きながらそう告白してくれたが、まだインファと会う気すらないらしいなと、リティルはじれったく思った。
本当に消極的だ。彼女は自分のことを中級精霊だと言ったが、それこそ謙遜だ。こんなに強い中級精霊をリティルは知らない。それこそ、インファと結ばれたなら、弱点を補い、高める方法などいくらでもあるだろうにと、リティルは思った。
リティルがどうやって蛍石を手に入れようか、本気で頭を悩ませているとは知らずに、セリアはレイシに頼まれて、翼の模型を具現化していた。
セリアはレイシの言葉を反芻しながら、指を空へ滑らせた。指先に灯った、黄色や紫の光が様々に変わる様子にレイシは見とれていた。光で描き出された翼に、セリアが両手をかざすとそれは物体となってセリアの手の中に落ちてきた。
「これでいい?今からでも、修正可能よ」
セリアの手の中に、リティルの翼を精巧に作ったかのようなガラスの翼があった。青から水色に変わるグラデーションが、空そのものに見えた。
「うん。セリア、そのまま持ってて」
レイシは少し離れると、瞳を閉じてセリアが両手に持つガラスの翼を思い描く。
フウッと、セリアのピンク色の髪を温かな透明な風が撫でた。透明な風は、レイシに吸い込まれるように吹いていた。
「レイシ……すごく綺麗よ!」
セリアの感嘆の声に瞳を開いたレイシは、自身の背にある翼をマジマジと見つめた。
「やった……できた!空の翼!」
陽炎のように揺らめく、透き通る翼。空の青を溶かしたかのような色をしていた。
「ありがとう、セリア!」
わあっとレイシは勢い余って、セリアに抱きついていた。ガラスの翼を持っていたセリアは、無邪気に抱きついてきたレイシを避けきれずに、その腕に囚われていた。
「わ、わたしは何もしてないわよ。レイシ、このガラスの翼、どうする?」
レイシに他意は微塵もないのに、セリアはドキッとしてしまった。
「んー、ほしいけど、それ、セリアの欠片でできてるんだよね?オレがもらうとマズイよ」
レイシはセリアから手を放すと、困ったように首を傾げた。どうして?ととぼけるわけにもいかず、セリアは俯いた。アクセサリーではない次元の刃であの騒ぎだったのだ、レイシに渡して、セリアが去った後、それを見たインファの心を乱したくない。やはり、セリアは、インファに会いたくなかった。
「せっかく作ってくれたし、兄貴にあげてよ。オレ、兄貴からもらうからさ」
セリアは顔を上げてレイシを見た。臆病な瞳を見て、レイシはそんなに兄貴が怖いんだと、思わず思ってしまった。
「そんなに怖がらなくても、いいと思うよ?兄貴が父さんに逆らうなんて、普通ないことだしさ。兄貴、セリアのことかなり好きだと思うよ?たしかに、怖くて、危険な感情なんだね。愛ってさ」
レイシは空に輝く、眩しい太陽を見上げた。精霊王は母を愛などないと言って殺してしまったけれど、もしかすると、簡単に絶望してしまうほど、好きだったのかもしれないなと今なら思えた。
そんな精霊の血を、今でも受け入れがたく、この血のせいでインリーをいつか傷つけてしまうかもしれないことが怖い。あの、無邪気に、わたしの居場所はレイシの隣と笑う彼女を、どうすればいいのか、レイシはまだ答えを見つけられなかった。
父に、インリーは妹じゃないと宣言して、あなたの大事な娘を、このままだといつか穢すかもしれないよ?と仄めかしてみたが、あの人は、動じなかった。自分では決められないレイシは、リティルが危機感を持って、インリーを遠ざけてくれればと思った。だが、まるで、知ってるよと言いたげな態度だった。
あの宣言は真実だったが、レイシにはインリーをどうにかする気持ちはさらさらない。まして、そういう風に触れることなど、考えられなかった。ただ、今まで通り隣にいてくれたら、それでいい。それでいいのだが、レイシはそう思うと同時に、こんなオレのそばにいていいのだろうか?という思いが募る。
心は堂々巡りだった。
「あの雷帝の心を奪うなんて、セリア、いったい何したの?」
「何もしてないわ」
セリアはガラスの翼を抱きしめて、不安そうに俯いていた。
「セリア、本気で兄貴に会いたくないなら、オレ、無理して会わなくていいと思うよ?会わなくて済むようにしようか?」
「レイシ……お願いがあるの」
「何?」
「インファが帰ってきたら、あのナイフを捨ててと言って。インファが捨てないのなら、壊して」
「それ、本気で言ってる?それさ、オレに死ねって言ってるよ?」
そういうレイシの顔は、少しもインファを恐れてはいなかった。冷たい紫色の瞳にあるのは、ただただ優しい哀しみだった。
「それでも……インファに……持っていてほしくないの……」
百合の花咲く、華奢な金色の刃。儚くて、でもとても鋭利。わかっていた。刀身が金色なのは、風の力を持っているためで、色に意味はない。問題なのは、ナイフの飾りだ。あのナイフの装飾は、インファが想う、セリアのイメージを具現化したものなのだ。もう、言われなくても、セリアは理解していた。
あのナイフを大事にしているというインファの気持ちを、セリアは否定したりしない。
「兄貴さ、そんなに怖い人じゃないよ?あの控えめで暖かい眼差しが、兄貴の本質なんだ。辛辣だったり、容赦なかったりするけど、父さんに似て凄く優しい人だよ?父さんのことは、みんな寄って集って守ろうとするけど、兄貴のことは誰も守ろうとしない。気にかけてるのは、父さんだけなんだ。でも、父さんには守れない。いつでも、矢面に立たなくちゃならないから。兄貴の方にも問題あるよ?だってさ、与えるだけで、受け取ろうとしないからさ。初めてなんだ。兄貴がもらったモノを大事にしてるのって。セリア、あの剣、持ってちゃダメかな?このまま会わないつもりなら、せめて、あの剣だけは許してあげてほしいんだ」
レイシの微笑は、哀しそうだった。インファを庇うような言葉の数々から、彼が本当に兄を慕い心配している様が見て取れた。けれども、レイシが、皆が大事に想うインファの相手に、自分が相応しいとはセリアにはどうしても思えなかった。この城が暖かく、暖かいと感じるからこそ、それを作っている風の王夫妻と副官であるインファに近寄りがたい。
セリアがインファの隣に立つことで、この城の心地良い雰囲気が壊れてしまったらと思うと、行くよりも退いた方が容易かった。
「……風が過酷なこと知ってるつもりだったの。でも、それ以上だった。わたしは脆すぎて、インファのそばにはいられない。わかったわ。あのナイフ、気が済むまで持ってて。それでいいなら。それから、レイシ、気がついてる?翼、ずっと留まってるわよ?」
「あー、ホントだ。これならなんとかなるかな?オレ、父さんのところ行ってくる」
レイシは鋭い瞳に、薄く微笑みを浮かべて、ありがとうと言うと、ゆっくりと応接間に戻っていった。
セリアはレイシの背中に、ありがとう、それからゴメンねと心の中で声をかけた。
インファは今、どうしているのだろうか。破壊の精霊が一緒にいるのだから、大丈夫だと信じたい。
あの後、インリーが言っていた。インファは自分のことをよくわかっているから、決して無理をしないと。絶対に帰ってくるから、大丈夫と。自分に言い聞かせるようだったが、セリアにそう力強く言葉をくれた。そんなに、心配そうな顔をしていたのだろうか。あの時、いつもからかってくるノインも、去り際に心配するなというように肩を叩いてくれた。
わたしは弱いな……と、セリアは歯痒く思った。この城の人達よりも遥かに長く、生きているというのに……。
こんな気持ちのままでは、インファに到底会えない。隣に並ぶ資格なんてない。
でも……でも、その姿が見たい。無事な姿を見て、安心したい。それだけでいい。それだけでいい……。
──セリア……
応接間に戻るレイシの背中を見送っていたセリアは、インファの声を聞いた気がした。実体なき、意識体の朧気な声。セリアは、思わず後ずさっていた。脆いが故に備わった、無意識の危機回避能力。ここから距離を取らなければいけない気がした。
「インファ……!」
突如開いたゲートから現れたのは、暗いオレンジ色をした、液体でできているかのような透明な蛇だった。
その巨大な蛇の口に、意識を失ったインファが咥えられていた。
カルシエーナは機会を窺っていた。
精神も肉体も疲弊して、警戒心の低くなったインファなど、出し抜くのは簡単だ。でも、なるべくインファに降りかかる被害を少なくしなければ、死んでしまったりしたら嫌だから。そんなことを考えながら、インファに群がってくる、アメーバのような弱々しい魂の欠片を叩き潰していく。
「お兄ちゃん、終わった?」
荒く息を吐き、その場に頽れたインファに駆け寄ったカルシエーナは、気遣わしげに声をかけた。
「ええ……欠片の掃除は終わりました。あとは、ここにいる邪精霊だけです」
「そうか。もう、あと一つなんだな?ごめんね。わたし、お兄ちゃんを裏切るから」
インファは、カルシエーナの言葉に辛うじて反応していた。
まだ、そんなに動けるんだと、カルシエーナは驚いていた。そして、さすがだなと思った。飛び退いたインファの放った風に、カルシエーナの吹きかけた幻夢の霧が吹き飛ばされていた。
「お兄ちゃん、一瞬でいいから眠って」
ザワザワと、カルシエーナの髪が生き物のように伸び始めた。片膝を付いて、肩で息をしていたインファは、息を詰めると槍を構えた。その瞳は鋭く、どうあっても屈服しない強さが変わらずあった。
「インファ、わたしには勝てないぞ?」
獲物を前にした、猛禽のような瞳に睨まれたカルシエーナは、眉根を顰めて静かに警告した。あまり抵抗してほしくない。インファに少しでも傷付けるのは、本当に嫌だった。しかし、カルシエーナも退けなかった。
「わかっていますよ……何年、兄妹やっていると思っているんですか?あなたの目的が邪精霊なら、意識を奪われる前に、滅するのみです!」
インファの体が白く輝いた。体内に、雷を発生させているようだ。
「そういうことするから、ケルゥに中身リティルだって言われるんだ」
自分自身にも苦痛を与える方法を選んだインファに、カルシエーナは呆れた溜息をついた。精神も霊力も限界だろうに、また長い間眠るつもりなのだろうかこの兄は!と、カルシエーナはイラッとした。
「親子ですから、似ていて当然です!」
格好いいなぁ。咄嗟に、死ななければいいと割り切れてしまう兄に、危うさを感じると共に破壊衝動を刺激されてゾクゾクしてしまう。
風の精霊は弱い。こんな、身を削る戦い方を選択しなければならないインファを、そうしなくてもいいようにしてあげたかった。それが叶わないなら、せめて、殺伐とした日々の中にも僅かな煌めきを、自分だけの煌めきを持ってほしかった。
切にそう思うから、カルシエーナはケルゥの言葉に乗ったのだ。だから、何が何でも退けないのだ。
「お兄ちゃん……それ、殺しちゃうと、セリアに二度と会えなくなる。それでもいいの?」
セリアに会えなくなる?一瞬の隙を作られた。それを見逃すカルシエーナではなかった。刹那、間合いを詰められたインファは幻夢の霧に包まれていた。
──セリア……
逃げてと、それすら心に思うことを許されずに、意識は一気に深い夢の底に落とされた。
うつぶせに倒れたインファの背中から、暗いオレンジ色をしたブヨブヨした蛇が抜けて、天へ駆け上がった。それは、地上へ頭を向けると、今度はインファ目掛けて落ちてきた。
「ケルゥ!早く!」
インファを咥えた蛇に髪を絡ませ、カルシエーナは恋人の名を呼んだ。その瞬間、足下に巨大なゲートが開き、蛇諸共その中へ落ちていた。
ゲートの先は、風の城の中庭だった。
「インファ……!」
蛇が、インファを噛み砕かないように髪を絡ませていたカルシエーナは、セリアの息を飲む声を聞いた。その声は、当然蛇にも聞こえたようで、鋭く頭をセリアに向けた。そのつるりとした何もなかったその額に、ギョロリと大きな目が開いた。
「カルシエーナ!兄ちゃん起こせやぁ!」
ケルゥの声で、カルシエーナは蛇に向かって大地を蹴っていた。高く跳ぶと、蛇に咥えられたインファに手が届いた。インファの翼をトンと叩きながら、カルシエーナは叫んだ。
「お・き・ろ!」
カルシエーナはそのまま空中で一回転すると、駆け寄ってきていたケルゥの、肩と差し伸べてくれたその太い腕に降り立った。上を見上げると、蛇の口の辺りに鋭く眩い光が閃いた。
遅れて爆発が起こる。爆発の煙が風に攫われると、頭を失った蛇とそれを見下ろすように翼を広げたインファがいた。爆発で紐が切れてしまったのだろう。インファの長い髪が荒れ狂う風にたなびいていた。
「ケルゥ!後で説明してもらいますよ!」
「オレ様の仕業だって、よくわかったなぁ。さすが、兄ちゃん」
それでこそインファだと、うんうん頷いているケルゥの目の前で、蛇の首が再生した。
「言ってる場合ですか!オレ達では不利ですよ!あなたでも、焼き尽くせません!」
うーんと蛇を見つめたケルゥは、インファの言葉に頷いた。
「だな。息が続かねぇ」
ギョロッと瞳を開いた蛇が、インファに噛みつこうと襲いかかっていた。インファはバクバクと開閉を繰り返す口を避けながら、白い剣を抜いた。噛みつかれるギリギリで躱し、剣で頭を切り落とすが、分かたれた頭は霧散したものの、すぐに頭は再生してしまった。
蛇は一つの目でインファを見ていたが、突然何かを見つけたように、ギョロリと視線を巡らせると、標的を変えた。
「セリア!」
セリアに気がついたインファは、彼女を救おうと飛んだが、蓄積された疲労が重く、いつものキレを奪われていた。間に合わない。
立ち尽くすセリアは、しかし、その瞳は真っ直ぐに蛇を見ていた。バクバクと激しく噛みつこうとする頭を、セリアは躱し続けた。セリアの力では反撃することはできなかった。さて、躱すことは容易いが、いつまで躱し続ければいいのかと、いい加減思い始めたセリアの耳に、レイシの吹く笛の音が聞こえてきた。
ドンッと銀色の腕が蛇の頭を掴んでいた。それは、あの日見た妖精の女王の腕だった。
レイシは笛の音で、巨大な妖精の女王を作り出していた。あんな別の存在を呼び出したかのような魔法を、間近で見たセリアは、思わず逃げることを忘れて立ち尽くしてしまった。
宝石の精霊の視線を奪うほど、美しい金属光沢だった。プラチナでできているようだなと、見とれていた。そんなセリアの体を、空から鋭く舞い降りた温もりが攫った。
「ちゃんと逃げてください!」
「イ、インファ?」
間近でした強い声に、セリアは顔を上げていた。横抱きに抱え上げられた為に、彼の横顔が目の前にあった。穏やかな表情しかほとんど知らないセリアは、インファの余裕のない険しい表情、鋭く前を見据える瞳の強さにドキリとした。
この人……なんて、なんて、綺麗なの?そう思ってしまったら、ここから逃げなければとそう思ってしまった。
「あ、待っ!暴れないでください!落ちますよ!」
インファを意識してしまったセリアは、思わず空中で抵抗してしまった。それを咎められ、セリアは一応大人しくなったが、顔をそらしてインファの顔を見なかった。
抵抗するんじゃなかった!とセリアは思った。落とさないようにと、インファの腕がさらにセリアの体を抱きしめていた。これだけ戦っている人だ。細く優美に見えても、その腕は男性的で力強かった。
どおしよう!心の準備が……!
「すぐ降ろしますから、我慢してください」
努めて優しい声色で、そう声をかけてくれたインファはきっと、嫌がられていると勘違いしているだろう。
「あ、あ、あ、あのね?か、顔が近くて……恥ずかしいのよ!」
セリアは誤解されたままも嫌で、でも顔も見られなくて、両手で顔を覆うしかなかった。
「……そうですか。すみません……」
戸惑うような声で謝られて、セリアはいたたまれなかった。
「もおおおお!謝らないで!もお……嫌……」
両思いなのだと思ったら、途端にどうしていいのかわからなくなってしまった。片思いだと思っていたときには、恥ずかしさなど感じなかったのに。このぬくもりに手が届くかもしれないと思ってしまったら、もう、胸のドキドキが止まらなくなってしまった。
「……すみません。ところで、これは何ですか?」
インファはセリアの腕から落ちそうになった、ガラスの翼を取り上げた。
「え?えええっと……そ、それは……」
「……後で聞きます」
しどろもどろなセリアに、小さく溜息を付くと、インファはそれ以来口を閉ざしてしまった。セリアは情けなくて、泣きそうだった。しかし、初めて意識して感じる温もりに、このままでいたいなと思ってしまった。
カルシエーナに深い深淵の底まで意識を叩き落とされ、そのあとすぐに急浮上させられたインファは、意識が時折グラリと揺れるのを感じていた。それでもまだ、飛ばなければならない。レイシを放ってはおけないから。
バードバスのそばに、リティルとシェラがこちらを見上げて立っている姿を見て、張りつめていた緊張が解けるのを感じた。
「父さん!ただいま戻りました。謝罪は後でします」
フワリと、舞い降りる感覚がして、セリアはリティルとシェラの前に降ろされていた。
「ああ、お帰り。セリア、親子で決闘する気はねーから、今はシェラに慰めてもらってくれよ。ごめんな」
インファから逃げて、縋りやすいリティルに抱きついてしまったセリアを、シェラが微笑みながら優しく引き離した。もう誰の顔も見られなかった。リティルの苦笑交じりの、優しく気遣う声すらいたたまれない。
「父さん、そんな気遣いは無用ですよ。王に逆らった咎は甘んじて受けますから、今はレイシの加勢に行かせてください」
「インファ、おまえはこれ以上飛ぶな。適任者に声かけてるから、傍観してろよ」
インファは、リティルに腕を掴まれていた。そんなに強く掴まなくても、振り払いはしないというのに、その手には痛いくらいの力が込められていた。その普段どおりの顔からは想像できないが、よほど心配してくれたのだなとインファは感じて、瞳を伏せて俯いた。そんなインファの顔を、彼の長い金色の髪が影を作り隠してしまった。
「来たな。夕暮れの王。ルディル!レイシのこと頼むな!」
上空に、オレンジ色の輝きが飛来していた。セクルースの片割れの太陽である、ルディルだった。
「ちっ!オレの不手際だ。てめぇの代わりに面倒見てやる!リティル!このルディルの最高のショーだ!そこで観戦してろ」
不機嫌そうだったルディルだが、最後には自信の漲る豪快な声で笑った。オレンジ色の炎を纏った翼で、ルディルは善戦するレイシのもとへ舞い降りていった。
「よろしくなー!まあ、そういうことだ。おまえの出番はないぜ?インファ」
リティルは代わらぬ笑顔で、笑ってくれた。しかし、この笑顔で、うやむやにされるわけにはいかなかった。インファはリティルの前に跪いて、頭を垂れた。
「風の王、命に背き、申し訳ありませんでした!雷帝・インファルシア、どんな罰も受ける覚悟はできています」
「まったく……思わずキレるほど心配したぜ?おまえ、しばらく謹慎な」
溜息交じりにリティルは言うと、ポンッと顔を上げない息子の肩を叩いた。
「父さん……罰になってないですよ?」
不満そうに、インファはリティルを睨んだ。
「そうか?謹慎中、おまえにはセリアを口説いてもらうって言ってもか?雷帝、蛍石はこの城になくてはならない存在だ。どんな手を使ってでも、手に入れてこい。これを、王に逆らったおまえへの罰とする」
はい?それは誰得ですか?オレがウッカリ愛する人だと暴露してしまったから、そんなことを言い出したんですか?これは罰ですか?ご褒美の間違いではないんですか?それより、セリアにとって迷惑ではないんですか?オレは、彼女に顔すら見てもらえないくらい、嫌われていますよ?城になくてはならない存在とは、彼女に何をやらせるつもりなんですか?過信すると壊れますよ?蛍石は脆いですから。そもそも、口説くとはどういうことですか?オレのいない、二ヶ月の間に何があったんですか?手に入れるとは、城の為ですか?オレがもらっていいんですか?待ってくださいよ。オレがもらう?それはありえないでしょう!
インファには珍しい逡巡ののち、彼には珍しい答えが返ってきた。
「……………………………………無理です」
「ハハ、そう言うなよ。な?おまえには十分すぎる罰だろ?セリア、責任取らせるっていっただろ?逃げてもいいけどな、覚悟して、うちの雷帝に口説かれてくれよ?オレ、君を諦める気はねーからな」
顔を上げたリティルは、楽しそうに笑っていた。まだ控えたままでいるインファの表情は、解けてしまった髪の影になって見えなかった。
風親子に視線を向けられて、セリアはシェラの背に隠れてしまった。
「もお……わたしにそんな価値ないって、言ってるのに……」
こんな意識してしまった状態で、インファに口説かれたら、死ねる!とセリアは身の危険を感じていた。
「あら、わたしもあなたがほしいわ。セリア、この城にあなたを手放したい人は、いないと思うわよ?」
シェラは自分の羽根の影に隠れているセリアを、首だけ動かして振り返り、困ったように微笑んだ。
「シェラ様まで……でも、わたし、インファとは嫌なの!」
風の王に背くような、そんな精神状態にもうなってほしくない。セリアは、自分がインファの隣にいて、王と副官の揺るぎない信頼関係に、ヒビでも入ったらと思うと、心の底から嫌だった。
「傷つきますね」
随分嫌われたなと、インファは思った。しかしリティルは知っている。セリアの言葉は、インファを想っての言葉であることを。
それにちゃんと気がついてやれよ?と、リティルはただただ困って笑った。
「まあ、頑張れよ」
リティルは立ち上がらないインファの肩を叩くと、シェラを伴って戦場へ足を向けた。
のたうつ蛇と、レイシの操る妖精の女王の攻防は続いていた。ルディルの放つオレンジ色の炎と、ケルゥの肩に乗るカルシエーナの髪が、蛇がセリアとインファを捜すのを阻止していた。レイシの奏でる笛の音が、未だ止まずにか細く響いていた。オレのいない間に、ここまでの魔法を操れるようになるとは……と、インファは素直に感心していた。そして、オレが手を放しても、弟はもう大丈夫だなとそう思えた。
見れば、空からノインとインリーが戦線に加わった。もう、本当にインファの出番はなかった。
レイシのことは太陽王に任せようと、やっと立ち上がったインファだったが、もう闘わなくていいと言われてしまい、最後に残っていた緊張の糸が切れてしまった。一瞬意識が揺らめくのを感じて、思わず額を押さえた。
「休んだ方がいいわよ?半月、まともに寝てないんでしょう?もお、どうしてそんな無茶するのよ……」
セリアはインファの手が届かない位置から、様子を窺っていた。そして、心配そうにしていた。あなたを守りたかったからと言えずに、インファはセリアの顔をまともに見られなかった。
「……レイシを導いてくれたのは、あなたですか?」
インファは立っていることを諦めて、草の上に座り込むと、こちらに近づいてこないセリアを見た。
「話を聞いただけよ。導いたのはリティル様よ。そのガラスの翼、あなたにあげる。あなたから、レイシにあげて。あの子、わたしからは受け取れないって」
インファは、草の上に落ちていたガラスの翼を拾い上げた。ルディルの隣で、笛を吹き鳴らすレイシの背中にある翼と、そっくりなガラス細工だった。レイシが、あの翼を手に入れる為に、セリアに手伝いを頼んだことがインファにもわかった。
「わかりました、渡しておきます。弟のこと、ありがとうございました」
インファはガラスの翼を、手の平に集めた風の中に隠してしまった。
頭を下げられたセリアは、どういたしましてと言ってやっと笑った。
インファは、やっと、笑うセリアに会えたと思った。
「セリア、キスしたこと怒っているんですか?」
唐突にこの人は、人の心を掻き乱すな!とセリアは一瞬イラッとした。本当にセリアにとって、キスで邪精霊の欠片を奪われたことは、屈辱だったのだ。
「……あんなの、キスとは言えないわ」
「では、何を怒っているんですか?」
なぜ怒っていると、取られているのだろうか。セリアは、首をひねった。そして、ああ、近づかないからかな?と思ったが、近づいてやるものか!と思った。
「何って、怒ってるわけじゃないの。困ってるだけ」
「城の皆がすみません」
リティルが、口説き落としてこいというくらいだ。最初に飛ばしたあのツバメのせいで、セリアが迷惑を被ってしまったのかな?とインファは思ってしまった。
セリアは、あのツバメの内容を知っているのだろうか。知っていてこの態度だとしたら、もう、彼女の心にインファはいないのだなと、インファは思った。諦めてくれることを望んだのに、いざその心をなくされると、酷く傷つく。なんて、自分勝手なのかとインファは情けなく思った。
「インファわたしね、あなたのこと、殆ど知らないわ。あなたも、わたしを知らない……だから、だからね!」
「だから、オレとは始まれません。か?そうでしょうね。オレの記憶にあるあなたは、泣いてばかりです。一緒にいても、辛いだけでしょうね」
視線をそらしたインファの横顔は、彼の長い髪に隠れて見えなかった。インファの諦めている声色が、セリアの胸に突き刺さった。辛いわけないじゃない!言えなかった。
「ねえ、インファ、風の奏でる歌、歌ってくれる?」
風の精霊ではないセリアには歌えない歌。彼から全力で逃げようと、心に決めていたセリアは、最後に彼の歌う、この大好きな歌を聴きたかった。
これで、終わりにするつもりだった。
「今ですか?期待しないでくださいよ?」
インファは、城で一番下手だと思っていた。
リティルのように、心根一つで様々に歌うことはできない。
シェラのように、眠ってしまいそうになるほど安らぎも与えられない。
ノインのように、魂を揺さぶり心に力を与えることもできない。
インリーのように、沈んだ心を浮上させる明るさもない。
それでも、彼女が望むなら歌うしかない。
セリアは、内心断られると思っていた。
だが、インファは立つこともできない様子だったが、セリアの頼みを聞き、歌ってくれた。セリアの好きな、その声で。
セリアは、インファの歌声に耳を傾けながら、彼の隣に立ち、瞳を閉じた。
この歌を、心に刻みつけよう。最後の、思い出に。
──君が守ると言ってくれるから わたしは隣で生きよう
──たとえ 辛くとも
──たとえ 輝きを失っても
──たとえ 疲れ果てても
──心に 風を 魂に 歌を 不可能じゃない 繋いだ手を 放さずにいこう
──願いの果て 君の微笑みに 会えたのだから
──わたしは この風の中 生きていける――……
疲れていただけかもしれない。インファの歌声が、この上なく優しかったのは。
セリアの望む歌声だった。あの日、この人を好きだと自覚させられた歌声そのものだった。
「インファ、あなたが好きよ」
その告白を聞いて、インファの歌が唐突に止んだ。耳を疑ったのか、インファはすぐにはセリアを見なかった。
「だからね、あなたとは一緒にいたくないの」
走り去るセリアの瞳から、宝石のような涙が流れていた。バードバスの扉は開いている。セリアはルキルースへ逃げた。
「これは、追ってこいと、そういうことですか?もう、あまり余力はないんですけどね……しかたありませんね」
インファは蹌踉めきながら立ち上がると、セリアを追ってルキルースへの扉を潜った。
のたうつ蛇に、妖精の女王で格闘を仕掛けたのはいいが、レイシはここから先、どうすればいいのか途方に暮れていた。
斬っても、爆発に巻き込んでも、蛇は再生した。あとは、焼き尽くすとかそういうことだろうか。しかし、風の城には大規模な炎を操れる者はいなかった。辛うじてケルゥが使えるが、焼き尽くすには至っていない。
「ルディル!レイシのこと頼むな!」
「ちっ!オレの不手際だ。てめぇの代わりに面倒見てやる!リティル!このルディルの最高のショーだ!そこで観戦してろ」
リティルとルディルの声を聞いたのは、そんなときだった。ルディルの炎なら、そう思った時、太陽王が舞い降りてきた。
「珍妙な魔法だな。おまえの力は、太陽光か?じゃあ、まあ、なんとかなるな」
妖精の女王をマジマジと見ていたルディルは、独りごちた。
「はあ!」
気合いと共にルディルが手を鋭く振るうと、オレンジ色の炎が妖精の女王と蛇との間に燃え上がった。蛇はやはり炎が苦手なようで、怯み、ズルズルと炎から距離を取った。
「いいか?そのままよく聞け。太陽光の力は、光と熱だ。熱を使えばおまえにも炎を生み出せる。なんとかして、熱を高めてあいつを燃やせ!」
説明がザックリだなと、レイシは顔をしかめた。いかにインファが丁寧できめ細やかだったかを、レイシは知った。
ええと、と、レイシは笛を吹きながら考えを巡らせた。
高める……高める……一点集中?
もう、考えてもよくわからない。レイシはとりあえず、女王に指示を出してみる。女王は両手を合わせ手の平から、閃光を放っていた。閃光は蛇を貫き、体に穴を開けたがその穴はすぐに塞がってしまった。
「それじゃダメだ。頭使え!」
そんなこと言われてもなぁ、と、レイシは顔をしかめた。
「ハハ、ルディル、おまえ指導者には向かねーな」
見かねたリティルが、助け船を出すべくやってきた。指導者に向かないと言われたルディルは反論したそうに眉を釣り上げたが、何も言えずに舌打ちした。
「レイシ、おまえの力、ちょっと借りるぜ?」
レイシは、笛を吹きながら、リティルに信頼しきった瞳を向け頷いた。
リティルはそっと、レイシの背に触れると蛇を見据えた。しばらく動かなかったリティルが、すっとレイシに触れていない方の手の平を蛇に向けた。
蛇が、透明なドームに覆われていく。ガラスのような硬質な煌めきで造られたドームの中に、雲の切れ間から射す光の帯が幾筋も蛇に向かって伸びていた。
「えぐくねぇ?」
腕を組んで傍観していたルディルが、リティルをヒョイッと振り向いた刹那、ドームの中を紅蓮の炎が蹂躙していた。集められた光の熱が限界に達して、発火したようだった。
「しかたねーだろ?理解力が足りねーんだからな。けど、炎系ほしいよな。おまえ、現役のころどうしてたんだよ?」
「あ?エセルトに火打ち石もらってきて、燃やしてたぞ?」
あいつを頼らないで、今までどうしてたんだ?と逆に問われてしまった。
エセルトは、炎の領域を支配している、炎の王だ。同じ、元素の王の仲間であるため、彼とはリティルも仲がいい。ただ、少しばかり頼りづらいのだ。
「エセルトか、あいつを頼ると、マグマを寄越すから怖いんだよな……」
良い奴なんだけどなと、リティルは困ったように笑った。
一度、本当にどうしようもなくて、エセルトに協力を要請したことがあった。そうしたら彼は、周りが焼けただれるのもお構いなく、大型の魔物の真下からマグマの火柱を上げた。
これには、インファも慌てて、急遽水の王・メリシーヌに声をかけ、鎮火。破壊された大地は、大地の王・ユグラに頼んで直してもらった。大惨事だった。
エセルトは、リティルを含め、他の二王にもしこたま怒られた。
「おまえ、弱いと思われてるんだな……よし!こんどあいつに言っとくわ。リティルは強えから火打ち石でいいってな」
「ルディル、オレ、激弱だぜ?変に否定されると、また手合わせさせられるからやめろよ。火傷まみれにされて、また、シェラに怒られるの嫌だぜ?」
リティルは、炎と光のドームの消えたその辺りに、風を放った。今度こそ滅したかを確認したのだ。
「おまえのあの優秀な副官、これで帰れるな」
オレもしばらくお役御免か?と自分の腰と肩に手を置いたルディルは、コキコキと首を鳴らした。ルディルはどうやら、こっそりインファを見に行ってくれていたらしい。顔にも態度にも出さないが、自分の失態だと責任を感じているらしい。そんなもの感じなくていいのにと、リティルは心の中でありがとうと言った。
「インファか?あいつは謹慎中だ。たぶん、ルキルースからしばらく帰ってこねーよ」
リティルはチラリと、バードバスに視線を送った。
「あ?謹慎ってなんだ?失敗して、蛇をここへ連れ込んだからか?おまえ、厳しすぎねえ?」
なぜかルディルが慌てている。城に戻れずにカルシエーナと頑張っていたインファを、リティルが感じる以上にルディルは、気にかけてくれていたらしい。
「ああ?違げーよ。オレに逆らった罰だよ。セリアを口説きに行かせたんだよ」
逆らった?おまえに?あいつが?とルディルは驚いていた。オレもびっくりだよと、リティルは苦笑した。
「セリア?ああ、あの宝石の女か。おまえ、あいつが何者か知ってて、手に入れようとしてるのか?」
そうだとしたら、やっぱり侮れない男だなと、ルディルは思った。しかし、リティルは何のことだと、訝しがる視線を送ってきた。こいつ、天然だなとルディルは苦笑した。
「ラジュール、幻夢帝に粛清されただろう?創造主をヤラれたら、造られた中級精霊達も道連れにされるだろう?ルキはそれを阻止する為に、蛍石を次の宝石の母にしたんだ。宝石三姉妹とはちいとばかり縁があってな、気になって聞いたんだわ。おまえ、ルキと懇意のくせに知らなかったのか?」
「ホントかよ!あいつ……何が中級精霊だよ!上級も上級、最上級に手が届くじゃねーか!本物の至高の宝石じゃねーか」
「まあ、おまえが気がつかねぇのも無理ねぇわ。たぶん、覚醒前だ。ルキも伝えてねぇんじゃねえ?」
「おおい……インファ、行かせちゃったよ……オレ、ルキの所行ってくるぜ」
リティルは頭を抱えたが、すぐに立ち直ってルディルにそう言った。
そこへ、やっと会話終わった?と言わんばかりに、レイシが近づいた。
「父さん、行く前に話、聞いてほしいんだけど?」
「ああ、悪いレイシ、どうしたんだ?」
「オレ、しばらく太陽王の所に通いたいんだ。許可してくれないかな?」
リティルはルディルを見上げた。ルディルは僅かに瞳を見開いていた。
オレの所?おまえの父親をヤッたオレのところにか?とルディルは内心動揺していた。
ややあって、ルディルは口を開いた。
「オレんところで修業した方が、手っ取り早いわな。レシェラなら、おまえの力導けるだろうからなぁ。許可してやれ、リティル」
「おまえがいいなら。ありがとな、レイシのこと頼むよ。レイシ、インリーつけるけどいいか?」
気を使いながら、リティルはレイシを窺った。
あなたが気を使うの?とレイシは内心呆れた。インリーにとって、危険人物かもしれないオレを気遣うの?とレイシは思ってしまった。
「そうなるよね?いいよ、いつも通りで」
レイシは仕方ないとため息を付きながら、困ったように笑いながら同意した。まだまだ、力の理解力が足りないレイシは、心許なくてとても一人では飛ばせられない。城で手の空いていて、レイシに付き合えるのはインリーしかいなかった。そのことを、レイシもちゃんと理解していた。
そのやりとりを見ていたルディルは、レイシがインリーをつけられるのを渋るのを見て、なんだ?喧嘩中かこの夫婦と思った。そう思って、ああ、間違えた兄妹だったわと、心の中で訂正した。
「インリー!おまえ、明日からレイシと太陽の城行ってくれ!」
「ハルのところ?はーい!」
上空でノインと話をしていたらしいインリーは、声がちゃんと聞こえたようで、返事をして手を振った。リティルはじゃあなと行って、バードバスに向かって行ってしまった。
そんなリティルを、ルディルは険しい瞳で見つめていた。
「シェラ、リティルに変わりねぇか?」
ルディルが頻繁に風の城を訪れていたのは、何もインファの穴埋めに、駆り出されていたばかりではなかった。ルディルは、リティルの様子を監視していたのだ。
「ええ。何か、心配なの?」
「原初の風の力の発現はまだってことだな。あれが目覚めたら、リティルは晴れて最上級精霊の仲間入りだ。しばらく、力が不安定になる。支えてやってくれ」
シェラは息を飲み、瞳を伏せた。リティルの力が増していることに、シェラは気がついていた。気がついていたが、リティルはケロッとしていて、変わった様子がない。しかしやはり、気のせいではなかったのだと、シェラは悟った。
「……あなたを責めたいわ」
リティルの体の強度を知り尽くしているシェラは、彼の体が、最上級精霊への転成に、このままでは耐えられないかもしれないことを、瞬時に理解した。
「責めろ。オレの勝手で風の王達を犠牲にしたんだ。それは偽らん!おまえには、オレを責める権利がある。だが、リティルなら継げると思うから渡したんだ。それだけは、わかってくれ」
苦しそうなルディルの様子に、レイシは、控えめに声をかけた。
「ルディル、ちょっといい?父さんさ、オレに原初の風の四分の一をくれるって言ってるんだ。オレが引き受けても、父さんの助けにならない?」
レイシの鋭い瞳を見返し、ルディルは溜息をついた。
「あいつ、無意識でやってるのか?シェラ、もう一人作ってやれ。あと四分の一、誰かが肩代わりすれば影響は最小ですむ。押さえる方も楽できるぞ?」
「か、考えておくわ」
レイシの手前気丈に振る舞ったが、顔が赤くなるのはどうしようもなかった。それを見たルディルは、二人も血を分けた子がいて、こんなに仲睦まじいのに、照れるか?とハルにはない可愛い反応に、そりゃリティルは手放せないわなと思った。
「レイシ、早く譲渡してもらえ。しばらくおまえも不安定になる。譲渡されたら、太陽の城に住め」
「え?それは、断る」
レイシは即答した。即断られたルディルは、瞳を見開きすぐに険しくレイシを睨んだ。
「てめぇ、リティルもヤバイって言ってるだろう?シェラと風二人だけじゃ、押さえるのは必死だ。おまえはこのオレが、引き受けてやるって言ってんだよ!」
ルディルの怒りに少しも怯むことなく、レイシは言った。
「父さんの命令なら行くよ。でも、そうでないならオレは、風の城にいる。オレも風一家の一員だからね。風の王の命がなければ動けないよ。でも、ルディル、その時はお願いします」
威勢よく逆らったかと思えば、深々と頭を下げてくるレイシに、呆気にとられてルディルの怒りは鎮火していた。
「かー、可愛くねぇ!この城の奴らは、一癖も二癖もありやがる」
「あなたが言う?ルディル、父さんのこと、守ってよ?父さんにもしものことがあったら、オレ達、世界を滅ぼすよ?」
レイシの鋭い瞳に、狂気が宿った。その瞳に、ルディルは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
混血精霊は世界の意志の影響を受けない。どこまでも自由に、心のままに力を振るえる。故に、リティルは、これまでに出会った混血精霊をすべて斬るしかなかった。リティルの手にすら負えない存在に、事が起きたときにはすでになってしまっているのだ。
レイシは、リティルに導かれ、彼が父親として存在している為に、人の形を保っている。しかし、精霊王が彼のたがを外してしまった。元風の王のルディルからすれば、レイシはすでに処分の対象だった。もう風の王ではないということもあるが、ルディルもまた十五代目風の王を信じていた。そして、その王の導くレイシのことも。
「言うねぇ。じゃあ、おまえが守れ。獣王」
ルディルには、レイシの化身した有翼ライオンの姿が見えていた。しかし、レイシには実感がないようで、言葉の意味すらわからないようで、首を傾げた。
「じゅうおう?」
「わからねぇなら今はそれでいい。だがなあ、レイシ、風の王の息子が軽々しく、世界を滅ぼすとか言うんじゃねぇ。風の王は、世界を護る刃だからな」
その息子が滅ぼしてどうする!と、ルディルは叱った。
「わかった。もう言わない」
ルディルの説教を、レイシは素直に受け止めた。鋭く近寄りがたい瞳だが、レイシはいい子なんだよな……とルディルはいまいち接し方を決めかねていた。
思えば可哀想な境遇の子だ。
レイシ――それは、ライチという果物の別名だ。そしてその名を、精霊の言葉で言うと、シュレイクだ。彼の母親は、父と子をせめて名で繋ごうとしたのだろう。自分は二人を、おいて逝かなければならないから。
そう思うと、切ない。
レイシとシュレイク。ルディルは、二人をわかり合えないまま永遠に引き離した。あんな風に、自分の子をズタズタに引き裂いたシュレイクの行いが、ルディルには許せなかったのだ。
今となっては、それがよかったのか、間違っていたのかわからない。だが、あの瞬間、自分には、安易に得られない存在なのに、それを愛せないなんて贅沢だとルディルはシュレイクに嫉妬した。そして、レイシごと、あいつからすべて奪ってやろうと、思ってしまった。
花の姫ではなくなったが、ハルに頼めば与えてもらえる。空席となった、智の精霊と力の精霊を生み出さなければならないからだ。それを子として生み出すか、守護精霊として生み出すか、決めなければならなかった。しかし、ルディルには子という存在を恐ろしくて、今現在も自分の意志で持つ勇気はなかった。無責任だが、降って湧いたら仕方ないと受け入れられるのに……。
ルディルはレイシを見た。
レイシ……今、ルディルと同じ力を持つこの精霊を、シュレイクから奪い取ったこの力で導く。それができるだろうか。しかし、やらなければならない。
間違いでもなんでも、彼は愛し合う者の中から生まれてきたのだから。愛される権利があるのだから。血を呪い、自分は愛される存在じゃないと思い込んでいるレイシを、そうではないと、こちら側に引き戻してやりたい。リティルにもできていないことを、このオレにできるのか?とは思うが、今太陽の力を持つ自分だから、やらなければならないとそう思った。
――シュレイク、レイシは幸せになるぞ?皆で寄って集って、ああ、生きていてよかったと思わせてやる!おまえは、そんな息子の姿見て、精々羨ましがれ!隣で笑えない不幸、思い知れ!それでいつか思ってくれ。レイシ、おまえをこの世に残せてよかったと……。思い、やがれ!
ルディルは、舞い降りてきたインリーに、明日から何をするのかと、尋ねられているレイシを見つめていた。レイシは、どこかぎこちなく、易々と踏み込んでくるインリーに戸惑っているようだった。