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六章 蛍石と風の息子

 セリアが風の城に来て、一ヶ月が経とうとしていた。

主力の一人であるインファの穴を埋めるため、夕暮れの王までもが駆り出される事態になってしまっていた。

「蛍石の、気にするな!リティル、おまえは城にいろ。このオレが飛んでやる」

ガハハハと豪快に、元風の王は魔物狩りに揚々と出掛けていった。

 申し訳なくて、謝罪を繰り返すセリアに、城の面々は気にするなと笑ってくれる。いたたまれなくて、温かくて、くすぐったい。暖炉の火のように温かい、インファの眼差しのような城だと、セリアは思った。

 家族や仲間の集う応接間に居づらくて、セリアは中庭の東屋にいることが多かった。しかし、殆ど一人でいさせてもらえなかった。今日の相手は、再生の精霊・ケルディアスだった。彼はこんな怖い容姿だが、気遣いのできる大人な精霊だった。たまに、見かけより子供っぽいのは、素だろうか?演技なのだろうか?

「セリア、兄ちゃん達順調だってよぉ。カルシエーナも、一回もどついてねぇって」

「そうなのね……教えてくれてありがとう」

しかし、セリアは彼等を疎ましく思うことはなかった。戸惑いはするが、この温かさにホッとする。

「なあ、気ぃ悪くしたらすまねぇ。兄ちゃんとは、どこまで進んでたんだぁ?」

「ケルゥ、直球ね!お姉さんびっくりよ?ウフフフ。手も握ったことないわよ?出会った頃は意識体だったもの、触れ合うことはできなかったわ。再会してからは……インファは忘れてしまっていたし。あ、でも、インファが悪いんじゃないのよ?意識体での経験は、夢と同じなの。肉体に戻って目覚めれば、すぐに忘れてしまうんだから……」

セリアはインファを庇って、それで俯いた。

ケルゥは、宝石の精霊が相手だと知って、実はずっとセリアを探っていた。リティルはいつものことだが、今回はノインも彼女を信用していた。ただの仲間ならそれでもいいが、彼女はインファに気がある。インファは飄々としているが、あれでいて容姿通り繊細だ。

宝石三姉妹の末の妹のことは全く知らないが、姉二人の過去を知るケルゥはどうにも、手放しには信用できなかったのだ。

今は信頼できる友人のスワロメイラが、たまに様子を見に来る。彼女にも聞いてみたが、セリアはいい娘よ?と言っていた。だから、心配なのだとも。

「ふーん。兄ちゃんと恋愛ってなぁ、全然結びつかねぇのよ」

「インファって、ストイックなのね。風の王夫妻の息子とは思えないわ」

あの容姿で、恋愛に奔放でも怖いとは思うが……。

雷帝・インファの噂は、セクルースを彷徨っていた間にいろいろ聞こえてきた。

総合すると、女性に興味がなく、とても面倒見のいい博識で強い精霊。と、いい噂が多かった。ただ、釘を刺すように、ウッカリ恋をするなというのもあった。恋の相手としては最悪だと。好きのすの字も言わせてもらえない、伝説の告白百人斬りだとも。

告白百人斬りって、何なのだろう?セリアは、変な異名をつけられているのだなと、思った。だが、これが異名ではなく出来事の名であるとは、その当時ルキルースから出ることのなかったセリアは知るよしもなかった。

一五〇年前、女達に群がられていたインファはついにキレた。そして、暴挙に出たのだ。

――今から全員に返事をしてあげますから、並んでください

もの凄い甘い笑顔だったと、立ち会わされたリティルは当時を語る。そして、一人一人有無を言わさず一刀両断で振っていったのだ。あまりの凄まじさに、逃げ出したかったとリティルは身震いと共に語る。

「容姿のせいで、苦労したって聞いたぜぇ?オレには恋愛感情はありませんって、言ってたっけなぁ」

だからこそ、ケルゥはインファを案じていた。理性も論理も通用しない、恋愛など彼には向かないからだ。

幻惑の暗殺者、その末妹のセリアと、風の王の副官・インファルシア。上手くいくのか?とケルゥは疑問に思った。私生活、本にしか興味のないインファが、宝石など愛でられるのか?とそう思った。傷つきはしないか?と心配だった。普段理性が強い分、感情に飲まれやすいからだ。しかも、その自覚がないのだから、たちが悪い。だから、そうなったとき助けを求められない。今回はカルシエーナが一緒にいるが、どうなることやら――

「ケルゥは?カルシーとどうなの?」

インファのことを考えていたケルゥは、自分達のことを尋ねられて我に返った。そして、自分が案じていることが、滑稽なことだったと思った。こんなこと、余計なお世話だ。カルシエーナとは違い、インファもセリアも大人なのだから。

「ああん?オレ様達かぁ?カルシエーナの奴、がっつきやがるからなぁ。オレ様いつもへとへとよぉ」

気怠そうに、何の気なしに、ケルゥは答えた。これには、セリアは笑うしかなかった。

「ごめんね。離れ離れにさせて……。いつも一緒だったんでしょう?」

気を使ってばかりの女だなと、ケルゥは思った。応接間にいないのは、何か企んでいるのかと思いもしたが、どうやら、居づらかっただけなのだなと感じた。

ノイン、スワロメイラ。ケルゥの信頼する二人が大丈夫だと判断したのだ。もういい加減、セリアを信じてやろうと思えた。

「おめぇ、まぁだ、そんなこと思ってたんかぁ?オレ様達は一心同体だからなぁ。こんなの、離れてるうちに入らねぇのよ。現にカルシエーナの奴、お兄ちゃんと遊べるって舞い上がってんぜぇ?」

クククッとケルゥは凶悪な笑みを浮かべた。どうやら、本心のようだ。

「必然の関係だったわね。羨ましいわ……」

そう言えば、諦めてるんだったっけと、ケルゥは思い出した。あのインファ相手に、すぐ諦めるようでは、あんまり本気でもないのかな?とも思った。

「そぉかぁ?オレ様は、リティルとシェラの方が羨ましいぜぇ?相性激悪なのに、あれって、相当だろう?」

繋いだ手が、離れないように守っているようなリティルとシェラを見ていると、確かに羨ましく思う。精霊王との戦いの後、シェラは徹底して城の守りにつき、リティルとは飛ばなくなった。リティルが出かける前の様子は、本当に切なくなる。それでもシェラは送り出し、リティルはちゃんと帰ってくる。

「だからよぉ、セリア、兄ちゃん落とせよ。そんで、カルシエーナの姉ちゃんになってくれよぉ。おめぇ、そんなナリしてっけど、相当強ぇだろう?」

言葉の前半部分は聞かなかったことにして、相当強い?どこをどう見てそんなこと言っているのかしら?と、セリアはケルゥを見返した。再生の精霊は、疑いようもなく最上級。こっちは、しがない中級だというのに。でも、ちょっと遊んでもらおうかな?と前向きにセリアは思えた。こんな、穏やかで温かな空気の中にいると、自分がどんな精霊なのか忘れてしまいそうだ。わたしは、皆に嫌われる、幻惑の暗殺者なのだから。

「強い?戦闘力のこと?力は全然大したことないけど……そうねえ、たぶん、あなたのこと出し抜けるわよ?」

セリアは足を組むと、その組んだ足の上に頬杖をついて、妖艶に微笑んだ。それを聞いたケルゥはニヤリと笑うと、立ち上がった。

「おい、手合わせすっぞ!おめぇも、軟禁されて飽きてきてるだろう?」

面白い人だなとセリアは苦笑した。あなたが相手じゃ、手合わせなんてできないわよと、セリアは心の中で困ってつぶやいた。

「ケルゥ、勝負は一瞬よ?」

「はん!上等だぁ!」

この城は本当に居心地がいい。スワロメイラが遊びに来たがるのも、納得出来た。

 セリアは片手に小さなナイフを抜くと、ケルゥと向かい合った。

ケルゥは本当に素直な男だ。一直線にセリアに向かってきた。勝負は一瞬だって言ったのに、と、セリアはクスリと微笑んだ。ケルゥの腕が立ち尽くすセリアに振り下ろされた。

「……ね?一瞬でしょう?」

ケルゥの攻撃をフワリと避けたセリアは、耳元で囁いた。セリアはケルゥの大きな背中に身を横たえ、手にしたナイフを彼の首にしっかり宛がっていた。

「幻惑の暗殺者。伊達じゃねーな」

ケルゥの背からフワリと飛び降りたセリアは、いつの間にかそばに来ていたリティルに、深々と一礼した。

「ありがとうございます。でも、インファには敵わなかったわ……。魂の欠片を取り上げられちゃうなんて、不覚もいいところだわ」

あのとき、逃げおおせていたら、魂の欠片を邪精霊にまで育てずに済んだのに……。苦々しい記憶が甦る。

 インファは大丈夫だろうか。カルシエーナがついていてくれているが、心配だった。あれ以上力を与えないように、ずっと気を張らなければならないだろう。そうすると、眠れないのでは?セクルースの精霊は、ルキルースの精霊と違って、眠らなければならないのに、本当に無謀なのだから!と、セリアは少しイラッとした。

「ハハ、あいつの狩りは一瞬だからな。不完全燃焼なら、オレとやるか?」

セリアは慌てて首を横に振った。

「いいえ!リティル様とはできないわ。きっと刺してしまうもの。そんなことをしてしまったら、スワロ姉様に怒られちゃう」

「ハハ、君は実践向きだな。ほしいなぁ」

「現地集合現地解散で、インファと組まなくていいのなら、いつでも呼んでいいのよ?宝石三姉妹は、風の味方だから」

徹底しているなぁと、リティルはセリアに感心していた。仕事だから仕方がないと、そう思うこともできるはずなのに、彼女はあくまでもインファの心を乱さないように、守る気のようだ。インファの隣にほしいなぁ。リティルは再びそう思った。

 一ヶ月前、泣きながら転がり込んできたセリアに、インリーは止める間もなく遠慮のない質問を浴びせてしまった。

泣き止んではいたが、心は大荒れだっただろうに、セリアは質問のすべてに答えてくれた。

意識体のインファと二ヶ月間一緒にいたこと。断崖の城で再会したが、インファには振られたことまで話して、謝罪した。あれは流石になかった。インリーをそのあとこっぴどく叱り。セリアの様子を確かめようと彼女のもとへ戻ると、セリアは言った。

──インファに、一生会うつもりはないわ

そんなに好きなのか?と、リティルは思ってしまった。そして、この娘がほしいなと思った。リティルのフォローが行き届かないインファの事を、完璧に支えてくれそうだ。

「来いよセリア、シェラがクッキー焼いてくれたぜ?」

「わあ!ありがとうございます。ケルゥ、また遊びましょうね」

セリアはニッコリと微笑んだ。そして、悔しがるケルゥの手を引いてやっていた。

──インファ、早く戻って来いよ。逃げられるぜ?至高の宝石にな

インファは彼女を見誤った。いつものインファだったなら、セリアは捕まえておくべき相手だとわかったはずだ。それを、インファの本気の想いが、獲物を決して逃さないイヌワシの瞳を曇らせてしまった。

闘う力はなくてもいいが、守られているほど大人しい娘ではないのは明らかだ。この城に留まっているのは、インファに対する罪悪感と、これ以上迷惑にならないように戒めているだけだ。

初めからセリアがインファを頼っていたら、もっと簡単にこの仕事は片付いただろう。しかし、インファを想うセリアにはできなかった。気持ちはわかるが、わかるが……上手く行かないモノだなとリティルは思った。そして、リティルにも覚えがある。父親である十四代目風の王・インに、シェラを悪戯に遠ざけるな!と怒られたことがあったなあと、リティルは思いだして苦笑した。


 ケルゥと一緒に応接間に入ってきたセリアを、皆は温かく迎えた。

「凄いね、セリア、わたし、あんな素早く動けないよ!」

「ウフフ、ありがとう、インリー。でもね、蛍石は脆いから、掠っていたら一巻の終わりだったわ」

「おめぇ!それを早く言えやぁ!危ねぇなあ」

ケルゥは一瞬青くなった。それを見て、セリアは、冗談めかしてごめんなさいと微笑んだ。そして、言ったら遊んでくれなかったでしょう?と、言った。

「清楚は見かけだけだな」

「あら、ノインは清楚なわたしが好みだったの?知らなかったわ。でも、知っての通りわたしは幻惑の暗殺者よ?清楚は初めから見かけだけよ」

シェラの淹れてくれた紅茶を、ゆっくりと飲みながら静かにつぶやいたノインに、セリアは笑顔と共に冗談を返した。

「その力で、兄貴を誘惑したの?」

和やかだった空気が一瞬で凍り付いた。皆の視線が、レイシに集まっていた。

「レイシ!そんなのあんまりだよ!」

氷のような瞳のレイシを、インリーは慌てて窘めた。そんなインリーを、セリアはやんわりと止めた。

「レイシ、それはわたしじゃなくて、インファを愚弄する言葉よ?あなたのお兄さんは、宝石如きの魅了にはかからないわ」

「でも、現に兄貴は!」

「言ったでしょう?インファの心に、わたしはいないわ。あの人は、ただ仕事してるだけよ。わたしの為じゃない。あなたの為よ?レイシ」

セリアは、インファがあのとき来てくれたことが、未だに信じられなかった。あの人の性格なら、徹底的に接触を避けたはずだからだ。

来てくれた理由、それは、心を病んだレイシの為としか思えなかった。

 精霊王に会う前のレイシは、大丈夫なのだろうかと思えるほど、悪意に晒されていなかった。そんな彼を、セリアは大きな悪意の中に放り込んでしまった。

風の城の皆が守ってきた、レイシの綺麗な心を汚して砕いてしまったと、セリアは自分のしでかしたことを悔やんでいた。

度々、風の城の様子を探っていたルキから、レイシの様子を聞き、しかし、インファのいるこの城に赴くわけにもいかず、セリアは願うしかなかった。

――どうか立ち直って。あなたを壊してしまって、ごめんなさい

今、以前の彼からは考えられないほどの悪意を向けられながら、セリアはそれでレイシの気が済むならと、受ける覚悟をしていた。

「なんで?兄貴はあんたを助けに行ったんだろ?なんでオレの為なんだよ!」

「あなたが、愛情を信じられなくなっているから。インファはわたしと何もないのに、噂になってしまったから、わたしに会いにこなければならなくなったのよ。あなたに、わたしを見捨てたように見せないために」

「何それ?それ、本気で言ってる?オレ知ってるんだ。兄貴が、あんたにもらった剣を大事にしてるの」

レイシは憎らしげにセリアを睨んでいた。セリアは、その瞳を真っ正面から受け止めていたが、彼女を動揺させたのは”あんたにもらった剣”という言葉だった。

「剣……?」

「そうだよ!百合の花の華奢な剣。覚えあるだろ!兄貴があんたを振ったなんて嘘だ。兄貴が振ったなら、あんなに大事にするわけないよ!なんで、会いに来なかったんだよ!」

レイシは、インファが返事をするよりも早く、彼の自室の扉を開けてしまったことがあった。そのとき、インファはガラスの箱の上部に手を置いていた。あの時の兄の顔を、鮮明に覚えている。

焦っていたのだ。インファは、扉を開けたレイシに、焦りの浮かんだ瞳を向けていた。兄は、見られたくなかったのだと、瞬間悟った。ノックはした。そして返事を待てばよかったと本気で後悔した。あの箱は、空かない箱だ。ガラスを割らなければ、中のナイフに触れることはできない。

――どうしました?レイシ

インファはその箱を、ぞんざいに脇へ押しやり、取り繕って微笑んだ。そんなことを、兄にさせてしまった自分が、許せなかった。なぜなら、あの時、インファは、哀しそうな愛しそうな、そんな瞳をしていたのだから。

大事なモノを、そんなぞんざいに――普段、本しか乗っていないテーブルにあった、異質なナイフ。あれが誰なのか、レイシにはわかった。わかるから、疑問だった。

なぜ兄は、彼女に会いに行かないのかと。

「剣……大事に……?持ってるの?インファはまだ、あのナイフを持ってるの?」

そんな、嘘だ……。

次元の刃を会得したインファには、もう無用のモノのはずだ。それを、なぜまだ持っているのか、セリアは理解が追いつかなかった。

あの剣は、セリアが蛍石の煌めきから生み出した物だ。セリアの欠片でできている。それを、ただ持っているだけでなく、大事に持っていると言われてセリアの脳裏に、よぎらなくてもいい知識がよぎってしまった。

精霊は婚姻を結ばない種族だ。しかしごく稀に、リティルとシェラのように婚姻を結ぶ者がいる。それには、特殊な儀式が必要というわけではない。とても簡単な方法で、二人が魂で繋がっていることを誇示することができる。

「あのナイフは、おまえの欠片か。捨てずに持っているということは、インファは魂を預けられているということになるな」

ノインは解説するように静かに言うと、紅茶をゆっくりと飲んだ。

言わなくてもいいのに!とセリアは、意地悪なノインを恨めしく思った。

魂を預ける──精霊の体の一部で作ったアクセサリーを相手に渡し、相手が受け取ると、グロウタース風に言うと婚約状態になる。

「ま、待って、あれは、アクセサリーじゃないし……次元の刃だし……そんなつもりじゃないわ!」

「あれくらいのナイフ、携帯できる。十分、アクセサリーの域だな。実用向きではないしな」

ノインはカップを置くと、立ち尽くすセリアを見上げた。

う、そ――ノインのもっともらしい出任せを、セリアは真に受けた。それほど、心が掻き乱されていたのだ。

「何よ……インファ……わたし、あなたがわからないわよ……。心がないって、そう言ったじゃない……!」

セリアは顔を覆うと、フワリとソファーを飛び越えて中庭へ向かって走った。

「セリア!雨降ってるよ!濡れちゃうよ!」

インリーが慌てて追いかけようとするのを、リティルは止めた。

 確かに外は雨だった。それでも躊躇せず、セリアは走り出て行った。

「そっとしておいてやれよ。あとで、オレが見に行くからな。なあ、ノイン、あんまり虐めてやるなよな。インファがいねーんだ、どういうつもりなのかわからねーだろ?」

あんなでかいナイフ、見せびらかす為に身につけられるかよ!と、リティルは窘めた。

冷静なら、本当に諦めた想いなら、ノインの出任せをセリアなら一蹴することができただろう。彼女はまだ、インファのことが好きなのだ。それを確信して、リティルは内心ホッとしていた。セリアが吹っ切れていて、インファの片思いなら、多分もう、始まることは不可能だ。インファは全力で想いに蓋をして、逃げてしまうだろうから。

「許せ。乗りすぎた。しかしリティル、おまえも知っていたのか?」

ノインは意外そうな顔をした。リティルは、おまえが知ってたことも意外だったよ!と心の中で悪態をつきながら、インファの想いをノインに告げて、彼を味方に引き込んだ方がいいのか考えあぐねいた。

いやいや、やはりダメだ。誰にも言うべきではない。ノインは信頼できるが、教えたらおそらく、今以上にセリアはつつき回される。ほら、さっさとインファに想いを告げてこい!と言わんばかりに。それは、かなり、セリアが不憫だ。

「ああ、まあな」

リティルは、いつ知ったのかの明言は避けた。

 セリアが転がり込んできた次の日、悪いとは思ったが、リティルはインファの部屋に入った。そして、テーブルの上に置かれたままの、件のナイフを見つけたのだった。そして、息子が本気であることを知った。

愛する人という言葉を、信じなかったわけではない。セリアの告白を疑ったわけではない。

ただ、今まで本当にそんな素振りがなかったために、リティルも心の整理がしたかったのだ。インファの部屋に入ったのは、愛する人だと伝えてくるほど、思い詰めていたのに、その心に気がついてやれなかったことが、不甲斐なくて、息子の気配に触れたかったからだった。

そして、見つけてしまった。周到な息子は、セリアに繋がるようなモノを、何も残していないと思っていた。しかし、それはあった。あんなに、堂々と。

嘘だろ?と思った。おまえ、セリアのことバッサリ切り捨てたくせに!と、思った。

こんなに好きなのに、そんなにこの城のことが、枷になっているのか?と、思った。

「レイシ、おまえもああいうことは、ばらすな。セリアの話じゃ、インファは剣をもらったあと振ったんだろ?それなのに大事に持ってるなんて、セリアにしてみたら寝耳に水だぜ?この場合、おまえはインファを責めなくちゃならないぜ?中途半端なことするな!ってな」

魂を分け合う──魂を預けられた精霊が、体の一部で作ったアクセサリーを返すと、婚姻状態になる。精霊同士の結婚は、誰に誓うモノでも祝われるモノでもないのだ。

リティルはシェラに、狼の牙の首飾りを渡し、シェラは青い光を返す黒いリボンを渡して、夫婦となった。

しかし、あのナイフはアクセサリーではない。セリアは、インファに魂を預けてはいない。

「参ったな……インファに直接聞くわけにもいかねーしな……あいつ、まだ変な物隠し持ってねーだろうな?」

リティルはインファの本心を知っている。だが、それを伝えるわけにはいかない。リティルは流石に困って頭を掻いた。

「レイシ、どこへ行くの?」

おもむろに立ち上がったレイシに、シェラは声をかけた。

「傷付けたのはオレだから、オレが行く」

冷たい瞳でぶっきらぼうにそう言うと、レイシは雨の中出て行った。

「うーん、雪解け間近か?」

「さぁなぁ。でもよぉ、オレ様、どっちのレイシもそんな変わんねぇよぉ?口調は冷たくなってもよぉ、あいつ変わらず優しいぜぇ?」

本質は何も変わっていないと、ケルゥは言い切った。まあ、そうなのだがと、リティルは説明できなくて言い淀んだ。

「思春期だ。そのうち落ち着く」

「あいつもついに、大人になっちまったかー。父さん寂しいぜ」

「落ち着いたら、ちゃんと鍛えてあげてね?お父さん」

「落ち着かなくても鍛えるけどな。あいつも何か隠してるんだよな……レイシは気になるけど、今はセリアだ。シェラ……大丈夫だと思うか?」

シェラはニッコリ微笑んだ。

「城から逃がさないように監視してね」

「うわ……重症かよ……」

リティルは頭を抱えた。そんな父の脇で、インリーは心配そうに雨の東屋を見つめていた。

 太陽の城から戻って以来、インリーはレイシに微妙に避けられていた。ハッキリ言われたわけではないが、近づかないでと言われているような気がしていた。寂しかった。

インリーも、ケルゥと同意見だった。冷たい瞳で態度が悪くなってしまったが、レイシの中身はレイシだった。なのになぜ、君はここに、オレの隣にいちゃいけないと、言われなければならないのか、インリーにはわからなかった。レイシの心がわからないインリーには、少し離れて彼を窺うことしかできなかった。

それが、酷く……苦痛だった。


 外は雨だ。この季節、そんなに冷たくはないだろうが……セリアは泣いているのだろうか。リティルは窓の外、レイシに手を引っ張られて東屋に走る二人の影を見ていた。

 それなりに激しい雨だった。

五角形の屋根を持つ東屋に、セリアを引っ張り込んだレイシは、髪から雫が滴るほど濡れていた。壁らしい壁のない東屋だが、風の魔法がかけられていて中にまで雨が降り込むことはなかった。

「風邪引くよ?」

「一人にして……お願い……」

セリアは東屋内に置かれていた石の丸い椅子に縋って、レイシに背を向けていた。

痛々しかった。セリアは、インファを想って、その心を諦めてくれたことを、レイシは感じた。そんな、本当に兄を想ってくれている人を、傷つけてしまったことを、心の底から後悔していた。

「ごめん!」

そんなセリアに、レイシは深々と頭を下げた。

「オレ、兄貴がずっと苦しんでるの知ってたんだ。インリーが不用意に、セリアに会いに行かないのかって聞いた時、兄貴、一瞬で心臓を止められるかと思うくらい怖い瞳してた。そのあとすぐ、いつもの笑みを浮かべてたけど。あれ見て、その後、あのナイフを見て、ああ、マジなんだって思ったんだ。それなのに、君から音沙汰ないから、弄んだんだと思って……。ごめん。弄んだのは、兄貴の方だったんだ……」

インリーが、セリアに会いに行かないの?と聞いたとき、あの瞬間インファは何を思っていたのだろうか。

――セリアですか?何か用事がありましたか?

そう言って笑ったインファに、インリーは青ざめて首を横に振っていた。あの、怖い瞳の意味がそのときはわからなかった。太陽の城へ手引きしたことを、そんなに怒っているのかな?と、それくらいしか思い当たらなかった。あのとき、レイシは暴走してしまった。兄は、弟の命を危険にさらしたセリアのことを、怒っているのかな?と腑に落ちない思いのままレイシは、そう納得していた。だが、違った。

インファはセリアのことが好きなのだ。けれども、会いに行けない。想いに蓋をして、自分の心ごとセリアを心がないと切り捨てて、終わらせることを選んだ。

それはなぜ?レイシは、理由をわかった。何が枷なのか、わからないほどもう、子供ではなかった。

「知りたくなかった……インファは、心があってもなくても、振り向かないわ!だったら、だったら……」

心がないと信じていた方がよかった!

インファに心があっても、彼にはセリアと始まる気持ちがない。それならば、欠片も分がないと思っていた方が、いつか忘れられたのに……。

インファがいつか剣を捨ててくれて、それを贈った精霊がわかるとしても、セリアはずっと、インファに縛られ続ける。あのとき、心が確かにあったのだと知ってしまったばかりに。それくらい、好きだ。諦めきれないほど、好きだ。あの人の笑顔が、ほしい。

 インファが意識体から体に帰って行ったあの日、セリアは彼を忘れられないことを悟っていた。だからこそ、再び会えて、なおかつインファが、風の奏でる歌を歌ってくれたら、思い出そうと願いをかけた。インファへの心を失い。セリアは、皆が驚くほどセリアらしさを失った。それは、自分を取り戻したとき、セリアを見た皆の反応が物語っていた。

それほど大きいのだ。この心にいる、インファという人は。

「セリアは兄貴のこと、よくわかってるんだね。もし、そうなんだとしたら、たぶん、オレのせいなんだ。これ、見える?」

雨は激しさを増してきていた。空は黒雲で、まるで夜のように暗い。東屋の天井から吊されたランプが、淡く輝き、何とか相手の表情が見えるくらいだった。

 レイシは左手に巻いていた、太い腕輪を外して、手首の内側を見せた。

「これ……」

セリアはギクリとして、レイシの顔を見上げた。レイシは哀しそうに笑った。

レイシの左の手首には、深く斬ったような痕があった。

「オレさ、太陽の城から連れ帰られて、目が覚めたとき……兄貴の前で、手首、斬っちゃった。想定外だったんだろうね。あの兄貴が間に合わなくて、もうかなりザックリ。この事知ってるの、兄貴だけなんだよね」

この身に流れる血が嫌だった。嫌で嫌で、体から出そうと思って手首を切った。手首から流れる血が、この体から汚れた血が出ていくことが嬉しくて笑っていた。その様を見たインファの衝撃はどれくらいのものだったのだろうかと、冷静になったレイシは思った。

狂っていた、狂気だった。インファが怒ってくれなければ、たぶん死んでいた。

──レイシ!血が重要なのではありませんよ!あなたが、どう生きるのかが重要なんです!死ぬ気ですか?父さんを!裏切るんですか?オレを裏切るんですか!

インファは両手が汚れるのも構わずに、レイシの手首を強く掴んで、風の糸を使って傷口をすぐに縫った。インファには治癒の力はない。けれども、誰も呼ばなかった。呼べなかったのだ。幸い、ナシャが作って置いていってくれたクスリがあり、障害が残ることはなかった。このことは、インファとレイシだけの秘密になった。

「オレが兄貴を、ここに縛り付けてるんだ。オレがいるかぎり、兄貴はセリアの所にはいかないよ。いけないんだよ!」

叫んだレイシの瞳は、まるで殺してと言っているようだった。インファが当たり前のようにそばに居て、当たり前のように愛を諦めることが、レイシには苦痛だった。けれども、裏切れないレイシには、自分で命を絶つことはできなかった。インファの前からいなくなることができなかった。

 レイシが、どう立ち上がっていいのかわからずに、血の色をした泥にまみれて、今も、半年経った今でも藻掻き苦しんでいることが、セリアにはわかった。

安易に、なんてことをしてしまったのかしら!セリアは、自分の行動の罪深さを、目の当たりにした。

――どうしたらいいの?この子を、どう助けたら――教えて……教えてよ!インファ!

インファはこの城を、離れるべきではなかった。レイシのことが心配だっただろうに、意地を張ったわたしのせいで!セリアは、自分の浅はかさを呪った。

「レイシ……レイシ!ごめんね……!」

セリアは泣きながら、レイシを抱きしめていた。

「精霊王に、会わせなければよかった!止めていたら、そんなこと、させずにすんだかもしれなかったのに……!ごめんね……レイシ……!」

抱きしめられるとは思わなかった。けれども、拒絶する気も起こらずに、レイシは抱きしめて泣いてくれるセリアをそのままに、その場に頽れた。

「セリアのせいじゃないよ……オレ、いつかこうしてた……この血が嫌なんだ!オレも、父さんの子供に、本当の子供になりたいんだ!生まれ変わってでも……父さんの血が、ほしいんだ……嫌だよ……オレ、どうして、風の王の息子じゃないの……?なんで、あんなのの息子なの?」

あれから何度泣いたの?血の代わりに何度、涙を流してきたの?泣き出したレイシを抱きしめながら、セリアの脳裏には、力強く明るく笑う、小柄な風の王の姿が浮かんでいた。

「リティル様に話して、レイシ!あなたは、リティル様と向き合わなくちゃいけない。あなたは血に拘ってるんじゃない。自分の存在が後ろめたいのよ!どうして?血なんて関係ないのに……あなたはすでに、風と共に生きてるのに……リティル様を信じられないの?」

当たり前のように守って、当たり前のように傷ついてしまうリティルに、レイシはどう手を伸ばしていいのかわからなかった。

――無事でよかった

太陽の城から戻って目が覚めて、それから初めてリティルに会ったとき。父は、抱きしめてくれた。そして、本当に心からそう思っている声で、そう言ってくれた。

なのに、レイシは、リティルを遠ざけた。今も、近寄れない。拒絶しない父に、怒らない父に、どうしても近寄れない。父は今でも、レイシが近づいてくることを、待っていてくれているというのに。

「兄貴も君も変だよ。なんで、自分のことより人のことなの?そんなんじゃ、いつまで経っても、手をつなげないよ?」

「あなたみたいに手のかかる弟君がいたら、インファは自分のこと顧みられないわよ。わたしを応援してくれるなら、早くリティル様と向き合って、インファを解放して。そうしたらわたし、少し頑張ってみるわ……」

セリアはやっと顔を上げたが、自信なさげに俯いた。

「少しって言わないで、落としてよ!兄貴、素直じゃないから自分からは行かないよ?オレ、セリアが姉さんになってくれたらいいな」

涙の溜まった瞳で、レイシはやっと少し笑った。

「ちょっと、わたしにも甘えるつもり?でも、考えとく。それにしても、凄い雨ね。インファとカルシエーナ、大丈夫かしら?」

セリアはレイシを解放すると、東屋の入り口に立った。

 切れ目なく降る雨が、白く煙って風の城のシルエットをボンヤリさせていた。

「ねえ、兄貴がセリアから奪い取った邪精霊の欠片って、精霊王のだよね?」

「えっと……」

セリアは言うことを躊躇った。当然のように躊躇うセリアに、どんだけ優しいの?とレイシは苦笑した。

「大丈夫だよ。兄貴が帰ってこないから、大体察しついてるから。本当に兄貴は過保護なんだ。昔からずっと。もう勝手に動かないけど、何が起きてるのかくらい、教えてくれないかな?」

レイシは東屋の奥に腰掛けて、穏やかにセリアを見た。セリアは頷くと、やっと話してくれた。

「ルディル様が滅したとき、魂の欠片が飛び散ってしまったみたい。わたしはその一つに取り憑かれて……欠片はお互い引き合う性質があるみたいで、他の欠片の場所がわかったから、探して歩いていたの。そうしたら、インファが来て……あの人わたしを掻き乱すから!欠片が邪精霊へ変質を始めてしまって……インファに奪われて……わたしを引き裂きたくてしょうがないから、風の城へ行けって……どうして、インファ、わたしを引き裂きたいなんて……」

あれ?インファが風の城に行けと言ったのは、状況をリティルに説明してほしいと、そういう意味だと思っていた。しかし、彼は自分でリティルに伝えていた。セリアは、あれよあれよと、インファが君を守れと言ったからという言葉に流されて、今、この城にいた。

あれ?わたし、なぜこの城に留まっているの?セリアの脳裏に、今更な疑問が浮かんだ。

「愛なんてない」

「え?欠片が繰り返してた言葉……レイシ、どうして?」

「精霊王がそう言ってた。まだ懲りずに愛を否定したいんだ。兄貴……そのうち帰ってくるかも……セリアを殺しに」

「え?」

風の仕事に手を出してしまったことを、殺したいほど怒っているのだろうか。セリアは、とんちんかんなことを思ってしまった。

微妙な表情のセリアに、レイシは、この人鈍いのかな?と思ってしまった。

「精霊王は愛を壊したいんだ。兄貴、セリアを引き裂きたいって言ったんだよね?愛する者を壊したい。だからセリアを。なんだ、兄貴、もの凄い言葉使って告白してたんだね」

兄貴……本当はどうしたいの?レイシは、近づけさせてくれない兄の心を思った。

「そんなわかりづらい告白、聞かなかったことにするわ……でも、インファが乗っ取られてわたしを殺しに来るなら、返り討ちにするまでよ。今度は出し抜かれないわ。わたしにも、幻惑の暗殺者としてのプライドがあるのよ!」

空元気なのだろうが、表面上元気になったセリアを見ながら、レイシは静かに笑った。

「よっぽど屈辱的な方法で、欠片を取られたんだね?」

「魅了の力を持つわたしが、キスに驚くなんて……」

え?嘘でしょ?と思い、レイシは慌てて取り繕った。インファが異性に、しかも唇に触れさせるなんてそんなこと、ありえない。この城の誰に聞いても、きっと同じ反応だと断言できる。

そう伝えても、この人、信じないんだろうなと、レイシは怒っているようなセリアを見た。

「へえ?兄貴とキスしたの?とっくにそういう仲なんじゃないか」

「あれは、そう言うんじゃないわ。レイシも、もう少し大人になったらわかるわよ」

苦々しく嫌そうに、セリアは言った。今でも思い出すと、怒りが込み上げる。わたしは、幻惑の暗殺者よ!それを、それを!あの男は!セリアはやり場のない憤りを感じていた。

「アハハ、セリアってなかなか信じないんだね。兄貴がその気もないのに、するとは思えないけどなぁ」

変わった人だなと、レイシは思った。あの兄貴にキスされて、怒る女の人がいるとは思わなかった。そして、ああ、こんな人だから兄貴、選んじゃったのかと思った。

「信じないわ。もう、わたしを掻き乱すのはやめてちょうだい!」

いいな。この人が兄貴の隣にいてくれたら、いいなと、レイシは思ってしまった。

「アハハ、了解。姉さん」

レイシに姉と呼ばれて、セリアは一瞬睨んだが、フッと溜息をついて笑った。


 大地の領域も雨だった。植物達には恵みの雨だろうが、あまりに激しく、インファとカルシエーナは足止めされていた。

「凄い雨だな。先が見えない」

カルシエーナは石の洞穴から、目を眇めて外を見ていた。

「カルシエーナ、濡れますよ?」

インファは奥で、濡れてはいないが湿り気を帯びた地面に直に座っていた。

そう言えば、この雨みたいだったなと、カルシエーナは思い出していた。

「お兄ちゃん、セリア、城に来たとき泣いてたぞ?この雨みたいだった」

カルシエーナは、セリアとはあまり接点がなかった。断崖の城で、インファを気にしていた、儚げな宝石の精霊。あの人は多分、お兄ちゃんが好きなんだなと、そう思った。

「そうですか」

「ヒドイことした?」

「そうかもしれませんね」

「大丈夫?」

トコトコと戻ってきたカルシエーナは、インファの顔を心配そうに覗きこんだ。その様子に、インファは苦笑した。

「大丈夫ですよ?カルシエーナ、何か聞きたいことがあるんですか?」

「うん。セリア、お兄ちゃんのこと好きなのか?」

「そのようでしたね」

「お兄ちゃんが振ったのか?」

「はい」

「だから、泣いてたのか?」

「どうでしょう?断りもなく、キスしたことが嫌だったのかもしれません」

「キスしたの?お兄ちゃんが?それはダメだ!振ったのに」

カルシエーナは、真顔でインファを叱った。その様子に、インファは苦笑しながらすみませんと謝った。

「セリアを、好きなの?」

「……」

インファは心の読めない微笑みを浮かべた。明言を避けたインファに、カルシエーナはおや?と思った。

「ケルゥに迫られたとき、どうしていいのかわからなかったけど、受け入れてみたらこんなものだった。お兄ちゃんも、受け入れてみたら?」

「あなた達は必然の関係です。拒んだところで無意味なんですよ。ですが、オレとセリアは……。もっとも、こんな魂と一緒では向き合えませんけどね」

気持ちを否定しないんだと、カルシエーナは思った。セリアに微塵も気持ちがないなら、インファはそう言う。カルシエーナはインファが、セリアを好きなことを確信した。

「もう、壊せば?お父さんとノインがいれば、何とかなる。今、もっと凄い?ルディルもいるし」

「そうですね……ですが、したくないんです……。おかしいですね……」

インファは静かに微笑みながら、低い天井を見上げた。セリアを思うと、欠片が騒ぐ。これはもう、自覚するしかなかった。セリアが好きなのだと。

けれども、セリアと始まる気にはならない。泣いてばかりいる彼女を、さらに泣かせるのは気が引ける。セリアは城の皆と仲良くやっているだろうか。城の皆は気さくすぎる。彼女が疲れていなればいいがと、インファは思っていた。

 雨音が落ち着いてくる。雨上がりが近いのだろうか。

「セリア、ケルゥと闘ったみたい。いいなぁ、羨ましい。セリアは強いんでしょ?」

「ケルゥとですか?セリアは、生きていますよね?」

ケルゥとと聞いて、インファは血相を変えた。そんなインファにカルシエーナは頷いた。

「セリアの圧勝だ。いいなぁ、わたしもやりたい」

「やめてください。蛍石の硬度は四です。あなた達の攻撃が掠っただけで、彼女は壊れてしまいますよ?」

インファに止められて、カルシエーナは不満そうに、拗ねたように口を尖らせた。

「セリアは、不死身だからいいって、いいそう。それでも、ダメか?」

「ダメです!はあ、宝石の精霊は、どうしてこんなに壊れることに、頓着がないんですかね?」

インファの表情が僅かに怖い。セリアを案じ、怒っているのだとカルシエーナにはわかった。そして、答えなかったのに、これではセリアが好きだと言っているようなモノだなと思った。インファは、気のない相手にはとことん無慈悲だから。

「わたし、わかるよ?セリア達は、使い捨てだったから。お母さんにそういう扱いされてて、それが普通だった。壊れてほしくないなら、お兄ちゃんが教えてあげて」

宝石の精霊・ラジュール。何事かをこそこそと画策していたようだが、突如ルキに反旗を翻し、彼の手によって粛清され滅んだ。精霊王と同じくらい、不穏な精霊だ。

その精霊が、宝石三姉妹の産みの親だ。ラジュールの手足として使われていたエネルフィネラは、何度壊されてもケロリとした顔で戻ってきて不気味だった。ラジュールに捨てられたと言って、リティルに付きまとっていたスワロメイラも、自身が壊れることに抵抗は今でも感じていない。気を付けているのは、リティルが相当に嫌がるからにすぎない。スワロメイラはそのくせ、こちらが傷つくことに関しては、抵抗を感じているというのだから、矛盾しているなとインファは思っていた。

 セリアもそうなのだ。今はインファの中にある欠片が変質を始めたとき、躊躇いのない瞳で斬れと、わたしを斬れと言ってきた。その選択は正しいのかもしれない。しかし、世界を守る役目を負う風の精霊に、それをしろというのは、なかなかに酷なことだ。

まして、愛する者を斬るなど、合理的なインファであってもできるものではなかった。

「オレはやはり、彼女とは……自信がありませんよ……」

セリアは幻惑の暗殺者だ。大人しくしている娘ではない。彼女が壊れてしまわないようにと、冷や冷やしながら戦場に立つ勇気はインファにはなかった。

「そう?マゾなお父さんと何が違うの?」

「スワロメイラですか?あなたにそんな言葉を教えたのは。父さんは自虐で傷を負っているのではありませんよ。身に余る戦いを、強いられているだけです。それでも、超回復能力と母さんの癒しで、決して死なない努力をしているんです。ですが、宝石の精霊は壊れれば死ぬというのに、今ある命を絶対に守るという気がありません。同じ不死身でも、あなたのように、一切の破壊を受け付けない無敵とも違います。彼女達は死して同じ存在として、甦るんです。父さんとは、考え方から違うんですよ」

「お父さんは丈夫。でも、セリアはそんなに脆いの?お母さんよりも?」

「同じくらいだと思いますよ?もっとも、母さんには父さんの風と合わせた、ダイヤモンドよりも硬い盾がありますけどね」

リティルの中にシェラの癒やしの力が残留しているように、シェラの中にもリティルの風の力が残留している。シェラはその風と光を編み上げて、自身を包んでいる。リティルの不在時に、決して命を失わないように自分自身を守っているのだ。

「それ、お兄ちゃんがセリアにあげればいい」

それで解決!と無邪気なカルシエーナに、インファは苦笑するしかなかった。

「今ある命を大切にする気がない人には、無駄ですよ。軽々しく渡せるモノでもないですし……。雨、上がりましたね。行きましょうか?カルシエーナ」

「うん。魂お化け、近いか?」

「ええ、一つ捕捉しています」

二人は並んで、日の光の射し始めたぬかるんだ道を、再び歩き始めた。


 リティルはレイシに話があると言われて、修練の間に来ていた。

あの雨の日、セリアを追いかけてから、レイシの雰囲気から棘がなくなった。雰囲気は相変わらず冷たいままだが、雪解けは唐突に起こったようだった。

「父さん、来てくれてありがとう」

「なんだよ、改まって。修業する気になったのかよ?」

レイシは、太陽の城から帰ってから、力を使うことが一切なくなった。精霊王と同じ太陽の力だということもあり、拒絶反応が凄まじく、インファから、しばらく絶対に力を使わせないようにと言われていた。

「それもあるんだけどさ、話をきいてほしくて」

レイシは疲れたような哀しそうな微笑みのまま、左手の太い腕輪を外した。そして、リティルの前に、手首の内側を差しだした。

「斬ったのか?いつ?」

「太陽の城から戻されて、目が覚めてすぐ」

父の様子を注意深く見ていたレイシは、リティルが思いの外冷静であることに、内心ホッとした。

「父さん……オレ、どうしても、この身に流れる血が嫌なんだ。それで、それで、この血を体から追い出したくて、斬った。そこを兄貴に見つかって……。父さん、この傷のこと、知らなかった?兄貴から、本当に何も聞いてないの?」

「今初めて知ったよ。レイシ、おまえが何か隠してることは薄々わかってたんだ。レイシ、これからどうしたいんだ?また、斬るのか?」

レイシは首を横に振った。

「もう斬らないよ。兄貴に、父さんを裏切るのか?オレを裏切るのか?って怒られて、ああ、オレ、死んじゃうところだったんだって思った。この血がなくなれば、それでよかったんだ。死にたかったわけじゃないから」

レイシは、手首に腕輪をもとのように嵌めた。

「父さん、オレ……なんで父さんの本当の子供じゃないの?何でオレだけ、風の力がないの?なんで、父さんの血を引いてないの?なんで……なんで、オレ、あいつの子供なの?悔しいよ……父さん……オレ、あなたの子供がよかった!あなたと同じ翼がほしいよ!なんで、オレにはないの?こんなに近くにいるのに……こんなに愛されてるのに……なんで、オレ……応えられないんだよ!苦しいよ……父さん!オレ、この身に流れるのは、風の王の血がよかった!」

レイシは泣きながらリティルに詰め寄っていた。どうして血を与えてくれなかったのかと言うように、歯を食いしばり睨む息子の紫色の瞳を、リティルは静かに見返していた。

「レイシ……わかった。オレの翼をやるよ」

父の言葉に、レイシは戸惑った。

「え?待ってよ!父さん、自分を傷付ける気じゃないよね?そんなのは嫌だよ!オレ……オレは……」

リティルは、言葉を続けられない息子の肩に手を置いた。心配するなと言うように。

「すぐには渡せねーんだ。おまえに、オレの言う通りに力を具現化してもらわねーといけねーからな。翼をやるのはそれからだよ。レイシ、おまえはオレの子だ。おまえは風の王の息子だよ。信じられねーのかよ?しょうがねーな。それが、翼一つで信じられるなら、おまえにやるよ」

リティルは、力強く笑った。

「レイシ、おまえにやる力は、ちょっと危険な力だぜ?だからな、それを守る器を用意してほしいんだよ」

「そ、そんな力……オレにわたして、大丈夫なの?」

レイシは狼狽えた。こんな半端な精霊のオレに、そんな大事なモノをわたしてくれていいのか?と、怖じ気づいていた。

「もちろん、全部を渡すわけじゃねーよ。その力の四分の一を持ってほしいんだ。オレにもし、何かあっても、世界からその力が失われないように守るためにな」

「それは、何?」

「原初の風。ルディルから受け継いだ、風の持つ失われることの許されない、世界の宝の一つだよ。混血精霊に流れる人間の血が、一つだけ、異なる精霊の力を受け入れてくれるんだ。それから、おまえの嫌う太陽の力は、この世界で最強の力の一つだぜ?オレは弱い精霊だからな。ルディルに受け継がされたのはいいけどな、正直どうしようか迷ってたんだ。シェラに頼んで、もう一人作ってもいいんだけどな……。おまえが太陽の力で、原初の風の欠片を守ってくれるなら、おまえほどの適任はいねーよ」

どうする?やるか?と笑う父に、やらないなどと言えるはずがない。

「オレがその器になれるなら、やるよ」

──オレは風の王の息子だから

声に出して言えなかった。言いたいのに、言えなかった。父には見抜かれたかもしれない。ジッと見つめる金色の瞳が、すっと一瞬、視線を外したからだ。

「……ありがとな、レイシ。この力は大ぴらに言えねーからな。おまえのことは、そうだなー、空の翼とでも呼ぶか?」

「空の翼?そう名乗っていいってこと?」

「そうだぜ?ただし、オレの言う通りに力を扱えるようになったらな。知っての通り、オレの特訓はきついぜ?」

「そんなの、ついていくよ。当たり前だろ?兄貴にどれだけ扱かれてると、思ってるんだよ。すぐにモノにしてみせるよ」

「よし!根性見せろよ?レイシ」

 早速始めるかと、水晶球へ向かったリティルは、ふとレイシを振り向いた。

「ああそうだ、レイシ、手首の傷どうする?消すか?」

レイシは首を横に振った。

「消さない。ずっと持って、生きていくよ」

そう言うと思っていた。迷う素振りなく言ってのけるレイシに、リティルは、おまえは紛れもなく、オレの息子だよと思った。

「……そうか。おまえも傷物になっちまったな」

「おまえもって、他に誰かいるの?」

風たちはノインも含めて皆、超回復能力持ちで、傷は残らない。この城でレイシ以外で能力を持っていないのは、カルシエーナとシェラだけだ。しかし、カルシエーナは破壊の精霊故に、自分が破壊されることはない。怪我しないのだ。ということは、シェラ……?

「オレだよ」

「え?だって、父さん、超回復能力で傷なんて、残らないじゃないか」

リティルは静かに微笑んだまま、いきなり服を脱ぎ、上半身を晒した。筋肉質というほどの筋肉はついていないが、細いながらにバランスの取れたいい体をしていた。そういえば、父の裸を見たことがなかったなと、レイシは今更思った。その父の胸に、何かに打ち抜かれたような歪に丸い傷痕があった。

「オレを風の王に育ててくれたのは、インだけじゃねーんだ。オレにはイン以外に、親父と呼べる人が二人いる。この傷はな、その親父の一人がつけたものなんだ」

「なんでその人は、父さんにそんな酷い傷を?」

「その人はな、オレとシェラを引き逢わせてくれた人だ。オレとシェラは、絶対に出会えない運命だった。それを、その人は歪ませるために、オレにこの傷をつけた。オレの為に、取り返しのつかねーことをさせちまった。償えないことをさせちまったんだ。その人を忘れねー為に、オレはこの傷を残してるんだよ」

父さんと母さんを?それって……

「ビザマ……?」

「ん?どうしてその名を知ってるんだよ?」

レイシはあっ!と、口を押さえたが遅かった。リティルに白状しろと睨まれて、レイシは即観念した。

「ご、ごめん!読んだんだ。そういえば、父さんが傷を残すシーンがあったよね……」

あの本か……とバツが悪そうに、リティルはガシガシと頭を掻いた。

「インファだな?あいつ、まだ持ってたのか……あの本な、どうやって誰が書いたのか謎なんだよ。オレ達しか知らないことが事細かに書かれてるからな。みんなの記憶を、レジーナに見せてもらわねーかぎり、無理なんだよな。まあ、そういうことだ。読んだなら説明いらねーよな」

「でも、ビザマってお父さんって感じじゃないよね?」

小柄な半獣人種であるウルフ族なのに、ビザマは背がリティルよりも一〇センチほど高かった。背格好は多分、インリーと同じくらいだ。そして彼は、灰色の長い髪を三つ編みに結っていた。インリーも彼と同じ髪型をしている。

血のつながりのないビザマと、娘のインリーが似ているはずもないのに、稀に、娘の後ろ姿に彼の面影を見ることがあった。

「ハハ、でもあいつはオレの父親のつもりだったぜ?あいつは、オレにすべてを賭けた。その為に、あいつは……他人には、そこまでのことしてやれねーだろ?」

あの本には、書かれていないことも多い。封印球の中にいた幼少時代、インだけでなく、ビザマとサレナは揺るぎない愛情を与え続けてくれた。あの本に書かれているのは、砂漠の中の砂一粒の時間にすぎないのだ。ビザマは未だに極悪人として双子の風鳥に伝わっている。件の本のおかげで、ビザマは完全悪とは伝わっていないが、罪は罪だ。リティルはそれを、代わりに背負っている。

 リティルは服を着ると、その場に座り込んだ。そして、レイシにも座るように促した。

「座れよ、レイシ。読んだなら知ってるよな?オレも、風の王の力から逃げたことがある。それで落ちるところまで落ちた。一人じゃ這い上がれなかった。だからな、一人で這い上がろうとしなくていいんだぜ?掴めよレイシ、オレの手を。これ以上落ちない支えくらいにはなるだろ?」

な?と言って笑う父の顔は、相変わらず眩しくて直視しがたかった。

もう、落ちる前のレイシには戻れない。這い上がった先に、父のような強さを手に入れられるだろうか。本の中の父は、自分が何者かわからない時さえも、強くて優しかった。少しばかり、シェラに対しては辛辣なところもあったが……。

空の翼──父はどんな翼を思い描いているのだろうか。その姿が、オレの想像する姿と少しでも似ていたらいいなと、レイシは強く思った。

「ここにインファがいねーのは痛てーな。太陽の熱で、上昇気流って奴が起こせるはずなんだ。それを具現化できれば、おまえもオレ達と一緒に飛べるぜ?」

太陽の城で暴走したレイシの力に掴まれたとき、焼け付く熱を感じた。レイシの力は光だが、それは太陽光だとリティルは確信していた。

「上昇気流……だったら、調べてくる」

レイシはおもむろに立ち上がった。目標を見つけ、死んだようだった瞳にいくらか光が戻ってきていた。

「ああ、がんばれよ?何か掴んだら、教えてくれ。絶対に一人でやろうとするなよ?あとな、魔法の基礎練習、ちゃんとやれよ?それも──」

「絶対に一人でやるな?了解、父さん」

レイシは鋭い瞳に、フッと笑みを浮かべてリティルの言葉を遮って後を続けると、じゃあと言って部屋を出て行こうとした。

「ああ、それとな、インリー、遠ざけてやるなよ?」

レイシは不自然に立ち止まった。リティルに指摘されるとは、思っていなかったのだろう。レイシはフウと大きく息を吐いた。

「父さん、オレ、インリーのこと妹だって思ったことないよ?」

振り向いたレイシは、鋭い瞳のままそう言った。

「そうかよ。でもおまえ、今の関係を変える気はねーんだろ?」

ついに爆弾投下してきやがったなと、リティルは笑うしかなかった。二人が、お互いを兄妹と思っていないかもしれないことは、何となくわかっていた。じゃあ、何だと思っているのか?それは、リティルにもわからなかった。だが、レイシがインリーを傷つけることは絶対にない。それがわかっているから、二人で答えを出すその日まで、見守ってやろう。

「それは、まあ」

「だったら、今のままでいいじゃねーか。あいつ、おまえに避けられる理由がわからなくて、困ってるぜ?」

レイシはうーんと、少し考えるような素振りを見せたが、普段通りの表情で、リティルに視線を戻してきた。

「インリーは揺るがないから。わかった、今まで通りでいるよ」

じゃあと、レイシは部屋を去って行った。

あいつも一人前になったんだなと、リティルは思った。

しかし、インリーとは兄妹じゃないと宣言されるとは思わなかった。あいつはまた、とんでもないことを言い出しそうだなと、リティルはやれやれとため息を付いて小さく笑った。

 そしてリティルは天井を見上げた。懐かしい名を聞いて、二百年とちょっと前のことを思い出していた。

「ゾナ……オレ、ちゃんとやれてるか?おまえにも、会いてーよ……先生」

ゾナは、風の王として生まれてくるリティルを、ずっと待っていてくれた人だった。その正体は、魔導書に宿らされた意識で、付喪神という邪法で生み出された魔の者だった。

役目を終えたゾナは今、自らを封印して眠りについている。リティルが呼びかけても、まるで無視で答えてもくれない。シェラと共にイシュラースへ帰るとき誘ったのだが、もう君のお守りはごめんだと言われて、断られたことを今でも覚えている。

彼に、度が越えた反抗期の間、支えてもらった引け目があるリティルは、引き下がるしかなかった。ゾナが、本体である魔導書が朽ち果てるまで、眠る気でいることをわかっていたのに、未来を示してやれなかった。リティルはゾナに、恩を返せないまま別れるしかなかった。もう一度会えたとしても、彼とはすぐ喧嘩になるだろうなと思いながら、リティルは懐かしさに瞳を閉じて静かに笑った。

 リティルの三人の父親。

産みの親である、先代風の王・イン。

教育係であり、巨大な壁として立ちはだかってくれた、ウルフ族の長・ビザマ。

インとビザマを同時に失ったリティルと家族になり、父親業を教えてくれた、フォルク族の騎士・ドルガー。

彼等の与えてくれたモノを、リティルは今子供達に与えている。リティルは恵まれていたと思う。実の親であっても、精霊王のように与えることを知らない者もいる。

そんな世界の中で、リティルはたくさんの温かな心をもらい、今こうして生きている。

 インファ……頼りになりすぎて、あまり与えてやれていないことを、リティルは案じていた。精霊王の魂の欠片と一緒にいる息子は、勝つことができるだろうか。

与えることのできない、奪うことだけしか知らない可哀相な魂。

インファは、兄として与え続けている。しかし、愛する人だと言いながら、セリアに与えることを躊躇うその心を、つけ込まれないかとリティルは不安を感じていた。

セリアに、シェラのような積極性があったら安心だったのだが、彼女は愛する故に、一生会わないという選択をしてしまった。インファの重荷にならないようにと。

両思いなのに、始まる気のない二人に、似合いだと思うからこそ、リティルは困っていた。

あの二人は、このまま放っておくと、お互いを想い本気で諦めそうだ。”度”が付く消極的だ。”超”が付く積極的なシェラの子だろう?と、リティルはインファに言いたかった。

  

 あの雨の後、セリアは極力応接間にいるようにと、リティルから言われてしまった。

出て行く気はないというのに……。けれども、皆に過剰に心配させてしまったことは確かだった。

「ねえ、ノイン、この城の精霊達はどうしてこんなに優しいの?」

紅茶を飲みながら、書類の整理を鳩たちと共にしていたノインは、顔を上げた。

「家長がそういう男だからだ」

「……居心地よすぎて、出て行きづらいわ」

「出て行くつもりか?」

「インファの仕事が終わったらね。そういう約束だから」

「強情だな」

「ここにいる理由がないじゃない。わたしは、ルキルースの精霊よ」

「それは、ケルゥとカルシエーナも同じだな」

「あの二人は、風一家の一員なんでしょう?」

「おまえと同じ、居候だ。気に入ったのなら、いればいい。ここは、そういう城だ」

「できないわ。わたしは、雷帝に手を出してしまったから」

「落とせばいい」

「高すぎて、手が届かないわ」

「引きずり落とせ」

「あなた、インファの補佐官よね?上司に対して、それって、どうなのよ」

「先代風の王の蘇りで生まれ変わりだ。複雑な立場だ。察しろ」

「え?ええ?何?もう一度言ってくれる?蘇り?生まれ変わり?察しろって……乱暴な人ね。ノイン?どうしたの?」

ノインが虚空を睨んで動きを止めるのを見て、セリアは不穏なものを感じた。

「……精霊王の欠片とやら、どうやら育っているようだな」

ノインがおもむろに立ち上がる頃、リティルが応接間に姿を現した。

「ノイン、ちょっと出てくるぜ」

リティルは舞い降りずに、玄関ホールへむかって、部屋を横切りながら声をかけてきた。そんなリティルを、ノインが呼び止めた。

「リティル、オレが行こう。この近さ、おまえでは闘いづらいだろう?」

「何?何がいるの?」

セリアは心配そうな顔で立ち上がった。ノインの提案を受けたが、リティルは空中で羽ばたき止まったのみで舞い降りてこなかった。

「精霊王の欠片が、どうも魔物に取り憑いて、この城に向かってるみてーなんだ。迎え撃ってくるぜ」

「リティル様、わたしとノインに行かせて」

城に近いなら、少しぐらい外に出てもいいと言ってくれないかしら?と、セリアはダメ元で言ってみた。リティルは今、レイシに付き合って何かしている。できるだけ、レイシといてあげてほしかった。

「ダメだ。インファから君を、城から出すなって言われてるんだ」

リティルはやっと、空中から舞い降りてきた。

「リティル、インファは風の城に近づきたくないはず。少しくらい許してやれ」

リティルはノインの瞳をジッと見つめた。結局リティルは、ノインにインファの気持ちを暴露できなかった。それはいいのだが、ノインは何を考えているのだろうか。

目を一向に逸らさないノインに負けて、リティルは溜息を付くとセリアに視線を移した。

「セリア、絶対にノインと戻れよ?」

ノイン、絶対にセリアを連れ帰れよ?と、リティルは彼を睨んだ。その瞳を受けても涼しげに、ノインは小さく頷いた。

「ありがとうございます!」

リティルの言葉に、セリアは深々とあたまを下げた。そして、よほど嬉しいのか、ノインの腕を取ると軽やかに玄関ホールへ向かっていった。

おいおい、ノインには気安いなと、リティルは、ここにインファがいなくてよかったと、心底思った。

「ノイン……あんまり荒療治すると、拗れるぜ?焦れってーのはわかるけどな」

何が、インファは風の城に近づきたくないはず、だと?とリティルは思った。インファの気配がすぐそばまで来ていることを、リティルは感じていた。ノインにもそれを感じられるはずだというのに……。それをわかっていて乗ったオレも共犯か、と、リティルは今度は大きな溜息をついた。

 風の城の城門を出たノインとセリアは、魔物の気配を探った。

「こっちね」

気配を瞬時に察知して向かうセリアに、ノインは声をかけた。

「セリア、おまえはインファの何が気に入っている?」

「あなたって、ほんっと嫌な人ね」

だから、諦めたと言っているのに!と、セリアはイラッとした。本当に、ノインはことあるごとに、インファのことを振ってくる。インファの心にセリアがいたとしても、あの人は始まる気がない。そんな人、捕まえようがないのに……。

「顔か?」

「最悪」

「では、あの眼差しか」

「……」

暖炉の火のような温かな眼差し……その瞳で微笑んでもらえるあの城の精霊達に、セリアはちょっぴり嫉妬していた。城の住人だけではないか、スワロ姉様にもインファはあの微笑みだったなと、セリアは拗ねた。

「セリア」

「何?」

ノインはおもむろに、仮面を外して素顔を晒した。その顔を見たセリアは一瞬瞳を見開いたが、マジマジとノインの顔を見た後、吹きだした。

「やだ……ノイン、それで仮面つけてたの?」

「インファは先代風の王によく似た姿形をしている。そして、オレは、先代その者だ。城の住人は、誰も間違えないが、な」

「そうでしょうね。インファのほうが優しい瞳をしているもの。それに、あなたのほうが少し年上なのね。いっそのこと、もっと年上ならよかったのにね」

「おまえも、間違えない、か……」

「当たり前でしょう?よく似た兄弟みたいなものじゃない。それに、霊力の形が全然違うのに、間違うわけないじゃないの」

そう言い切るセリアの方が、少数派だとは彼女は思っていないのだろうなと、ノインは思った。さて、思惑どおりの展開になったが、彼はどんな反応をしめすのだろうかと、ノインは思った。セリアはお気楽に、でもそっくりだと言ってお腹を抱えて笑っている。風の策略に嵌まっているとも知らずに。

 笑いすぎて涙が出てきたセリアは、背後に迫った者に気がつかなかった。なぜだか、彼の気配を見落としてしまう。

「何をしているんですか?セリア」

その怒気を含んだ声に、セリアはドキッとして慌てて振り向いた。こんなに近づかれていたのに、どうして気がつかないのだろうか。リティルやノインが許可を出したことで、彼がこないと勝手に思い込んでいた。

「インファ……!」

こちらを見下ろす金色の瞳が、絶対零度に冷えていた。

怖い……怒りの中に、何か怒りとは違う別の強い感情がある。血が、凍りそうだ。

「城近くに魔物の反応がある。迎え撃つところだ。見なかったか?インファ」

「ええ、それを探してここまできたんです。それよりノイン、どういうことですか?」

インファの怒りがノインに向かうのを感じて、セリアは咄嗟にノインを庇ってしまった。そのことが、さらにインファの怒りに油を注ぐことになるとも知らずに。

「ち、違うの!わたしが、リティル様に無理を言って、ノインが、付き合ってくれることに……」

ギロッとインファに睨まれて、セリアは体が震えるのを感じた。

「インファ!行ったぞー!」

カルシエーナの元気な声がしたかと思うと、空から魔物が降ってきた。インファの背後に降り立った巨大な猿は、大きな腕を振り上げた。

!狙いは、わたし?セリアは身構えた。しかし、彼女が動く必要はなかった。

邪魔をするなと言いたげに、インファは腕を上に向かって鋭く降るう。握られていた華奢な剣が、魔物の、セリアに向かって振り下ろされていた腕を一刀両断していた。剣気と共に巻き起こった金色の風が、セリアのピンク色の髪を掻き上げ、髪に飾っていた百合の花を散らした。

魔物の腕から迸った血が、インファを穢す。美しいその顔を半分血の赤に染める姿に、セリアの瞳は釘付けられた。妖艶な魔性の美しさに、セリアは臆して体が震えるのを感じた。

風の城のみんなは、こんな穢れを纏いながら、闘ってるの……?

「セリア、あれが精霊王の欠片か?」

ノインの冷静な声に、セリアはやっと我に返り、腕を失って仰け反り咆える魔物の腹を見た。そこには、ドクンドクンと脈打つ、魔物のモノではない鼓動が張り付いていた。

「大分育ってるわ……」

立ち尽くすセリアの前から、インファの姿が一瞬で消えた。魔物の腹の欠片を目掛け、金色の光が矢のように鋭く走っていた。

「インファ!もう、あなたたちだけじゃ無理よ!お城に戻って!お願い!インファ!」

インファの槍は魔物を貫通していた。魔物の体は崩れて霧散していく。上空でこちらを冷たい眼差しで見下ろすインファの背中に、髪をなびかせて飛んで戻ってきたカルシエーナが、ストンと乗っかった。

「行きましょう」

「うん。またな、ノイン、セリア」

踵を返すインファに負ぶさり、カルシエーナは手を振っていた。

「インファ!」

後を追おうとしたセリアの肩を、ノインは引き留めた。

「ノイン……どうしよう……インファ、凄く怒ってたわ……どうして、あんなに……」

「おおかた、オレに嫉妬でもしたのだろう。帰還する。セリア、来い」

ノインはインファの飛び去った空を見上げながら、仮面をもとのようにつけた。そして、放心状態のセリアを引きずるようにして城へ引き返した。

 城門前に、腕を組んで心配そうにしているリティルがいた。

「リティル様……ごめんなさい……!」

彼の姿を見たセリアは、ノインの手を離れ混乱した気持ちのまま、謝罪の言葉を口にした。そうして、ポロリと流れた涙の雫と共に、頽れそうになったところを、リティルに抱き留められた。抱きしめ方があまりにも自然で、セリアは思わずリティルに縋ってしまった。

「大丈夫だ。心配いらねーよ。君は、あいつの激しい面を知らねーだけだ。だからな、大丈夫だ」

──大丈夫、心配いらない

インファの言った通りだと、セリアは思った。リティルのこの言葉は、どんなに心が掻き乱されてどうしようもなくても、すんなり染みこんで素直にしてくれる。セリアは僅かに残った理性でリティルに謝りながら、今だけ、あなたの娘でいさせてくださいと、心の中で願った。


 荒涼とした風の領域にも、隣の水の領域から流れてくる水が川を作っている。

インファは魔物の血を洗い流すために、川に入っていた。上半身だけ服を脱ぎ、翼や髪の穢れを落とす。細い体だが、リティル以上に引き締まっていた。

川の水に、揺らめきながら自分の顔が映っていた。情けない顔をしていると、自分で思った。なぜあんなに、心を掻き乱されたのか、今となってはよくわからない。

仮面を外したノインと笑うセリアを見た瞬間、何かが爆発してしまった。

「いいな、わたしも入る!」

カルシエーナは、服を躊躇いなく脱いで全裸になると、トンッと軽く踏み切って、インファの上に落ちてきた。

「カルシエーナ!こんなところで、脱いではいけませんよ!」

インファはギョッとして、カルシエーナを窘めた。完全なる破壊の精霊となって、カルシエーナはとても無邪気になった。しかし、これはよろしくない。奔放なインリーでさえ、それくらいの分別はあるのだ。インファはカルシエーナに抱きつかれながら、教育の必要性を感じていた。

「お兄ちゃんも脱いでるのに?」

キョトンとした顔で、カルシエーナは首を傾げた。精神年齢の低い彼女だが、カルシエーナの肉体は人でいえば十七才だ。邪な気持ちを煽るほどには成長していた。

「隠すところは隠しています!それがわからないあなたは、脱いではいけません」

インファは風を操り、カルシエーナに風で作ったワンピースを着せてやった。波打つ金色の躍る白いワンピースで、いつも黒のワンピースを着ているカルシエーナは、瞳を輝かせた。こんなことで喜ぶなら、もう少し着せ替えさせてやろうかなと、インファは女の子らしい一面を見せた血の繋がらない妹に思った。

「わあ、セリアみたいで、嬉しい。セリア、綺麗だから」

百合の花。セリアは百合の花だ。魅了の力を持つ、暗殺者だというのに、そのイメージが頭から離れない。出会った頃着ていた、あの着崩した着物姿。心をなくしていた彼女が選んでいたあの服装は、彼女の隠された部分なのだとしたら、セリアは……すでに……。

「……そうですね……」

「お兄ちゃん、よかったな」

「え?」

「笑ってる、セリアに会えて」

カルシエーナは屈託なく笑った。その笑顔に、インファの沈んだ心が軽くなるのを感じた。

風の城は、一昔前と比べると、住んでいる者も、出入りする精霊の数も増え、ずいぶん騒がしくなった。その殆どが、インファよりも強い精霊だった。それでも皆は、インファを風の城のナンバー2として扱う。あのルディルでさえも。

頼られることに慣れているインファにとって、その場所は居心地がいい。皆はただ、インファに押しつけているわけではない。こうやって、気遣ってもくれる。その存在が、とても愛おしい。風の城で、皆の世話を焼いている方が自分らしい。

オレは恋愛には向かない。と、インファは思う。

「そうですね……」

インファは思わず、カルシエーナを抱きしめていた。抱きつかれたカルシエーナは、インファの濡れた頭を、よしよしと撫でた。そして、お兄ちゃんの髪はスベスベで、タワシみたいなケルゥと大違いだと言われた。


 何とか平静を取り戻したセリアは、リティルとノインに前と後ろを挟まれて、応接間に戻ってきた。

応接間には、シェラの淹れる紅茶の優しい花の香りが漂っていた。ソファーには、ケルゥ、インリー、レイシも揃っていてこちらを一斉に注目した。

「凄く揺れたけど、誰?」

ソファーにだらしなく座り、腕と足を組んだレイシが、何気なさそうに言葉を投げてきた。

「インファだよ。今日は凄まじかったな。あいつ、返り血浴びてもあの美しさだからな。さすがのオレも、ゾクッとしたぜ」

「ふーん、レジーナに見せてもらってもいい?父さん」

返り血浴びた?それ、兄貴結構やばいんじゃないの?と、レイシは内心インファを心配していた。インファは、気持ち悪いから汚れたくないと、そう言っていたのに……。レイシは、返り血を浴びて帰ってきたインファを、これまで見たことがなかった。

レイシは、さりげなくソファーを立った。そして、窓際に移動しながら、チラリとセリアを盗み見た。表面上は取り繕えるくらい、落ち着いてるみたいだなと観察していた。

「セリア、百合の花、散っちゃったね」

インリーにそう指摘されて、え?と、セリアは気がついていなかった様子で、耳の上で団子にまとめた髪を触っていた。そして、僅かに動揺しているようだった。

「あの花は生花?花園の間にあるわ。摘んでくるわね」

シェラはそう言うと、紅茶の用意をインリーに任せて、白い扉に向かっていった。シェラが封印されていたとき安置されていた、花の姫の寝所と呼ばれていた部屋は、そのまま残されていた。水路の中に様々な花が咲き乱れる様がとても綺麗で、シェラに残してほしいと懇願されたためだった。ベッドのあった中心には、今では椅子とテーブルが置かれている。シェラはその場所を、花園の間と名付けて自室として使っている。

 インリーは紅茶を皆に配り終えると、コの字に置かれたソファーの一人席に腰を下ろした。そして、おもむろに疑問をぶつけた。

「セリア、どうして着物から着替えたの?」

「わたし、本来はこっちなの」

「……ねえ、セリアって、その……夜、ベッドですることの経験者なの?」

皆が一瞬、何?と静まり返った刹那、ガシャンとカップが乱暴に置かれる音がして、リティルが盛大に咽せた。

夜、ベッドですることの経験者?ノインでさえ、咄嗟に何を言っているのかわからなかった。連想ゲームか?とつっこみたくなるくらい、回りくどい聞き方だった。

そして、皆、インリー、夜だけ、ベッドでとは限らないよ?と思ってしまった。

「げほごほ!イ、インリー!その口閉じろ!こんなところで何聞いてるんだ!この、バカ娘!」

普段優しいリティルの容赦のない怒りを受けて、インリーはヒッと短く悲鳴を上げると倒れそうなほど怯えた。

「リティル様、いいのよ?魅了の力を持つ精霊で、出会った頃、あんな格好してたら、誰だって疑問に思うわ。インリー、答えはいいえよ。わたしの力は淫魔なの。相手に幻を見せる能力なの。情報を抜き取るだけの相手に、体を触れさせるものですか」

リティルとインリーの間に座っていたセリアは、引っぱたきに行きそうなリティルを手で制し、インリーに笑って答えた。

「悪い……セリア……こいつ、教育がなってなくて……」

リティルが深々と頭を下げるのを受けて、セリアは慌てて頭を上げさせる。そんな必要ないのだ。宝石三姉妹の噂を知っているのなら、当然の疑問だ。しかも、インリーにしてみたら兄と噂になった相手のことだ。身持ちの堅い風の精霊にしてみたら、気にならないわけがない。

「いいの。気にしてないわ。このお城の人達は、わたしにしたら少しおかしいわ。だって、宝石の精霊は穢れているし信用ならないから、普通は嫌悪されるのよ?」

セリアが自分を堕とし、インリーを庇うのを聞いて、静観していたノインがガチャンとわざと音を立ててカップを置いた。

え?とレイシでさえも彼に注目していた。そんな乱暴なことを、普段する人ではないのだ。ノインがゆっくりと顔を上げた。

「おまえ達の穢れは、風でもないのに、その手を血に染めているからだろう?この城をどこだと思っている?風の王の居城だ。皆とっくに血まみれだ。気にするはずもない。それに、味方のスパイを煙たがるアホがどこにいる?誰だ、性に結びつけた愚か者は」

「やめて、ノイン!インリーをこれ以上怒らないで。もうリティル様が叱ったのだから、いいでしょう?本当にわたしは気にしてないから!ありがとう、ノイン、怒ってくれて」

セリアは、リティルの正面から睨む、ノインの視線から庇うように、怯えるインリーを抱きしめた。

「ごめんなさい……セリア……ごめんなさい……」

「インリー……わたし、あなたのこと暖かくて好きよ?だから、ほら、大丈夫。泣かないで?でもね、そういうことは、詮索しちゃダメよ?多くの精霊は、恋愛感情を持っていないの。それは必要がないからよ。風はグロウタースに近いから、当たり前かもしれないけれど、風の方が異例なのよ?」

セリアに優しく諭されて、インリーはコクリと頷いた。

「セリアはあるんだ。恋愛感情。スワロはないのに」

インリーの座るソファーの背にもたれながら、レイシはチラリと二人を半分振り返りながら言った。セリアにソファー席を譲ってくれたり、インリーの様子を確かめにきたり、瞳は鋭くなってしまったが、さりげなく優しいなと、セリアは思った。

「そうなのよね……いらないはずの感情なのにね。暗殺者としては邪魔な感情よ。消えてくれればいいのに……」

セリアの答えに、皆は押し黙った。

「本当に、そう思っているの?」

顔を上げたセリアの髪に、戻ってきたシェラはそっと白い百合の花を飾った。

「百合は、ルキルースにはない花ね。教えたのは、インファかしら?」

インファ……戯れだった。ルキルースしか知らないセリアは、インファに花の話をたくさんせがんだ。

一日の命を繰り返していたセリアは、その呪いから解放された後も、姉たちによって守られ、ルキルースから出ることはなかった。

セクルースから来たインファの話は、狭い世界しか知らないセリアにとって、とても興味深くとても楽しかった。

その中でも、儚い命を繰り返す花の話は、過去と重なるようで、親近からインファが困るくらい話を聞いた。

──あなたは例えるなら、百合ですかね?

穏やかに笑うインファが、そう言ってくれた声が蘇る。

「わたしを……百合の花みたいだって……」

思わず、セリアはつぶやいていた。

「百合の花言葉は、純粋、無垢、威厳よ。傷ついたインファを癒してくれて、ありがとう、セリア」

フワリと微笑むシェラが、セリアには花そのものに見えた。戦姫と呼ばれるほど勇ましい姫なのに、淑やかで柔らかくて、自分のことをじゃじゃ馬でがさつだと思っているセリアは、シェラに憧れを抱いていた。

「インファ……どれもわたしに当てはまってないじゃない!どこをどう見たら、百合なの?」

純粋無垢なんて、正反対じゃないの!と、セリアは顔を覆った。

インファが、花の言葉を思って、セリアにそう言ったわけではないことを皆知るよしもない。インファは、儚い花という存在の中で、凜とした佇まいの百合に、儚い外見と瞳に強さを持つセリアを重ね合わせたのだ。

「威厳はあるんじゃない?父さんとノインと渡りあうくらいだしさ。でもさ、兄貴、結構乙女だね」

そりゃないよと、レイシはもう笑うしかなかった。

「インファが覚えてないことを、暴露させないで!」

「無理だ。面白すぎて、突きたくなる」

ノインは笑いを堪えながら、優美に足を組んだ。

「ノイン!本当に、あなたって人は!その喉掻き斬るわよ?」

「だが、今目の前にいるおまえのほうが、インファには似合いだ」

似合い――?なら、そばにいてい――セリアは慌てて首を横に振った。

「黙って!やめてよ……」

「ノイン、やめろ」

リティルは取り乱すセリアの隣で、紅茶を飲みながら、静かに言った。それを受けて、ノインは軽く片手を上げて王の言葉を受け入れた。しかしその口元には、笑みが残ったままだった。

「セリア、でもなあ、オレも知らない顔のインファを知れて、嬉しいんだぜ?あいつ、最近大変だったからな……さっきも、あれだしな……」

リティルは思いだして、身震いした。

「……リティル様、インファを呼び戻して!散らばってる欠片も変質を始めてるわ。邪精霊を抱えたまま闘うのは、もう無理よ」

セリアのもっともな言葉を受けて、リティルは溜息をついた。

「そう思って、帰ってくるように言ったんだけどな。もう少しだから、やるって聞かないんだよな。ケルゥ、カルシーと連絡取れるか?」

 ずっとケーキを食べるのに忙しくて会話に入ってこなかったケルゥは、フォークをくわえたまま顔を上げた。

「おうよ。おめぇが話すかぁ?」

ノインと位置を入れ替わったケルゥは、正面からズイッとリティルに手を差しだした。その手を握り、リティルは瞳を閉じた。

──カルシー、聞こえるか?カルシー

『お父さん?なんだ?』

すぐに鮮明な声が頭の中に聞こえてきた。

『インファの様子はどうだ?』

『ケロッとしてるけど、あんまり寝てないから心配』

『いつから?』

『半月前』

『カルシエーナ、今すぐ連れ帰れ!これは命令だ』

『……帰りませんよ?』

「インファ!戻れ!何考えてるんだよ!体が保たねーぞ?」

突然叫んだリティルに、皆は驚いて風の王に注目した。

『嫌です』

「このヤロウ!わかった。迎えに行ってやる。だから、そこを動くんじゃねーぞ?」

『風の王、捕まりませんよ?』

『ごめんね、お父さん』

「インファ!カルシー!待てよ!くそっ!あいつら……!」

声は聞こえなくなってしまった。

「来るなってかぁ?兄ちゃん、今回余裕ねぇなぁ」

ケルゥはあまり心配した様子もなく、リティルに向かって差しだしていた手を引っ込めた。

「ダメだ!あいつ、本気で行方をくらましやがった!」

風に呼びかけたが、インファもカルシエーナのことも捕捉できなかった。インファが風を攪乱して、位置を教えないようにしているらしい。

リティルがドンッと机を拳で叩いた。相当に怒っているらしく、握った拳が震えていた。その怒りは、インファが逆らったからではない。彼の事を心配しているが故の怒りであることが、セリアにはわかった。それくらい、インファの様子は芳しくないのだろう。

 ケルゥは、そんなリティルを尻目に、紅茶を飲み干すとフウと溜息をついた。こちらは、少しも心配していないらしい。

「落ち着けよぉ、リティル。そのうち帰ってくるぜぇ?とんでもねぇ姿に、なってるかもしれねぇけどなぁ?」

ケルゥはニヤリと笑った。

「ケルゥ、おまえ何か聞いてるのか?」

リティルは怒りの冷めない鋭い瞳で、ケルゥを睨んでいた。ケルゥは、リティルがこんなに怒るのは珍しいなと思いながら、平然と答えた。

「いいやぁ?けどなぁ、見えやがるのよぉ。一気に勝負決めるのはいいけどよぉ。兄ちゃんまともに寝てねぇって?一瞬でも意識失ったら、喰われるぜぇ?」

ケルゥはのっそりと立ち上がると、ゆっくりとした歩調でセリアに近づいた。そして、その大きな手でセリアの両目を覆った。

「インファ?何をしてるの?」

カルシエーナの視界の中で、彼女に背を向けたインファがいる。立ったまま動かない彼の周囲に、アメーバのようなウゾウゾと動くモノが寄ってきていた。

「欠片を呼んでいやがるのよぉ。自分自身を餌にしてなぁ」

ケルゥはセリアから手を離した。

「そんなこと、できるの?」

「兄ちゃんは気がついたみてぇだぜぇ?欠片が、何に引き寄せられるのかをなぁ」

「ケルゥ、あなたはそれが何かわかってるの?ねえ!」

問われたケルゥは、セリアに答えずリティルを見た。

「リティル、どうするよぉ?カルシエーナのことなら、オレ様わかるぜぇ?」

リティルはソファーに座り込み、腕を組んだままジッと瞳を閉じていた。そして、ややあって瞳を開いた。

「しょうがねーな。うちの雷帝が、やるって言ってるんだ。座して待つしかねーだろ?」

「リティル様!でも!」

「風の王のオレに逆らったんだ。帰ってきたら、相応の罰は受けてもらうぜ。セリア、ちょっと話がある。付き合えよ」

「は、はい」

「シェラ、君の部屋、貸してくれ」

「ええ、どうぞ」

リティルはセリアを伴って、花園の間に入って行った。

 そんな二人を見送って、シェラは新しい紅茶に口をつけた。

「ケルゥ、インファはカルシーと二人でやれそうかしら?」

「五分五分じゃねぇかぁ?兄ちゃんの精神力にかかってっからなぁ」

「インファの意識が途切れたら、教えてね?」

「いいぜぇ?シェラ、どうすんだぁ?」

「ゲートを開いて、中庭に呼ぶわ。ケルゥ、座標の指定手伝ってね。レイシ、中庭が戦場になるわ、戦えるかしら?」

インリーの後ろに背を向けて立っていたレイシは、シェラに向き直った。その気配と、シェラの言葉に、インリーは慌てて腰を浮かしながら、止めようとした。

「お母さん!」

「了解。任せてよ」

インリーの声を無視してシェラに答えたレイシは、母を真っ直ぐに見据えて、鋭い瞳に笑みを浮かべていた。そんなレイシに、シェラは戦姫の顔でゆっくりと頷いた。

レイシを見上げたインリーは、彼に置いていかれてしまう気がして、隣にいられなくなる気がして、怖くなった。


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