四章 原初の風と風の王
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「あ?やっと目、覚ましたか?」
リティルは降ってきた声に、慌てて顔を上げた。そして視線を巡らせる。
「原初の風……?」
たしか、ナーガニアによって次元の牢獄に突き落とされたはずと、リティルは思いだしていた。
次元の牢獄は何もない空間なのだと思っていた。しかし、ここはどう見ても、風の城だった。風の城の応接間。その部屋に、今はないどっしりとした執務机に、寄り掛かっている大男がいた。V字にはだけた服から覗く胸板が厚い。ゆったりした袖口から覗く腕もかなりの筋肉だ。逞しさは、ケルゥ以上かもしれない。伸ばしたい放題の髪が、粗暴な印象を強くしているが、とても整った顔立ちをしていた。
「おうよ。おまえはたしか、十五代目だったな?」
「リティルだよ。ルディル」
ルディルは瞳を瞬くと、満足そうに笑った。
「ハル……レシェラはオレの家族と一緒にいる。おまえに逢えるのを楽しみにしてるぜ?」
「そうか。そりゃよかった」
ルディルはホッとしたように、噛みしめるようにつぶやいた。その様子に、ああ、やっぱり今でも好きなんだとリティルは安心した。
ハルは、ルディルのプライベートを覗いていたと言っていたのに、一向に話しかけようとしなかった。あの体になっても、ゲートで繋がっているのだから、声くらい届くと思っていたが、ハルは、ルディルを未だに怖がっていた。同じ状況になったら、シェラもオレを怖がるんだろうかと思って、リティルは首を横に振った。そんなこと、思いたくなかった。シェラに避けられたら、死ねる!とリティルは思って身震いした。
「ルディル、オレの妻が瀕死の重傷で封印されてるんだ。助ける方法、知ってるか?」
ルディルはリティルの問いに、瞳を険しくした。
「詳しく話せ」
リティルはできるだけ詳しく、すべてを語った。
「なるほどな。確かに、助けられるぞ?おまえの中にあるゲートを使って、シェラの胸に刺さった矢をこちら側に引っ張り出せ。矢さえ抜ければ、花の姫の無限の癒やしが勝手に傷を癒してくれるはずだ。癒やしが終われば、封印も解ける」
「そんなことができるのか?そういや、ハルが、ゲートを通しておまえを覗き見してたって言ってたな」
「なんだと?あいつ、そんなことしていやがったのか!プライベートもへったくれもねぇなぁ。ああ、リティル、気を付けろよ?シェラに刺さってる矢は、致命傷だったんだろう?こちら側に引っ張り出すってことはなぁ、おまえも同じ傷同じ痛みを得るってことだ。下手したら死ぬぞ?」
ルディルの言葉に、リティルはアッケラカンと答えた。
「そんなことか。大丈夫、オレ、死なねーからな。えっと、どうやるんだ?」
死なない?どんな自信だよ?とルディルは瞳を僅かに見開いたが、面白いヤツだなと笑った。
「魔法と同じだ。イメージしてみろ」
イメージ……苦手だって言ってるのになぁ、と思いながら、リティルはゲートに意識を集中した。
そして、矢がゲートを通じて、こちら側に来るようにイメージする。するとすぐに変化が現れた。
「くっ!」
リティルは心臓に鋭い痛みを感じて、体をくの字に折ると両膝から崩れ落ちた。
「う、うあ……!」
苦しみだしたリティルの様子を、ルディルは無言で見つめていた。
「おまえ、変わってるな、笑うか?普通」
ルディルは呆れた顔でそう言った。
「はは、ははは、シェラ、と……同じ、痛みだと、ぐっ!思ったら……、嬉しくなった」
触れられなくて、感じられなくて、何度発狂しそうになったかしれない。それを、叫びと涙でやり過ごしてきた。痛みでも、シェラと同じだと思ったら、やっとそばに感じられて、忘れていた彼女の体温を思い出し嬉しかった。
「変態かよ?」
ルディルは楽しそうに豪快に笑った。そして言った。
「オレもその気持ちわかるわ!オレも立派な変態だな!ガハハハハハ!シェラに声かけろ。きっと通じるぞ?オレも、久しぶりにレシェラに声かけてみるわ」
そう言って、ルディルは瞳を閉じた。
『シェラ……聞こえるか?シェラ!』
矢が、リティルの心臓を貫き通していた。心臓の鼓動が止まりそうだ。痛みに耐えながら、リティルは自身を貫いている矢に手を掛けた。リティルでも気を失いそうなこんな痛みの中、シェラは微笑んでくれたのかと彼女の想いの深さに泣きそうになった。
『リティル……大丈夫、癒すわ……矢を、抜いて……』
ずっと聞きたかったその声がすぐに答えた。
『頼んだぜ?』
リティルは矢を一気に引き抜いた。吹きだした血が尾を引き、リティルの視界を染めた。その向こう側にいるルディルが、こちらを見てフフフと楽しそうに笑っていた。
「上手くいったか?考えてみると、簡単だろう?オレ達はゲートを通して一心同体なんだよ」
「あ──ああ……レシェラとは話せたのかよ?」
仰向けに倒れたリティルの心臓付近に、白い光が灯っていた。シェラの癒やしの力だ。いつもより治癒速度が遅い。シェラは自分自身も癒しながら、同時にリティルの事も癒してくれているようだ。
「おうよ」
ルディルは楽しそうに笑っていた。
もう何百年も、ルディルはハルに一方的にゲートを閉ざされてしまっていた。どんなに開けろと叩いても開くことはなかった。それが、少し前、頑なさが解けたように感じていた。思い切れずに話しかけることができなかったが、リティルの出現で、やっと踏ん切りがついた。こんな、妻のために命を賭ける姿見せられたら、拒絶されることを怖がっている自分が、ちっぽけに思えて恥ずかしくなったのだ。
ルディルが話しかけると、ハルはすぐ答えた。
『おい』
『ルディル?ルディルなの?』
『あたりまえだ、バカ!オレじゃなきゃ、いったい誰だっていうんだ』
『うう……ルディルぅ……ごめ──』
『おい!謝るな。聞き飽きたんだよ、おまえのごめんなさいはな。なあ、ほら、もっと他に言うことねぇのか?』
『大好き!逢いたい逢いたい逢いたい逢いたい!……ルディル?ねえ、ちょっと、聞いてる?ねえってば!』
『……あ?ああ……レシェラ……オレも、逢いたいさ……。リティルの方も終わったわ。後でな、後でまた話そう』
ルディルはリティルを理由にして、そっとゲートを閉じた。ずっと拒絶されていて、ハルに対して弱気になっていたルディルにこれは、刺激が強すぎた。十五代目の前でニヤニヤできないルディルは、あっけなく逃げてしまった。
「きっと、外は大騒ぎだぞ?さて、おまえ、ここがどういうところかわかってるよな?出られんぞ?」
「おまえ、出る気なかったのかよ?それなのに、オレ達を待ってたのか?呆れたなー」
体を起こしたリティルは、見下ろす壁のようなルディルを、少しも臆することなく見上げながら、冗談のように言った。少しも悲壮感のない小柄な風の王に、フッとルディルは小さく笑った。
「出る必要がねぇからな。ここにいりゃぁ、オレの持つ力が失われることもない」
「原初の風か?植物に受粉させる風。生命を作る原始的な手段。おまえの力は、生命を作り出す力だよな?」
あってるか?とリティルは、ルディルを窺った。
「なかなか博学じゃねぇか。おうよ、受精させる力。それが、原初の風だ」
おまえが言うと生々しいなと、リティルは笑った。生々しいってなんだ?と、ルディルは豪快に笑った。
「そのわりに、おまえ、子供いねーよな?」
「二人も作ったおまえのほうが、気が知れねぇわ」
風は戦うんだぞ?いつ死ぬかわからんと、ルディルは言った。もっともだなと、リティルは同意した。そして、でもと続けた。
「オレは、おまえよりもかなり弱いからな。助かってるぜ?それで、出ないのか?」
「出れねぇって言ってるだろう?」
「たぶん、出られるぜ?オレの息子が、何とかするさ」
「息子頼みか?ずいぶんな親父だな」
「否定しねーよ。でもな、あいつはヤル奴だからな。出られるとしたら、出るか?」
「……レシェラに逢いてぇし、出るわ」
ルディルは笑みを浮かべた。こんなところに一人でいたのに、よく笑うなとリティルは、ルディルの精神力の強さを尊敬した。オレだったら、一時間と保たないなと、思えるからだ。さすがは、あのガルビークと三日三晩戦った王だなと思った。
「ルディル、ガルビークがゴメンって、言ってたぜ?」
「あー、あのヤロウ、代替わりしたのか?一発殴りたかったわ。……リティル、ありがとうな。にしても、かなり弱い風の王にしてやられたもんだな」
ルディルはしげしげとリティルを見た。それに、ずいぶん小さいしと、ポンポンと軽く頭を叩かれた。
「うるせーよ!苦労したんだぜ?今も、精霊王にどつき回されて、散々な目にあってたんだからな!」
もう少し、力を回してくれてもいいだろ?と、リティルは悪態をついた。
「そういや、翼どうした?」
ルディルの瞳が、リティルの身を案ずるように背中をしげしげと覗きこんできた。荒々しく粗暴な瞳だが、ずいぶん優しい。幼かったケルゥを気にかけていたようだし、面倒見の良さの源は彼なのだとリティルは今更ながら思った。グロウタース風にいうなら、ルディルはリティルの先祖ということになるのか?と精霊には無意味なことを考えてしまった。
「ああ?ああ、引っこ抜かれたんだった。忘れてたぜ」
リティルは気合いで、なくなった翼を復活させる。ルディルは険しい顔で尋ねた。
「誰にやられた?」
腕を組み低く声色を変えたルディルに、怒ってくれてるのか?とリティルは感じた。
「有限の星だよ。ひょんなことから、精霊王の息子を引き取る羽目になっちまって、その子が生きてるって知った精霊王に攻められたんだよ」
「シュレイクの息子だって?ありえねぇ」
ルディルは本当に驚いていた。ああ、やっぱりあいつは、愛することのできないヤツなのかと、リティルは、すべてを拒絶するような瞳の精霊王の姿を思い出していた。
「まあ、ありえねー理由で殺されそうになったな。今はオレの息子だよ。そのせいで今、ルキルースと精霊王が睨み合ってるんだ」
「ルキルース?」
「オレ、今の幻夢帝に気に入られてて、風の城のみんなを匿ってくれてるんだよ。総指揮は、オレの息子が執ってるはずだ。それが、ちょっと心配なんだけどな……」
リティルは肩をすくめた。インファは大丈夫だろうか。シェラが目覚めていれば、支えになってくれているだろう。次元の刃に総指揮……全部背負わせてしまった。ノインもルキも力になってくれているだろうが、リティルはインファがこの上なく心配だった。
「ほお?面白れぇことになっていやがるな。おい、詳しく話せ!このオレも一枚噛んでやる」
風の怖さ、思い知らせてやる!ルディルの瞳が、ぎらりと輝いた。リティルは、ああ、こう言うところが猛風鬼神なのかと、納得していた。
断崖の城の玉座の間で、ルキはふと、眠るシェラに視線を送った。そして、ジッと見つめる。力が動いている?ルキはトンッと玉座から飛び降りると、シェラを見下ろした。
「…………シェラ?」
穴が開くほど見つめていると、封印結晶内のシェラがフッと瞳を開いた。その瞬間、剣狼の操る風がドッと吹き荒れた。風が去ると、倒れたフツノミタマの上、空中にモルフォ蝶の羽根を開いたシェラが、浮かんでいた。
「……ルキ?ここは、断崖の城なの?」
シェラは見上げるルキの姿を見て、ここがどこなのか知ったようだった。ルキは、ニヤリと大きく微笑んだ。
「おはよう、シェラ。君を助けたのは、リティル?」
「ええ、リティルが助けてくれたわ。リティルは、ここではないどこかにいるのね?」
「そうなんだ。次元の牢獄だよ。元気?」
「リティル?元気そうだったわ。今、原初の風と一緒にいるみたい」
シェラは舞い降りた。何かが起こっていることを感じているのだろうか。瀕死の重傷から目覚めたばかりだと言うのに、ふらつくことなく気丈に立っていた。
そして、足下で気を失っているフツノミタマに手をかざした。無尽蔵の癒やしだと聞いてはいたが、もう他者を癒せるほどの生命力が回復しているのかと、ルキは感心していた。
「母さん!目覚めたんですか?」
玉座の間に姿を現したインファが、翼をはためかせて飛んできた。その後にはノインも続いていた。
「インファ、ノイン。状況を説明して。レイシはどこ?」
「レイシはインリーと修業中です。大丈夫です。父さんのおかげで無事ですよ」
微笑むインファの頬を、シェラはそっと撫でた。
「インファ、少し痩せたわね?ごめんなさい、あなたに背負わせてしまって……」
「今更ですよ。オレは副官ですから。今、精霊王と一触即発です。父さんはもう太陽の城にはいないので、いつ攻めてくるかわからない状況ですね」
「精霊王……どうしても、レイシの存在が許せないの……?」
シェラは憂いの表情で、胸の前で両手を組んだ。
「シェラ?うお!リティルがやりやがったのかぁ?」
大きな声が響いたかと思うと、シェラは大きな黒い固まりに包まれていた。ケルゥがよかったよかったと繰り返しながら、嬉しそうに抱きついていた。
「ケルゥ、狡い」
カルシエーナの髪が、シュルリとケルゥの首に巻き付いて、グイッと後ろに引いた。
「ぐえ!おめぇ、容赦ねぇ……シェラ、リティルの事聞いたかぁ?大丈夫かぁ?」
ケルゥは体を離すと、シェラの肩に手を置いたまま気遣うように顔を覗きこんだ。
「次元の牢獄……決して出られない狭間……リティル、なぜそんな選択を……」
気丈だったシェラの瞳が、ケルゥの優しさに解されて初めて揺らめいた。そして、哀しそうに俯いてしまった。限定的といっても、シェラにもゲートを開く力がある。その場所が一方通行であることを、シェラも理解していた。
『シェラ、大丈夫!リティルもルディルも大丈夫!ねえ、そうでしょう?インファ』
ノインの肩にいたハルが、シェラの肩を掴んでいるケルゥの腕に飛び乗った。インファと聞いて、シェラは縋るような、希望があるような、そんな瞳を息子に向けていた。
素直なその視線を受けて、インファは苦笑した。みんなオレを頼るんですからと。
けれども、それでいい。風の王を救うのは、副官の仕事なのだから。
「ええ、なんとかしますよ。任せてください。ルキ、力の加減ができません。壊してもいいですか?」
「今更何言ってるの?散々壊してたじゃないか。インファ、もったいつけてないで早くしてよ。それから、シェラ、その服はいただけないね?」
ルキは今日だけは素直に嬉しそうだった。そして、心臓の辺りに穴がいてしまっていたシェラのドレスを見て、顔をしかめるとスウッと指先を動かした。
フワリと闇色の力がシェラの周りに走ったかと思うと、ポンッと弾けて、シェラは金糸で羽根の刺繍がされた、肩の大きく出た白いドレスに身を包んでいた。シェラの首に飾られた、無骨な狼の牙のネックレスが映えた。
インファは頷くと、バルコニーから外へ出たのだった。
皆がバルコニーから見守る中、インファは沈まない太陽を見つめて空中にいた。
心がとても静かだった。次元の刃が初めて発現したときとは真逆な心持ちだ。
ゆっくり大きく、インファは深呼吸でもするように腕を開き、手を胸の前に合わせた。インファの手の中に、一振りの剣が現れていた。
金色の細身の刀身。それに絡み付くように走る白い光の帯。インファが作ったにしては、華奢な刃だった。
「はあ!」
インファはその刃を、上段から下段に振り抜いた。金色の風の刃を輝かせる白い光が共に飛び、何もない虚空が切り裂かれていた。口を開けた大きな裂け目から、底冷えするような空気が漏れている。
「父さん……!」
次元を切り裂けたのを見届けたインファは、意識が遠のくのを感じた。この力はインファが扱うには強大すぎる。
皆があっ!とざわめく中、インファの体は落下していた。
「おっと!やってくれたな、インファ!」
小さくて、でも大きな気配が、インファを抱き留めていた。もう目を開けることはできなかったが、褒めるように名を呼ぶ声を聞きながら、インファは当然だと微笑んだのだった。
「ほう、次元の牢獄を斬れる奴がいるとはな。おまえには感心するわ、リティル」
「オレは、一人じゃ生き残れねーほど弱いからな。いつも誰かに助けられてるんだよ。特に、息子のインファにはかなり助けられてるな」
「に、しても、おまえちっこいな。おら、オレに貸せ。連れてってやる」
完全に意識を失っている長身な息子に、しがみついているようにしか見えないリティルから、ルディルはインファの体を取り上げた。
「うるせーよ!好きで小柄やってるわけじゃねーよ!」
遠慮なく噛みついてくるリティルが面白くて、ルディルは突くのをやめられなくなった。
息子か、意識を失ったインファをチラリと盗み見て、ルディルは、リティルに視線を戻した。こんな息子なら、一人くらいいてもよかったかもなと、思ってしまった。
しかし、そんなことを思うのは、こんなに小さいが風の王を全うしているリティルに、失礼かと思い直した。
「ガハハハハ!肉喰え、肉。少しくらい成長するんじゃねぇ?」
「おまえな、自分は大きいからって余裕かましてるんじゃねーよ!に、しても背高いな!高すぎじゃねーか?」
二人は空中で仲良く言い争いを始めてしまい、なかなか降りてこない。
「ちょっとぉ!早く降りてきなさいよぉ!」
痺れを切らしたスワロメイラが叫んだとき、スッと隣をすり抜ける気配がした。それはシェラだった。シェラはモルフォ蝶の羽根を羽ばたき、降りてこないリティルのもとへ飛び立ったのだった。
「──息子の方を小さく作るとかなぁ」
「腹から生まれてくる奴を、そんな操作できるかよ!」
ルディルとくだらない言い合いをしていたリティルは、ドンッと抱きつかれる衝撃に蹌踉めいた。
「シェラ……?」
リティルは胸に顔を埋めて抱きついているシェラと、さっきゲート越しに話して無事なのを知っているというのに、信じられない心持ちで見下ろしていた。
名を呼ばれたシェラは、すぐに顔を上げた。その瞳から、隠すことなく涙が流れていた。
「リティル……!」
言葉はいらなかった。シェラはぶつかるようにして、リティルの唇を奪っていた。そんな妻を受け入れて、リティルはシェラを抱きしめた。
ルディルはごゆっくりとでも言うかのように、小さく満足そうに笑うと、バルコニーに舞い降りていった。
「君が目覚める時に、そばにいなくてごめんな」
「そうよ!次元の牢獄にいるなんて、もう二度と逢えないかと思ったわ!」
「ごめん」
「あなたはいつもそうよ。ちょっと目を放すと、とんでもないことに巻き込まれて!わたしが……わたし達がどれほど……」
「ごめん」
「リティル……勝手に離れてしまって、ごめんなさい」
「間に合わなくて、ごめん……夢じゃねーよな?君はここにいるよな?ホントにいるよな?」
リティルの手がそっと、泣き濡れたシェラの頬に触れた。その手は微かに震えていた。
「ここは夢の世界だけれど、夢じゃないわ。ごめんなさい!リティル……わたしはここにいるわ!」
シェラは泣き笑いのような顔で、頬に触れてくれているリティルの手に手を重ねた。シェラの体温に包まれた手の感触に、リティルはやっとシェラだ、シェラがここにいるのだと実感した。
「シェラ……!うああ──やっと……やっと逢えた……!」
リティルは再びシェラを強く抱きしめた。耳元で聞こえるリティルの微かな嗚咽に、シェラはそっと瞳を閉じた。剥き出しの肩に降る、リティルの涙の雨が、熱くて心地良かった。
ああ、愛おしい……シェラは眠りの淵にあっても、リティルをそばに感じていた。
たまに寄り添ってくれた体温も、落ちてくるキスも、奏でる音色も、リティルのくれるすべてを感じていた。寂しくはなかった。ずっと、幸せだった。
惜しみなく与えてくれるのに、こちらからは返せないことが歯痒かった。矢がゲートを貫き通していたために、声すらかけることができなかった。
──シェラ、どうすれば君を目覚めさせられるんだ?どうすれば、いいんだよ?おしえてくれよ、シェラ……!逢いてーよ!シェラ……
絶望に打ちひしがれてたまに泣くリティルを、ただ感じていることしかできなかった。
──わたしは……ここに、いるわ……
たった一言。たった一言さえ、苦しむリティルに伝えられなかった。
「ありがとう……わたしを諦めないでいてくれて……。リティル、愛しているわ……」
「シェラ……オレも……愛してる。愛してるよ!」
顔を上げた二人は、深く、深く口付けた。
「あー、美味しかった。お腹いっぱい!」
やっと皆の元へ戻ってきたリティルとシェラに、スワロメイラはキャッキャしながら、満面の笑みを浮かべていた。
「そうだった……おまえらいたんだった……」
額を押さえて俯くリティルに、ルディルがバンッと背中を叩いた。
「ガハハハハハ!やるなぁ、おまえ!あーあ、オレもレシェラがこんなんになってなきゃ、もっとすげぇことするんだけどな」
ルディルは愛しそうに、似合わないメスライオンのぬいぐるみに頬を寄せた。
「これ以上、何やるんだよ?」
リティルは、呆れた顔でルディルにつっこみを入れた。
『しかたないじゃない。生きてただけよかったと思って。それに、同じ司の精霊は同時に存在できないんだから、それも考えなくちゃ』
「花なんていっぱい咲くんだからよぉ、二人いたっていいじゃぁねぇかぁ?」
「世界がそれだけ寛大だったら、よかったんだろうな。おまえ、ケルディアスだよな?でっかくなりやがったなぁ」
ルディルも負けず劣らず大男なのに、二メートルを超える長身のケルゥよりも、いくらか低かった。
「おめぇ、意外とちっさかったんだなぁ」
原初の風・ルディル。幼いケルゥの記憶に、強烈に残る男。いつも見上げていた記憶しかない。それが、今や僅かだが見下ろしている不思議に、ケルゥはしげしげと豪快に笑うルディルを見ていた。
「オレを小せぇなんて言いやがったら、リティルはどうなるんだ?豆か?米粒か?」
「オレを引き合いに出してんじゃねーよ!この巨人ども!」
「おめぇら、同時に存在していいのかぁ?」
ケルゥが心配そうに様子を窺っている。同じ司の精霊は同時に存在できない。そのルールに則り、同じ存在だった場合、存在を賭けてて戦わなければならないのだった。
ルディルとリティルは顔を見合わせると、笑った。
「オレは、原初の風」
「オレ、風の王。同じじゃねーよ。ルディル、説明してやれよ」
「えー?面倒くせぇ。リティル、おまえがしてやれよ。ケルディアスの保護者だろう?」
「友達だよ。父親になった覚えはねーよ。……おい、レイシとインリーはどうしたんだよ?ここにいるんじゃねーのかよ?」
自分の言った父親という言葉に、リティルはキョロキョロと皆の顔を見回した。この争いの切っ掛けになった者がいない。
インファを支えていたノインは、ほとんどレイシには関わることができなかった。その穴を埋めていたのがルキだったが、シェラの封印結晶の異変で、意識を完全にそちらに持っていかれていた。シェラの目覚めは、この断崖の城全体を、大きく振るわせるほど壮大な力を発し、それに気がついたケルゥとカルシエーナはすぐに駆けつけた。あの力を、まだ未熟なレイシはともかく、インリーが気がつかないはずがない。
「お姉様?……あらあら、しょうがないわねぇ。えー、二人を見つけたわ。太陽の城よ。それと、ごめんなさいね?手引きしたのはどうも、ウチの妹みたいだわ」
セリアが心を取り戻して不安定になったことで、スワロメイラは断崖の城に戻ったが、エネルフィネラは、未だ太陽の城で監視を続けていた。その姉からのたれ込みだった。
「レイシ、あのバカ!シェラ、ごめん、オレ行ってくるよ」
「ええ。二人をお願い。わたしは風の城に戻るわ。助けが必要なら教えてね」
リティルは頷いた。ルディルは、リティルが躊躇なく行くといい、それを当然のように許すシェラのやり取りが信じられなかった。ルディルから見れば、リティルなど赤子のようなものだ。そんな弱々しい存在が、あの精霊王に敵うはずがない。だというのに、誰もリティルを止めようとしない。
「ルキ、スワロ、シェラと一緒に風の城に行ってくれねーか?インファが起きたら、説明してやってくれ。シェラ、フツのことも頼むよ」
フツノミタマは、シェラに癒されてはいたが、まだ眠っていた。彼女もかなりの重症だったのだ、今は眠らせておいてやりたかった。
「やれやれ、わかったよ。風の城は精霊王の妖精に占拠されてるだろうから、掃除すませとくね」
ルキは不適な笑みを浮かべると、爪をニュウッと伸ばした。それを聞いたシェラが、ふんわり微笑んだ。しかし、その可愛らしい唇から零れ出た言葉は、とても彼女に似つかわしくないものだった。
「あら、ルキ、あなたは応接間でくつろいでいて。わたしのお城よ?お掃除くらいできるわ」
「ウフフ、じゃあ、ウチにはお手伝いさせてねぇ」
「ええ、スワロ、ありがとう。リティル、太陽の城へのゲートを開くわ。わたしの力では、その付近にしかいけないけれど……」
シェラは申し訳なさそうに、肩をすくめた。
「上等だぜ?ありがとなシェラ。目覚めて早々悪いな」
雑兵とはいえ、シェラが勇ましく一掃するというから、ルディルは驚いた。派手なレシェラと比べると、清楚で淑やかそうな姫にしか見えないというのに。
「シェラ、おまえが掃除するのか?マジでか?」
「ええ、そうよ?」
シェラはキョトンとして首を傾げた。こちらのことも、誰も止めないところを見ると、それが問題なくできることを皆知っているということだ。可愛い顔して凄い女だと、ルディルはただただ驚くしかなかった。
「シェラは風の城で最強だぜ?ノイン、ケルゥ、カルシー、準備はいいか?」
リティルの前に集まった三人は同時に頷いた。
「待て待てリティル!このオレも行くからな?」
置いていかれそうな雰囲気を察して、ルディルは慌ててリティルの肩を掴んだ。その肩は、鍛えられていることはわかるが、ルディルの手には細く華奢にしか感じられなかった。
『わたしも行くから!』
ハルがリティルの前に飛びだした。勢い余ってリティルの顔に張り付いたハルを、リティルは驚いた様子もなく、ムンズと掴んで引き離しながら目の前にぶら下げた。そのやり取りが手慣れて見えて、ルディルは少し落ち着かなかった。
「ハル、おまえはシェラと城にいろよ。危ねーことわかるだろ?」
『レイシのフォローする人いないでしょう?大丈夫、あなた達がいるもの!』
ハルの積極的な姿にも、ルディルは驚いていた。彼女が戦場に行くなどもっての外だ。それに、行きたいなどと言ったことなどなかった。そして、危険を顧みず他者を気にかける姿も、初めて見た。
「わかったよ。でも、それを許すのはオレじゃないぜ?」
リティルはそう言うと、ハルからやっと手を放し、正面にいるルディルを見上げた。
『いいの!リティルがリーダーなんだから、ルディルが反対したって構うものですか!』
ハルはルディルを一度見たが、すぐにリティルに向き直った。
「おいおい……ずいぶん十五代目と仲良しじゃねぇか。ええ?レシェラ」
リティルに対してかなりの信頼を感じて、自分の知らない時の流れを知ったルディルは拗ねていた。なんだか、リティルに妻を盗られたような気持ちになったのだ。さっきあれほど熱烈な再会を見たところだというのに、嫉妬していた。
『睨んだって怖くないわよ?城のみんなは大事なの!まだ本当のお父さんに夢を抱いてるレイシを、闘わなくちゃならないリティルはすぐに慰めてあげられない!だから、わたしが代わりに慰めるの!ルディル、お願い、行かせて』
ルディルは険しい瞳のまま、ハルを抱き上げた。こんなに噛みついてくるなんて、ずいぶん積極的になったものだ。リティルが、リティル達が変えたのか?とルディルは感心するしかなかった。
十五代目風の王・リティル──この小さくて華奢な男は、見た目に反して大きな王らしい。
ルディルは、そっとハルにキスをした。そして、観念したように小さく笑った。
「おまえも、目覚めさせられた口か?リティル、大した王だなおまえは。リティル、戦闘は任せろ。このオレが守ってやる」
「ルディル、ありがとな!オレ、びっくりするほど弱いからな、頼んだぜ?」
リティルは胸を張って笑った。胸を張るな!とツッコミを入れながら、ルディルも豪快に笑った。それにしても、思わずつられて笑ってしまう不思議な笑みだなと、ルディルは思った。殺伐とした戦いの日々にあって、こんなに曇りなく真っ直ぐに笑うリティルを、ルディルは好ましく思った。
「シェラ、行ってくるな!」
一度だけ二人は抱きしめあった。そして、シェラは太陽の城の上空へ、ゲートを開いたのだった。
──レイシ、おまえの親父は、オレだぜ?忘れるな。忘れるんじゃねーぞ!
リティルは、爛々と輝く金色の瞳で、沈黙する細身の白亜の城を見下ろしていた。
真っ白な城の廊下を、セリアは注意深く進んでいた。
後ろには、レイシとインリーがいる。
「セリア、もう帰っていいよ。あとは、オレ達だけで行くよ」
「そんなこと、できないわ。わたしがいなければ、二人ともすぐに見つかっちゃうわ」
「でも……セリアまで、兄貴に怒られちゃうよ」
レイシが兄貴と呼ぶのは、インファしかいない。
──オレには心がありません
申し訳なさそうに、けれども真摯に、インファは気持ちに引導を渡してくれた。今のインファが意識体だったインファと違うと思っていたが、そんなことはなかった。穏やかに笑ったその顔を見たとき、自分の知っているインファが、ただごく僅かなのだと悟った。
「頼みを聞いたときから、わたしは隠しようもなく共犯よ」
だから気にしないでと、セリアは笑った。
インファのもとから逃げたセリアは、森の中で修業中の二人と遭遇した。
二人も、リティルが次元の牢獄に落ちたことを知らされていた。
「次元の牢獄って何?」
レイシは不穏な響きのする言葉に、過剰に反応していた。教えてとせがまれて、断りきれずにセリアは教えてしまった。
ナーガニアにも入り口しか開けない、出ることの決して出来ない次元の狭間……。
そんな場所にリティルが落とされたことに、レイシは大いに動揺した。無理もない。そして、レイシの口から出る言葉が何なのか、セリアには見当がついた。
「オレのせいで……オレのせいで父さん……」
この争いは、リティルがレイシを引き渡すことを、拒んだことで始まった。彼が自分を責めるのは、当然のことだった。
インファはそんな父親を助け出すために、身も心も削っているというのに、ずいぶん呑気な弟だ。そんな当たり前なことを言っていないで、やるべき事に打ち込めばいいのにと、セリアは冷めた心でボンヤリ思った。ここで打ちひしがれて、インリーに慰められるだけの男かと思ったが、セリアはいい意味でレイシに裏切られた。そして、インファの弟だなと素直に思ったのだった。たとえ、その行動がどんなに無謀で、庇護する側から見たら間違いであっても。
「セリア、お願いがあるんだ」
断るべきだった。そんなことをしてはいけないと、諭すべきだ。けれども、セリアは頼みを聞いた。断れば、二人だけで行くだろう。そんな雰囲気だった。諭されてもそんなこと承知の上だ。ならば、できる限り、インファの大事な兄妹達を守ろう。セリアはそうして、この城へ二人を連れて潜入した。
セリアは城内部の地図を頭に思い浮かべながら、廊下を注意深く進んでいた。
「レイシ、精霊王に会ってどうするの?あなたを殺そうとしてる人よ?」
セリアは、城へ潜入する前の、思い詰めた表情のなくなったレイシに、今なら冷静に話せるかなと思った。ここで思い留まるなら、さっさと引き返さなければならないから。
「話が、したいんだ」
本気で言っているのだろうか。話ができる相手なら、きっとこんなことにはなっていない。リティルが人質にまでなって、守ろうとしたのは、きっとそういうわけなのだ。
「リティル様がどうしてあなたを渡さなかったのか、わかってる?」
「わかってるよ。オレを殺させないためだよね?」
「レイシ、リティル様は、あなたを会わせれば殺されると思ったのよ?それでも行くの?」
話はできないと思うと暗に言われて、レイシは困った顔をした。
「それでも会ってみたいんだ。ごめん、理由なんてないんだ。だから二人とも帰ってほしいんだけど?」
レイシは肩をすくめた。そんなレイシに、インリーは当然のように言い放つ。
「わたし、最後まで一緒に行くよ?セリア、玉座の間まででいいから、セリアはお兄ちゃんのところに帰ってね?」
「どうして、インファの……?」
インリーが当たり前のように、インファの所にと言ったことで、セリアは動揺した。
「え?だって、セリア、お兄ちゃんの恋人だよね?」
インリーは小首を傾げた。衝撃的な発言に、セリアは絶句した。
「えええ?そうだったの?ご、ごめん!オレ、知らなくて……兄貴……怒るよね?」
レイシはまるで知らなかったと、青くなっていた。そして、でも兄貴いつの間に?とインリーに聞いていた。
「違う。違うわ!インファとは、そういうんじゃ……ない……」
セリアは慌てて否定した。否定しながら、心がとても痛かった。
「そうなの?じゃあ、お兄ちゃんの片思いなんだ」
セリアに否定されて、キョトンとしたインリーは、さらに衝撃的な発言を、サラリと言い放った。
「えええええ?オレ、殺されるかも……どうしよう、インリー!知ってたんなら、止めてよ」
レイシはどうやら、精霊王よりもインファの方が怖いようだった。いったいどれだけ知らない顔があるのだろうか。セリアはレイシの反応に、自嘲気味にそっと微笑んだ。
「片思いって……そんなわけないわよ」
なんなんだろう、彼女は……どこをどう見れば、インファの片思いなどという発想になるのだろうか。わたしがインファに、じゃなくて……。
「あれは絶対セリアのこと好きだよ。セリアは?お兄ちゃんのこと好き?」
残酷な子。でも、インリーの信じて疑わない瞳で、絶対好きと言われて、セリアは素直に嬉しいと思えていた。この先二度と会えなくとも。
「光栄だわ」
セリアは精一杯笑った。
さて、玉座の間まであと少し。足を踏み出そうとしたセリアの前に、フワリと見知った赤が躍った。
「セリア」
「姉様……あ、の、これは……」
エネルフィネラだった。エネルフィネラを前にして、セリアはしどろもどろになってしまった。ここに姉がいることはわかっていたが、接触してくるとは思わなかったのだ。
「リティル様達が来るわよ?」
「リティル様?助け出されたの?」
「ええ、インファが次元の刃でね。インファは力を使いすぎて動けないみたいね。レイシ、このまま進むの?お父さんを裏切ることになるわよ?」
エネルフィネラのリティルを裏切るという言葉に、レイシは一瞬怯んだが、それでも意志は硬いようだった。
「オレ、行くよ。風の王・リティルの息子でいたいから」
このまま守られたままでは、前に進めないと思った。人間だった母にはもう会えない。自分の血の半分である、本当の父親がどういう人物なのか知らなければならないと、そう思った。自分自身からは、逃げられない。あのノインでさえ、自分と前世の風の王との心を賭けて、向き合って今があるのだ。レイシだけが、皆に守られてこれから先生きていくことが嫌だった。できたら、大きな風三人に近づきたい。近づける自分になるチャンスだった
「本当のお父さんに刃を向けることになっても?」
「うん」
頷くレイシに、エネルフィネラは頷くと、スッと前を向いた。
「玉座の間はこの先よ。悪いけれど、あなたを殺させるわけにはいかないの。危なくなったら、逃げるわよ?セリアも、いいわね?」
「はい、姉様」
宝石の姉妹は、レイシの盾になることを決めた。宝石の精霊は砕けても同じ存在として、甦ることができる。ラジュールのいない今でも、その存在は変わっていないのだ。
グラグラと城が地震のように揺れた。この感じには覚えがある。
「カルシエーナ?カルシーが、城の結界を壊したんだ。本当に、お父さん、帰ってきてるの?」
弾かれたように、インリーが天井を見上げた。その声はホッとしてそして、この上なく嬉しそうだった。精霊王と風の王とでは、安心できる要素は何もない。だが、リティルはどんなに大きな相手を前にしても、安心を与えてしまう何かがあるんだなと、セリアは思った。
「スワロメイラから聞いたの。間違いないわ。行きましょう?リティル様が来てしまったら、話どころではなくなってしまうわ」
ごもっともと、インリーとレイシは頷いた。
宝石達の隠密行動は本当に優れている。まるで、城の中に誰もいないかのように、誰の気配も感じる事なく玉座の間に到着してしまった。扉の前には兵士がいない。風の城にも門番はいないが、こんな有事にこんな手薄でいいのだろうか。
宝石の姉妹が、両開きの扉を押し開けた。
風の城には玉座がない。レイシは、壇上の豪華な椅子に座る男を見た。
「レイシ……!」
階下で控えていた、赤い髪の中年の大男が瞳を見開いた。そして、駆け寄ってきた。
「ごめん、有限の星。オレ、来ちゃった」
「リティルに黙って?何を考えている!」
この人も、ずっと守ってくれていたんだなと思うと、レイシは今有限の星の前に、父や兄の後ろではなく、一人立っていることを誇らしく思えた。
「精霊王と話がしたいんだ。父さんが一緒じゃ、まともに話せないから」
「しかし……」
有限の星は渋った。
「退け、有限の星」
高い壇上から声が降ってきた。幻夢帝の住む断崖の城にも玉座があるが、階段は低くてルキは話をするときはすぐに飛び降りてくる。風の城には玉座の間すらなく、リティルはいつも同じ目線で話をしていた。同じ目線といっても、背の低いリティルでは、見下ろされる方が多かったが。
こんなに上から見下ろされるのは、レイシにとって初めての経験だった。
有無を言わさない声を受けて、有限の星は無言でレイシの前から退くしかなかった。
風の城でもリティルの命は絶対だが、こんな頭ごなしではない。レイシは、なぜ皆が話し合いをしようとしないのかを悟った。話し合いなど無駄なのだ。
「有限の星、無限の宇宙、鳥達を近づけるな」
命を受け、守護精霊は機械のように無言で、玉座の間を出て行ってしまった。
「待って!なんで闘うの?」
「なぜだと?城が攻められているというのに、闘うなというのか?」
「それは、あなたが立ちはだかるから!教えてほしいんだ!あなたは、何の用でオレをこの城に呼んだの?」
レイシはまだ、精霊王の口からその言葉を聞いていなかった。赤子の頃に殺されかけたかもしれないが、今はどうなのだろうか。別の理由があるのかどうか、確かめたかった。
「風の王から聞いていないのか?おまえを抹消するためだ」
レイシは立ちはだかろうとする宝石の姉妹を押し止めると、階段の下へ歩みを進めた。
「そうなんだ……オレ、あなたに何かした?」
「邪魔だった。サンとわたしの間に突然現れて、サンとわたしの時間を奪った」
サン?それが母の名であることを、レイシは初めて知った。
「サンはわたしを見なくなった。共にいられる時間は少ないというのに!」
唐突に、壇上からオレンジ色に光り輝く龍が襲いかかってきた。サッとレイシの前に割って入ったインリーが、風の障壁で凌ぐ。
「レイシ、もういいでしょう?あの人に、少しも愛情はないよ!」
精霊王の心は、リティルが赤子のレイシを奪ってきた時のままのようだった。
「愛情?それすらまやかしだった。おまえを失ったサンは、わたしを責めた。だから──」
レイシは瞳を大きく見開いた。オレはこの人の愛されなかったけれど、母のことは好きだったんだと、レイシは少し安心した矢先だった。
「殺した」
「そんな……あなたは、好きな人を殺したの?なんで……!」
「愛などない。だから殺した」
ヨロリと、レイシは目の前が真っ暗になった。
精霊王は、レイシの知っている精霊達とは違いすぎた。リティルもシェラも、ケルゥもカルシエーナも、相手を想い、それ故に辛い思いもしているというのに、精霊王の描く愛はとても一方的だった。そして、思い通りにならないとわかった瞬間、愛などないと斬り捨てる。
テティシアを殺してしまったガルビークとは、その心情が一八十度違った。哀しい間違いを犯してしまったが、レイシはガルビークの事なら理解することができた。だが、この人のことは理解できなかった。レイシは、嫌悪感で体が震えるのを感じた。
「オレは……こんな人の血を引いてるんだ……」
情けなかった。リティルとシェラに限りない愛情をもらって今も生きているレイシは、この身に流れる血を初めて呪った。兄弟として守ってくれ、今まで一緒に生きてくれたインファに、わたしの居場所はレイシの隣と言ってくれるインリーに、申し訳なかった。こんな血の為に傷ついた、リティルとインファを想い、レイシの中に憎しみにも似た怒りが込み上げていた。
「レイシ?」
「精霊王!オレはあんたを許さない!」
レイシは守ってくれていたインリーを突き飛ばすと、階段を駆け上がっていた。オレンジ色の龍が襲ってきたが、レイシの体から飛びだした銀細工のような妖精達が、自分達よりも大きなその龍をことごとく跳ね返していた。
──こんな血は嫌だ!こんな血と一緒に、生きていたくない……!
精霊王は玉座から動かなかった。ガルビークと同じ、中性的な美しい顔には表情がなかった。レイシは腰に吊した鞘から剣を抜いていた。そして、動かない精霊王に向かい振り下ろしていた。
……その剣は、精霊王には届かなかった。レイシの剣は、見知った剣に受け止められていたのだった。
「……レイシ……オレはおまえに、こんなことをさせる為に、育てたんじゃねーよ!」
下から、金色の瞳で鋭く睨まれたかと思うと、レイシの剣は弾かれてその手から飛んでいた。精霊王の前に立ちはだかったのは、リティルだった。息を切らし、慌てて駆けつけたことがわかった。どうして、こんなに違うのだろうか。どうして、この人の血を、引いていないのだろうか。
へたり込んだレイシは、リティルを見上げた。大きくて温かい育ての父。リティルはホッとしたような笑みを浮かべていた。レイシはリティルに手を伸ばした。
父親はリティルがいい……。風の王の息子でいたい。許してくれる?これからも……。
リティルの表情が、突如凍り付いた。
彼の胸から、唐突に、血塗られた白銀の刃が生えていた。レイシの伸ばした手は、リティルに届かなかった。
「う……くっ!……精霊王……!」
リティルは精霊王に刺されていた。長身な精霊王が立ち上がり、その剣でリティルの体を吊り上げたかと思うと、感情無く物のように階下へ投げ捨てた。血の雫と金の羽根がレイシの見開いた目に散った。精霊王はその勢いのまま、レイシへリティルの血に濡れた刃を振り下ろす。レイシはその様を、見開いた目に映していた。
「仕方のない……。おい、邪魔だ!さっさと降りろ!」
金色の翼を背負った見慣れない男が、精霊王の刃を受けて切り結んでいた。その様子を、レイシはボンヤリ眺めていた。彼が逃げろと言っていることはわかったが、レイシの心と体は動かなかった。
『レイシ!しっかりして、リティルがあれくらいでどうにかなるわけないでしょう?』
ルディルの肩から飛び降りたハルが、レイシの短い髪を引っ張った。しかし、レイシはボンヤリしていて動かない。
『レイシ!リティルの所に、早く!巻き込まれちゃう』
ルディルは精霊王と切り結び、レイシが逃げる時間を稼いでくれていた。チラリと振り向いたルディルの瞳には、流石に余裕がなかった。早くしろと言われていることが、ハルにはわかった。
──父さんのところに行って、それでどうするの?血を流すべきは、父さんじゃないのに
レイシの心に、深く深くどこまでも深い深淵が開いていた。
階下では、投げ落とされたリティルが何とか起き上がるところだった。ふらつく頭を振って、なんとか意識を保ちながら、玉座を見上げる。玉座の上空では、なんとか精霊王をレイシから遠ざけようと、ルディルが健闘していた。
「大丈夫?お父さん!」
慌てて駆け寄ったインリーが、治癒魔法をかけてくれるが、すでにゲートを通してシェラが癒してくれていた。
「あ、ああ……痛ってー……宝石姉妹!今のレイシに近づくな!」
傷は癒えているようだが、体を襲った衝撃からまだ立ち直っていない様子で、リティルはヨロリと立ち上がった。近づくなと言われて、エネルフィネラとセリアは階段の途中で、リティルを振り向いていた。二人はレイシを救出しようと、動いてくれていたのだ。
「危ない!」
インリーの悲鳴のような声が響いた。エネルフィネラは飛びのき、セリアもフワリと宙返りしていた。
襲ってきたは何だったのか、階段を後ろに飛び退きながらセリアが見たのは、壇上に立つ白銀の妖精の女王だった。
「リティル!てめぇの息子どうにかしろ!レシェラが死んだら、恨むぞ!」
精霊王と切り結びながら、上空からルディルが叫んだ。
「恨むだけでいいのかよ?ハル……大人しくしててくれよ!」
リティルはふらつく頭をもう一度振ると、高い玉座を目指して再び飛んだ。
レイシを取り込んだ白銀の妖精は、リティルを見上げて哀しげな声で鳴いた。
「なんて声だよ……レイシ!オレの声が聞こえるか?何を聞いても、何を見ても、どんなに迷ったって、オレはおまえの手を放さねーよ!オレは諦めが悪いんだよ!レイシ!」
白銀の妖精は、長い爪の手をリティルに伸ばした。その手に、リティルはワザと捕まった。光でできた妖精の手は、焼けつくように熱かった。
「レイシ!オレはどんなに壊したっていい!けどな、おまえは戻って来いよ!」
妖精の女王の、泣くような声が長く長く響いていた。
階下で壇上を見上げていたインリーは、まるでレイシが泣いているようで心が痛かった。
信じられない。あのフワフワしたレイシが、嫌悪の表情を浮かべて、精霊王に切りかかったその姿が、未だに悪い夢のようだった。
「泣いていますね。レイシ」
「お兄ちゃん!倒れたって聞いてたけど……」
泣きそうになりながら、妖精の女王を見上げていたインリーの隣に、気怠げなインファが並んだ。また無理をしてきてくれたことが、窺い知れた。
「手のかかるあなた達がいるんです。寝ているわけにはいかないでしょう?」
インファは困ったような笑みを浮かべた。そして、再びレイシを見上げた。
「父さんは熱血ですね。ですが、あれではダメです」
フワリとインファは飛び立った。
「レイシ」
長く細く鳴いていた女王は、インファにも手を伸ばしてきた。インファはそれをスルリと避けると、捕まっているリティルに並んだ。
「レイシ、これ以上父さんの手を煩わせると、お仕置きですよ?」
インファのその言葉を聞き、妖精の女王は明らかにギクリとした。そして、リティルを掴んでいる手をゆっくりと放した。その様子は明らかに怯えていた。
「父さん」
「ああ」
インファの合図で、親子は妖精の女王に向かって片手をつきだした。金色の風が吹き荒れて、妖精の女王の姿を吹き消した。後には、倒れたレイシと、彼に抱きかかえられたハルが残っていた。レイシは、暴走しながらもそばにいてくれたハルを守ったのだ。
リティルはすぐさま、レイシのもとへ舞い降りた。
「インファ、おまえ、弟達にどんなトラウマ植え付けてるんだよ?」
リティルは、霊力を使い果たして倒れているレイシを抱き起こしながら、そばに立っているインファを見上げた。たった一言で、レイシを現実へ引き戻した息子に、リティルは問わないわけにはいかなかった。
「基礎練習半日くらいですよ?そんなにキツイですか?オレは平気です」
「おまえ、それ、風の玉打ち続けるとかそういうやつだろ?オレでも地味にきついぜ?」
そうですか?とうそぶいて、今度から三時間にしますと言って笑った。
インファの視線が上へと向けられる。
「父さん、どう決着つけるつもりですか?」
問われたリティルは、哀しそうに微笑んだ。
「ルディルが任せろってさ」
空中で激突する太陽と原初の風。あの中へは、入っていけない。リティルはしがない風の王だ。こんな神話級の戦い、静観するしかない。精霊王が、オオタカに有無を言わさず狩られる様を、見ているより他ない。
ルディルは剥き出しの力のような刀を振るい、精霊王を徐々に圧倒していた。オレンジ色の龍が応戦するが、ルディルは止まらない。首を落とされ、オレンジ色の龍が霧散する。ブランクがあるとはいえ、ずっと戦い続けていた風の王相手では、どんなに強い力を持っていても、長引かせてしまった分精霊王には不利だった。
「リティル!原初の風の力、受け取れ!」
キラッと輝きながら、ダイヤモンドのような雫が落ちてきた。リティルはそれを両手で受け取ると、ルディルを見上げた。
何を考えている?チラリと見たリティルの顔には、そう書いてあった。ルディルはニヤリと余裕ありげに笑った。
彼の体に残った最後の力を抜き取ったために、ルディルの体が薄れていく。精霊には生まれた時から役割がある。それは役割が具現化していると言っても過言ではない。今のルディルは、その役割のすべてを失っている状態だった。
「はあ!」
ルディルの剣は、精霊王の体を捉えていた。深々と突き刺し、横に薙ぐ。精霊王の体が幻ように揺らぐ。
「太陽よ!このオレに宿れ!オレが!このルディルが、太陽王になってやる!」
ルディルは叫ぶと、もう殆ど透明になった手を、その霧散するオレンジ色の光に突っ込んだ。昼を統べる王の力は、一瞬でも消えることの許されない力だ。役割を失ったルディルの体を依り代にしようと、オレンジの光の粒がルディルに流れ込み始めた。
「嘘だろ?無茶だ!ルディル!」
「無茶でもなんでも、やらにゃしょうがねぇだろう?もう、精霊王はやっちまったわけだし。まあ、ダメだったらあと頼むわ」
ルディルの薄れた体の中に、精霊王だった物が流れ込んでいた。だが、風と太陽ではその容量が違いすぎる。自信家のルディルが弱気な瞳で、リティルにヘラッと笑いかけた。
ダメだ!このままでは、太陽の熱に灼かれて消滅してしまう。リティルは何かないかと、視線を巡らせた。リティルの膝で眠るレイシの上に、可愛らしいメスライオンのぬいぐるみが乗っていた。
そうだ、まだ手はある!リティルはハルの小さな肩を掴んだ。
「ルディルおまえ、オレより行き当たりばったりだな。ハル!起きろ!旦那の危機だぜ?おまえが半分持ってやれよ!」
リティルは慌ててハルを揺すり起こすと、ルディルに向かって放り投げた。
『え?あ……きゃああルディル!ちょっと待ってて!』
ハルは、苦痛に顔を歪ませるルディルに向かい合うと、ぬいぐるみの体を捨てた。幻のように透けた、シェラよりも派手な女神がそこにいた。
「ルディル、これでわたし達、本当に永遠に離れられなくなるわね。いいの?わたしで」
あなたを裏切った穢れたわたしでいいの?ハルの臆病な瞳を見返して、ルディルは顔をしかめた。そして、少し怒ったように返した。
「あ?このオレから離れられると思ってたのか?放すわけねぇだろう?いつになったら、わかるんだよ、おまえは。これ以上ふざけたことぬかしていやがると、口きいてやらねぇぞ?おしゃべりなおまえには、それが一番堪えるだろう?ええ?レシェラ、どうなんだよ」
変わらず真っ直ぐなルディルに、ハルは瞳を見開き、そして大輪の派手な花が咲くように笑った。
ハルの体が、次第に実体を帯びていく。波打つ緑色だった髪が、夜明けの色に染まっていく。対するルディルは夕暮れに染まる。
熱い輝きが空中で弾け、リティルは顔を庇った。
「リティル」
名を呼ばれ、リティルは顔を上げた。そこには、寄り添う新たな昼の支配者がいた。
太陽の城という割に、リティルはこの城が寒くて嫌いだった。それが、今はとても温かくて居心地がよかった。
リティルの見上げる先に、新たな太陽王がいた。
夕暮れの王・ルディル。
夜明けの女王・レシェラ。
「まあ、なんとかなったわ。ありがとうな、リティル」
ルディルは頭の後ろを掻きながら、居心地悪そうにリティルの前に舞い降りてきた。
元風の王の名残か、ルディルがワザと残したのか、その背にはリティルと同じオオタカの翼が変わらずあった。粗暴な雰囲気はそのままに、ルディルの髪、瞳、翼は夕暮れの色に染まっていた。
「礼を言うのは、こっちの方だぜ?ありがとな、ルディル」
「だが、まあ、これからが大変だぜ?リティル。原初の風の力は、狙われやすい。守れよ?」
照れ隠しなのか、ルディルはからかうように切り返してきた。
「うわ!いらねー!オレ、弱いって言ってるだろ?どうするんだよ?これ」
リティルはもう自身に吸収されてしまった力に、慌てふためいた。この力が、ただ綺麗なだけの力でないことは、受け取ったときに感じていたが、狙われやすいなどとは聞いていない。狙われやすいとはいったい何なのだと、リティルは泣きそうになる。
「ガハハハハ、おまえそれ、謙遜な。おまえは強えよ。まあ、助力は惜しまないぜ?猛風鬼神」
「やめろよな。オレはそんなんじゃねーよ。あとな、太陽が出歩くなよな」
「二人いるんだ、いいんじゃねぇ?」
「出る気満々だな。わかったよ、手に負えないのはおまえに回すさ。元風の王」
リティルは、ルディルの隣でずっと笑っているハルに視線を合わせた。
「ハル、いや、レシェラ」
「ハルでいいわよ。その名前気に入ってるから、ずっとそっちで呼んでね!」
様々な花をあしらったドレスに身を包んだハルは、なんだか花束のように見えた。弾けるような笑顔を浮かべるハルは、太陽が似合いだなとリティルは思った。彼女も神樹の花の精霊の名残である、モルフォ蝶の羽根を残していた。
「リティル、その名をつけたのは、おまえか?」
ルディルはギロリと容赦なくリティルを睨んだ。その視線を受けても、リティルはただ苦笑するだけだった。
「ルディル、それくらいで嫉妬するなら、子供作れよ。少しは紛れるぜ?」
リティルは面倒くさいと言って、軽くあしらった。
「少し紛れるですって?よく言うわよ!シェラが眠っちゃったとき大暴走しといて」
「ちゃんと止まっただろ?インファのおかげなんだよ」
チラリと後ろでレイシの様子を診ているインファを盗み見たが、息子は聞かなかった振りをしていた。
玉座の間の扉を開いて、精霊王の守護精霊達と闘っていたはずの三人が姿を現した。
「こちらも、終わったようだな?」
翼を広げたノインに続き、ケルゥは力強く床を踏み切った。そうして、リティルの前に着地しながら声をかけてくる。
「おーい!魂回収したけどよぉ!これ、どうするよぉ!」
そんなケルゥの肩に乗っていたカルシエーナが、不満げに会話に割り込んだ。
「聞いてくれ、お父さん、ケルゥは狡い!有限の星と勝手に一騎打ちしてしまったんだ。わたしも遊びたかった!」
「そうか、そりゃ残念だったな、カルシー。ケルゥ、ノイン、ご苦労さん。嫌な仕事させちまって、悪かったな」
三人には、立ちはだかった精霊王の守護精霊達を任せたのだった。守護精霊二人はリティルの邪魔はする気がないようで、玉座に向かうのを見逃してくれた。
有限の星とは、それなりに上手くやっていたのに、最後に言葉を交わす事もできず、こんな幕引きしかできずに、リティルはいたたまれなかった。
そのまま消し飛ばしたのでは、目覚めが悪かろうと思ったのだろう。ノインは、トドメを刺さずに魂を風でくるんで連行してきてくれた。彼の判断には、本当に頭が下がる。
「おめぇ、いつもそれだよなぁ。てことでよぉ、ほれ」
ケルゥは申し訳なさそうなリティルの様子に、困ったように笑いながら、抱えていた二つの精霊の魂を渡した。
受け取ったリティルは、ごめんなとつぶやいて二つの魂を抱きしめた。
「ルディル、新たに力の精霊と智の精霊、作るよな?」
「ああ、まあなぁ……リティル、そいつらはもう、送ってやれ。世界との板挟みで、十分苦しんだだろう?新たな生を謳歌させてやろうぜ」
リティルはルディルの言葉に、ニヤリと笑った。
「そういうと思ったぜ。インサーリーズ、頼んだぜ?」
『承りました』
リティルの右翼から、金色の風が立ち上り優美な孔雀の姿になった。孔雀は、飛び立つ前にルディルに視線を合わせると、そっと頭を垂れた。そして、翼を広げ二つの魂達と飛び立っていった。
インサーリーズを見送っていると、宝石姉妹とインリーが階段を登って来た。
「リティル様」
姉妹は階段をあと数段で登り切るというところで、跪いた。
「エネル、セリア、オレにそんなのはいらねーよ。立ってくれ」
しかし、二人は頭と垂れたまま立ち上がらなかった。
「お、お父さん!あ、あのね──」
「父さん、オレは先に戻ります。レイシをこのままというわけにも、いきませんから」
いたたまれず口を挟みそうになったインリーの言葉を遮り、インファが立ち上がった。
「ああ、ありがとな、インファ。オレもすぐ戻るよ」
「では、後ほど。インリー、戻りますよ?」
リティルと信頼した笑顔を交わすと、インファは妹を促した。オロオロと動けないインリーに、インファはもう一度名を呼ぶ。今度は少しきつめに。弾かれたように、インリーは兄に従って行った。
風の兄妹が去ったのを感じ、エネルフィネラは口を開いた。
「此度のこと、我が妹が申し訳ありませんわ」
「だから、いいって!謝るのはこっちだろ?オレの息子が我が儘言って悪かったよ。あいつらの面倒見てくれて、ありがとな。セリア、君が一緒にいてくれてなかったらもっとヒドイことになってたさ。ルキにも叱らねーように言っておくから、ホントに止めてくれ!」
リティルは膝を折ると、二人の手を取ってグイッと引き上げた。
「相変わらずの、甘々さね」
「何とでも言えよ。とにかくオレは、怒ってねーんだよ。城に帰ったら、あいつらは叱らねーといけねーけどな……それで、インファの地獄のお仕置きか……。うちの鳥達が強いわけだよな。オレもやろうかな?」
実戦経験の少ないインリーが、どうしてあそこまで自身の持つ力への理解力が高いのか、長年疑問だった。それは、インファがことあるごとに、地獄の特訓やらお仕置きと称して、基礎練習をみっちりしていてくれたおかげだったのだと、実感した。
その言葉は度々聞いて知っていたが、ただ兄妹同士で嫌だと言い合って、戯れているだけだと思っていたのだ。
気を取り直してリティルは、ツバメを呼ぶとエネルフィネラの肩に留まらせた。ルキへの伝言を託したのだ。
「ありがとな、宝石姉妹」
「わたし達はルキ様の手足。あなたがルキ様と懇意であれば、ずっと味方よ」
エネルフィネラは油断のならない笑みを浮かべると、無言のままのセリアを連れてルキルースの扉を潜って行ってしまった。
「おまえさ、そのうちイシュラースを手中に収めちまうんじゃねぇ?」
「はあ?収めてどうするんだよ?そんなもの!オレは忙しいんだよ。もう、帰るぜ!じゃあな!ルディル、ハル!」
宝石姉妹とのやり取りを傍観していたルディルが、冗談半分に言った。リティルは冗談じゃないと怒りながら、待機していてくれたノイン達を促して玉座の間を飛びだしていった。
「あいつ、自覚ねぇのか?夜と昼の王の心を勝ち取ってるんだぜ?」
「それがリティルのいいところよ!まるで偉ぶらないで、気持ちがいいわ。精霊は対等が基本だもの」
「まあ、な。グロウタースみてぇな上下関係は性質上ねぇ種族だからな。けどなぁ、こりゃ危ないぞ?リティルを押さえられたら、イシュラースは終わるかもな」
「そうならないように、守ってあげればいいでしょう?ルディル、強いんだし」
「しゃあねえ。守ってやるか。おまえも一緒にやってくれるだろう?」
ルディルはハルを抱き寄せた。
「当たり前でしょう?ああ、この腕の中に戻れて、よかった……」
ハルは、ルディルの胸にそっとすり寄って瞳を閉じた。
「悪かった。あのとき、おまえを放っておかなければ、こんなに離れたままになることはなかったのにな」
「いいっこなしよ……。ルディルには、わたしの解放は無理だったもの」
「またリティルか?灼けるぜまったく……」
「灼かないの!フフ、気がついた?あなたの睨みに笑ってたの、リティルが初めてよ?」
「そうだな。あいつはただのオオタカじゃねぇ。まだ何か、隠してるんじゃねぇ?」
「隠してないのがリティルなのよね……だから、本当に守ってあげてね!」
「わかったわかった。だからもう、別の男の話はするな」
愛しそうにルディルの手がハルの頬を撫でた。そして二人は、長らくおあずけだった口づけを交わしたのだった。