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三章 太陽の城と断崖の城

 風の城の応接間に、今日は全員が揃っていた。

こんなことは、魔物達の活発な今、そうそうないことだった。

「今日はみんなのんびりなんだね?」

レイシがいつになく和やかな朝に喜びながら、皆の顔を見回した。

「そうだな。こんな日がたまにあるといいよな。ああ、そうだ。オレ、ルキに会いに行ってくるぜ。この前の礼もあるし、何か情報があるかもしれねーからな」

いいか?とレイシは聞かれて、慌ててもちろんと言った。リティルはずっと、レイシとインファの修行に付き合って城にいた。レイシは着実に腕を上げていたが、インファはどうやら思わしくないようだった。しかし兄は、そんな素振りを見せなかった。

「オレも行きましょうか?」

「心配するなよ。ルキは味方だぜ?でも、まあ、一緒に行くか?ノイン、城を頼むな」

インファが、危険もないのに同行を願い出ることは珍しい。たまには息子と二人で遊びに行ってもいいかと、リティルは何気なく思った。

「了解した。インファ、リティルを頼む」

「なんだよ?オレはガキかよ?」

「急に暴走するかもしれねぇしよぉ、兄ちゃんにお守りしてもらえよぉ」

こんなことを言って、インファは二人が誰を本当は心配しているのかわかっていた。

二人が心配しているのはインファだった。次元の刃の会得は、未だその糸口すら見つかっていなかった。二人は、リティルと二人で、息抜きしてこいと言ってくれているのだと、インファにはわかった。

「お兄ちゃんも猛風だよ?今度は金色の暴走親子とか呼ばれないように、気を付けてね」

「インリー……それはさすがにヒドイですよ」

「そんなに情緒不安定なのか?わたしも行くか?」

「カルシーは行きたいだけだよね?」

「ばれたか?」

レイシのつっこみに、カルシエーナはペロリと舌を出した。それを見て、皆思い思いに笑っていた。テーブルの上で、インリーの焼いたクッキーを食べていたハルは、ルディルといた頃は、こんな時間なかったなぁと、昔に思いを馳せていた。そして、いいなぁと胸が温かくなる。

 続けばいいのに……どうして、ささやかな願いを踏みにじるのだろうか。

ただ、風の城の皆は、みんなで生きていきたいだけなのに……。

風の城の主力達が、一斉に腰を浮かした。カルシエーナは紅茶を飲みながら、ジロリと玄関ホールへ続く扉を睨む。インリーはそっと、一人意味がわかっていないレイシを立たせると、大きなケルゥの背中に隠した。

「有限の星、なんだよ、ものものしいな?今日は何の用だよ」

赤い口ひげと短い髪の中年の男は、険しい表情で扉の前で立ち止まった。彼は精霊王の守護精霊の一人で、力の精霊・有限の星だ。

「リティル……すまんな。レイシを渡してもらおう」

「それを、オレが聞き入れると思ってるのかよ?」

有限の星は溜息をつくと、首を横に振った。

「思っているわけがなかろう?だが、わしも、おまえ達を傷付けたくはないのだ」

ザッと、槍を持ったトンボの羽を持つ男達にリティル達は囲まれた。皆、太陽の紋章の入った甲冑を着て、皆同じ顔をしている。精霊王の使役する、妖精兵だ。

「レイシはオレの息子だ。どうあっても渡せねーよ」

「リティル、滅ぼされるぞ?」

「滅びるならそれでいいさ。みんな承知の上で一緒にいるんだからな。やるか?有限の星?」

「おまえとやり合うワケがなかろう。十五代目」

背後で扉が乱暴に開かれる音がした。こういう手に出るだろう事は、察しがついていた。それでも、リティルはレイシを渡すことはできない。

「母さん!ダメだよ、父さん!オレ、こんなの嫌だよ!」

シェラの眠る封印結晶が持ち出されるのを見て、レイシはケルゥの影から飛び出すと、リティルの肩を掴んだ。

「レイシ、覚悟の上だ。おまえも、覚悟決めてくれ」

リティルの瞳が、爛々と輝いていた。家族の顔を見回すと、皆の瞳も揺るぎなくてレイシは一人、置いて行かれたような気分になった。

 しかし、どうする?動けないシェラを人質に取られるわけにはいかないが、この状況でリティルが動けば、皆巻き添えで有限の星と戦闘になってしまう。何とか穏便に、オレがあちら側に行かなければならないのだが……と、リティルは有限の星を窺った。

有限の星も、皆が揃っていると思っていなかったのだろう。ジッとリティルを窺っていた。

「状況偵察してから来いよな!」とリティルは有限の星を睨んだ。

その視線を受け、有限の星は僅かに目を見開いて「いつも忙しいはずだろ?」とその瞳が言っていた。リティルは「こういう日もあるよ!」と僅かに瞳を伏せた。

「で?どうする?」とリティルは小さくため息をついて、有限の星を窺った。

「貴様が考えろ」と、有限の星は僅かにふんぞり返った。

「どうにもならないだろ!」と、リティルはさらに睨んだ。「すまん」と、有限の星はため息を付いた。

 睨み合う二人の様子に、ノインは状況を察した。有限の星の準備不足で、二人は窮地に陥っているらしい。まったく困った守護精霊だなと、ノインは内心呆れた。風三人ならその点上手く動くと、せめて知らせてほしかったなとため息をついた。一分、時間があれば、これくらいの茶番すぐに組み立てられた物を。だが、動き出してしまったモノは、仕方がない。

ノインは気づかれないように視線をサッと巡らせると、皆の位置、状況を把握した。そして、動くのはオレが妥当かと、その旨をリティルに伝えようとした時だった。

「はあ……あれほど、リティルには手を出すなって忠告したのに……精霊王はバカなの?」

声が響いたかと思うと、急に部屋が日が陰ったように暗くなった。

「!」

皆の気が逸れた一瞬の隙を突き、リティルの風が鋭く吹き荒れた。中庭を望む、天井まである窓ガラスが一瞬で粉々になり吹き飛んでいた。刹那中庭から、ザアッと幻夢の霧が入り込む。レイシは、バードバスの前に立つ、不敵な笑みを浮かべる幻夢帝の姿を見た。妖精兵達は眠りの霧に巻かれて、バタバタと倒れた。

「走れ!」

リティルの声で、皆ルキ目掛けて行動を開始する。ケルゥの大きな腕がシェラを抱え上げた。呆気にとられるレイシを、インリーは引っ張り懸命に走る。

「父さん!」

「行け!」

刃と刃の触れ合う音で、インファは振り返った。見ると、足をナイフで貫いて眠りを免れた有限の星と、リティルが切り結んでいた。ドンッと突き放しながら、リティルはこちらに向かって叫んだ。

「ルキみんなを頼む!雷帝!おまえが代わりに導け!」

「父さん!いけません!オレも一緒に!」

インファはいつもの冷静さを欠いていた。いつものインファなら、この状況を瞬時に把握して、行動を起こせたはずだった。しかし、次元の刃と向き合っている今のインファは、極度にリティルと離れることを恐れてしまっていた。こんなインファは、彼が一人前になってから初めてだった。

普段憎たらしいくらい隙のないインファが、こんなに必要としてくれているのに、リティルはそんな息子から離れなければならない状況に、後ろ髪を引かれた。だが、リティルが有限の星と行かなければ、この場は収まらない。どうあっても、レイシを渡すわけにはいかないのだから。

リティルは、苦々しく縋るようにノインを見た。すでに状況を把握してくれているノインは、小さく頷いてくれた。頼もしい。本当にノインがいてくれてよかった。

「ノイン!インファを支えてやってくれ!うあっ!」

有限の星の体当たりを受けて、リティルは床に倒されていた。そして、その小柄な体を、大男は踏みつけた。

「レイシを渡せ。さもなくば、風の王の翼を奪う」

有限の星はリティルを踏みつけたまま、翼に手をかけた。リティルはゾクッと背筋に悪寒が走るのを感じると、とたんに強烈な痛みが体を駆け抜けた。有限の星に、翼を背中から引き抜かれているのだ。メキメキと翼の軋む気味の悪い音が聞こえる。

「ぐあああああ!」

父の悲鳴を聞いて、インリーが動けないインファの腕を引いた。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!お父さんを助けてーーー!」

ノインは、苦しげに父を睨むインファを盗み見ていた。インファの決断しだいで、ノインが引き継がなくてはならなくなる。できれば、インファにリティルの代理を務めてほしい。彼は風の王の副官だ。精神年齢、経験がノインのほうが上でも、生まれ持った役目を全うしてほしい。インファには、風の王の右腕でいてほしい。それを、リティルも望んでいるのだから。

リティルは痛みに耐えながら、インファを睨んだ。息子は、どう行動しなければならないのか、本当はわかっている。だが、弱った心が決断できないでいるだけだ。リティルはインファを信じていた。

――動いてくれ、インファ!動けないなら、その背を押してやる!

「イ、インファルシア!行けええええええ!」

リティルの右の片翼が、引き抜かれて、バラリと散った。

――飛べ!インファ!おまえは、オレの代わりにみんなの前を飛べるだろ?

リティルの叫びが、インファの心に力を取り戻させた。リティルは、動揺していたインファの瞳に、いつもの冷静な光が戻るのを見た。

――ええ、飛べます!

「幻夢帝、ルキルースへ退きます!」

「やれやれ、了解……」

インファの声を聞いて、ルキはフウッと溜息をついて扉を大きく広げた。

「いや!いやああああ!お父さん!」

泣きながら手を伸ばすインリーを、ノインは掴むと扉に押し込んだ。


 扉の先は、断崖の城だ。

くずおれて泣き続けるインリーの肩を、レイシは支えていた。レイシの脳裏から、有限の星に無残に翼を抜かれたリティルの姿が、焼き付いて離れなかった。捕まったリティルは、これからどうなるのだろうか。まさか、オレの代わりに処刑されたり……レイシは怖くて、これ以上考えられなくなった。

「インファ、これからどうするの?」

ルキが、フワリとインファの目線の高さに浮かんでいた。

もっと動揺した瞳をしていると思っていた幻夢帝は、インファが気丈な瞳でいることに内心感心していた。さすがは風の王の副官、気骨があるじゃないかと、ルキは微笑んだ。

「太陽の城を探ります。有限の星は味方です。どこまでが敵か味方か、見極める必要があります」

「有限の星が味方だぁ?兄ちゃん、リティルの翼を引っこ抜いた奴を、信じるんかぁ?」

ケルゥの怒りはもっともだ。インリーも納得のいかない顔をしていた。

「有限の星は、精霊王の命には逆らえません。父さんに聞いたんですよ、有限の星が味方の場合、会話のどこかで十五代目と呼ぶと。有限の星は味方です。レイシを差し出さずに、あの場でのルキルースとセクルースの戦争を回避するには、父さんが人質になるしかありません。オレの決断が遅かったんですよ!オレのせいで……父さんの、翼を……」

インファは、リティルの右の翼から抜け落ちた羽根を握りしめていた。わかっていた。代わりに導けと言われたとき、理解したのに、皆と退く決断がすぐできなかった。恐れが、インファから声を奪っていた。リティルの叫びと射貫くような瞳……子供のように父の手を離せないインファを、今へ突き放してくれた。

そんなインファの肩を、ノインは叩いた。

「インファ、リティルは、あれくらいのこと承知していた。ルキ、太陽の城を探る方法はあるか?」

「あるよ?エネル!スワロ!セリア!」

ルキはスタッと床に降り立つと、知った名を呼んだ。

「久しぶり、その節はどうも」

「あらあら、リティル、大変なことになっちゃったわねぇ。でもまあ、リティルだからねぇ。大丈夫でしょう」

「……」

紫、瑠璃、緑の光が瞬いたかと思うと、三人の女性が現れた。

魔水晶の精霊・エネルフィネラ。

ラピスラズリの精霊・スワロメイラ。

蛍石の精霊・セリアセリテーラ。宝石三姉妹と呼ばれる、精霊達だった。

「エネルはもう無害だよ。ボクが、ラジュールをやっちゃったからね。スワロは知ってるね?あとは、セリア。黙ってると、悪戯しちゃうよ?」

着崩した着物の女は、フッと溜息をつくと、気怠そうに黄色と紫色の瞳を、インファに向けた。見た目の年齢は、インファと同じくらいだろうか。

「わたしはセリア。よろしく」

九十度近く頭を下げたピンク色の髪の娘に、インファは少し戸惑った。感情がないのとは違う、すべてを諦めたような雰囲気が、インファは気になった。そして、何か違和感があった。まるで、彼女を知っているような……。

「インファちゃん、だいぶお疲れね?大丈夫よ、お姉さん達に任せなさい!ちゃちゃちゃっと探ってきてあげるわよ。ねえ、お姉様、セリア?」

セリアを見ていたインファは、猫のような軽い身のこなしで、ヒョコッと顔を覗きこんできたスワロメイラに、視線を奪われた。フワリと膨らんで足首ですぼまるズボンと、チューブトップをきたエキゾチックな軽装の、十五才くらいの彼女に、インファは気を許した笑みを浮かべた。

「そうよ。任せなさい。フフフ、けれど、まさかあなた達と共闘するなんて、夢にも思わなかったわ」

楚々と近づいてきたのは、赤い袴の清楚な女性だ。透明感のある紫色の髪をポニーテールに結い、朱を引いた唇をニコリと歪めた。

「オレもですよ。あなたには、散々な目に遭わされましたからね。エネル」

散々な目に遭わされたから、彼女の手腕は知っている。味方になってくれるなら、そんな心強いことはない。すべてを水に流すことはできないが、仕事上なら付き合える。エネルフィネラも同じ考えであるようで、インファと一定の距離を保ってそれ以上近寄ってこなかった。

「忘れてとは言わないわ。ただ、今は母様から解放されて、ルキ様の配下にいるの。ルキ様はリティル様と懇意だから、わたし達と関わることは、今後増えるでしょうね」

エネルは油断ならない瞳で微笑んだ。宝石三姉妹は、宝石の精霊・ラジュールの娘達だ。だが、ラジュールはルキに謀反を起こし、それで粛清されたらしい。創造主を失った三姉妹を、ルキは自分の物にしたのだ。

「ウチとお姉様で行ってくるから、セリアは情報の伝達をお願いねぇ?」

じゃあねー!と、元気なスワロメイラは手を振りながら、エネルフィネラと姿を消した。

クルリとインファに向き直ったセリアは、無表情な瞳でジッと見つめてきた。さすが宝石の精霊と言うべきか、儚げな印象を与えるかなりの美人だった。

しかし、なんだろう?やりづらい。無表情だからかとも思ったが、無表情ならレジナリネイに敵う者はいない。最近表情が生まれてきたが、彼女のことは会ったときから気にならなかった。

なぜだろう?なぜか、セリアはこうではないと、思っているような……

「みんな、しばらく休みなよ。ただし、城から出ないでね?城の中なら、どこにいたっていいからね」

ルキはフワリと玉座に飛び乗った。ルキは玉座で、夢を解して降りてくる情報を見ているのだ。

「ああ、リティルは無事だね。少し痛めつけられたみたいだけど、今は穏やかに眠ってるよ」

ニヤリと、ルキはインファに視線を合わせた。どうやらルキは、インファの為に探ってくれたようだ。インファは、無事だと聞いて足の力が抜けそうなほど安堵していたが、今ここで頽れるわけにはいかなかった。

「ありがとうございます、ルキ。少し、席を外します」

インファはルキに一礼すると、玉座の間から出て行った。ルキは、インファの様子がおかしいことを知っていた。レイシの件で、精霊王のいる太陽の城と、風の城を監視していたからだ。

これは、一人にしない方がいいかな?と、ルキは即座に思った。

「セリア、インファについてて」

ルキは頬杖をつきながら、無表情なセリアに命令を下す。セリアは頷くとスッとインファを追っていった。確か二人は何か接点があるんだよな、と、ルキは何だったか思い出せなかった。けれども、関係があるのなら、何とかなるだろうと、追いかけていったセリアの背中を見送った。

 ルキはさて、と、インリーとレイシに視線を合わせた。

「インリー、レイシ、すぐに立ち直ってもらうよ?まさか、リティルだけ闘わせるつもり?」

「うう……お父さんを取り戻してみせる!絶対!」

インリーは止まらない涙のまま、それでも立ち上がって叫んだ。レイシは揺れる瞳を一度閉じ、立ち上がると、ルキをキッと睨んだ。

「オレ、修業の途中なんだ。霊力を高める方法、教えてくれないかな?」

「いいよ?ただし、ボクは容赦ないよ?」

知ってるよね?とルキは不安を煽るように笑った。

「その方がいいよ!」

レイシはその笑みに怯むことなく、見返してきた。ルキは満足そうに頷くと、ケルゥとカルシエーナを見た。

「付き合う?破壊と再生」

「暇だから、いいよ」

「おうよ!」

玉座からトンと飛び降りたルキは、シェラの様子を確かめているノインに近づいた。

風の城に、彼がいてよかったなと、ルキは切に思った。クールで大人なノインは、柔軟に立ち回れる。インファが不安定な今、冷静に話ができる彼の存在が、ルキにとっても心強かった。夜の王と言っても、ルキの精神はほんの子供なのだから。

「ノイン、レジーナに精霊王の記憶を見せてもらってきて。話はしてあるから、行けば見せてくれるよ。それから、インファの新しい魔法、完成を急いだ方がいいかもよ?」

本当は、リティルに見せるつもりだった。けれども、仕方がない。ノインは、元風の王のようなものだ。的確な判断ができるだろう。

ルキは指さしただけで扉を開いた。そして、レイシの方へさっさと行ってしまった。

『シュレイクの記憶?わたしも見ていいのかしら?』

ノインの背に隠れていたハルが、やっと彼の肩に恐る恐る顔を出した。

「おそらく。ルキは君に気づいていた。共に見ろと、そういうことか?」

『いいわ。見てやるわ!』

ノインは扉を潜った。


 玉座の間から一人離れたインファは、バルコニーに出ていた。

沈まない太陽がボンヤリと世界を照らしていた。白夜の中で、崖下を埋め尽くす針葉樹の森が黒々と見える。

「父さん……」

リティルが共に逃げられないことは、わかっていた。わかっていたが、父と離れることが恐ろしかった。副官であるインファが、リティルの不在時には仕切らなければならないのに、今まで当たり前にしていたことが、今できそうになかった。

次元の刃の魔法を構築し始めてから、どうにも心が弱くなっている。リティルは、傷に塩を塗る行為だと言って警告してくれていた。それでも、会得したくて向き合ってきたが、父を失うかもしれない恐怖が増して、怖くて怖くてどうしようもなくなる。

有限の星が味方だとしても、彼は精霊王の命には逆らえない。殺せと言われれば、そうせざるを得ない。簡単にやられるリティルではないが、心配でたまらない。

ハルは、インファのリティルに感じる恐怖は、自分の存在理由に直結するから当たり前だと言った。それをわかっていても、これは、本当に、怖がりすぎだと思う。もう、庇護が必要な、小さな子供ではないのに。

「父さん……考えが、まとまらないんです……どうしたら、いいですか?」

ふと、背後に立った気配に、インファは慌てて振り向いていた。そこには、セリアがいた。彼女は左右で違う色の瞳で見つめたまま、無言で距離を詰めてきた。黄色と紫色の瞳で見つめられて、インファは怯みながらも視線をそらせなかった。そして、彼女は少しだけ背の高いインファの肩にそっと両手を置くと、背伸びした。

「!何をするんですか!」

インファは驚いてセリアを突き飛ばしていた。インファは唇を奪われていた。こんなことは初めてだった。迫られても、すべて躱してきたのに、こんな何気なく奪われるとは、思ってもみなかった。

「あなたが、泣いていたから」

インファは驚いて、自分の顔に触れた。しかし、涙は流れていなかった。セリアは再び距離を詰めた。そして、フワリとインファに抱きつくと、簡単に押し倒していた。

なんなんだ、この娘は?インファは何の抵抗なく押し倒された事に驚きながら、体を起こそうとした。そこでギョッとして目を見開いた。インファの上に乗ったまま、セリアは着崩した着物の帯を解いていたのだ。躊躇いなく脱いだ着物の下から、白い裸体が現れる。

「インファ、わたしにゆだねて」

「できませんよ!どいてください!」

突き飛ばそうとしたインファの手を、セリアはそっと両手で止めていた。そんなに鋭い動きでもないのに、手を止められたことに、インファは再び驚いた。セリアはそっと、インファの手を自分の裸の胸に触れさせた。

「……誰にでもそんなことをしているんですか?」

低く怒気を帯びた声に、セリアはあっけなくインファの手を放した。

「どいてください。心もないのに、こんなことはできません」

インファはセリアを睨んだ。

「心……心があれば、あなたとしてもいいの?」

「お互いに心がなければダメですよ。少なくとも、オレにはあなたに対して心はありません」

セリアはキョトンとして、両手を自分の裸の胸にそっと置いた。

「ここにあるもの?」

「どこにあるのかわかりませんが、痛くなったり苦しくなったりしますね」

インファはやっと、微笑んだ。

「教えてほしいの。わたしは、昔に、恋をした罪で、母様に一日しか生きられない存在にされてしまった。今はルキ様が解放してくれたから、呪いは解けたけれど、わからなくなってしまった。あなたなら、なくした心を取り戻してくれそう」

「オレは、そんな言葉を信じるほど、初心ではありませんよ。それが、あなたの常套句ですか?とにかく、すみませんが、あなたの言葉を信じることはできません」

インファはセリアの下から抜け出すと、彼女の着物を拾い上げて肌を隠してやった。そういうことすら新鮮だったのか、セリアは隠された肌とインファの顔を交互に見た。

バルコニーの石の手すりに手を置いたインファは、やっと平静を取り戻していた。

「セリア、ルキの命令ですか?彼の命令で、こんなことをしているなら、オレにはいりません。ルキの所に戻ってください」

「ルキ様、あなたについててって言ったけど、それだけ。触れたかったのは、わたしの意志」

「宝石の精霊は魅了の力を持っているんでしたね。ですが、風は捕まえられませんよ?」

「もう、捕まえた」

セリアはインファの腕を抱きしめた。

「そういう意味ではないですよ?」

「そう?」

「そうです」

妙な娘だ。なぜか、心がさざ波立つ。

インファは居心地が悪くて、思わず、気を紛らせるように歌っていた。セリアを置いて、この場から立ち去ればいいのに、なぜかできなかった。

風の精霊にとって、風の奏でる歌は、心を落ち着かせる歌でもある。リティルとこんな形で別れる羽目になったインファは、内心どうしようもなく動揺していた。そこに、つけ込むように現れたセリアの存在が、インファには邪魔者以外何者でもなかった。

そのはずなのに、見た目に反して幼く拙い感じの彼女に、ホンノリと安らぎを感じている自分もいた。でも、けれども……今は――心は堂々巡りだった。

──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない

──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに

──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……

帯をきちんと締めたセリアは隣に立ち、インファの歌う風の奏でる歌に、静かに耳を傾けていた。

歌が終わる頃、セリアの閉じた瞳から、涙が流れているのをインファは気がついた。

オレの歌に、泣いてくれる人がいるのか、とインファは驚いていた。しかも、こんなに散らかった心で歌った歌に?インファは心を落ち着かせたかったのに、また心を乱されていた。セリアは瞳を開いてつぶやいた。その口調から、幼さと拙さがなくなっていた。

「あなたは、思い出さないの?」

思い――出す?インファ!と、誰かがこの名を呼んだ気がした。あの人は、あの時、笑っていただろうか?泣いていただろうか?

あの人?唐突に心に湧き上がった感情に、冷静なインファが問い返した。答えは出なかった。インファは、セリアに問うていた。

「何をですか?」

「思い出して……インファ!」

泣きながら見上げてきた彼女の瞳の色が、変わっている。さっきまで、黄色と紫だったはずなのに、今は青と緑だ。そして、彼女の纏う雰囲気がガラリと変わっていた。さっきまでの所在なさげな感じとは違い、今のセリアはここにいる!と主張するように、確かな存在感でここにいた。まるで、迷子になっていた魂が、やっと、その体に戻ってきたかのように。

魂の迷子?インファの心に、また問いかけるもう一人のインファがいた。しかし、つぶやくだけで消えてしまう。追いかけて捕まえたいのに、捕まえられない。

「あなたは、二重人格なんですか?」

また、妙なことを言い出してこちらを翻弄しようとする。いったい、彼女に何の目的があるのだろうか。嫌悪感があるのに、なぜか辛辣には突き放しづらい。そして、なぜか心がザワザワとする。

「すみませんが、付き合いきれませんよ?」

これ以上混乱したくなかった。今のインファには、リティルをどうやって助け出せばいいのか、それを考えなくてはならない、大事な仕事があるのだから。

「インファ!……はっ、姉様?リティル様が、次元の牢獄に……?」

離れていこうとするインファを、引き留めようとしたセリアは、誰かに呼ばれたように虚空を見つめた。その瞳が、見る間に大きく見開かれる。セリアのつぶやきをきちんと拾ったインファは、聞こえた言葉を反芻していた。

「次元の牢獄?父さんが、次元の牢獄に落とされたんですか?父さん……!」

聞こえた言葉を信じたくなかった。けれども、目を逸らすわけにはいかない。余裕なく、インファは女性であるセリアの両腕を、力任せに乱暴に掴んでいた。セリアが、コクリと頷いたのを見て、インファは玉座の間へ飛ぼうとした。セリアは俊敏な動きでインファの前に回り込むと、フワリと押し倒した。

「……あのですね……いちいち押し倒すのは止めてください」

そんなに鋭い動きには見えないのに、なぜ気がつくと押し倒されているのだろうか。自ら、躊躇いなく裸になっていたくらいだ。こういう方法を使い、彼女は諜報を行っているのだろうか。

「冷静になって、インファ!次元の牢獄へは、ナーガニアでも行き来できないわ。誰にも、行くことはできなの。行けば出てこられないから!今、太陽の城に攻め込んでも、リティル様を助けられないわ!」

「わかっていますよ!では、どうしろというんですか?父さんを躊躇いなく処刑した精霊王は、レイシを奪いにルキルースに攻め込みますよ?精霊王を押さえないかぎり、止まりません。打って出るしかありません!」

「違うの!待って!行かないで!」

セリアは、頑なにインファの上から退かなかった。

魂を得た瞳は意志がハッキリとしていて、儚げな美しさに凜とした強さを添えていた。

オレは、この瞳を知っている?唐突にそう思った。今、そんなことを追求している場合ではないのに、インファはセリアをマジマジと見つめてしまった。

「……あなたは、誰なんですか?」

「セリアよ?蛍石のセリア!」

そう言われても……インファには、思い出せなかった。

「セリア、インファを引き留めてくれたこと礼を言うが……もう少しマシな引き留め方はなかったのか?」

上半身を辛うじて起こしたインファの上に四つん這いのような格好でいるセリアの着物ははだけ、着物の間から太股が覗いていた。そして、インファの視線からでは胸の谷間も見えている。かもしれない。どう見ても、迫られているようにしか見えなかった。

『インファ大丈夫?なかなかスゴイ絵面よ?』

ヒュンッと風を切り、ノインがかなりのスピードで舞い降りてきた。ノインもリティルの事を知ったのだろうか。ノインはセリアをインファの上から退かすと、立ち上がらせた。

「インファ、次元の刃を完成させなければならない。次元の牢獄に、原初の風もいる。リティルはそれを知って、自ら行った可能性がある。今、太陽の城に攻め込むことは、得策ではない」

次元の刃は、まだ設計図すらできていないような状態だった。完成させろと言われても、いったいいつになるかまったく見当もつかない。インファは絶望的な気持ちになった。

風は素直にインファに従うのに、花の姫の力はインファを拒絶した。なぜか、拒まれる。自分の力なのに、自分の力ではないかのように。

「次元の、刃……?あなたの話してくれた、時空を切り裂く剣のこと?」

「なぜ知っているんですか?オレが、話した?オレ達は会ったことがあるんですか?」

セリアは頷いた。

「水鏡の泉で、あなたは意識だけの状態だった。二ヶ月一緒にいたわ!けれども、あなたはきっと忘れてしまう。だから、わたしは風の奏でる歌にすべてを封じた。再び出会って、あなたが歌ってくれたら思い出せるように願いをかけて!」

セリアに迫られて、インファは戸惑い退くしかなかった。しかし、二ヶ月?その期間には皆覚えがあった。

『二ヶ月って、あのときじゃない?次元の刃を使って、死にかけて眠ってたとき。インファ、女の子のところに行ってたの?なかなかやるじゃないの』

そう言われても、夢を見ていた記憶も何もなかった。目覚めたとき、二ヶ月経っていたことを驚いたと同時に、それだけの力を使ったのだとわかった。だが、あのときの思い出はそれだけだった。

「……思い出せません……すみません……あまりオレを引っかき回さないでください。今は、父さんを救うことに専念したいんです」

インファは軽く踏み切ると、玉座の間を目指して飛んで行ってしまった。

「夢は儚い。もう一度、出会い直したほうが早い。すまない、オレも行かなくては」

ノインもインファを追い飛び立った。

「インファ……」

残されたセリアは、ただただ記憶の中のインファを想って、泣くしかなかった。


 リティルは手首の痛みで目を覚ました。

両翼を奪われたあげく、精霊王の前に引っ立てられて、有限の星と妖精兵百人相手に闘わされたことを思い出した。翼を封じられての死闘は久しぶりで、かなり無様な戦いだったなと自嘲気味に笑った。立ったまま鎖で繋がれ、全体重が両手首にかかっていた為に、手首が痛いのかと冷静に思った。目覚めてみると、手首だけでなく体のあちこちが痛んだ。口の中には血の味が広がっていた。

 ここがどこかわからないが、精霊王の住まう太陽の城のどこかなのだろう。あの状況ではリティルが人質になるしかなかったが、インファは大丈夫だろうか。次元の刃のせいで、かなり不安定だった。あの場面で、あんな泣きそうな顔のインファは初めてだった。いつもはそつなく副官をこなすインファが、あんな……子供のように――

あいつから離れたくなかったのに、精霊王の奴は!リティルは怒りに拳を握った。

「きっと、追い詰められてるよな……インファ……オレが戻るまで、持ち堪えてくれよ?」

有限の星は味方だが、精霊王の命には逆らえない。しかし、翼を本当に引っこ抜くことはなかっただろうにと、リティルは恨めしく思った。もの凄く痛かった!とリティルはため息をついた。

 カツンカツンと足音が響く。一体誰のお出ましだろうか。

「無限の宇宙……レイシを強奪しようと思ったのは、おまえか?」

無限の宇宙は、精霊王の守護精霊の一人で、智の精霊だ。腰の曲がった老人の姿をしている。

「いいや、王の独断じゃよ。混血精霊の何を恐れておられるのか……再び風を敵に回すのは得策ではないと申し上げたのじゃがのう」

無限の宇宙はハアと大きな溜息をついた。そして、リティルを拘束している鎖を解いてくれた。リティルはズルズルと壁に背をつけたまま、座り込んだ。超回復能力を持ってしても、さすがにまだ傷を癒しきれていなかった。

水を手渡してやりながら、それを見て取った無限の宇宙は、リティルの体に手をかざし、傷を癒してくれた。智の精霊相手では、リティル如きが謀りを見破れない。彼を警戒しつつ、リティルは質問していくしかなかった。

「精霊王は、正気か?それとも、狂ってるのか?」

「ガルビークが封じられ、原初の風が離反してから、閉じこもってしまわれた」

「原初の風が離反?一体何があったんだよ?オレ達風の王には、記憶がねーんだ。記録も抹消されてる。無限の宇宙、そろそろ教えてくれてもいいんじゃねーか?」

無限の宇宙は、ヒゲと眉毛に覆われた顔でリティルを見上げると、溜息をついた。

「話して、やろう」

 ハル──本当の名はレシェラがガルビークを封印し、ルキルースに平安をもたらした原初の風・ルディルは、あの日、精霊王・シュレイクに呼び出されていた。

「なんだと?ガルビークを斬れだぁ?レシェラが封じて、大人しく眠ってるんだこのままでいいじゃねぇか」

ルディルはガルビークと瓜二つの、白い髪のシュレイクを睨んだ。手入れのしていない伸ばしたい放題の髪の、粗暴な風の王はバカバカしいと吐き捨てた。

「てめぇの勝手で、命を軽々しく扱うな!オレはやらねぇ」

「反逆と見なされてもか?」

ルディルはグルリと妖精兵の槍に囲まれた。それでもルディルは少しも慌てた様子もなく、シュレイクを睨んだ。

「反逆だぁ?てめぇ、このオレに向かってよくそんな口がきけるな。オレはおまえの配下に入った覚えはねぇよ。王の称号を持つ者は対等だろう?力に優劣がつけられるか!シュレイク、おまえ、何を恐れてる?ガルビークを殺して、おまえが夜の国も手に入れるつもりか?」

ルディルの怒気を孕んだ風が、彼を取り囲んでいた妖精兵をなぎ倒して消し去った

「不安定な者はいらない」

「だから!レシェラが封じて安定してるだろう?ガルビークを殺したところで、月の力を持たないおまえが、ルキルースを支配できるはずもねぇだろう?世界が新しい幻夢帝を立てるまでの間の空白、グロウタースは大混乱だ。グロウタースを一番近くで見守る者として、オレは許すわけにはいかねぇな」

一歩も退かずに睨み合う二人の間、ルディルを庇うように精霊王の守護精霊の二人は立った。

「王よ、ルディルの言っていることは正しい。考えを改められよ」

「反逆などとは物騒じゃ。風の王は妻を犠牲に、世界を安定させたのですぞ?皆、彼を労ってしかるべきじゃ」

無限の宇宙の言葉に、ルディルは首を竦めた。

「そうでもねぇが、な……レシェラが止めに入らなければ、オレは奴を殺してた。なあ、無限の宇宙、ガルビークを正気に返してレシェラを解放する方法、何かねぇか?」

「時が経てば、ガルビークも落ち着くじゃろう。妻が別の男のそばにおるのは、気分がよくなかろうが、今はそっとしておくのが薬じゃろうて」

「くっ、ガルビーク、目覚めたらただじゃおかねぇ」

ルディルは忌々しげにそう言ったが、その粗暴な瞳は優しかった。

「ルディル、もう一度言う。ガルビークを討て」

「やらねぇ。あいつとの決着はもうついていると言っているだろう!」

これが決定打だった。ルディルは、精霊王の背後から出てきた者を見て、僅かに瞳を見開いた。彼女が持ち場を離れることは、自分の知っているかぎりではなかったからだ。憎らしげにこちらを睨む、紫色の瞳。あれは、愛する者を失った者の目だ。

そうだった。レシェラはオレだけのモノではなかったと、ルディルはすぐに彼女を見舞わなかったことを後悔した。オレも、レシェラの選択に思いの外参っていたのだと、ルディルは気づかされた。

精霊王の隣に並んだ、神樹の精霊・ナーガニアが憎しみの籠もった声で言った。

「ルディル、娘を犠牲にして、それで終わったつもりですか?ガルビークを討って、早く娘を解放しなさい!」

ああ、仕方のない……。

花の姫であるレシェラは、神樹の花の精霊だ。彼女は、ナーガニアの娘だった。彼女が、不意に目覚めたレシェラを、娘として可愛がっていたことはよく知っていた。そんなレシェラは、神樹を通って世界を行き来していたルディルにいつしか恋をした。そして、散々口説き、ついにルディルを落としたのだった。その一部始終を見ていたナーガニアは、娘の幸せの為ならばと、魂を分け合うことを許してくれたのだった。

神樹を通るたび、ちょっかいをかけられて、初めは鬱陶しがっていたルディルだったが、それが今やかけがえのない存在となった不思議。

レシェラが大事なのは、ルディルも同じだった。

だから、ナーガニアにはわかってほしかった。なのに、レシェラだけを見て、他を見ようとしない濁った瞳に、ルディルは失望していた。泣きたいのはオレの方だと、ルディルは奥歯を噛んだ。

「できねぇ。オレはレシェラの夫として、妻の行いを汲んでやらなくちゃならない。レシェラは、王であるオレの為、ひいては世界のために、ガルビークと一緒にいることを選んだ。あいつは、今でも風の王と共に世界を守ってる。ナーガニア、母親のおまえがそんな娘のことを否定するのか?」

レシェラが来てくれなかったら、ルディルは怒りと憎しみでガルビークを――友を殺していた。レシェラは、ルディルを守ってくれたのだ。そんな健気な妻の行いを、その母親であるナーガニアに否定してほしくなかった。

「綺麗事を……ルディル、あなたは、ガルビークに穢された娘を、ただ捨てたいだけではないですか!」

ナーガニアの吐き捨てるような言葉に、ルディルの風はゴッと凶悪に吹き荒れた。

なんてことを言うんだ!と、ルディルは怒りを通り越して哀しかった。ガルビークの間違いのせいで一番傷ついた者を、その母親が再び穢すのか?と、ルディルは哀しかった。

「今でもオレは、レシェラを愛しているさ!ゲートを通して、あいつが、謝罪を繰り返して泣いているのを聞かされる、オレの身にもなれ!どれだけ言葉を尽くしても、触れられないだけで、あいつはオレを信じられなくなった。それでもオレは、繰り返すさ!呪いのように、愛していると言い続けてやるさ!解放される、その時までな」

ルディルは哀しそうに、それでも揺るぎなく豪快にニヤリと笑った。

偽りのない真実の言葉だった。だのに、ルディルの言葉はナーガニアに届かなかった。

「ルディル!」

憎しみの瞳で、ナーガニアは鋭く手を突き出した。ルディルの背後に、見たことのないゲートが開いた。すべての世界を行き来する、風の王であるルディルも知らない世界に通じていることが、そこから流れ出してくる空気でわかった。

暗く冷たい空気が、中から流れ出してくる……。

「ルディル、そのゲートの先は、次元の牢獄だ。出口のない永劫の闇だ。意味を、わかるな」

次元の牢獄――世界と世界の隙間だと聞いたことがあった。世界と世界を隔てる壁の接点。どこにも繋がらない、所在不明の場所だ。

「おまえら……本当に仕方のない……それで脅したつもりか?上等だ」

ルディルは、命令を下されるだろう有限の星に視線を合わせた。ルディルがこれ以上抵抗すれば、シュレイクは有限の星に、次元の牢獄に落とせと命を下すだろう。

そんな命令を下されるのを見るのは、忍びない。

「有限の星、これから生まれてくる風の王達のこと、できる限りでいい、気にかけてやってくれ。シュレイク、ナーガニア!今後、オレほど強い風の王は生まれねぇ。ガルビークを倒せる風はいねぇ!おまえ達の身勝手、罪を背負って生き死にを繰り返す風の王達の姿を見て、ちったぁ己の卑しさを痛感しろ!今を持って、風の王の力すべてを、この身から剥奪する。我が翼に連なる者達よ、煉獄の道を歩ませること、許せよ」

ルディルの体から、風の王の力が抜け落ちた。それを無限の宇宙にわたしながら、ルディルは言った。

「原初の風に関する一切を抹消しろ。力もねぇのに、ガルビークに挑ませるなよ?道標としての記憶だけは、オレが残しておいた。あと、頼むぞ?」

ルディルは自らゲートに倒れるように身を躍らせた。

 話を聞いたリティルは、言葉を失った。

ルディルは、眠っているガルビークを守る為に、次元の牢獄へ自ら行ったのだ。

風の王たちが背負っているとされていた罪は、ルディルの犯したものではなかったことも、わかった。

「原初の風は、次元の牢獄にいたのか……捜しても見つからなかったわけだぜ……」

そして、歴代風の王がナーガニアに嫌われていた理由を知った。彼女は嫌っていたわけではない。何も知らずに闘わされる風の王達の姿を、見るのが辛かっただけだ。ルディルなら難なく倒せた魔物相手でも、死んでしまう。か弱い風の王達。風の王をそんな存在にしたのは、ガルビークを許せなかった自分達の罪だ。ナーガニアがリティルに助力してくれたのは、もう、その罪から許されたかったからだ。ナーガニアに感じていた壁、それなのに餞別としてくれる贈り物の数々、彼女は何もいうことはできないまま、償おうとしていたのだろう。

「リティル、すまん。太古の諍いに巻き込んでしもうて」

「終わってねー戦いなら、いつかこうなってたさ。オレはガルビークを解放した風の王だしな。ルディルのところに、行けねーか?初代に、オレは会わなけりゃならねーんだ!」

無限の宇宙は、そう言われることさえ想定していたようで、また大きな溜息をついた。

「行けば、出られぬぞ?故に牢獄と呼ばれておるのじゃ」

「出るさ!初代と一緒なら、きっと出られる。ただ、レイシ……おまえ、レイシのことどう思ってる?」

「風の王の息子じゃ」

即答だった。リティルは、無限の宇宙に感謝した。

「そっか、ありがとな!戦争、止められるか?オレがいなくても大丈夫か?」

この状況でも、前向きな瞳の光を失わないリティルを見返しながら、無限の宇宙は言った。

「……のうリティル、止められなんだら、レイシに背負わせてもよいかのう?」

はあ?リティルは呆気にとられて、瞳を見開いた。何を言ってるんだ?と、智を司る精霊とは思われない発言に戸惑った。

「レイシを、次の精霊王に立てようっていうのか?そんなこと、飲めるわけねーだろ?あいつは半分人間だ!代理として、次の王が立つまで任につくことはできても、未来永劫は無理だ。あいつの人間の心が、永遠に耐えられねーよ。太陽に、オレの息子はやらねーよ!」

「そうよのう……闘う使命のあるそなたには、補佐としてついてやることはできぬしのう」

無限の宇宙は、また大きな溜息をついた。リティルは、精霊王の守護精霊が、代替わりを望んでいることを知った。そんなに、精霊王は滅びへ突き進んでいるのか?と思わずにはいられなかった。そしてそれは、かなり切羽詰まった状況のようだ。混血精霊を次の太陽の王になど、乱心としか言いようがなかった。

「王はのう、リティル、愛を消滅させたいのじゃ。精霊を狂わせる大きな感情。そなたも、覚えがあるじゃろう?」

無限の宇宙にそう問われ、リティルはシェラを失い暴走したことを思い出していた。

「まあな。けどな、悪い気はしないぜ?精霊王は、レイシの母親のこと好きじゃなかったのかよ?」

「想いがなければ、よかったのじゃ……レイシさえ、生まれなければ……」

「どうして、レイシを憎むんだよ?二人の子供だろ?可愛いじゃねーか」

当然のように子は可愛いというリティルに、無限の宇宙は溜息をついた。

「嫉妬じゃよ。人間の赤子は時間も労力もかかるからのう。人間は、僅かな時しか生きぬ種族、レイシにその時間を奪われていると王は思ってしまったのじゃ」

はあ?何を当たり前のことを?命だぞ?命作っておいて、時間と労力かからねーと思ってたのか?生まれたとき、こんな小さくてフニャフニャなんだぜ?放っておけるかよ。守るだろ?普通。普通じゃねーのか?人間とやっちまうヤツは、そう思わねーほうが普通なのか?だから、混血精霊の暴走は止まらねーのか?いらねーなら、作るなよ!愛せないなら、生み出してやるなよ!子供は道具じゃねーんだ!かけがえないんだ!血と力を分けた、かけがえのない存在なんだ!どうしてわからねーんだ!

リティルは心に渦巻いた感情を、ただ一言に集約した。

「バカか?」

「そなたが呆れるのも無理はない。王は、そなたらと比べると幼い。生む覚悟も、生まぬ覚悟も持ってはおらぬのに、流されてしもうた。彼女を永遠に失った今、力に目覚めたレイシが疎ましいのじゃ。その想いは止まらぬ。リティル、戦いは避けられぬぞ?」

「救えねーな!ガルビークとはまだ話せたけどな、精霊王とは話ができるとは思えねーよ。無限の宇宙、オレに精霊王を討たせる気かよ?」

「そなたは討たぬ。討つのは、インファじゃ」

風の王を、もうこれ以上失えないと、無限の宇宙は恐ろしいことを言った。

「!おまえ、そういうことかよ!」

カツンカツンとまた足音が響いた。リティルがハッとして視線を上げると、鉄格子の向こうに有限の星が姿を現した。

「リティル、王の御前へ来い。再び我らは闘わねばならぬ」

「オレが痛めつけられる姿を、ルキルースに送りつけるのかよ?それで、インファに揺さぶりかけるって?おまえら、オレの代わりにインファを!オレの息子を殺す気かよ!」

リティルは壁に手を付いて立ち上がった。どうする?魔法のエキスパートである無限の宇宙と、力の化身相手ではリティルに勝ち目はない。

 しかし、このまま連れて行かれれば、インファが……。リティルと二人の守護精霊は睨み合った。

こんな結末を、本当に皆は望んでいるのか?リティルは、孤独な精霊王を憐れに思った。しかし、レイシの父親であるリティルも、精霊王とは相容れなかった。愛憎では、精霊王がレイシを受け入れることはないだろう。リティルが精霊王を討つと強行しなければ、守護精霊達はインファをその駒に使う。だが、インファでは精霊王には勝てない。リティルでも勝てない相手に、正面からぶつかったのでは勝ち目はない。

 どうする?このまま、一人で精霊王に挑むか?リティルは勝ち目のない無謀に、本気で悩んでいた。普段のインファがここにいたら、母さんがいないんですから、死にますよ?と冷静なツッコミをもらっているところだ。

落ち着けオレ!と、リティルは睨み合ったまま考えをまとめ始めていた。脳裏に浮かんだクールで大人な補佐官の姿が、リティルを冷静にさせた。

ノイン……ノインならこんな時――

「もう、おやめなさい」

リティルの背後から、ニュウッと女の両腕が生えてきた。その腕が、リティルを守るように抱きしめる。

「ナ、ナーガニア?」

リティルは鹿の角を生やしたよく知る女の横顔を見た。

「リティル、次元の牢獄へ。ルディルに会い、娘を目覚めさせる手立てを教わりなさい」

思わぬ言葉だった。リティルは咄嗟に食いついていた。どれだけ探しても見つけられなかった、シェラを助ける方法。その手がかりを知る者が、こんな近くにいるとは思わなかった。

「ルディルは知ってるのか?シェラを目覚めさせる方法を!」

ナーガニアは、リティルの瞳になりふり構わない光が灯るのを見た。

「ルディルはゲートを使いこなしていました。きっとシェラを救えます。行きなさい、リティル!」

「うわ!ま、待てよ!オレが行ったら、この戦い、どうなるんだよーーー!」

有無を言わさずドンッと突き飛ばされ、小柄なリティルは、転がり落ちるように目の前に開いた次元の牢獄へ落ちた。脳裏に、崩れそうで危ういインファの姿が浮かんだ。

──インファ!自棄を起こさないでくれよ?頼むぜ?インファ!

リティルを次元の牢獄に送ったナーガニアは、精霊王の守護精霊達に視線を戻した。

「きっとリティルは、ルディルと共に戻ります。二人の風の王ならば、この世界を、導いてくれます。だからお待ちなさい!インファルシアに手を出してはなりません。リティルの怒りを、買わないで……」

風の城を、もう道具に使わないでと、ナーガニアは、瞳を伏せた。

 小柄で、屈託のない笑顔を振りまく心強き風の王。ナーガニアの十六人目の娘の夫。

シェラを失い、それでも必死に飛ぶリティルに、ルディルのことを話したかった。ルディルなら、シェラを救えると教えたかった。けれども、帰れる保証のないあの場所へ誘うことができなかった。ナーガニアは怖かったのだ。教えれば、真っ直ぐに向かってしまうリティルの愛情の深さが。彼には、シェラ以外に守るべき者がいる。彼等からリティルを奪うことになったら――

特に、共に飛ぶインファから彼を奪っては、かつての私の二の舞になってしまうのではないかと、ナーガニアは思った。危ういながら生き残る風の城の皆。彼等の中心で、彼等を守っているのはリティルだ。

ゲートを通り、リティルと共に飛ぶ風の城の皆のことを、無事に無事にと祈り続けていたら、いつしか、ナーガニアにとっても大切な者達になっていた。奪いたくないという思いが、ナーガニアの口をつぐませた。

リティルの、シェラを想う激情とも取れる愛を知っていたのに。口を閉ざし、ナーガニアは、城の皆からリティルを奪うことを阻止していた。

精霊王が、リティルを、インファを傷つけようとしていることを知り、いても立ってもいられなくなった。この健気な風達を守るには、ルディルに助けを求めるしかない。彼なら、精霊王と戦える。その強さがある。ルディルなら、リティルを守れる。

世界からルディルを奪っておいて、虫がよすぎるのは承知していた。けれども、あの強く優しい初代風の王に、リティルを守ってほしかった。風の城の皆から、リティルを奪わせないように。

ナーガニアには、次元の牢獄から彼等を助け出すことはできない。それでも、それでも、どうか戻ってきてと、ナーガニアは狡く祈った。


 断崖の城を囲む、針葉樹の森に轟音が響いた。

「はあ、はあ……」

「インファちゃん、少し休んだら?精度が下がってるの、ウチでもわかっちゃうわよぉ?」

スワロメイラに背中を叩かれて、インファは素直にその場に座り込んだ。上がった息が整わない。しばらく力を振るえないほど疲弊していた。

次元の刃を作り出す修業は、まるで上手くいっていなかった。風と花の姫の力を混ぜ合わせようとすると、とたんに力は暴走してしまう。見回すと、隙間なく埋め尽くされていたはずの針葉樹の森に、幾筋も道が通ってしまっていた。

『どうして、暴れちゃうのかしら……シェラがインファに、力を使わせることを拒んでるの?』

「父さんを想う母さんが?ありえません」

ハルがインファの立てた片膝の上にちょこんと乗った。

『そうなのよね……雷は問題なく使えてるのに、どうしてかしら?』

「風と反発してるんじゃないのぉ?相性激悪でしょう?」

『そう言われちゃうと、凹むのよねー。でも、リティルなら使える気がしちゃうから、なんだかね……』

「父さんは天才ですから。しかし、できるはずなんです。オレとインリーが、生まれることができたんですから」

このままではダメだ。インファは余裕なく、拳を握りしめていることにさえ、気がついていなかった。

「破壊力だけは、無駄にあるな」

切り開かれた道を通って、ノインがゆっくりと姿を現した。

「インファ、少し頭を冷やせ。顔を洗ってこい」

ノインはスッと森のある方向を指さした。そういえばルキが、泉があるから適当に使ってと、言っていたことを思い出した。

「……そうします」

インファはヨロリと立ち上がると、一人森の中に姿を消した。

 そんなインファの背を見送り、ノインがスワロメイラに視線を合わせた。

「スワロ、セリアとインファの事、知っていたか?」

「相手がインファちゃんだって、知らなかったわよ!セリアが誰かと会ってる事は知ってたのよ。でも、見てやろうとしても見えなかったわ。ルキ様の謀だったのかしらねぇ。ホント、セリアは恋愛運ないのよ……一日の命を繰り返す罰を受けたり、それが終わったと思ったら、急に心を閉ざしちゃうし……」

スワロメイラは大きなため息をついた。

『セリアのあの様子だと、ただの話し相手ってわけじゃないわよね?お兄ちゃんなインファからは、想像できないわ』

ハルの言葉に、スワロメイラは、レジナリネイの頭を撫でていたインファの姿を、思い出していた。インファは、自分よりも年下の容姿の精霊が、弱気な顔を見せると兄のような顔で優しく接する。その様子が頼りがいがあるから、皆彼を兄と呼んでしまう。

そして、浮いた話は一つもない。あのリティルとシェラの息子なのに、恋愛感情がないのだとスワロメイラも思っていた。

「彼女は、次元の刃を知っていると言っていた」

ノインの言葉に、スワロメイラは信じられないと言いたげに、彼を見上げた。

「え?インファちゃん、話したの?トラウマか心の傷みたいな力のことを、話したの?」

スワロメイラは、次元の刃の発現に立ち会っていた。あのときのインファは、右腕を失い体も相当痛めつけられて無残な有様だった。リティルを救う。ただそれだけのために、インファは自身のすべてをかけて、身に余る魔法を完成させたのだ。その代償は、二ヶ月間の眠りだった。それだけですんでよかったと、本当に思う。あのまま、消滅していてもおかしくなかったのだから。

「そうらしい」

「へえ……それは、ひょっとするとひょっとするわね……」

セリアの話を聞いても、本当にインファと?と半信半疑だったが、次元の刃のことを話したとなると、一気に信憑性が増す。このまま上手くいったら、おいしい展開が――

「スワロ、覗きは許さない」

「ちっ!わかったわよ!ここにいるわよぉ。ケチ!」

インファの行ったほうへ視線を送ったスワロメイラの肩に、ノインは手を置いた。先手を打たれたスワロメイラは、舌打ちするとふてくされた。

 森の奥、丸い二、三メートルの水たまりのような池の中心に、ボコボコと小さな水柱が立っていた。覗きこむと透明で、波紋が広がっていなければ、水がそこにあることさえ見えないような透明度だった。

インファの息は、未だ軽く上がったままだった。霊力を使いすぎて、まだ回復しきっていなかった。

「父さん……」

インファはのし掛かる疲労に身をゆだね、池の縁に倒れた。倒れている暇はないのに、体が動かなかった。

「無事で、いてくださいよ……?」

そうでなかったら、あのとき置いて行ったことを後悔してしまう。形振り構わずに、父の思いに背いてでも、連れ戻すべきだったとそう自分を責めてしまう。

インファは疲れ切って、瞳を閉じてしまった。

 誰かが頭を優しく撫でている。こんなこと、子供の頃以来だ。

子供の頃以来?インファはハッと瞳を開くと、そこから慌てたように逃げていた。自分のいた場所を見ると、セリアが正座を崩して座っていた。

「また、あなたですか……もう、オレに関わらないでください」

彼女に膝枕されていたことは、容易に想像がついた。

「あなたは、あの時も、お父さんを思って悩んでいたわ」

「やめてください。覚えていません」

インファの拒絶にも、セリアはめげずになおも言葉を続けた。

「あなたは最後の日、これくらいの白い花の咲く、金色のナイフを見せてくれたわ。あのナイフが、次元の刃じゃないの?」

花咲く――ナイフ?

「あなたはあの時、そのナイフを使って目覚めない意識の淵から生還したわ」

──目が覚めたら、セリア、あなたに会いに来ますよ

そう言って笑うインファに、目覚めたら忘れてしまうことを、セリアは告げられなかった。ただ笑って、待ってると嘘をつくことしかできなかった。

今こうして肉体のあるインファに出会って、穏やかで優しかった彼が、別人のような荒れ果てた感情で、目の前にいることがとても哀しい。優しさのない、笑わない瞳が哀しい。

今目の前にいるこの人は、本当にインファなの?セリアにはそう思えてならなかった。

「本当のあなたは、警戒心の強い人だったのね。それから、今のあなたは少し怖いわ」

セリアの瞳が哀しげだった。こちらを見ないでほしいと、インファは切に思っていた。その理由がよくわからない。彼女を疎ましく思っているのとは、違うような気がする。では、なぜ居心地悪く、その瞳にこの姿を映してほしくないと思うのだろうか。

「リティル様は強くて、あなたの目標で、時に潔すぎて腹が立つ。今でもそうなの?今、あなたはリティル様に何を思っているの?」

インファがリティルに思っていることを、寸分違わずに言い当てられていた。未だにインファは、セリアと一緒にいたことを信じていなかった。インファのことを調べようと思えば、レジーナに聞けばいいのだ。宝石のことを、初対面でいきなり脱ぐような彼女を、安易に信じる気にはならなかった。

けれども、リティルのことを言われ、リティルのことを尋ねられ、インファは思わず想いを吐露させられていた。

「そばに……いてほしいんです……手の届かないところへ、行ってほしくないんです。父さんに、ずっと、風の王でいてほしいんです!その願いが……途切れそうで、それを守れない自分自身が、許せない……父さん……!帰ってきてください!オレを、風の王の副官でいさせてくださいよ!」

子供のようだと思った。オレはどうしてしまったのか、こんな弱くてどうしようもない今が、オレの本質なのか?インファは自分の身を抱いて、心のままに叫んでいた。

「大丈夫、心配いらない」

セリアのつぶやきに、インファは驚いたように、薄明かりの空から視線をセリアに移していた。

その言葉は、リティルの口癖だ。リティルに会ったことのないセリアが、知っているはずがない。彼女は周到に、リティルのことまで調べて――

セリアは何も言えないでいるインファに、さらに続けた。

「そう言って、安心させられる父のようになりたい。そう言っていたわね。リティル様はどこにいても、前向きでいるわ。そう、あなたが信じているから」

「オレは本当に……あなたと一緒にいたんですか?」

インファは、セリアを否定したいのに、口からこぼれ落ちた言葉は、頭とは裏腹だった。

セリアは頷いた。

「意識体だったあなたは、お父さんの話ばかりしていたわ。誇らしそうに。助けるつもりが、いつも助けられてしまうって笑ってた。笑って?インファ。あなたの瞳はリティル様に似てる。笑うリティル様は最強だってそう言ってたわ!だったら、その瞳を持つあなたも、笑ったら最強なのよ」

──父さんは笑っていてください。笑う父さんは最強ですから

いつか父にかけた言葉が甦る。どんな窮地に陥っても、決して諦めないリティルは、きっと今も闘っている。もう二度と、おまえを裏切らないと言ってくれた、優しい父。

風の城へ帰るために。城にいる皆を置いて逝かない為に。

風の王として、皆の上に君臨し続ける為に。インファの隣に、居続ける為に。

こんな副官の姿を見て、風の王はどう思うのか!インファは、空を睨みあげた。

「父──さん……!次元の牢獄とは、なんなんですか?どうしていつも、とんでもないモノに巻き込まれるんですか?補佐するオレの身にもなってくださいよ!また、どうせ、オレが何とかしてくれると思っているんでしょう?無茶振りですよ。わかっています。何とかしますよ!待っててくださいよ?父さん!」

インファの手に、白い一振りの華奢な剣が握られていた。インファはそれを構えると、上段から振り下ろした。その軌跡に金色の刃が生まれて、泉の水を切り裂きながらずっと先、針葉樹の森を切り裂いていった。力任せに振るったために、まだ霊力が回復しきっていなかったインファは、一瞬意識を失って水の中に倒れてしまった。

水の冷たさに我に返ると、セリアに体を支えられていた。

「あなたの知るオレは、こんな、格好悪かったですか?」

インファは情けなく、小さく力なく微笑んだ。その微笑みに、セリアも応えて微笑んだ。

「ううん。わたしの知るインファは、いつも笑ってたわ。信じて止まない瞳でね。でも、がむしゃらな今のインファも好きよ?」

笑うセリアは、白い百合の花みたいだなとインファは唐突に思った。彼女を見ていると、すべてが唐突だ。唐突に感情が湧き上がる。今、余裕がないからだろうか。自分の感情に振り回される。

「それ、常套句ですか?」

インファは目を細めた。誘われる……。けれども、それもいいかもしれない。彼女になら、誘われても……。

「ううん。インファ限定よ」

セリアの瞳も細まり、ゆっくりと二人の唇が重なった。

 そのままインファは気を失ってしまった。

「ノイン!助けて、ノイン!」

水からインファを引き上げることのできなかったセリアは、力の限りノインを呼んだ。ノインはすぐに駆けつけてくれた。

「おまえは、インファにとって幸運の女神なのか、疫病神なのかどっちだ?」

「どっちなのかしらね?」

ずぶ濡れのインファを引き上げながら、ノインは呆れた声でそう言った。水から揚げたノインは、風を操り二人を乾かす。

「また、暴れたようだが、どうだ?」

インファを抱き上げながら、ノインは切り開かれた森を見つめた。

「吹っ切れたと思うわよ?でも、思い出せない……とても綺麗なナイフだったのよ。あの時のインファと今のインファは違うけど、何が違うのか、わたしにはまだ、わからないわ」

セリアはこの場所にインファを導いてほしいと、ノインに頼んだ。記憶の中にあるインファと、今目の前にいるインファはとても印象が違う。それが何なのか見極めたかった。次元の刃を、意識体だったインファは会得していた。それが、今引き出せずにいる。今のインファに受け入れてもらえなくても、せめて役に立ちたかった。

「インファに何があったの?とても傷ついて、ボロボロよ」

笑顔をなくしたインファの姿が、セリアにはとても哀しかった。温かだったあの瞳が、揺るがなかった光が見る影もない。

「リティルの背負うものの大きさに、インファは気がついてしまった。シェラの言葉を借りるなら、明日がないかもしれないことが恐ろしいのだ。セリア、今のインファにはこれ以上大事なモノは作れない。リティルを明日へ向かわせることだけで精一杯だ。それすら危うい状況に、心が悲鳴を上げている。背負うなといいたいが、皆の兄であり副官である状況が許さない。許せ。これ以上、オレも手を貸してやれない」

城へ戻ろうと踵を返したノインは、ふとセリアをもう一度振り返った。

「セリア、その格好、なんとかしろ。穢れた演出などおまえに不要だ」

ノインはそれだけ言うと、断崖の城へ向かい翼を広げた。


 それからしばらくあと、城に戻ったセリアは皆の注目を集めた。

着崩した着物姿だった彼女が、清楚なワンピース姿で現れたからだ。右耳の上で、ピンク色の髪を小さく団子にまとめて白い百合の花を差していた。

あまりの変わりように、皆は唖然としていた。さっき昏倒したはずのインファは、もう起きていた。彼と視線が交わり、セリアはいたたまれなくなって、そっと玉座の間を後にした。

「着るんじゃなかった……」

この格好は、セリア本来のモノだったが、心を風の奏でる歌に封じてからはあの着崩した着物を着ていた。心を取り戻してすぐに着替えればよかったのだが、なんとなくそのままにしてしまった。心を失っていたセリアはどんなだったのか、わからない。自分を取り戻したあと、セリアを見るインファはとても戸惑っていて、拒絶の意思まで感じた。

そんなに違っていたのだろうか?

「セリア」

名を呼ばれ、バルコニーで葛藤していたセリアは、恐る恐る振り向いた。立っていたのは、声の通りインファだった。

「すみません……オレはあなたに何かしましたか?水に落ちてからの記憶が曖昧で、何か身の危険でも感じさせてしまったのかと思いまして」

セリアは瞳を瞬いた。セリアが性を感じさせない服に着替えたことで、インファはあの時、何かをしたのかもしれないと思ったようだった。

そんな理性的なインファに、セリアはフッと吹きだした。

「何も。わたし、本来はこっちなの」

「そうでしたか。その服装の方が、近寄りやすいですよ」

インファはそう言うと、優しい笑みを浮かべた。セリアは彼の笑みが、記憶の中のインファと重なりドキッと胸が高鳴った。そんなセリアの心など気がつかずに、インファは隣に並んだ。

「セリア、オレが見せたという次元の刃の形状を、覚えている範囲で構わないので、教えてくれませんか?」

インファは穏やかだった。疲れてはいたが、その瞳は温度を取り戻していた。

「ええと、これくらいで……こんな形で……装飾はこうで……」

セリアは空中に指を滑らせた。黄色、青、ピンク、紫、青と指の先から光が色とりどりに変わりながら、空中に描かれていく。描ききったセリアが両手をかざすと、彼女の手の中に一振りのナイフが実体となって現れた。

「はい。……どうしたの?」

それを当然のようにインファに差し出したセリアは、彼が驚いていることに首を傾げた。

「いえ、こんな魔法もあるんですね」

「フフ、インファ……同じ事言ってる」

意識体だったインファと過ごしていた頃、百合の花の形を聞きながら、空中に描いて今のように具現化させたことがあった。

──こんな魔法もあるんですね

インファは今のように驚いて、そう言った。

「たしか、これで意識をこじ開けるって言っていたの。あのとき、どうしても目覚められなくて、体に戻れないって、インファ、困ってたのよ」

「意識をこじ開ける……次元とは違うようですが、オレがそう言ったんですね?それにしても、オレが作ったにしては、綺麗すぎるデザインですね。あなたが助力してくれたんですか?」

セリアは意外にも首を横に振った。

「インファが一人で作ったの。それから……目覚めたら、わたしに……会いに来るって言って……」

セリアは言いにくそうに告げた。そして、俯いた。ノインに、もう波風立てるなと釘を刺されてしまった。インファを見ていて思う。彼にはもう、これ以上背負えない。セリアの入る隙はないのだ。インファを想うなら、ここで身を退かなくてはと、セリアは思った。

「……すみません……覚えていないんです。守れない約束をしてしまったようで、すみません……」

インファは視線を外した。最後くらい、彼の笑顔が見たい。なのに、笑ってはもらえない。もう、わたしはインファの特別じゃなくなってしまったから……セリアは俯いた。

「インファ、謝ってばっかりね。気にしないで。忘れてしまうこと、わたし、わかっててあなたに言わなかったの。インファのせいじゃないわ。そういうモノなのよ。だから、気にしないで」

セリアは笑ったつもりだった。

「……泣くほどの関係だったんですか?すみません、オレはあなたに触れられません。オレには心がありません。気を持たせるわけにはいかないんです」

本当は覚えていた。泉に落ちてからの記憶が曖昧だなんて、嘘だった。彼女に触れた唇の感触を、覚えていた。心と決別しようとしている彼女に、本当は触れたかった。

好きだという言葉を、生まれて初めて使いたかった。

インファはそれらすべてを、当たり前のように心の奥底に封じ込めた。

「……いい、の……わかってるから……ごめん」

泣きながら走り去るセリアを、インファは追えなかった。インファはセリアに背を向けると、バルコニーから白夜の太陽を見つめた。

「父さん、こんな気持ちだったんですか?母さんを拒んだとき」

そして、そっと胸に手を当てた。その手が震えて、ギュッと服が皺になるほど掴む。

「結構痛いものなんですね……超回復能力をもってしても、消えそうにないですよ……」

 インファはバルコニーの石の手すりの上に立った。そして、セリアにもらったナイフを目線の高さに水平に引くと、ヒュッと手首を返して虚空を切りつけた。目の前の空間に、小さな亀裂ができていた。とても、人一人通れる代物ではなかったが、インファは次元の刃を確かに会得した。

──母さん、オレに足りなかったのは、会いたいと想う心だったんですね?

記憶の中の母が、祈りの形に胸の前で手を合わせて、相手を思いやるような優しい笑みを浮かべていた。

次元の刃を振るったとき、インファの心にあったのは、怒り、哀しみ、憎しみ、そして、囚われた両親を助けたいと想う心だった。分断された皆をここへ導けば、両親を救えるとインファはあのとき、次元を切り裂いたのだ。

 白い刃が暴走してしまうのは、インファの切り裂きたいと願う、強い想いに反応した結果だったのだ。シェラの血の力は、初めからちゃんとインファに従っていた。間違っていたのは、インファだったのだ。

ただ、想えばよかったのだ。隔てられた次元をここへ繋ぎ、あなたに会いたいと。

「セリア、ありがとうございます。これでオレは、進むことができます」

ナイフの装飾は百合の花だった。ナイフ作りにセリアは関わっていないと言った。記憶にないインファが見ても、このナイフに込められた意味を理解することができる。このナイフは、セリアによく似ているのだから。

──あなたに会いに行く

インファは確かに、セリアのことが好きだったのだ。

このナイフを作ったとき、セリアに生身で会いたくて、次元を斬ったのだと、インファには思えた。自分でも、そんなことを思ったことが信じられなかった。けれども、確かにわかる。記憶にないオレは、セリアを愛しく思っていたのだということを――

「ノイン、レイシの状態はどうですか?」

バサバサッと音がして、ノインがバルコニーに舞い降りてきた。

「ルキのおかげでかなり霊力が高まっている。なかなかに面白い形に仕上げてきているな。インファ、おまえはどうだ?」

「次元の刃、会得しました。いつでも、次元の牢獄を、斬れます」

『本当?ねえ、いつ斬るの?』

ヒョコッとノインの肩からハルが、本当に?と見つめてきた。その声は嬉しそうだった。

インファはニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。

「精霊王に、一泡吹かせてやりましょう」

二人と一匹は、玉座の間を目指して歩き出した。


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