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一章 精霊王の息子

風の城の応接間の、コの字に置かれたソファーに風の王・リティルはいた。

金色の半端な長さの髪を、黒色のリボンで無造作に束ねた、小柄な男。背には風の王の証である、雄々しいオオタカの翼を生やしていた。

リティルは玄関へ続く扉の開く音で、顔を上げた。その拍子に、左耳のフクロウの羽根のピアスが揺れる。

「お帰り、ご苦労さん」

リティルのその、金色の燃えるような光の立ち上る、生き生きと力強い瞳に映ったのは、男性寄りの中性的な容姿の、美しい風の精霊だった。腰まである金色の髪を、緩く束ね肩甲骨の辺りから三つ編みに結っている。その髪をイヌワシの翼の間に垂らしていた。

風の王の第一王子である、雷帝・インファだ。

インファは扉から十数メートル先にあるソファーに向かい、象眼細工のクジャク達とフクロウ達が踊る床を、フワリと飛び越えた。

「ただいま戻りました。……父さん、徹夜するつもりですか?」

帰ってきたインファは、応接間にいる父に苦言を呈した。時はすでに真夜中を過ぎているというのに、リティルは平気な顔でデスクワークに勤しんでいたからだ。

『そうなのよ!インファ、もっと言ってやって!わたしが言っても、聞きゃしないんだから!』

ぴょんと、赤いリボンを頭に乗っけた、かわいらしいメスライオンのぬいぐるみが、ワインレッドの布を張ったソファーの背もたれに、飛び上がってきた。

「ん?もうそんな時間か?ハハ、ハル、悪かったよ。インファ、報告は――」

リティルは羽根ペンを置くと、うーんと伸びをした。その右腕に巻かれた革紐の先でクジャクの羽根が揺れる。

『明日でいいわよね?インファ!』

ハルは、リティルの言葉を遮ってインファに尋ねてしまった。王の邪魔をしたハルのその様子に、インファはやれやれと暖かく苦笑した。

ハルは、ここにいないシェラの代わりを、一生懸命務めようとしていてくれている。それを知っているインファは、心の中で感謝した。だが、自分のことにとことん無頓着なリティルは、気がついていないだろうなと、ハルの努力が報われないことに、すみませんと心の中で謝罪した。

「ええ、もちろんです。……インリー、起きてください。こんな所で寝ていては、風邪をひきますよ?」

インファは、ソファーで丸まっている妹の剥き出しの肩を揺さぶった。おそらく、父の手伝いをしていたのだろうが、彼女も没頭して、おやすみを言う前に、寝落ちてしまったようだ。

「ハハ、風が風邪ひいてちゃ、世話ねーな」

『ホントよ。インリーも寝なさいって言うのに、お父さんが寝ないからって、頑張っちゃったのよ』

ハルは、プンプンッと短い手を腰に当てた。

ハルの様子に苦笑いを浮かべて、リティルは召使いの鳩に片付けを頼むと、やっと立ち上がった。

「はは、そんなに怒るなよ。書類の整理だって立派な王の仕事なんだぜ?」

『ホントにぃ?ルディルなんて、鳩に丸投げだったわよ?』

ハルは、当時この部屋にあった、大きな執務机を思い出していた。随分立派な机だったが、ルディルがその椅子に座っている姿を、ほとんど見たことはなかった。というか、ルディルがこの城にいたことはあまりなかった。

それは、仕方のないことだ。彼は一人で風の仕事をこなしていたのだから。ハルとルディルの間に子はいない。ハルはこの城で一人だったが、多くの精霊がそうであるように、あまり寂しさは感じなかった。静かな城しか知らなかったハルは、久々に戻った風の城が随分賑やかで驚いたものだ。

そして今、皆といられることがとても楽しかった。

「まあ、それでもいいんだけどな。実際に目を通すと、わかることもあるんだよ。じゃあ、おやすみ二人とも」

そう言うとリティルは、昔はなかった扉に当然のように向かった。灰色であまり装飾のない無骨な部屋に、似つかわしくない、白い石の扉だ。花の咲き乱れる大樹の繊細な彫り物がされた、華奢で凛とした扉だった。

「父さん、母さんにあいさつしたら、きちんと寝てくださいよ?そうしなければ、またノインに叱られますからね」

起きないインリーを抱き上げたインファが、背中にそう声をかけてきた。

「ハハ、ホント、あいつには頭が上がらねーな。あいつの喝がなかったら、オレは今でも腑抜けのままだっただろうからな」

インファは困ったように微笑んだ。その瞳に、責めるような色はまるでなく優しかった。

「また倒れないでくださいよ?もう、面倒見ませんからね?それではおやすみなさい」

『リティル、おやすみ』

ハルは、優しく燃える暖炉の上に置かれた、ドールハウスの屋根を開けると、その中に入っていった。インファは、妹の母親譲りの黒髪の長い三つ編みを、踏まないように彼女の腹の上に置くと、リティルとは別の扉に消えた。

 リティルは誰もいなくなった部屋で、小さく微笑みながら溜息をつくと、風を放ってシャンデリアのロウソクを消した。そして、白い扉を引き開けた。

中は、白い光に満たされた花園だった。円形の部屋で、同心円に水路が引かれ、水路の中には色とりどりの花が咲き乱れている。その中心の天蓋付きのベッドの上に、透明な結晶体に閉じこめられて眠る、黒髪の美しい姫がいた。

リティルはそっと、触れられない妻の頬を愛しそうに撫でた。

「シェラ、君を必ず起こしてやるからな。待っててくれ……」

リティルは結晶越しにキスをすると、シェラの隣にごろりと横になった。

この部屋を造った当時は、シングルのベッドだったが、今はダブルベッドに入れ替えていた。いつもこうしているわけではないが、たまにはシェラの隣にいたいからだ。

シェラの隣で瞳を閉じたリティルは、すぐに寝息を立て始めた。


 今でこそ、シェラを失う前と変わらず前向きなリティルだが、初めからそうだったわけではなかった。

シェラを失った当初、リティルは悪夢に苛まれ、あっけなく眠りを奪われた。限界を超えて、気を失って眠る以外、とても一人きりの寝室では眠れなかった。見かねた幻夢帝・ルキが、強制的に眠らせたりして、リティルの心が正気を失わないように、辛うじて守ってくれていた。

危うい橋を渡りながらリティルは、なんとか、家族と仲間の支えで、命をやり取りする過酷な風の仕事をこなしていた。

 あるとき、一瞬の油断で致命傷を負いそうになった。もう、花の姫の守りはない。彼女の無限の癒しがいなければ、瞬時に傷を癒すなどという芸当はできない。超回復能力を上回る傷を負った時点で、リティルの命は終わりだった。

 リティルを救ったのは、風の城の主力である三人の精霊だった。

短い白銀色の髪の大人な見た目の大男、再生の精霊・ケルディアスがリティルの襟首を掴み引っ張った。その直後、魔物の鋭い爪がリティルの鼻先をかすめていった。間髪入れずに振り下ろされた鋭い爪を、間に割って入ったインファとノインが、槍と長剣で打ち砕いた。そのまま二人は魔物を屠り、仕事は完了した。

「ごめん……」

肩で息をしながらへたり込んだリティルの前に、短い金色の髪の、額から鼻先までを覆う仮面をつけた、ミステリアスな長身の精霊が立った。インファの守護精霊であるノインだ。見上げなくとも、彼が相当に怒っていることが感じられた。それくらい、無様でリティルにあるまじきミスだった。

「リティル、来い!」

グイッと引き立てられ、言葉少なくノインは風の城へ引き返した。

 そして、シェラの眠る部屋の、白い扉の前に立った。

「インファ、ケルディアス、しばらく誰も近づけるな。中でどんな音がしてもだ!」

あまり感情を表に出さないノインが、攻撃的な声で言った。

「お、おい、ノイン!おめぇ──」

ノインにケルディアスとフルネームで呼ばれ、彼が本気であることを知ったケルゥが、慌てて引き留めようとした。そんな見た目凶悪犯罪者のようなのに、気遣う優しさのあるケルゥをインファは止めた。

「わかりました。お願いします、ノイン」

二人の目の前で、冷たい音を立てて白い扉は閉じられた。

 リティルを花の姫の寝所へ連れ込んだノインは、容赦なく彼をぶん投げていた。小さく軽いリティルの体は簡単に放り投げられ、受け身も取れずにシェラの眠るベッドに背中から落ちた。

「そのざまはなんだ。何だと聞いている!」

背中を打った痛みに呻く暇さえ与えられずに、胸倉を掴まれ引き起こされたリティルは、眠るシェラの結晶体に再び背中を押しつけられていた。普段、こんな乱暴をする男ではない。普段のノインは、クールで包容力のある落ち着いた大人な男性だ。

「リティル、命を諦める気か?シェラを諦めるのか?」

ノインの切れ長の瞳には、怒りが渦巻いていた。

「ノイン……」

リティルには何も言えなかった。先が見えず、彷徨うばかりで疲れ果てていた。そして、リティルは自分の心をも信じられなくなっていた。

「リティル、最近この部屋にも入っていないだろう?おまえにとって、シェラは、触れられなければ意味のない女なのか?」

「そんなわけ!」

愛する妻を、まるで性欲のはけ口かのような言い方をされ、リティルは咄嗟に反論しかけた。しかし、ノインの瞳の鋭さに喧嘩すらできなかった。

「ではなぜだ!なぜ、目をそらす?シェラは生きている。生きているのだ!死がどういうモノか、おまえは知っているだろう?それなのに、なぜ目をそらす?」

「目を、そらしてるわけじゃねーんだ。オレが!死に逝くあいつを封じてやれなかったことが未だ信じられねーんだよ!オレは、シェラの命の灯が消えていくのを見守ってた。あんなに、手放したくねーって思ってたのにだ!フツがいなかったら、オレは手放してた。あの瞬間オレは、シェラの死を受け入れてたんだ!オレはシェラを殺した……殺しちまったんだよ!」

血を吐くように叫ぶリティルを、ノインはそんなリティルを、ずっと睨んでいた。

「それがどうした?」

低く静かにノインは言った。

「え?」

「それがどうした!おまえは風の王だ。動けなくて当然だ。だから、フツノミタマが動いたにすぎない。シェラも、おまえが共にいてくれるとは思っていない。風の王が、死に逝く魂を引き留められないことを、彼女は痛いほどわかっている!シェラはおまえに、死にたくないと言ったか?自分を助けろと、懇願したか!」

シェラは死を覚悟した瞳で、残されるリティルを案じていた。

そして、愛していると言葉を残そうとしてくれた。優しい微笑みで……。

「シェラ……シェラはオレの心を守ろうと……」

優しく微笑んだシェラの顔が、脳裏に甦る。延命も何もせずただ見守るだけの冷たい夫に、シェラは絶望することなく、幸せそうに笑っていた。

「わかっているなら、今ここで誓え!必ず目覚めさせると。早く!誓え!シェラをこれ以上待たせるな!」

ノインはリティルを吊り上げると、シェラの方へ向けて突き落とした。ドッとシェラの結晶の上に落ちたリティルは、穏やかに眠るシェラの顔をやっと見た。まだ血の通った顔で、シェラは幸せそうに眠っていた。夫が目覚めさせてくれることを信じて疑っていないように、リティルには見えた。リティルの瞳から、涙が止めどなく溢れていた。シェラが封印されてから、初めて流す涙だった。

「シェラ……ごめん……自分の気持ちを、疑ってごめんな……!君をきっと目覚めさせる!目覚めさせてやるからな!シェラあああああああ!信じて!待っててくれ……!」

リティルはやっとシェラを抱きしめて泣いた。そんなリティルを残し、ノインは部屋を後にした。

 ノインが部屋から出ると、部屋の前にはインファとケルゥが未だ立っていた。心配そうな様子の二人を見て、ノインは苦笑した。

「オレが、リティルを傷付けると思ったか?」

「おめぇ、殺しそうな顔してたぜぇ?なあ、なんだってリティルの野郎、あんな変なことで悩んでたんだぁ?」

ケルゥはてっきり、シェラを救えなかったことが、リティルを追い詰めていたのだと思っていた。それが、シェラを見送りそうになったことで、自分のシェラへの気持ちを疑ったことだというから、ケルゥには理解できなかった。

「父さんはあれでいて真面目ですからね。自分が特別視していた母さんを前にしても、風の王でいたことに驚いたんですよ。全身全霊で風の王を全うしているくせに、不器用なんですよ、父さんは。ノイン、あなたに甘えてすみません。オレでは……上手く言えなくて……」

力なく瞳を伏せたインファに、ノインは気にするなと首をゆっくり横に振った。

「リティルが不甲斐ない行いをしたら、叱ることになっている。オレの役目だ。それに、リティルを何とかしてくれと、ハルから頼まれた」

「ハルぅ?なんだ、いるじゃぁねぇか」

ハルが?とケルゥが部屋を見回すと、彼女はソファーの背もたれに乗っかって、こっちを窺っていた。

『リティルは?』

「大丈夫ですよ。父さんは吹っ切れたら強いんです。明日にはいつもの父さんですよ。はあ、やっとですか……さすがにしんどかったです……」

リティルを庇いながら闘うのは、流石に手に余った。日に日に弱っていっていて、そろそろ前線から外そうかと考えていたところだった。

今まで外さなかったのは、目を離すと死んでしまうのではないかと、心配だったからだ。

リティル、ノイン、インファ、風の王とその代理を務めることのできる精霊が、こぞって城を開けている事態に陥っていることにすら、リティルは気がついていなかった。シェラがいない今、三人の内誰か一人、城を守る為にいなければならないのに、そんな初歩的なことすらわからない、そんな父から、インファは目を離すわけにはいかなかった。

 しかし、魔物は待ってはくれない。今回のような大型で強力な魔物相手では、ケルゥまで引っ張り出さなければならず、ますます城の守りは手薄になっていた。

インファは城を守る為、リティルに内緒で自身の血を使う結界を用い、守りを強化していた。それを知ったハルは、今度はインファが大変な目に遭うのでは?と危機感を持った。

血を使えば、通常よりも大がかりな魔法を使うことができるが、体の負担は計り知れない。

そんな体で狩りに出て、なおかつリティルを守るなど無謀に見えた。インファにやめるように言ったが、大丈夫ですと飄々と躱されてしまい、ハルはノインに泣きついたのだ。

ノインはインファのことを知っていた。その上で泣くハルを、大丈夫だと慰めてくれた。そして、リティルを何とかしてみると、約束してくれたのだった。

『よかった……リティル、出てこないけど見に行かなくていいの?』

インファとノインはチラリと互いの顔を見た。

「ずっと、まともに寝ていませんし、今日だけ許してあげてください」

ハルは野暮でしたというように、スススッとソファーの背に隠れた。

 インファがいったように翌日のリティルは、シェラと離れ離れになる前の、強い瞳の輝きを取り戻していた。そして、仕事前と就寝前には必ずシェラのもとを訪れるようになったのだった。


 インリーは早朝の応接間のソファーに一人座り、うーんと腕を組んで考え事をしていた。

風の城の謎の襲撃から、そろそろ一年経つ。それなのに、進展がないばかりか世界に目立った動きはなかった。

インリーは、あの日のことを鮮明に思い出そうとしていた。が、いつも肝心なことを思い出せていない。そんな気がした。

「わたし達、いったい何と闘ってたの?」

インリーはうーんと、首を傾げた。

いくら考えても、あれは、いきなりそこに現れたようにしか、認識がない。しかし、強固な結界に護られた風の城の内部に、外部から瞬間移動することは不可能だった。無理矢理次元をこじ開ければ、風が警鐘をならし、侵入を押し止めようと大きな抵抗が始まる。そんなことになれば、仕事に出ていた主力達が気がつかないはずなはいのだ。しかし、誰一人城の危機に気がつかなかった。

「インリー?早いな。どうしたの?それ以上曲げると首がもげるぞ?大丈夫?」

ヒョイッと覗き込んだのは、ユキヒョウの耳と尾を生やした、濡れたような艶やかな黒髪の、年の頃はインリーと同じくらいの、十七歳くらいの少女だった。ケルゥの恋人である、破壊の精霊・カルシエーナだ。

「カルシー、おはよ。えっとね、何か忘れてる気がするの」

「忘れている?記憶といえば、レジーナだが、会いに行く?」

「レジーナ?」

インリーは、左右で違う金色と紅茶色をした瞳で、カルシエーナをキョトンと見た。レジーナの名に、聞き覚えがなかったのだ。

「記憶の精霊・レジナリネイ。記憶のことなら、彼女が一番だ。ただ、ルキルースに行くとなると、風三人の誰かの許可がいるな」

風三人とは、リティル、インファ、ノインの三人だ。

風の王の副官であるインファと、補佐官であるノインは、リティルから王の代理として力を行使できるように、権限を与えられていた。風の王は多忙だ。王の不在時に判断できるようにという処置だった。

ルキルースは幻夢帝の支配する夜の国だ。風の城は、精霊王の支配するセクルースという昼の国にある。幻夢帝・ルキとリティルはひょんな事から懇意だが、セクルースの精霊が無闇にルキルースに入ることをよしとしない。インリーとレイシは、許可なくルキルースへ入ることを禁じられていた。

「む?インリー、カルシエーナ?どうした?こんな朝早く」

玄関ホールに続く扉を開いて入ってきたのは、仮面の騎士・ノインだった。

「お帰りなさい。あのね、レジーナに会いに行きたいの」

「レジーナ?理由を聞いても?」

レジナリネイの名を聞いて、ノインは怪訝な顔をした。

「風の城、襲撃事件のこと、何か肝心なこと忘れてる気がして。ノイン、レジーナの所に行ってもいい?」

ノインは、インリーをしばらく見つめていたが、スッとソファーの後ろに立ったままいる、カルシエーナに視線を向けた。

「……カルシエーナ、ケルゥはいるか?」

「寝てる。今日は何もないと言っていたが、起こすか?」

「頼む。ケルゥと君でインリーを護衛しろ。リティルにはオレが話しておく」

パアッとインリーは顔を輝かせた。それを聞いて、カルシエーナはケルゥを起こしに行った。

「ありがとう、ノイン!」

「しかし、いいのか?君にとって、あの事件は思い出したくないことではないのか?」

ノインはインリーの隣に腰を下ろし、気遣わしげな瞳を向けた。

「怖いけど……手がかり、未だに何もないし……風の結界が反応してないなんておかしいよ。お父さんが胸騒ぎを感じて帰ってきてくれてなかったら、風の城は滅んでたよ。そういえば、ノインもお兄ちゃんもどうして帰ってきたの?」

「呼ばれた気がした。あれはシェラだったのかもしれない。帰ってみれば、リティルが大暴走していた。インファも同じようなことを言っていた」

あの日は大型の魔物が多く、シェラに城を任せて待機組のインリーとレイシ以外全員が狩りに出ていた。皆、バラバラの場所にいたのだ。

「そうなんだ。お母さん、お父さんを守ってくれたんだね……。だったら、怖がってないで、何を忘れてるのか思い出さなくっちゃ!」

インリーは両手に拳を握った。強がっているが、インリーはやはり不安そうだった。

「オレも同行するか?」

その言葉を聞いて、インリーはとても安堵した表情をした。彼女はこの城で唯一、猛禽類ではない鳥だ。だからだろうか。白鳥のインリーも立派に戦える戦姫であるのに、ノインはどうにも過保護にしてしまいたくなる。リティルには、内緒だが。

「ノイン、来てくれるの?でも、帰ったばかりだし、お仕事は?」

ノインが考える素振りを見せた時、城の奥へ続く扉が開いて、ケルゥとカルシエーナが入ってきた。

「ふわぁ。ノイン、インリーとレジーナに会いに行けってぇ?今日は暇だし、いいけどよぉ、なんなんだぁ?」

ケルゥは大きく伸びをしながら欠伸をした。

「インリーが、一年前の襲撃事件のことで、忘れていることがあるような気がするらしい」

襲撃事件?と、ケルゥはインリーを見た。そして、大丈夫か?と言いたそうな色が、その瞳に浮かぶのをノインは見た。

「ああん?インリー、レジーナは他人の記憶も覗きたい放題だ。何も、おめぇが行かなくったっていいんだぜぇ?ノイン、おめぇ代わりに行ってこいよぉ。今日仕事入ってねぇだろう?」

ドカッと、ケルゥはインリーの隣に座った。大きな男二人に心配されて、インリーは素直に嬉しいと思ったが、子供扱いされているようで少しムッとした。

「わたしだって、風一家の一員だよ?大丈夫だよ!」

インリーはプウッと頬を膨らませた。

ケルゥは見た目だけなら、二七、八才のノインよりも少し年上だった。精神年齢は、ノインに敵わなくても、立派に大人だ。大人な二人は、子供っぽいインリーに、だから心配なんだ!と心の中で声を揃えていた。

 そこへ、暖炉の上のドールハウスから、ハルが慌てた様子で飛び出してきた。

『ちょっと!ここでそんな話、すぐにやめて!』

ソファーにいた皆は、ハルの剣幕に驚いていた。ハルは、ノインを睨んだ。

『ノイン!リティルは昨日シェラの――』

「朝っぱらから、何揉めてるんだよ?」

白い扉を開けて、リティルが応接間に姿を現した。

昨日はシェラの所で寝たのか!と、皆、今の会話を聞かれていなかったかと、恐る恐るリティルの様子を窺った。そもそも、この部屋でリティルに聞かれたくない話をすること自体、間違っているのだ。リティルは、この部屋を拠点に動いているのだから。

やっとノインは、ハルの怒りの意味を知った。リティルが、花の姫の寝所にいることを知っていたハルは、彼の心にいきなり波風立てないように守ろうとしたのだ。

「お、お父さん!」

インリーは悪巧みを聞かれてしまったような心持ちになって、思わず立ち上がっていた。

「いっそのこと、お父さんが行けばいい」

カルシエーナがとんでもないことを言い出した。

「カ、カルシー、ダメだよ!そんなこと……」

インリーは慌てて、ソファーの後ろに立っていたカルシエーナを窘めた。

「ん?オレがどうしたんだ?」

「インリーが、風の城襲撃事件のことで、忘れている事があるような気がするから、レジーナに会いに行きたいと、そう言っているの」

カルシエーナの言葉に、リティルの瞳が鋭くなった。それを見たインリーはドキリとして、ハラハラした。

「忘れてること?」

父の窺うような瞳が怖い。何も悪いことはしていないのに、なぜか罪悪感があった。

「あ、あのね、黙ってたわけじゃなくて、何か違和感があって、気を失った時に忘れちゃったのかもって……ご、ごめんなさい!今更……」

インリーは手をもじもじと揉みながら、悪いことをした子供のように俯いてしまった。

「お父さんが行って判断した方が早いと、わたしは思う。いっそのこと、インリーだけじゃなく、レイシ、お母さん、フツ、ハルの記憶も見ればいい。お父さんが見るなら、誰も文句ないでしょう?」

カルシエーナの提案に、皆固唾を呑んでリティルに注目していた。

「……その手があったか。どうして、今まで気がつかなかったんだろうな?」

「気がついてもよぉ、誰がおめぇに言えるんだよ?忘れたんかぁ?おめぇ、兄ちゃんとノインを、怒りにまかせて切り刻んだんだぜぇ?四人分の記憶に耐えられるんかぁ?」

立ち上がったケルゥが、ソファーの後ろに立ったリティルに、覆い被さるように迫った。

あの時、金色のツバメに呼び戻されたケルゥとカルシエーナは、慌てて風の城へ取って帰した。仕事中にメッセンジャーであるツバメがくることは、ほぼ無いに等しい。しかも呼び戻されるなどということは、皆無だ。城に何かあったことだけわかったケルゥの、その時の心情足るや、言葉では言い表せない。

帰った二人を待っていたのは、血まみれの風三人と、背中をバッサリ斬られたインリー、外傷はないがまったく起きないレイシの、変わり果てた家族の姿だった。ハルから顛末を聞き、再生の力を使って皆の傷を治したが、シェラの傷だけは治せなかった。ケルゥには、死に直結した傷は治せないのだ。

そんな怪我をも癒してしまうのは、神樹の花の精霊である姫達だけだ。しかし、大半の力を失っているハルにはその力はなかった。そのことが歯痒いのか、ハルは毎日せっせとシェラの寝所と温室の花の世話をしていた。

「ケルゥ、今日暇だよな?オレと行ってくれよ」

リティルは普段どおりの顔で、アッケラカンと言った。

「おめぇよぉ」

さすがにケルゥも呆れて、乱暴に白い短い髪の頭を掻いた。何のためについてこいと言われているのか、ケルゥにはわかったからだ。

「オレが暴走しても、おまえなら一撃で止められるだろ?大丈夫だ。もう、暴走しねーよ」

保険だよと言ってリティルは笑った。ケルゥは、ジイッとそんなリティルの金色の瞳を見下ろしていた。

「おめぇが言うなら、オレ様付き合ってやるけどよぉ。どうするよぉ?兄ちゃん」

ケルゥが視線を上げた。皆が一斉にインファに注目した。いつからいたのか、インファは腕を組み険しい顔をしていた。その肩には、ハルが乗っていた。どうやらハルが、インファを呼んだらしい。

「あのとき、切り刻まれた身としては、苦言を呈したいですね。あなたが万年桜の園で暴走したら、レジーナは死にますよ?彼女が不死身だとしても、身勝手に危険にさらしていいんですか?」

「インファ、一緒に潜ってくれよ。おまえがいたら安心だぜ」

思わぬ提案に、皆驚いた。

「はあ……父さん、城をどうするんですか?ノインは帰ったばかりですよ?ここで主力が三人も抜けてしまったら、誰が城を守るんですか?わかりました。オレが行きます。インリーもそれでいいですね?」

インファに言われては引き下がるしかないインリーだったが、皆に子供扱いされていることが今日は我慢ならない。

「お兄ちゃん!わたしも行く!絶対行く~!」

ガバッとインリーはインファに飛び掛かり、押し倒す勢いで抱きついた。いつぞやこんな子供っぽいことをされたことのなかったインファは、大いに振り回されていた。

「止めなさいインリナス!怒りますよ?」

取っ組み合いになりそうな二人を、リティルはおまえらの小さい頃を思い出すなと言って、笑っていた。誰かの腹を借りて生まれてくる純血二世の精霊は、十二年で一人前になる。三年後に生まれたインリーと、その頃すでに十二才くらいの外見に育っていたインファが、取っ組み合いの兄妹喧嘩をしたことなどないが、インファはよくインリーを抱っこしてやっていた。

「いい機会だろ?連れて行けよインファ。ああ、そうだ。ついでにレジーナに言付け頼むぜ?」

そういうとリティルはツバメを手の平に作り出し、インファの上に放った。

「仰せの、ままに!離れなさい、インリー!」

インファはやっと妹を引き離すと、片手を胸に王に一礼した。インファの上を旋回していたツバメは、やっと肩に舞い降りた。

「行きますよ、インリー」

「はーい!お父さん、ありがとう!」

ルンルンと喜びながら、疲れ顔の兄の後にインリーはついていった。

 ケルゥはそれを見送ると、リティルに向き直った。その瞳が少し怒っていた。

「おめぇ、吹っ切れすぎだろう?それとも、兄ちゃんが行くように仕向けやがったのかぁ?」

リティルはうーん唸って苦笑した。

「そんなつもりはねーんだけどな。まあ、あいつかノインが適任だよな。オレだとおまえら全員で反対するだろ?」

カルシエーナ以外の全員が一斉に頷いた。ノインはハルを手伝って紅茶を入れ、リティルに手渡しながら言った。

「一人で抱えることはない。シェラを目覚めさせたいのは、皆同じだ」

「ありがとな、ノイン。でもな、もう大丈夫なんだぜ?ずっと気になってるんだ。攻撃が跳ね返ってきたとしても、あのシェラが簡単にやられるなんて今でも信じられねーよ」

リティルは紅茶に視線を落とした。赤茶色の液体の中に、同じ色の瞳をした彼女の微笑みが見える。この紅茶と同じ香りのした、愛しい人。戦姫と呼ばれるほど勇ましい彼女は、攻守ともにバランスが取れていた。

前幻夢帝・ガルビークとの一件で、シェラは風の城の守りを強化していた。そして、リティルと一緒に仕事に行くようにもなっていたため、実戦経験も豊富だった。それは、インファとノインが、王の代理を務めることができるようになったからだった。二人は理由を聞かずに、シェラの不在時にはレイシを秘密裏に守ってくれた為、外に出られるようになったのだ。

「だな。ちっこい虫も悲鳴上げながら一撃で射抜けるシェラが、跳ね返ってくる矢を打ち落せねぇわけねぇわなぁ」

「虫?」

リティルは知らなかったようで、何のことだとケルゥを見上げた。

「おうよ、これくらいの黒い虫。シェラ、あれが大の苦手でよぉ。あれが出ると大騒ぎだぜぇ?へへ、そういやぁ、おめぇの前では取り繕ってたなぁ。なんでかなぁ?」

思い出したように凶悪に笑ったケルゥは、首を傾げた。

きゃあ!と悲鳴を上げながら、逃げずに立ち向かうシェラが、ケルゥは大好きだった。さすがに恥ずかしくて、母とは呼べないが、勇ましい我らが母だ。ケルゥも早く、シェラに会いたかった。

「リティルに無駄な殺生をさせないためだ。そういうところは、徹底していた。しかし、リティル、あのシェラを知らないのか……」

ノインも知っているらしく、喉の奥で笑っている。

あの虫には、ノインよりも早くシェラは気がつく。一度だけ、シェラは悲鳴を上げて隣に座っていたノインに抱きついた。抱きつかれたノインは、完全に不意をつかれ思わず声が出た。

――あ、ご、ごめんなさい。ノイン……リティルには内緒にしてね?

パッと体を離したシェラは、そういって恥ずかしそうに笑っていた。

可愛らしい風の王妃。殺伐とした日常に癒やしをくれる彼女を、ノインも早く目覚めさせ、リティルの隣に返してやりたかった。

「ああ、お母さんはあれが出ると、わたしの後ろに隠れるんだ。頼られて嬉しい。でも、あれを叩き潰したあとは髪の先を切らされるんだ。穢れも破壊するわたしの髪が、汚れることはないのに」

カルシエーナも知っていることに、リティルは素直に驚いた。リティルにもシェラに見せていない顔があるように、シェラにもあることがお互い様なのに、少し寂しい。

「なあ、そういやぁレイシはどうしたよぉ?」

ケルゥはキョロキョロと部屋を見回した。

「まだ寝てるんじゃねーか?」

「なんでぇあいつ、寝坊助だなぁ。最近ちょっと寝過ぎじゃねぇかぁ?影、薄くなってぇぞ?」

 この城で唯一手の汚れていないレイシ。

一見人間のようだが、年を取らないところをみると、精霊なのだろうなとは思っていた。フワフワとした柔らかい雰囲気で、インリーといつも一緒にいた。

養子だというのだから、風の王夫妻の血は流れていないのだろうなと、ケルゥは今までなんとなく彼の正体について、誰にも聞かなかった。

「あいつな、精霊と人間の混血なんだ。たぶん、力が覚醒し始めてる。ハル、レイシにあんまり近づくなよ?オレ達には超回復能力があるけどな、おまえには何もないからな」

リティルは何気ないことのように、そう言うと紅茶を飲んだ。

「混血精霊だぁ?リティルよぉ、なんで黙っていやがったぁ?兄ちゃんは知ってるんかぁ?」

「混血だってことはな。それ以上は言えねーんだ。悪いな」

レイシの正体は、風の城の七不思議の一つだった。リティルがわざわざ養子にし、親子関係を結んだ唯一の精霊。それがレイシだった。精霊は交わりによって増えていかない種族だ。故に、親子関係には疎い。精々慕われて、兄や姉と呼ばれるくらいだ。風の城は、そんな関係を結ばなくても、ケルゥやカルシエーナのように入り浸れば、それでもう家族だと呼んでしまうくらい、そもそも緩い城だ。

リティルは父親としての印象が強いのか、精霊達から慕われていたが、兄と呼ばれたことはなかった。

「親父……」

噂をすればと、リティルはレイシの声に反応して振り向いた。そして、その異様な光景に咄嗟に剣を抜くと、皆とレイシの間に立ちはだかった。

意識を保つのもやっという状態で、レイシは部屋の扉に寄り掛かっていた。その体から、揺らめく何かが立ち上っている。それは、リティルが一度だけ見た、忘れもしないモノの形をしていた。


 バードバスに固定されたルキルースへの扉は、幻夢帝の居城である断崖の城直通だった。

玉座の間に出ると、ボンヤリと日が差していた。この城にはルキルースで唯一、太陽の出ている場所だ。白夜と呼ばれる夜の中にあった。

「インファ?珍しい者を連れているね」

羊を模した玉座に、ダラリと寝そべって腕で頭を支えていた少年が、油断ならない紫色の瞳でこちらを見ていた。

黒猫の耳と尾を持つ、二代目幻夢帝・ルキだ。

「ルキ、お久しぶりです。今日は、レジーナのところに行くんです」

「レジーナ?ふーん、やっとリティルは重い腰をあげたんだね」

ルキは気怠げに目を細めると、ふわりと玉座を飛び降りてきた。黒く長い毛に覆われた猫の尻尾が、空間を舐めるように動いていた。

「風の城襲撃事件。だよね?」

玉座以外何もない四角い部屋には、玉座から一直線に、部屋外へ続くアーチへ向かい、瑠璃色の帯状の絨毯が敷かれていた。

「知っているんですか?」

「もちろん。くるのが遅いくらいだね。それとも、今まで誰も気がつかなかった?」

ルキはニヤリと瞳を歪ませて、インファを見た。

「襲撃事件の犯人を知ったら、リティルはどうするんだろうね?インファ、くれぐれもリティルに隠し事はしないようにね。それから、困ったらおいで。ボクはいつでも、協力してあげるよ?」

フフフフと不安になるような笑みを浮かべながら、ルキはスッと何もない空間を指さした。グニャリと空間が歪み、闇の扉が開いた。中から微かに桜の香りがする。記憶の精霊・レジナリネイのいる、万年桜の園へ扉を開いてくれたのだ。

「助力ありがとうございます。では、また」

インファはルキに一礼すると、扉を潜っていった。そんな兄の後を追い、インリーも慌ててお辞儀すると扉を潜った。

「……気に入らないね……守られているくせに、リティルとシェラを傷付けたあげく、引き離すなんて」

ルキは、襲撃事件のあと風の城へ行った。シェラが射抜かれて封印結晶に閉じこめられたとき、レジーナは微睡みの中で悲鳴を上げた。その声で、ルキは風の城に、何か大変なことが起こったことを知った。リティルに入れ込んでいるレジーナを宥め、落ち着いたところを見計らって風の城を見舞った。風の城の面々はボロボロで、風の三人は使い物にならなかった。三人の中で一番最初に目覚めたのは、意外にもリティルで、ルキはリティルの瞳を見たとき、風の王は終わったかもしれないと思った。

あれだけ揺るぎなく生き生きしていた瞳が、混沌と狂気をない交ぜにして、哀しみがなんとか正気を保っていた。それが、よく戻ってきたと思う。本当によかった。

「リティルの息子でなかったら、ボクが八つ裂きにしてるところだよ」

そう言ってルキは、ニュウッと鋭く爪を伸ばしそれをペロリと舐めた。

ルキは、前王であるガルビークに、安らぎを与えて解放したリティルに、恩を感じていた。彼の協力精霊を買って出たのには、そういう理由があったのだった。


 万年桜の園は、桜色に煙りハラハラと舞い散る花びらに、ひっそりとしていた。

「こんばんは、レジーナ」

「……インファ」

桜の巨木の中腹に浮かんで眠っていたレジーナは、インファの声に目を覚まして微睡んだ瞳のままフワリと近づいてきた。黒い振り袖の袖と、彼女の身長よりも長い黒髪が、インファ達の視界から、一瞬桜の姿を遮った。そして、彼の後ろにいたインリーを見つけると、ジイッと見つめた。

「風の踊り子、インリナス、踊る風の、名を、持つ、風の王の娘」

「レジーナ、父さんから伝言ですよ」

リティルからと聞いて、レジーナの雰囲気が柔らかくなった。金色のツバメがレジーナに飛ぶと、鳥はフワリとほどけて消えてなくなった。

「リティル、レジーナ、わかった。レイシのこと、言わない」

レジーナは頷くと、インファとインリーに視線を合わせた。

インファは、リティルがレジーナに、レイシのことを言わないように手を回したことに驚いた。そこまでして、知らせないとは本当に彼は何者なのだろうか。

 レイシが来た日のことを、インファは覚えている。まだ、立つこともできない赤子だった。当時、十二才くらいまで育っていたインファは、リティルに人間の子供か?と問うた。それほど、レイシからは精霊の力を感じなかったのだ。

――いや、混血精霊だぜ?インファ、今日からおまえの弟だ。レイシを守ってやってくれよ?

その言葉を守り、インファは城から出られないレイシを、これまで守ってきた。強い兄貴のようになりたいと、可愛いことをいう無邪気な弟。リティルから風の王夫妻の子ではないと告げられ、隠れて、みんなのような翼がほしいと泣いていたレイシを、インファは慰めることしかできなかった。

未だに、何の力も発現しないレイシを、本当に精霊なのか?とも思っていた。力さえ発現してくれれば、父に憧れながら、力がないために近寄れずにいるレイシを、鍛えて父のそばに行かせてやれるのにと思っていた。

「レジーナに、聞きたい?」

「ええ、風の城襲撃事件のことを見せてほしいんです。インリー、シェラ、フツノミタマ、レイシ、ハルの記憶を見せてください」

あの日は、ピアノを弾くシェラのそばにハルとレイシと三人でいた。と、インリーは思い出す。

そこへ、何となく会いに来たと、普段は剣狼の谷いるフツノミタマがやってきた──

 インリーは、いつの間にかピアノホールに立っていた。その隣に現れた気配に、インリーは思わず見上げた。隣に立ったインファは唇の前に人差し指を立て、静かにと言葉なく言った。

ドーム状の天井の中心には、花と戯れる大鷹が描かれたステンドグラスが嵌まり、同心円に組まれた真っ白な木の床に、日の光で絵を描いていた。天井のステンドグラスを中心に、曲線を描くアーチとの格間には、白い石で作られた風の王の両翼の鳥である、孔雀のインサーリーズと梟のインスレイズの彫刻が交互に並んでいた。

円筒形の壁には等間隔に柱が並び、ジャスミンの花の蔓が絡まる彫刻が施されていた。柱の間にある丸窓は、十字に格子があるだけでシンプルだった。

グランドピアノがおかれているだけのこの部屋に、今はもう出入りする者はいない。今は、閉ざされた部屋。インリーもピアノは弾けるが、この部屋に入ると母を思い出してしまうためにあの日以来入っていなかった。

 今インリーの目の前で、会うことのできなくなってしまったシェラが、楽しそうにピアノを弾いていた。

シェラの弾く風の奏でる歌……自分の演奏で歌うその声……今は聞けないその歌に、インリーは思わず泣き出していた。今はか細く、白い扉の奥から父の奏でる笛の音が時折聞こえるのみだ。その音が、寂しそうで哀しそうで、けれども優しくて愛しくて、胸が締め付けられる。

誰が、この幸せを壊したの?怒りと憎しみと哀しみで、我を失って力を暴走させた父を、誰が責められる?他の精霊達は冷たい。どうしようもなく癒えない傷を抱えたまま、それでも闘う父を、セクルースの精霊達は恐れ、猛風鬼神だなどと呼んだ。

猛風鬼神──初代風の王と同じ異名だ。許せないと思いながら、憤るインリーを風三人のみならず、ケルゥまでもが止めた。言いたい奴には言わせておけと。

ノインのおかげで、父は再び前をむいたが、相変わらずその背中には痛々しさがあった。

 あのとき、敵はどこから現れたのだろうか。わたし達は何と闘っていたのだろうか。

母のピアノを聞いていたレイシが、不意に立ち上がった。それに、記憶の中のインリーは気がつかなかった。そしてレイシは、なぜか二、三歩後ろに蹌踉めいた。様に見えた。

『インリー!』

フツノミタマの叫び。これは記憶にある。インリーはフツノミタマに突き飛ばされ、彼女のふさふさの背に庇われていた。背後で、シェラの立ち上がる気配がした。ハルはシェラによってグランドピアノの中に隠された。

二人と一頭の前に、焦点の合わない瞳のレイシがボンヤリ立っていた。その体から、何かが立ち上った。

「え?あの靄……」

インリーはその光景を動揺して見ていた。あの靄だ。あの靄がシェラを殺したのだ。しかし、あれは今、どこから出てきた?あのとき、あの靄はレイシに取り憑いているように見えていたのに。

「レイシ……」

母の憂いを帯びたつぶやきに、記憶の中のインリーは弾かれたようにレイシに突進していた。陽炎のようにユラユラして、辺りの景色をバラバラに映す変な靄から、レイシを救いたかった。レイシに体当たりして、二人して床に転がる。すぐさま顔を上げたインリーは、靄がレイシから離れたことを確認した。辺りの景色をバラバラに映していた靄は、レイシを庇って片膝を付くインリーを映していた。気味が悪かった。インリーは両手に剣を抜くと、鏡のような靄に斬りかかっていた。くるりと回転して切りつける。切った感触は確かにあった。

「え?」

インリーはいつ攻撃されたのかわからなかった。背中が裂け、赤く熱い液体が弾けるように噴き出したのがわかった。

『インリー!』

痛みに床に落ちたインリーに、フツノミタマが靄の下を駆け抜けて来てくれた。インリーは、壁際に倒れたレイシを守らなければと手を伸ばした。届かなくて、何とか彼の所まで這っていきそこで意識が途切れてしまった。

シェラは靄を迂回しながら、弓を引く。そして放った。

鏡のような靄は、矢を放つシェラと、別の面にはインリーとレイシを庇い立つ、フツノミタマを映していた。

シェラの矢は、そこに映っていた自分の胸に吸い込まれるように突き刺さった。

そして、矢を放ったシェラの胸にも同じ矢が刺さっていた。シェラに矢が刺さるのと同時に、フツノミタマの体も矢に貫かれていた。

「シェラ!シェラーーーーー!」

息を切らせて辿りついたリティルの声がこだました。その声に、シェラは倒れながらリティルを振り向いていた。ここにリティルがいることが信じられないように、その瞳は僅かに見開かれていた。鋭く飛んだリティルは、シェラの体を抱き留めていた。そして膝を折ったリティルは、靄を睨むと低くつぶやくように言葉を発する。

「失せろ」

リティルから放たれた風が、靄を消し飛ばしていた──

「お兄ちゃん!今の……今の……」

 記憶の旅から戻ってきたインリーは、隣に座る兄の腕を強く掴んでいた。今見たことが信じられないという思いと、早く帰って皆に知らせなければという気持ちで、混乱していた。

「……城に戻りましょう。レジーナ、すみません、今日はこれで帰ります。ありがとうございました」

インファは立ち上がると、レジーナに礼を言った。

「またね、インファ、インリー」

レジーナは微睡んだ瞳を僅かに歪ませて、小さく微笑むと、片手を伸ばして桜の花を掴んだ。そして、手の平に乗せた花びらを、フウッと吹いた。花びらは風の兄妹の後ろへハラハラと飛び、風の城への扉を開いてくれた。

「ありがとうございます!」

インファは動揺の止まらないインリーの手を掴むと、扉を潜った。

インファの脳裏に、眠そうな弟の姿が浮かんでいた。何もしていないのに眠くて、ごめんと申し訳なさそうにしていた。

――みんな大変なときに、ごめん。なんか、最近凄く眠くて

レイシが眠いと言い出したのは、いつからだったろう。最近、レイシと顔を合わせていただろうか。父を守ることに目を向けすぎて、レイシの変調に気がつかなかった。

強烈な眠気。あれは、霊力の目覚めの兆候だ!インファは、レイシが誰の子であるのか、リティルの口を割らせなかったことを後悔した。レイシの精霊の部分が誰であるのか知っていたら、知っていたなら、防げた悲劇だった。オレなら!絶対に防いだ!と、多忙な父に代わり弟たちを預かるインファは、自分自身に怒りを感じていた。

――レイシ……!すみません。あなたを、守れなくて!

インファは風の城へ急いだ。


 風の城の応接間に現れたレイシは、襲ってくる眠気と闘っているようだった。

剣を構えたリティルは感情と闘っていた。

「親父……」

レイシはリティルに助けを求めていた。レイシは血のつながりはなくとも、リティルにとっては愛すべき息子だった。

だが、彼から立ち上っているモノは……あれは、あれは、シェラを殺したモノだ。

忘れられない。最後の瞬間まで、リティルの姿を見ていたいというように、必死に開かれた紅茶色の瞳。そっと、頬に伸ばしてくれた手。愛しているの言葉。苦しいはずなのに、痛いはずなのに、死に逝くシェラは、リティルの事しか見えていなかった。

シェラをこんな目に合わせた者を、八つ裂きにしてやりたかった。殺してやりたかった。怒りと憎しみで、目の前が真っ赤に染まった。リティルは、自分の中にこんな激情があるなんて、知らなかった。

許せない……リティルが風の王だったために、シェラはリティルに助けを求められなかった。風の王の妻として、自分の死を認め逝くことしか選択できなかったのだ。

フツノミタマが封じてくれなかったら、リティルは永遠にシェラを失っていた。

「あれが例の賊か」

「へっ!鏡みてぇだなぁ。ありゃぁ、やばいぜぇ?」

動けないリティルの前に、ノインとケルゥが割って入った。二人の声で、リティルは我に返った。

「ノイン!ケルゥ!」

「なんて目をしている。おまえは下がれ。ここは我々に任せろ」

ノインは、リティルを振り返らずにそう言った。

「さあてぇ、どうするよぉ?ノイン様?」

ケルゥはパシッと自分の拳を手の平で受け、凶悪に笑った。

「とりあえず、レイシには眠ってもらう」

「眠らせればいいのか?わたしに任せて」

ゆっくりとした足取りで、カルシエーナはノインの隣に並んだ。そして、何もない手の平を皿のように口元に宛がうと、フウッと手の平を吹いた。彼女の手の平から、幻夢の霧が発生し、レイシを包み込んだ。眠りの霧に抗う術はなく、レイシはその場に頽れて動かなくなった。

靄はキラキラと辺りの景色を映しながら、レイシの体を離れた。仕掛けてくる気配はないが、暗い中に自分の姿が映っている様は、見ていて気持ちの良いモノではなかった。

「軽く仕掛けてみっかぁ?」

ケルゥは腕を黒犬のそれに変化させると、靄に向かって踏み切ろうとした。

「ケルゥ、おすわり!」

「ぶっ!そりゃないぜぇ、兄ちゃん!」

出鼻を挫かれて、ケルゥは床に盛大に転がった。声はルキルースにいるはずのインファだった。リティルの隣の空間から走り出たインファは、立ちはだかる二人に叫んでいた。

「それに物理的な攻撃をしてはいけません!すべて自身に跳ね返ります。父さん、あのとき何をしました?」

「何って……風をぶつけただけだぜ?」

「それだけか?ずいぶん脆い」

ノインは靄を睨むと、その眼力だけで風を操った。リティルの言った通り、靄は消し飛んでいた。

「父さん、オレ達は家族です!話してくれませんか?レイシは何者なんですか?教えてくれなければ、守れませんよ?」

肩を掴み放さない息子を、リティルは弱々しく見上げた。そして、力なく溜息をついた。

 風の城を襲撃したのが、レイシだったとわかった今、もう黙っていることはできない。レイシの霊力は暴走し始めている。シェラのいない今、リティル一人では、もうどうすることもできないところまできていた。風の城の皆の力を借りなければ、レイシをも失ってしまうかもしれない。

 リティルは、倒れている自分よりも背の高い息子を抱き上げると、ケルゥが引っ張ってきてくれたソファーに寝かせた。

「カルシー、起こしてくれ」

「いいの?レイシには、かなり酷だと思うけど?」

「自分のしでかしたことだ。向き合わなくちゃいけねーだろ?」

「本当に、レイシなの?本当に?」

インリーは顔を覆って泣き出した。そっと肩に触れてくれたインファの胸に、飛び込み悔しそうに奥歯を噛んだ。そんな妹を、インファはそっと抱きしめた。

「起・き・ろ!」

カルシエーナはレイシの肩を揺さぶりながら、そう声をかけた。あ、それでいいのか?と皆思いながら見守っていた。

「う……親父……オレ……」

レイシは唸ると、思いの外すぐに目を覚ました。

「大丈夫か?」

リティルはレイシの手を握った。

「うん……」

「今からおまえに、突きつけなくちゃならない現実がある。最後までオレの話、聞けるか?」

体を半分起こしたレイシの顔を、リティルは両手で包むと息子の紫色の瞳を見つめた。レイシは戸惑いながらも、父の揺るがない燃えるような光の躍る瞳を見返しながら、頷くしかなかった。

「レイシ、おまえはオレとシェラの本当の子供じゃねーこと知ってるな?」

レイシの顔から手を放したリティルは、確かめるように尋ねた。レイシはソファーにきちんと座りながら目を瞬いた。

「え?もちろん。だって、オレ、風の精霊じゃないから」

物心ついたとき、両親はきちんと話してくれたから、とっくに知っていた。

あの時、皆と同じ翼がほしいと、インファに泣きついて困らせたことが、苦々しく蘇った。

リティルはレイシの前に立ち上がった。そして、息子を見下ろして言った。

「おまえはな、レイシ、精霊王・シュレイクの息子だ」

え?

「精霊王?え?えっと……ちょっと待ってよ……え?オレって、精霊と人間の混血だよね?精霊王と人間?」

精霊王……太陽を司るセクルースの王。そんな、強大な力を持った精霊の息子だったとはと、インファは奥歯を噛んだ。もっと早く、こうなる前に知っていたら、レイシを傷つけることはさせなかったのにと、悔やんだ。霊力の発現に伴う暴走は、純血二世や混血精霊ではある程度仕方がない。インリーはそうでもなかったが、インファは特に酷くて、力を制御できるようになるまでに、何度リティルを切り刻んだかしれない。その経験があるからこそ、インファにはレイシを守れた可能性があった。あまりに、レイシが人間だった為に、インファも見誤ってしまった。

「そうだ。オレはおまえの母親から、おまえを奪ったんだ」

リティルの瞳に、何の感情も浮かんではいなかった。

「なんで……親父が引き取ることに?」

「ただ生まれてきただけで、殺されてたまるかよ!子供はな、親を選べねーんだぜ?」

「オレ、殺されるところだったんだ……」

レイシはリティルの顔を見上げたまま、つぶやくように言葉を紡いだ。

「殺そうとしたのは精霊王だ。あのとき、おまえを殺しに来た有限の星とオレは取引した。あいつの頼み事を断らねーことを条件に、おまえを死んだことにしてもらったんだよ。精霊王のことだ、とっくにばれてるかもしれねーけどな。得体の知れねー我らが王様だよ」

どこから、秘密が漏れるかわからない状況だった。レイシがこの城に来たとき、インファはまだ生まれて三年、インリーは一年に満たなかった。リティルとシェラは守る為に、口を閉ざすしかなかった。精霊王に攻められれば、風の城など簡単に滅びる。だから、誰にも言えなかったのだ。

リティルは、息子の瞳をジッと見つめ、両肩に手を置いた。

「レイシ、おまえの霊力は暴走してる。一年前、おまえの暴走した霊力と対峙したシェラは、力を見誤っちまった」

レイシの瞳が、ゆっくりと大きく見開かれた。リティルのレイシの肩に置いた手に、彼の震えが伝わってきた。それでも、レイシは知らなければならない。

思えば、シェラは知っていた。リティルが駆けつけて、シェラを抱き留めたとき、彼女は必死に何かを伝えようとしていた。あれはレイシだ。レイシの力なのだと、リティルに伝えようとしていたのだ。けれども、心臓を貫かれた痛みに声を奪われ、伝えられなかった。

レイシは、恐れに動揺していた。

母さんが力を見誤った?オレの力が暴走してる?レイシは、苦しそうに見下ろす父の金色の瞳を見つめながら、続く言葉を恐れていた。

嫌だ……嫌だ……!聞きたくない……!言わないで!と叫びたかった。耳を塞いで、逃げ出したかった。


「風の城襲撃事件、犯人はおまえなんだよ。レイシ」


すべてがスウッと冷えていった。寒くて寒くて体が震える。嘘だよね?と問いたかった。真っ直ぐ見つめて瞳を逸らさない父から、目をそむけたかった。でも、吸い込まれそうな金色の瞳に釘付けで、そらすことさえ許されなかった。

父は風の王だ。時に残酷に、現実を突きつけて選択を迫る。

受け入れろというの?こんな現実を?レイシはゆっくりと首を横に振った。

「オレが……母さんを……?親父……オレ……オレが……?」

泣く資格なんかないのに、閉じることも許されない瞳から涙が流れた。

ステンドグラスの色とりどりの光の降る中、楽しそうにピアノを弾いていた母の姿が脳裏に浮かんだ。リティルに届くといいと言って、笑っていた。その母を、この体に眠る力は殺してしまった。殺──し──て……

「あ……あ……ああああああああ!母さん!……うあああああああああああ!」

冷たい結晶の中で眠る母。見えないが、その心臓には未だ矢が刺さったままだ。抜けばすぐに死んでしまうその矢を、リティルは抜いてやる事ができなかった。

白い扉の中、レイシは、母の前に頽れる父の姿を見たことがある。目覚めさせる術を見つけられずに、自分を責めるリティルの後ろ姿。声もかけられず、その場も去れないレイシの代わりに、気がついたインファがそっと扉を閉めた。

リティルを定期的に襲う無力感と焦り。父は、何度も何度も、触れることさえできない母の前で泣いているのだと、レイシは思った。それでも立ち上がり、必ず目覚めさせると誓い続ける父を、レイシは心配していた。

それなのに……父に決して癒えない傷を与え続けているのが、自分だったなんて!レイシは、こんな事実を知っても壊れない自分の心が不思議だった。

「レイシ!おまえのせいじゃねーよ!おまえの霊力が高まってるのを見過ごしたオレの、オレの責任なんだ!父さんが悪いんだよ。レイシ!」

言葉にならない叫びを上げて泣きじゃくるレイシを、リティルは抱きしめた。暴れる息子の体を、ここに縛り付けるように強く、リティルは抱きしめた。

「レイシ、ごめんな……」

耳元で、血を吐くような父の声がする。どうして謝るの?レイシはわからなくて、抱きしめてくれているその温もりさえ、そんな資格ないと拒絶したかった。どんなに暴れても、小柄な父のその体を引き離せなかった。

やめて!やめてよ親父!母さんをあんなふうにしたオレを憎んでるはずなのに!レイシは瞳を閉じると、さらに暴れた。そんな息子を、リティルは強く強く抱きしめ続けた。

 立ち上がったカルシエーナが、幻夢の霧を使いレイシを唐突に眠らせてしまうまで、二人の攻防は続いた。

「ごめん。見るに堪えなかった。これ以上レイシが壊れても困るし」

カルシエーナは、リティルの腕の中で意識を失ったレイシの頭を撫でた。まだ、涙は止まらないようで、ポタポタとリティルの肩を濡らしていた。

「レイシは、精霊王の息子なの?そんなに強くは見えない」

「君も初めはそうだったぜ?カルシー。覚醒しねーと、こんなものなんだよ。レイシの中にある人間の血が、邪魔してたんだよ。いや、守ってたのか?精霊として覚醒するまでに二百年かかっちまった。オレもシェラも油断してたんだ」

「ずっと、何の精霊なのかと思っていました。レイシからは精霊の力を感じませんでした。本当に精霊なのかと思っていたくらいです。しかし、精霊として覚醒したのならこっちのものです。目が覚めたら修業してもらいます」

それを聞いたケルゥが息を飲んだ。そして、心なしか顔色が悪い。

「兄ちゃんの……地獄の特訓……」

「地獄の特訓?楽しそうだな。わたしもやりたい」

身震いする恋人を尻目に、カルシエーナは楽しそうに目を輝かせた。

「レイシのためにも、早くシェラを目覚めさせねーとな」

リティルはずっと、レイシを抱きしめたままだった。

「そういえば、幻夢帝が何か知っていそうでしたよ?彼はとっくに、事件の事を知っていたようでした。それから、困ったら来いとのことです」

「そっか。あいつ、調べてくれてたんだな?」

リティルはレイシの体を、ソファーに横たえた。今、レイシを眠っているからと一人にすることはできない。レイシの瞳から、滲み出るように涙が流れ落ちていた。リティルはその場に座り込むと、レイシの手を握った。

「父さん、なぜそんなに気に入られているんですか?」

ルキ誕生の瞬間に眠っていたインファは、二代目幻夢帝がどう目覚めたのかを知らなかった。ガルビークとの戦いの後、二ヶ月眠り続けて目覚めたインファは、当然のようにこの城に出入りしている、猫耳の少年に驚いたものだ。誰だと問う前に、ルキは自ら新しい幻夢帝だと名乗りに来た。そして、右腕を斬り落としてゴメンと謝られた。

「ん?ルキにか?あいつは、ガルビークの生まれ変わりなんだ。姿形は大分違うけどな。あいつがオレを気に入ってるなら、それだけガルビークが納得してくれたってことなんだろうな」

「あの人は、表情と心が別物なのでどう受け取っていいのか迷います」

「悪夢の王だからな。でもなあ、あいつ、言葉の通りだと思うぜ?オレにとっては、精霊王の方が得たいが知れねーよ」

「それは、レイシの件があるからではないですか?今の父さんは、セクルースよりもルキルースに近いですし。といっても、オレは精霊王に会ったことはありませんけどね」

『たしかにリティルはルキルースに近いわよね。まるでルディルみたいよ?猛風鬼神なんて、呼ばれちゃうし……わたし、ちょっと心配よ』

ハルがちょこんと、リティルの肩に飛び乗ってきた。

初代風の王・ルディル。ルキの先代であるガルビークと仲がよかった。そして、ルディルも精霊王とは希薄な関係だった。

ルディルは、ガルビークは好きだが、シュレイクは好かんと言い切っていた。それはなぜなのか、問わなかったハルにはわからない。わからないが、自分の子供を殺そうとするような人と、ルディルが友達になれるとはハルにも思えなかった。

「ハル……精霊王に会ったことあるか?」

そう問うリティルは、当たり前だが会ったことがあった。しかし、回数は少ない。普段は彼の守護精霊である、力の精霊・有限の星が窓口として働いていることもあった。

『もちろんあるわ。でも、ルディルはシュレイクのこと、苦手みたいだった。ガルビークと双子なのにね』

「双子なのか?あんまり似た印象はねーな」

『嘘?顔、そっくりよ?でもそうね、同じなのは外見だけかも。ねえ、レイシは本当にシュレイクの息子なの?』

「ああ。なんだよ?疑う理由があるのかよ?」

『シュレイクが誰かを愛するとは思えなくて……』

シュレイクの冷めた瞳が思い出されていた。ルディルについていった時、あまりいい視線を向けられなかった。なんだか、傲慢な男だ。そう思った。

「遊びだったんだろ?人間がすぐ孕むのを知らなくて、それで焦ったんじゃねーのか?混血精霊の末路は、どれもこれも救いようがねーんだ。人間にだけは、手を出してほしくねーよ」

吐き捨てるように言ったリティルの様子に、ハルは、彼がレイシ以外の混血精霊と関わりを持ったことがあることを知った。そして、そのすべてを斬ってきたことも。

「レイシは絶対に守る。レイシの母親と約束したんだ……必ず守るから、オレにくれって言ってもらってきたんだ。インファ、レイシの力、あれは何だと思う?」

「まだ、力のことはわかりませんが、発現した魔法は、例えるなら蜃気楼だと思います。鏡のように映し、実体の虚像としてそこにある。蜃気楼を攻撃することは、実体を攻撃することと同義として働いていましたね。記憶の世界で見たんですよ。虚像の受けた攻撃が、実体に反映されていました」

「物理攻撃だけ反映されるのか?」

「どうでしょうね?試してみないことには、何とも言えませんね。ですが、かなり特殊ですよ。研究のしがいがあります」

インファは腕を組むと、やり甲斐がありそうだと口元に笑みを浮かべた。

「おまえ、優秀だよな」

「今更気がついたんですか?遅いですよ、父さん。ルキに会いに行きますか?」

「うーん、今レイシのそばを離れるわけにはいかねーからな。落ち着いたら行くさ」

幻夢帝を呼びつけるわけにもいかないと、リティルは苦笑した。

「ノイン、ケルゥ、カルシー、オレしばらく城を離れられねーから、頼むな」

「「「了解」」」

三人は息もぴったりで、頼もしく応えてくれた。

「リティル、しばらく休ませてもらう。報告書は鳩に渡しておく。後で目を通せ」

「ああ、ありがとな、ノイン。ゆっくり休んでくれよ。みんなもありがとな。何かあったら呼ぶから適当にしててくれ」

皆は、各々応接間を出て行った。


 リティルは皆の背中を見送ると、眠るレイシに視線を合わせた。眠りながら泣くその姿に、出会った頃、シェラをこんな風に傷付けて泣かせたことが思い出された。

あの時はまだ、先代風の王であるインがリティルの心に存在していた時期で、涙を止めてやれと言われて怒られた。リティルは、現実を容赦なく突きつけてしまう。もう少し、優しいやり方があるのだろうが、リティルにはこういうやり方しかできなかった。シェラだったら、もっと優しく伝えられたのだろうか。

シェラ……シェラに逢いたい。逢って、笑う彼女を抱きしめたい。たったそれだけで、救われるのに。哀しみも苦しみも、すべてが終わるのに……。

いや、今は自分のことよりレイシだろ!と、リティルはシェラの幻影を振り払った。

「お父さん……わたし……どうしたらいい?」

リティルの背後に、インリーがストンと座る気配がした。振り向こうとしたリティルの背中に、インリーは顔を埋めた。

「インリー……レイシが許せねーのか?」

「ずっと、ずっとね、お母さんをあんな風にした、キラキラのあれが許せなかった。絶対に許せない、今度会ったら負けないって思ってた。それなのに、レイシだったなんて……」

――オレも、今度会ったら殺してやるって思ってた

リティルの心に、フッと言えない想いが浮かんで消えた。

「なあ、インリー、インファとノインを切り刻んだオレの事、許せるか?」

「お父さんは傷ついて、我を失っただけだよ!許すも何もないよ」

インリーはガバッと顔を上げると、振り返らない父に叫んだ。

「どうして、オレを許せるんだよ?おまえ、インファとノインのこと好きじゃねーのか?」

「好きだよ、大好きだよ!でも、だからって──」

「ノインにな、あのあと、死を覚悟したって言われたんだ。オレを庇ったインファは、特に非道かったってケルゥにも言われた。二人に超回復能力がなかったら、二人はオレに殺されてたかもしれねーんだぜ?それでも、暴走したオレは許せるのか?」

「それは……」

インリーは言葉を詰まらせた。あのとき暴走した父の姿を、インリーは見ていない。目を覚ましたときには、兄もノインもケルゥに癒され普段どおりだった。インリーの知っている事実は、フツノミタマに封じられた母の姿だけだった。あの鏡のような魔物にやられたと、それだけがインリーの知っている事実だった。

「オレがおまえを城から出さねーのは、おまえが未熟だからじゃねーんだ。おまえの能力は、防御に特化してる。使い方しだいじゃ、シェラよりも上なんだぜ?その力で、レイシを守らせてたんだよ。レイシのことを話さずに、おまえに守ってもらう為に未熟者扱いして悪かったな。もう、レイシのお守りをしなくていい。おまえの嫌うあの能力を、レイシは高めて自分のモノにしなくちゃならないからな。そばに居るのが辛いなら、もういなくていいんだぜ?」

インリーの手の震えが、リティルの背中に伝わってきた。

「オレはレイシを導く。一人で歩けるように、してやらなくちゃならない。風の王としてじゃなく、父親としてな」

リティルはインリーに体ごと向き直った。そして、左右で違う彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「インリナス、今後風の騎士・ノインと共に任につけ。おまえを、レイシのお守り役から解放する。今まで、ありがとう」

「お父──さん……お父さん……!」

傷ついたインリーの瞳から涙が流れた。戸惑いと衝撃のごちゃ混ぜになった瞳で、インリーは言葉をそれ以上紡げずに手で口を覆った。

立ち上がったインリーは、ソファーで眠るレイシに無意識に視線を向けていた。

今まで信じていたモノが、音を立てて崩れ落ちていく。もう、わたしはレイシの隣にいられないの?レイシの隣が、わたしの居場所なのに!叫びたかった。だが、その場所を壊したのは、自分自身だった。レイシの力を許せないインリーは、そばにいてはいけなかった。

 レイシがこの城に来た日のことを覚えている。リティルの腕に抱かれた、まだ立つことさえできない赤子。それが、レイシだった。

──おまえより二日早く生まれてるから、レイシの方が兄貴だな

リティルに冗談めかして、そう言われた。すでに三歳児くらいまで成長していたインリーは、言われた意味がわからずにポカンとしながら、お兄ちゃんがもう一人できたんだと嬉しかった。

混血であるレイシは、純血二世の精霊よりも成長が遅かった。一人前になるはずの十二年を過ぎても、精霊としての力は発現せず、人間のように弱々しかった。けれども、そんなことどうでもよかった。インリーはいつしか、か弱いレイシを守れる自分が好きになっていた。レイシの隣こそが、自分の居場所だと確信していた。風の王の副官として父の隣に立てる兄を羨ましく思っていたインリーには、レイシという目的があることが嬉しかったのだ。

 こんな結末を望んではいなかった。ずっとレイシを守り、隣にいられると思っていた。この関係が、不変のモノだと思っていた。

母を傷付けたレイシの力が憎い……けれども、レイシを守りたい。こんな矛盾する心では、精霊として覚醒してしまったレイシを守れない。精霊王と同じ、太陽の力を操るレイシを、もう隠し通すことはできない。精霊王はまた、レイシを殺しに来るかもしれないのだ。

 心の整理がつけられずに部屋を飛びだしたインリーは、扉の前に立っていたインファにぶつかっていた。

「そろそろ、オレが必要ではないかと思いまして。インリー、少し話をしましょう」

柔らかく微笑むインファを見て、インリーは片づかない心のままホッとしていた。

「お兄ちゃ──うう……うわああん!」

倒れそうなインリーを支えながら、インファは応接間からそっと離れた。

 扉の外に、ずっとインファが待機していてくれていることを、リティルは気がついていた。時折、あいつの方が王に相応しいのではないかと思ってしまうことがある。そんなこと口が裂けても言えないが、インファは、リティルが波風を立て、それをあるべき場所に戻すことが自分の役目だと言っていた。インリーのことは、インファに任せよう。

 リティルは日の陰った応接間を、闇を纏った蝶が飛んでいる様を見た。

あれはルキルースの蝶だ。

「ルキ……来てくれたんだな……?」

リティルは襲ってきた眠気に意識をゆだね、眠りに落ちた。眠るレイシの手を固く握ったまま。

 入れ替わるように、レイシは目を覚ましていた。まだ昼間のはずなのに、とても暗い。ああ、日が陰っているのだとボンヤリ思った。寝転んだまま、気怠げに紫色の瞳を足の方に向けると、金色の頭が突っ伏しているのが見えた。

親父……?リティルだとわかった瞬間離れようとして、手を固く握られていることに気がついた。無理に放せば、起こしてしまう。レイシは観念したように、天井を見上げた。シャンデリアのそばに、何かがヒラヒラと飛んでいる。闇色に輝く蝶だ。幻夢蝶?

「シェラ……」

眠る父が、母の名を呼んだ。レイシはドキリとして、体を震えるのを感じた。

今でもリティルは、シェラを変わらず愛している。触れられない妻を想い、何度夢を見ているのだろうか。こんな風に、父と母を引き離してしまったのは、自分なのだと思うと、レイシは血が凍る思いがした。

「大丈夫……レイシは、オレが守るよ……」

なぜこんなことを言えるのだろうか。一番大事な人を、奪い取った相手に向かって。

血の繋がりのない、他人の子にどうして……。

キイッと小さな軋みを立てて、中庭に出るガラスの扉が開いた。体を越さず頭だけそちらに向けると、ソファーに遮られた向こうで扉が閉まる様が見えた。そして、黒い三角の耳がトコトコとソファーの向こうを移動していた。

「やっと知ったんだね?どう?今の気分は」

ソファーの影からやっと姿を現した幻夢帝・ルキは、フフフと優しさの欠片もない紫色の瞳をレイシに向けていた。

「リティルのお人好しは、話には聞いていたけど筋金入りだね。ボクの夢に偽りはいらない。リティルは本気で、シェラを殺した君を守るつもりだよ。まあ、シェラは生きているけれどね」

レイシは何も言えなかった。

「ボクはね、リティルとシェラを気に入っているんだ。ずっと仲良く生きてほしいんだ。その二人を脅かす者には、地獄の苦しみを見せちゃうよ?……冗談だよ。本気にとらないでほしいな。君、罰がほしいの?バカじゃないの?そんなことで、罪を償った気になってほしくないね。ほら、これあげるよ」

ルキはポンッと何かを投げて寄越した。片手をリティルに掴まれて動かせないレイシの腹の上に、それは落ちてきた。

「夜の欠片で作ったペンダント。それを身に付けておけば、もう太陽の力は暴走しないよ。けれどね、インファの地獄の特訓はちゃんとこなすんだよ?反省してるなら、ふさぎ込んでないで一端の精霊に早くなるんだね。逃げ出したら、今度こそボクが殺しちゃうからね」

じゃあねと、ルキは言いたいことだけ言って、さっさと中庭へ引き返して行ってしまった。

何だったんだ?と思えなくもなかったが、ルキがリティルを心配して様子を見に来たことだけはわかった。レイシは自由な左手で、ルキの投げて寄越したそれを拾い上げる。真っ黒で光を一切通さない石が革紐に通されていた。石は四面からなる柱状で両端が錐状に尖っていた。

「レイシ」

ボンヤリと、ルキのくれたペンダントの石を見ていたレイシは、父に名を呼ばれてビクリと身を震わせてしまった。父を怖がっていると取られてしまったかなと、レイシは慌てて顔を上げた。

「ルキが来てただろ?」

「も、もう、帰ったよ」

リティルは少し眠そうに、こちらを見ていた。レイシは、やっとそれだけ言った。

「大丈夫か?」

「うん……あ、あの……」

言葉が上手く出てこない。そんな余所余所しい息子の様子に、リティルは苦笑した。そして、寂しく、無理もないかと思った。

「レイシ、大丈夫だ。心配いらねーよ」

リティルは手を伸ばすと、レイシの手を掴んでいない方の手で息子の茶色い髪を撫でた。

へたしたら、レイシの手よりも小さな手なのに、温かく大きい。

「親父……ごめん──なさ……」

大事な人を奪われた傷は癒えないはずなのに、どうして父は、そんなに力強く微笑むことができるのだろうか。レイシは込み上げてきた感情のままに、再び泣いていた。

「謝らなくていいんだぜ?おまえは、何も悪くねーよ。大切なのは、これからどうするのかだ。そうだろ?大丈夫だ。オレが母さんのことも、ちゃんと起こしてやるからな」

な?と、優しく念を押されて、レイシは泣きながら、頷いた。

「しばらく、オレとインファに付き合ってもらうぜ?しっかり、ついてこいよな?」

笑う父の顔を見ながら、レイシはこの人の息子でよかったと思った。


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