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九章 原初の風

 精霊王の魂の欠片騒ぎから三ヶ月が経過していた。

朝日の差し込む応接間で、デスクワークに勤しむリティルのもとへ、インファがフラリと姿を現した。

「おはようございます……」

「おはよう、インファ。なんだよ、眠そうだな?」

切れ長の瞳をさらに切れ長にして、インファはリティルの隣にストンと腰を下ろした。その体が、途端に微睡むようにゆっくり揺れていた。

「インファ、ちょっと後ろ向けよ」

リティルの言葉に、なんですか?と言いつつ、インファは素直に背を向けた。リティルはインファの乱れた三つ編みを解くと、いつもの肩甲骨の辺りから緩く三つ編みに結ってやった。

「すみません……」

「ハハ、まだ手焼いてるのかよ?うちの雷帝を翻弄するなんて、蛍石やるなぁ」

リティルはソファーを立つと、ワゴンに用意されていたアイスティを、インファに入れてやった。

「……父さんは、母さんとどうだったんですか?」

インファは苦笑しながら、礼を言ってアイスティを受け取った。そして、ふと尋ねてみた。

「ん?オレ達か?風の王の不在も長かったからな、しばらくは大混乱だったぜ?シェラと二人、ゆっくり向き合う暇もなかったぜ」

この城で、シェラと二人きりだった時のことを思い出して、リティルは懐かしく思った。あれからいろいろなことがあったなぁと、リティルが思い出をたどろうとしたとき、自分の悩みをちっぽけだと思い込んだ、インファの言葉が聞こえた。

「すみません……くだらないことを聞きました」

「待てよ、インファ!オレの話、ちょっとは聞いてくれてもいいだろ?」

心を閉ざしかけたインファは、慌てたようにもちろんですと言った。そんな息子に、リティルは肩の力抜けよと笑った。

「本読んで知ってるだろうけどな、オレ達は、魂を分け合ってからイシュラースへ来たからな。そういう意味じゃすんなりだったぜ?シェラはほら、従順なところあるしな。焦るなよ、インファ。おまえがぐだぐだできるっていうのは、世界にとってもいいことだろ?しっかり休暇やるから、もっとくだらないこと考えろよ」

おまえがくだらないと思ってることは、くだらないことじゃないぜ?とリティルは笑った。

「オレは、動いていた方が休まりますよ。半分下さい。……父さん、話をしてもいいですか?」

インファはリティルから書類の束を半分以上取り上げると、羽根ペンを走らせ始めた。

「寝室分けてくれませんか?」

唐突な言葉に、リティルは思わず羽根ペンが滑り、書いていた書類を破いてしまった。そんな王の手元に、鳩たちが、どうした?どうした?と言いたげに集まってきた。

「……おまえら、もしかしてまだなのか?あ、悪い。これだから、セリアが気にするよな。あいつ、あんなに照れ屋だとは知らなかったぜ。宝石の精霊は、もっと手慣れてるかと思ってた。いや、それこそ偏見か。スワロにはこの手のことタブーだしな。じゃあ、おまえ今までどこにいたんだよ?そういうことは、もっと早く言えよな!」

寝るのも仕事の内だぜ?と、リティルは叱った。

「すみません。覚醒後もしばらく不安定になるので、そばにいたほうがいいと思ったんです。もう、落ち着いたようなので、離れてもいいかと」

おいおい、どこまで奥手なのかと、リティルは呆れた。

「……インファ、おまえが拒んでるのか、セリアが拒んでるのか?消極的にもほどがあるぜ?愛する人って言ったのおまえだぜ?」

「オレに恋愛は向きませんよ。……本当は進んだほうがいいことは、わかっているんです。魂を分け合って霊力を送り合えば、セリアの脆さをカバーできますから。けれども、そんな理由では、オレにはできません……」

インファは、愛する人に触れることにすら、理由を求めているようだ。リティルは、好きだからという理由ではダメなんだな?と苦笑するしかなかった。しかし、息子が尻込みする原因は、彼の理性ばかりではなく、セリアの態度にもあることをリティルは知っていた。

セリアは、意識しすぎて過呼吸になるほど、インファが好きなのだ。そばにいるだけであれでは、インファが、触れたら壊れるのでは?と思ってしまうのは仕方ないかと思えた。

「大事なことわかってて、父さん安心したぜ。焦るなよ。大丈夫だ。明日はなくならないさ」

本当に、リティルの笑顔を見ていると、明日が当たり前に来るような気がしてしまう。

 羽根ペンを走らせ始めたリティルは、不意に小さく咳き込んだ。

「風邪ですか?」

「ん?風が風邪ひいてちゃ世話ねーな」

リティルはそう言って、気にした様子なく笑った。

インファは、父の霊力をさりげなく探ってみた。精霊のひく風邪は、霊力の変調が肉体に影響を及ぼして引き起こされる。単純に疲れているだけか?と、インファは案じた。視線に気がついたリティルが顔を上げて、なんだ?と言いたげな視線を返してきた。インファは咄嗟に、父の霊力を探っていたことをはぐらかした。

「父さん、ずっと疑問なんですけど、父さんのリボン、なぜ解けないんですか?オレはすぐに髪がばらけてしまうので、いっそのこと斬ろうかと思うんですけど」

「切るな切るな!おまえの髪はかなり霊力が高いだろ?このリボンは、シェラの魂だからだよ。切るより、髪留め作ればいいだろ?何も、魂の欠片じゃなくても、それだけでいいんだぜ?オレが作ってやろうか?それとも、セリアにもらうか?」

もちろんセリアだろ?と、冗談で言ったつもりだった。

「父さんがくれるんですか?」

「……いいのかよ?オレで」

あまりに嬉しそうな顔をされ、リティルは怯んだ。インファが、こんな無邪気に喜ぶのか?と驚いたのだ。

「セリアには、指輪を渡しますから、ご心配なく」

「そこまで決めてるなら、早く渡せよ!しょうがねー奴だな。……ほら!」

リティルは手の平に風を集めると、金色の羽根と白い百合の細工がされた、円柱型の髪留めを作った。女性的なデザインだが、インファの容姿ならしっくりくるだろう。

僅かに発光する白い百合を見て、インファは恐縮した。リティルの中にある、花の姫の力が使われている事に気がついたのだ。

「母さんの霊力も使ったんですか?そこまでしなくても……」

「ああ?おまえにやるんだから、いいんだよ。オレは、おまえを護りてーんだよ!」

リティルはそういうと、インファの髪につけてやった。

「ありがとうございます……」

インファはそれ以上何も言えずに、書類と向き合い始めてしまった。そんな息子の様子を見ながら、リティルは与えられることに慣れてないなと苦笑した。

 インファとはどうにも、親子というより仕事のパートナー的な感覚の方が強くなってしまう。そのほうがお互い話しやすいというから、複雑だ。もう、インファは子供ではない。対等の立場でいられるこの関係が、心地良いのだからそれはそれでいいのかと、リティルは思うことにした。

「なあ、インファ……ものは相談なんだけどな」

「?」

歯切れの悪いリティルに、インファは手を止めると顔を上げた。

「原初の風のことで、話したいことがあるんだ」

こちらも捨て置けない問題だった。シェラに話して、原初の風の四分の一を受け継ぐ子をとも思ったのだが、精霊的相性の問題で、上手くいかないことがわかってしまった。

あとは、インリーかインファに継承させるかだったが、インリーを候補にすることを、ルディルが難色を示した。あとは、インファだが……

抵抗があるならば、ルキの示したプランを提案してみるしかなくなる。

セリアに四分の一を仮譲渡し、雷帝の子として産んでもらうのだ。それが、受け継がされた側が被る影響が、もっともない方法だった。

リティルが頼めば、インファは二つ返事で承諾してしまうかもしれない。そう思うと、言えなかった。二人が守る一線を、リティルの勝手で越えさせてしまうことに抵抗があった。

ぎこちなく手を繋いだばかりの二人の行く末を、リティルは見守ってやりたかった。

しかし、リティルには時間がなくなってきていた。早く決断しなければ、生死に関わる。リティルの肉体では、原初の風の四分の三の力には、耐えられないのだ。


 セリアは、太陽の城に来ていた。

晴れて原初の風の欠片を継承したレイシは、暴走対策にルディルとハルの厄介になっていた。そんなレイシに、インリーと共に会いに来たのだ。

「セリア、久しぶり」

「元気そうね、レイシ!」

二人は親愛に、一度だけ抱きしめあった。

太陽の城の応接間は、風の城と違って、白と黄色を基調としていて暖かみのある部屋だった。蒲鉾形の天井には、太陽の絵が描かれ、二つのシャンデリアが吊り下がっていた。

独立した楕円形のテーブルがいくつも置かれていて、肘掛けのある一人用のソファーがいくつもあった。その中で数脚、二人がけのソファーが置かれていた。

レイシが二人がけのソファーに座ると、インリーは当然のように彼の隣に座り、二人の向かいにセリアは腰を下ろした。

 そんなインリーを見て、セリアは少しホッとした。レイシが太陽の城に軟禁されることが決まったとき、当然のように一緒に行こうとしたインリーは、レイシにヤンワリ拒絶されてしまった。

――レイシ!どおして避けるの?わたしは、レイシの隣にいたいよ!

ずっと、我慢していたのだろう。太陽の城で行動を共にしていたときと、風の城に帰ってからでは二人の距離が少し違うなとセリアでさえ感じていたのだ、当事者のインリーには相当のモノだったのだろう。レイシを見送ろうと集まっていた家族の前で、インリーはそういって泣き出した。

――いや、それはマズいでしょう?オレが暴走して、それでインリー、巻き込まれたらどうするの?オレ、インリーを傷つけるのは絶対に嫌だよ?

レイシは困って、でもインリーには触れられないというかのように、距離を取ったままだった。

レイシの選択は、最良で間違いはなかった。それがわかるだけに、皆はただインリーを慰めて諭すことしかできなかった。

それでも、嫌だとだだを捏ねるインリーに、レイシは迎えに来てくれたルディルを促して振り切るしかなくなった。そんな悲愴な空気を一変させたのはカルシエーナだった。

――レイシ、どうしてもダメなのか?二人は、魂分け合ってないけど夫婦なのに

カルシエーナの真面目な発言に、風の城の応接間は静まり返った。その衝撃から最初に立ち直ったのは、レイシだった。

――ち、違うよ!それ、もの凄くマズイ発言だよ?カルシー!父さん、ごめん!オレ、もう行くから!

ぐれてから、あんなに慌てふためいたレイシは初めて見たなと、年長な家族は皆そう思った。逃げるレイシに腕を引かれたルディルは楽しそうに笑うと、インリーに言葉を投げた。

――ガハハハ!インリーいつでも来い。レイシの隣は空けておいてやる

――ちょっ!師匠、勝手に!ほ、ほら、行くよ!

ルディルに太陽の力を教わるようになっていたレイシは、彼を師匠と呼ぶようになっていた。

「兄貴と仲良くしてる?」

レイシは相変わらず、何かを守るようにインリーと距離を取っていたが、拒絶の空気はなくなっていた。

「……努力してるわ」

微妙な笑顔で視線を外すセリアに、レイシは苦笑した。

「アハハハ。そんなに緊張するの?」

「だ、だって、どうしてあの人、あんなに綺麗なの?」

肉体のあるインファの眼差しが、優しく笑いかけてくれるたびに嬉しくて、胸が一杯になる。そうなると、苦しくて、どう息を吸ったらいいのか、わからなくなってしまう。

インファに、ちゃんと息吸ってくださいと、何度背中をさすられたかしれない。

「そりゃ、兄貴だから。セリアさ、本当に変わってるよね。みんなあの顔がよくて群がってくるのに、それが苦手なんてさ」

「好きよ。でも、直視しがたいのよ!もおおおお!何なの?あの笑顔!」

反応が面白いって、からかわれるしと、セリアは困ったように俯いた。

「これだもん。ねえねえ、レイシ、どうしたらいいと思う?その、まだみたいだし……」

インリーは多少学習したようで、明言は避けた。

「ホントに?セリア、それは兄貴、可哀相だよ?」

理性の化け物みたいだけど、ちゃんと男だよ?とレイシは笑った。それは知っている。就寝前有無を言わさず、キスを迫られるから。しかし、インファはキス以外迫ってこなかった。それはなぜなのか、あの瞳で見つめられたら、セリアは簡単に流されるのに。

「イ、インファが……どこかに行っちゃうのよ……。それで、目が覚めると隣にいるのよ!朝は、さすがに……インファ、眠そうだし……」

わたしが拒んでるわけじゃない、と、セリアはしどろもどろになりながら答えた。

ね?とインリーは困ったようにレイシを見た。インリーの視線を受けて、レイシはなるほどねと頷いた。

「セリア、いいの?兄貴そろそろ仕事に行くと思うよ?父さん、しばらく兄貴は休暇だって言ってたけど、そんなのあの兄貴が耐えられるわけないよ」

「仕事を口実に、ますます遠ざけそう。お兄ちゃんだって、セリアの力貰ったら楽できるのに」

「そういう理由でも、この際、いいんじゃない?うかうかしてると、父さんに盗られちゃうよ?」

「そうよ!あの二人、仕事バカだから、また二人で仲良くどこかに行っちゃうよ?」

いいの?と二人に詰め寄られて、セリアはタジタジだった。この二人、なんでこんなに息ピッタリなの?とセリアは泣きそうだった。わたし達より、断然夫婦っぽいっと思ってしまった。

「リティル様が、ライバルだとは思わなかったわ……」

「セリア、兄貴が天秤に掛けてたの、オレとセリアじゃなくて、父さんとセリアだよ?」

「レイシも端っこに乗ってたくせに。それで天秤がこんな傾いちゃって、お兄ちゃん余裕なくなっちゃったんだからね?レイシ!反省しなさーい!」

インリーに怒られて、レイシは肩をすくめた。

「わかってるよ……だから、兄貴と会ってないじゃないか」

もう、兄貴離れするよと、レイシは拗ねたように言った。

「それ、インファ気にしてたわよ?レイシに会いに来るなって言われたって。そんなことしちゃダメよ。あの人は、根っからお兄ちゃんなんだから」

会いに行きますよと言ってくれたインファに、レイシは来るなと言ってしまった。甘えてしまうから来ないでほしいと、言ってしまった。

インファはかなりがっかりしたらしく、珍しく落ち込んでいた。

「セリア……今すぐ帰って、兄貴とイチャイチャしてきてよ。癒すのも仕事でしょ」

兄貴、凹んでるんでしょ?とレイシはニヤリと笑った。

「無理!リティル様とシェラ様みたいにできないわ」

「風の王夫妻基準なの?ハードル高いね」

照れ屋のくせにと、レイシは笑った。あの二人の仲睦まじさは、イシュラース1なのにと。

「そんなお兄ちゃん、想像できない……」

インリーの言葉に、うーんと、レイシとインリーは虚空を見つめた。

「盛り上がってんなぁ、兄弟」

 わいわい話していると、太陽の城の主が姿を現した。楽しそうで、気になったらしい。

「ルディル、お邪魔してます。ねえねえ、セリア、イチャイチャの仕方わからないんだって、ルディルならどうする?」

「あ?そんなん、後ろから抱きしめりゃぁいいだろう?」

ルディルは腕を組むと、そんなことかと言った。

「後ろから……それならできるかも……」

顔見なくていいならと、セリアはつぶやいた。

「なんだそりゃ?おまえ、魅了の宝石のくせして、てめぇの旦那、まだ誘惑しきれてねぇの?幻惑の名が泣くわ!」

「師匠、師匠、セリア達まだ魂分け合ってないよ?」

レイシの言葉に、ルディルは信じられないモノを見るような目で、セリアを見た。

「なんだと?かー!なんつう……セリア、インファは待ってたってこないぞ?あいつ基本、女苦手だからな」

「どうして知ってるの?」

「そんなん、見りゃわかるわ。おまえ達、インファが女といるの想像できるか?」

「「できない」」

レイシとインリーは声を揃えて即答した。

「そういうことだ。セリア、おまえの旦那はそういう男なんだよ」

旦那って……だからまだ、そういう関係にすらなってないのよ!とセリアは思ったが、言えなかった。言ってしまったら最後、ルディルの怒濤の反撃を喰らってしまう。

「……ルディル様は、どうやってハル様と始まったの?」

「あ?オレの女になれって言った」

「うわ!男らしい。それで、ハルは?」

インリーは目を輝かせた。

「わたしを捕まえられたらね、とか、ぬかすから、速攻捕まえたわ」

ガハハハと、ルディルは豪快に笑った。

「違う違う!その前に、散々口説いたの!わたしが!」

コーヒーを入れて持って来たハルが、ルディルの言葉を否定した。

「ばらすなよ」

本当のことだからと、ハルは笑っていた。

「なんだ、父さん達と一緒なんだ」

「リティルは、そんな気してたわ。シェラの方が惚れてるよな」

「ルディル凄いね!その通りだよ」

「伊達に原初の風やってねぇわ」

「どういうこと?」

インリーは首を傾げた。レイシはルディルに、話しちゃいけないと首を横に振った。リティルから原初の風の欠片を引き受けたレイシは、この力がどんな力なのかわかっているのだった。そして、リティルからこの力のことは口外するなと言われていた。

「そんなことより、オレ、いつ帰れるの?」

「もう少し待て。おまえは風と相性がいいからな。このまま行ってくれりゃぁ、一年後くらいに帰れるぞ?」

あと一年も?と、レイシは不満そうにソファーに深くもたれた。とはいっても、太陽の城での暮らしも、悪くないとレイシは思っていた。これを機に、風の城から離れてしまうのもありかもしれない。インリーと離れることができれば、リティルも安心だろうと思った。

 父さんは元気かな?とレイシがリティルのことを考えていると、ハルが不穏なことを言い出した。

「ねえ、リティルは大丈夫?まだ、もう四分の一誰にも渡せてないんでしょう?」

ハルが風の城の面々の顔を見回しながら、心配そうに言った。

「渡さないとどうなるの?」

不穏なモノを感じて、インリーが恐る恐る問うた。

「暴走は免れねぇわな。上級から最上級だからな、そのエネルギーは計り知れねぇ。オレとレシェラが行って、シェラと風二人で抑えられるかどうかだな」

ルディルは腕を組むと、苦しげに言った。

「師匠、オレとの約束、覚えてる?」

レイシの鋭い瞳が、さらに鋭さを増した。

「おうよ。必ず守ってやる。必ずだ!」

ルディルの真剣な様子に、かなりの危機がリティルに迫っていることをセリアも感じた。

「あの、ハル様、誰かにあと四分の一渡せば、リティル様は助かるの?」

「それ、わたしじゃダメなの?」

インリーが、怖ず怖ずと手を上げた。

「おまえは精神年齢が幼い」

「じゃあ、お兄ちゃんは?」

「インファは背負いすぎだ」

「じゃあ、じゃあ、ノインは?」

「守護精霊は論外だ。十四代目がそのまま復活してくれてりゃ、半分くらい渡せたんだけどな。言ってもしょうがねぇわな」

「わたせる相手がいないじゃない!」

セリアが居ても立ってもいられずに、立ち上がった。

「手は、ないわけでもねぇ。ただ、その一つは失敗した」

ルディルは歯痒そうに、首の後ろをボリボリ掻いた。

「あとは、セリア、おまえとインファしかいねぇ。おまえら、恥ずかしいの何だのと、言ってる場合じゃねぇんだぞ?リティルはな、今も命を削ってる。いつまで、護られてるつもりだ!」

わたしが?わたしとインファが守られている?一体何を?セリアが問おうとすると、ハルがルディルを止めてしまった。

「ルディル、それ、リティルに口止めされてるでしょう?もお、口が軽いんだから」

「ちっ!」

「どこへ行くのよ?」

「リティルのところだ!今日は戻らん!」

ルディルは大股に応接間を出て行ってしまった。

「……ごめんなさいね。原初の風を渡した手前、心配なのよ。もう風でなくなった自分には、リティルを助けてあげられないから」

ハルは派手な面立ちに、シェラのような憂いを浮かべて、閉じられた扉を見つめていた。


 勢いで城を飛びだしてしまったルディルは、イライラしたまま、風の城の応接間の扉を開けてしまった。

「うわ!なんだよ!ルディルかよ?何かあったのか?」

「ルディル、扉が壊れますよ?あなたは、力が強いんですから」

「まったく、おまえは騒がしいな」

応接間で、風三人は仲良くデスクワークに勤しんでいた。片手で石の扉を、勢いよく開けて入ってきたルディルに、三人は同時に反応した。

「……三人揃ってるのか」

「ああ?どうした?」

リティルしか見えていない様子を見て取って、インファは席を空けた。ルディルはリティルの隣にドサリと腰を下ろした。

「すまん!」

「おいおい……何したんだよ?」

いきなり深々と頭を下げられ、リティルは驚いて思わず立ち上がっていた。顔を上げろとリティルが慌てるが、ルディルは無言のまま顔を上げようとしなかった。

「何をしたんですか?オレでよければ、飛びますよ?」

見かねたインファの提案に、ルディルは顔を上げないまま、視線を向かいに座った彼に向けた。

――おまえが、おまえ達が早くやることやってりゃぁ!

ルディルは歯痒さの矛先を、ぶつけるべきではないインファに向けてしまった。

「インファ!てめぇ──」

カッとなって、ルディルは机に足をかけてインファに迫った。しかし、彼に手が届く前にリティルに肩を掴まれていた。

「ルディル、飲むか!なあ!二人とも!」

ルディルの肩を掴んだリティルは、押し止めようと、もう片方の手で彼の腕を握って力の限り引っ張っていた。体格差がありすぎる二人だ。リティルがどんなに頑張っても、ルディルが振り払えば止められない。それでも、リティルは、ルディルには小さすぎるその手で、息子を守ろうとしていた。そんな健気なリティルを、ルディルは振り払えるはずもなかった。

ああ、オレはなんてことをしたんだ……!そう思わずにはいられなかった。

後悔しても、もう遅い。原初の風は、完全にリティルの魂と同化している。今更、取り出すことはできない。だが、もし、今、その力が発現してしまったら……

「ああ、持ってこよう、インファ」

苦しそうな泣きそうな瞳で、歯を食いしばるルディルの姿に、ノインはインファを促した。とにかく、インファを遠ざけたほうがよさそうだと、判断したのだった。

「ええ、行きましょう」

インファとノインは平然と部屋を出て行った。

 何も聞かずに、インファを遠ざける判断をしてくれたノインに、リティルは心底感謝した。そして、言えずにごめんと心の中で謝った。

「ルディル、インファに当たるのはやめてくれ。あいつ、おまえの拳受ける気でいたんだぜ?意味もわからずにな!そういう奴なんだ……だから、やめてくれよ」

「リティル……」

「ルディル、オレは大丈夫だ。心配するなよ。まだ、大丈夫だ」

真摯に宥められて、ルディルは放心したようにソファーにストンと座り込んだ。そして、悔しそうに頭を抱えてしまった。

「すまん……リティル……」

「大丈夫だ。何とかなるさ」

困ったように笑いながら、ルディルの肩を叩いたリティルは、また、小さく咳き込んだ。


 ルディルから受け継いだとき見た、原初の風は、ダイヤモンドのような煌めきで、とても綺麗な力だった。

手放すなんて、考えられない。


 最近、ぱったりと魔物が出なくなった。まるで、何かに怯えるように。

すべての世界は安定していて、風の城は開店休業状態だった。こんなことは、リティルが風の王になって初めてのことだった。

リティルは、全世界から集まる生き死にの記録に目を通しながら、輪廻の輪を穏やかに見守っていた。

 羽根ペンを走らせていたリティルは、小さく咳き込んだ。不意に何かが込み上げてきて、リティルは机の上に身を投げ出すと激しく咳き込んでいた。

「はあ……はあ……」

口を押さえていたその手の平が、鮮血で汚れていた。

「原初の風……大丈夫だ。手放したりしない……心配するな」

意志があるかのように、リティルの中の高貴な煌めきは小さく脈打った。リティルは、机の上に身を横たえたまま、フッと力なく微笑んだ。

 原初の風は、まるで意志があるかのように、ゆっくりとリティルに同調しようとしてくれていた。リティルはそれを感じていた。レイシに四分の一を継承させるときも、原初の風自ら割れたのだ。この力は、敵ではない。リティルを認め、主となってと言われているような気がした。

リティルの三人目の子供として四分の一の欠片を生まれさせようとしたが、それを原初の風は拒んだ。それは、シェラが花の精霊だったからだ。散らない花だとしても、自然には子を成せないほど相性の悪い力だ。優しい原初の風は、シェラを傷付ける事を拒んだ。それゆえの失敗だった。

 リティルは、原初の風のことを、インファに話していた。

とても、セリアと子を成せと言えなかったリティルに、インファはオレが受け継ぎますと言った。思った通りの答えを言わせてしまった。

インファが一緒に背負うと言ってくれたのに、リティルは未だ、渡せないままでいた。

理性的なインファ。セリアという相手を得ているインファなら、原初の風を受け入れられる。しかし、数々の苦痛を背負わせてしまっているインファに、受け継がせることが後ろめたい。当たり前のように一緒に背負ってしまうインファが、それをさせてしまう自分が不甲斐なかった。そんなリティルの心を感じているのか、原初の風は継承先を承諾しているものの、どこか乗り気ではないようだった。そのことも、リティルを不安にさせた。

すでに原初の風を継承しているレイシが、暴走を恐れて太陽の城に軟禁されている。継承させるとき、原初の風は喜んで四分の一を差しだしてくれたというのに。

インファが傷つくかもしれない。

原初の風の態度に、その可能性を見てしまったリティルは、踏ん切れなかった。

インファはやっと、安らぎを手に入れて、ゆっくりと自分だけの幸せを育み始めたところなのに、また、辛い目に遭わせるのは忍びなかった。息子が手に入れた、壊れそうな繊細な幸せを、守ってやりたかった。

 何とか立ち上がったリティルは、誰かを捜すように城の奥へ続く扉に二、三歩進んでいた。リティルの脳裏に、そばにいてくれる皆の顔が、順々に浮かんでいた。

「シェラ……っう!あっ……!」

原初の風が悪いわけではない。決断できなかったリティルの傲りだ。原初の風は今までずっと、自らを押さえて待ってくれていた。リティルが力を高めるのを、待ってくれていた。それが、間に合わなかっただけだ。

「ごめんな……間に合わなくて!でもな……最後まで、おまえを諦めない!……手放さないから、な!うああっ!だ、だから!おまえも、諦めないで!くれ!あああああああああああ!」

床に膝をついて小さな己の身を抱き、絶叫したリティルの体から、キラキラ輝く金色の風が立ち上り部屋中を荒れ狂った。高い高い天井からつり下がっていたシャンデリアが破壊され、粉々になって金の風に溶けた。

「リティル!」

異変に気がついたシェラが駆けつけた。しかし、すべてを切り裂く風に近づけない。

「シェ──ラく・る・な……!」

「嫌よ!わたしはずっとそばにいるわ!一緒にいさせて!」

胸を押さえてうずくまっていたリティルは、フラリと立ち上がると、片手をシェラに伸ばした。シェラも手を伸ばす。けれども、風に押し返されてシェラはリティルに近づけなかった。シェラの髪が風に浚われ、激しくたなびいていた。彼女の背にある、蝶の羽根が風に引きちぎられそうだった。それでもシェラは、リティルに向かい足を踏み出す。

「シェ──ラ……!」

吹き荒れる風の中、シェラに手を伸ばすリティルの瞳から流れる涙さえ、風は粉々にして散らしていった。

届、かない……。風が、シェラを阻んでいた。まるで、自分が拒絶しているようで、リティルは辛く哀しかった。荒れ狂う風に、彼女の青い光を返す不思議な黒髪に咲いた、光の花が髪から離れて舞っていた。

こんなに好きなのに、自分が風であるばかりに、花を散らしてしまう。それでもいいと、手を伸ばしてくれるシェラに伸ばしていた手を、リティルは力なく下ろした。そして、真っ直ぐに見つめていたその瞳すら伏せ、哀しそうに微笑んだ。

 リティルのその態度に、もう、十分だと言われた気がして、シェラは愛しいその名を何度も叫んでいた。

──応えて!わたしを見て!この手を……掴んで!

凶悪な風が閃いて、それに気がついたシェラは反応したが、何の行動も間に合いそうになかった。ついに愛する者にまで襲いかかり始めた風を蹴散らしたのは、ルディルだった。

シェラはルディルの大きな腕に抱かれ、難を逃れていた。

「シェラ!結界を張るぞ!手を貸せ!」

やっと到着したルディルとハルが、リティルに向かい両手をかざす。シェラは涙を振り払うと、二人に習った。

 精霊の言葉がびっしり書かれた銀色の輪が、リティルを中心に出現した。大きな輪はリティルを捕らえて虚空へ固定された。

ジャラリと鎖が伸び、リティルを貼り付けるように四肢を拘束した。首にまで輪が現れ、そこから繋がった鎖がリティルを囲む巨大な輪に繋がった。

これではまるで、罪人のようだ。ここまでされなければ押さえられないなんて。シェラは溢れそうになる涙を堪えた。

この力に、リティルは一人で耐えていたのだ。誰にも打ち明けられずに。

皆を、受け継いだ力を守るために。

どうして、わたしは花の精霊なのだろう。シェラは初めて、自分の存在を呪った。花でなければ、リティルにあんな哀しい顔で微笑ませることはなかったのに!

「ぐううう!なんて力だ!リティル、てめぇ!なぜ、言わなかった!インファ!ノイン!早く来いいいいいい!」

リティルと同調する原初の風は、ルディルが持っていたときよりもその力を増していた。それは、力がリティルを選んだ証でもあった。けれども、相性が良かったために起こった悲劇だ。原初の風は、リティルを引き裂いてしまった。

 ルディルでさえ、押さえ込めなかった。こんな力に、リティルは平気な顔をして耐えていたのか?と、気がついてやれなかったことに、ルディルは自分自身に、腸が煮えくりかえるほどの怒りを感じていた。

「父さん!」

「インファ!ノイン!遅いぞ!」

「すまない」

インファとノインも、両手をリティルにかざした。精霊の言葉の書かれた輪が、黄金に輝きだす。吹き荒れていた風が、止み、リティルと五人の力が拮抗する。

「リティル……!死んでくれるなよ!持ち堪えろ!オレ達が押さえてやる!だから、打ち勝て……!勝ってくれ!リティル!」

結界の中心で巨大な輪を支えるルディルの額から、汗が玉となって流れ落ちた。

強がっていたが、次元の牢獄は冷たく寂しかった。そこに現れた小さな風の王。

その生き生きとした燃えるような金色の瞳。必ず出られると息子を信じていたその強さ、その曇りない笑顔に、ルディルでさえ惹きつけられた。

出ることを諦めていたルディルを、リティルはその明るい笑みで導いてくれた。もう二度と逢えないと思っていた、ルディルだけの光――ハルの下へと。

 こんな運命を科したルディルを、リティルは責めなかった。責めなかったのではなく、微塵もそんな感情を持っていなかった。少しくらい、恨み言を言ったらどうだ?と冗談のように言ってみると、リティルは何を言っているんだ?という顔をした。

──おまえの選択が、回り回ってオレを生んだんだぜ?それ否定して、どうするんだよ?おまえ、オレの存在全否定するのかよ?非道くないか?こんなに一生懸命生きてるっていうのにな!ルディルを友達だって思ってるのは、オレだけだったってことかよ!

と、言われて、べつのことを怒られた。

自信家のルディルだったが、リティルのあの瞳で本気で睨まれて、そんなことはない。オレも仲間……いや友達だと思っている、とガラにもないことを言わされてしまった。

友達……リティルが言うと、不思議な響きの言葉に聞こえた。たぶんリティルは、遠慮したのだ。セクルースの王を、仲間だとは言いづらかった。だから、別の言葉を使ってくれたのだ。

「リティル!」

ケルゥとカルシエーナも到着したが、駆け寄ろうとする二人にルディルが叫んだ。

「ルキルースの力は引っ込め!こいつは、セクルースの精霊にしかできねぇ!インリー、おまえも加われ!ないよりマシだ!」

「うん!」

インリーはルディルの隣に立った。少しでも、ルディルを助けようと思ったのだ。そんなインリーに、ルディルはわかってるじゃないかと言って笑った。

「手が出せないなんて、歯痒いな」

「オレ様達にも、力があるってぇのによぉ!」

「リティル様……」

見つめるセリアには、何か思いのようなモノが見えるような気がしていた。何だろう。リティルの中から?何かが訴えかけてくるような……。

「ああっ!」

不意に、シェラが頽れた。彼女の胸に揺れていた、リティルの牙の紐が切れて床に落ちたのだ。拾い上げた首飾りの三つある牙のうちの一つが、砕けて床に散らばった。

首飾りを胸に抱き、シェラはリティルに向かって飛んでいた。それを、結界を支える四人は止めなかった。止められるはずもなかった。

「リティル!逝かないで!逝くというのなら、わたしも連れて行って……!お願いよ……!リティル!」

ボンヤリと瞳を辛うじて開いていたリティルが、瞳を閉じて微笑んだ。シェラに抱きしめられ、その温もりを感じているのだろう。

――ごめんな……

その声が、皆の耳に聞こえた気がした。瞬間、お父さん!と、カルシエーナの叫びが部屋にこだました。リティルに向かい跳ぼうとした恋人を、ケルゥが抱きしめて止めた。

 リティルの声なき声を聞いたセリアの心に、何かが弾けた。それは、誰かの声のようだった。

「!」

セリアがスッと虚空を撫でると、様々な宝石が現れた。それらをリティルの周りに飛ばしていく。宝石達は、すぐさま砕けて塵になっていく。けれども、セリアは飛ばし続ける。リティルが受ける苦痛を引き受ける、身代わりの石だ。

焼け石に水だが、何かが、助けてとセリアに訴えかけていた。

ここにいる皆と同じ、リティルを大事に想う心を感じた。それなのに、それはリティルを苦しめていた。セリアは思わず叫んでいた。

「お願い……!その人を殺さないで!大事なの!とても、とても、大事なの!あなたにとっても、そうなんでしょう?」

青白い光を放つ蛍石が、リティルの手からこぼれ落ちた。あれは、リティルに持っていてと渡した石だった。リティルはまだ、持っていてくれたのだ。

光を放ちながら砕けていく、脆く価値のない石。これはわたしだと言ったから、リティルは大事に持っていてくれたのだと、セリアは嬉しかった。ただ返すのを忘れただけかもしれない。それでも、リティルが自身の風の中に持っていてくれたことが、嬉しかった。

「わたし、わかるのよ!大事にされると、嬉しいの!脆くても、価値がなくても、持っていてくれたら、力になりたいって思うの!あなたも、同じなんでしょう?リティル様を殺さないで!」

何かの意志を感じる。セリアにとても近い何かの意志。それは、セリアに共感しているようだった。それは言った。確かに、リティルに伝えてほしいと、言った。

「ぐううう!これ以上は保たねぇ!リティル!やるぞ!いいな?」

ルディルが圧力に歪む顔で叫んだ。魔法を支える他の三人の霊力も、限界が近いことを感じていた。

ルディルは答えないリティルに向かい、かざしていた右手にゆっくりと拳を握る。

「ルディル様待って!」

駆け寄ったセリアは、ルディルのその腕にしがみついていた。

「セリア!手を離さねえか!このままじゃぁリティルは消滅しちまうわ!これしか救う手はねぇ!シェラ!そこをどけ!術の巻き添え食うぞ!」

ルディルは余裕のない鋭い瞳で、腕にしがみつくセリアを振り払らった。セリアの華奢な体が、象眼細工の床に倒れる。ルディルにどけと言われたシェラは、激しく首を横に振っていた。

「おい!おまえまで封印される気か!シェラ!おまえは風の王妃だろう!おわっ!てめぇセリア!やめねぇか!術が解けちまうわ!」

リティルから離れられないシェラに叫んでいたルディルの腕に、セリアはもう一度しがみついた。そして、訴える。

「信じて!リティル様と、彼女――原初の風を!」

彼女?ルディルはセリアが、原初の風に意思があるかのように呼んだことに戸惑った。意味を問いただす間もなく、圧力が襲ってきてルディルは慌てて意識を集中し直した。

セリアはルディルの腕を放すと、リティルに向かって声の限り叫んでいた。彼女が伝えてきた言葉を、声の限り!

「リティル様!一度でいい、手放して!殺したくないって!手放さないって言ってくれたことが嬉しいから、ずっと持っていてほしいって!だから、ずっと一緒にいるために、今、手放して!お願い!」

セリアは、リティルがうつろだったが瞳を開き、虚空を僅かに見上げたのを見た。

 リティルの体が、無数の金色の輝きに包まれた。

ガシャンッと、リティルを拘束していた鎖が、拘束するモノを失って垂れ下がった。抱きしめるその肉体を失ったシェラが、床へ向かった落下していた。

セリアはゆっくりと、床に舞い降りたシェラへ近づいていた。虚空へ消えていくリティルだった光の粒を抱きしめて、シェラは突っ伏していた。

「リティル……!」

ルディルがその場に頽れた。封じる者を失った結界が、ルディルが魔法の行使を止めたことで幻のように消えていく。

皆、今し方までそこにいた者を捜すように、虚空を見つめた瞳をそらすことができなかった。皆の視界に、リティルだったものの欠片が儚げに漂いながら、消えていく様が映っていた。


 原初の風は、ダイヤモンドのような煌めきだった。

とても綺麗で、この手にできたことが嬉しかった。認められたことが誇らしかった。

ルディルから捨てられたと思い込んで、哀しみ怯えていたその力を、あいつは君を捨てたわけじゃない、オレに託したんだと慰めてから、リティルはそれに懐かれた。もの凄く強いのに、臆病で繊細な煌めきだった。

「やっと会えたな。君の名前、教えてくれねーか?」

リティルを引き裂いた罪悪感と戸惑いで、それは自分からは近寄ってこなかった。

オレを怖がる必要なんてないのに。リティルはそう思って笑った。

「こいよ。一緒に行こうぜ?」

リティルが両手を差し出すと、気配が二つに分かれてそれぞれの手に、手が重ねられた。

君は──君達は、ダイヤモンドのような煌めきで、とても綺麗で……。


 セリアは、輝くそれを見つめていた。それは、類い希なる光沢と、鮮やかな煌めきを持っていた。

「あなたが、原初の風?」

上品な金色を纏ったダイヤモンドのような煌めきの、雫型の宝石だった。原初の風は、澄んだ音を立てて割れた。四分の一だ。セリアはそう思った。

「わたしでいいの?」

小さな欠片がセリアに近づいてきた。それは、セリアの下腹部に吸い込まれた。

「大丈夫。リティル様は変わらず、あなたを大事にしてくれるわ」

セリアはそう言って笑いかけた。原初の風に、金色の光の粒が急激に集まりながら、リティルだったモノの欠片を放さないと、床に突っ伏しているシェラの腕の中に落ちていく。

「はあ……シェラ、苦しいよ……」

床に突っ伏していたシェラは、肩を叩かれて顔を上げた。

「リティル……?」

瞬いたその瞳から、溜まっていた涙がポロリと流れ落ちた。シェラの瞳は、夢を見ているような表情をしていた。そんなシェラの膝に頭を乗せて、リティルは力なく、ゆっくりと頷いた。リティルの髪は解けてしまっていた。

「はは、原初の風の奴、自分で宿る者を決めちまったな……」

リティルは今にも閉じそうな瞳で、力なく笑った。

「リティル!おまえ……」

リティルの気配に気がついて、ルディルが倒れるような勢いで、シェラの膝に横たわるリティルの顔を覗きこんだ。今ここにリティルが存在していることを、信じられないという顔をしていた。

「……ルディル……心配かけてごめんな……原初の風が、助けてくれた……意思がある力なんて、聞いてねーぞ?」

「意志だと?そんなもん、オレは知らん!助けたのか?あの、綺麗で恐ろしい力が、おまえを?」

ルディルの言葉に、リティルは頷いた。

「セリア……ありがとな……あいつの言葉を、聞いてくれて……小さくなったけど、オレに戻れて、嬉しいらしいぜ?」

「そうなのね?よかった……リティル様に大事にされて、嬉しくて、力になりたかったって言ってたわ。そうしたら、強くなりすぎて困ったって。どうして言葉がわかったのかしら?宝石みたいだったけど、それでなの?」

セリアの疑問に答えられる者はいなかった。

「本当に意志があったのか?オレは感じたことねぇわ。だが、信じるぜ?このオレが持ってたときより、数倍強くなってたわ。力になりたかったかどうか知らねぇが、宿主殺すほど強くなるな!」

肝が冷えたと、ルディルは大きなため息をついて両手に拳を握った。

「はは、原初の風に悪気はねーよ……。ずっと、オレを守ろうとしてくれてた。オレが、強くなりそこなっただけなんだ……。なあ、セリア……よかったのか?」

「逃げられない口実ができて、よかったと思うことにするわ」

セリアは、シェラの後ろからリティルを覗きこんだ。そして、恥ずかしそうに笑った。その笑顔を見ながら、リティルはホッと息を吐き瞳を閉じた。


 リティルの肉体は最上級精霊への覚醒には耐えられなかった。力を得た原初の風は、リティルを一度分解するという荒技を使って、最上級精霊へリティルを押し上げてくれた。しかし、リティルはすぐには新たな体に馴染むことができず、今現在もベッドから起き上がれなかった。

「邪魔するよ?あー、君、そんな状態でも仕事したいの?」

広いベッドの上に書類が散乱していた。鳩たちは、リティルに見えるように空中に書類をくわえ上げて、代筆していた。リティルは、頭だけ動かして、寝室へ入ってきたルキを見た。遠慮のない来客に、鳩たちはサアッと書類を片付けて、ルキと入れ替わるように飛び去っていった。

「ハハハ、暇なんだよ、ずっと寝てるのもな」

「リティルは普段、動きすぎなんだよ。いい夢プレゼントするから、もっと寝てればいいよ」

リティルは怠そうにルキに手を伸ばした。ルキは、黒猫に化身するとベッドに飛び乗り、リティルの手に自らすり寄った。

「おまえ、フワフワで気持ちいいな。ルキ……来てくれて、ありがとな」

『フン、君の意識が消えてなくなったのを感じた、ボクの胸中察してほしいね。……無事でよかった。それから、最上級へようこそ』

どう?気分はと、ルキはニンマリ笑った。

「自分じゃ変わったようには思えねーよ」

『呆れたね。もの凄い力を感じるよ?それが収まらないと、ベッドから起きられないと思うよ?早く自覚しなね』

「そうなのか?ノインがな、部屋の真ん中辺からこっちにこられねーっていうんだよ。インファも近寄りがたいってさ。だから今、寂しいんだよ」

インファはそれでも来てくれるが、彼は副官だ。リティルが動けない今、城を滞りなく取り仕切ってくれている。忙しいらしく、なかなか来てくれない。

驚いたことに、ルキルース組はリティルに一切近づけなかった。

たまに、カルシエーナが扉を開けて、こちらをもの凄い顔で睨んでいた。しかし、睨むだけで部屋にすら入ってこない。一瞬完全消滅したことを怒っているのか?とも思ったが、どうもそうではないらしい。ケルゥも部屋に入れず、苦笑いを浮かべながら、別に怒ってないから気にするな、また来ると言って、その言葉通りにたまに扉を開けてそこから声をかけてくれた。

唯一全く平気なのは、セリアだった。彼女は、原初の風と言葉を交わしたよしみでなのか、凄まじい力を感じるが平気だと言っていた。しかし、シェラを差し置いてリティルのそばにいるわけにもいかず、一日に数回様子を見に、話し相手に来てくれるだけだった。

『うん、そうだろうね、これじゃあね。フフフ、インファが来てくれないのは、寂しいね』

ルキは、リティルの上の虚空を見上げたかと思うと、ニンマリと笑った。

「父さん、ちゃんとそばに行きますから、寂しがらないでください」

「うわ!インファ?今の聞いて──くそ!ルキ~!」

インファは苦笑いを浮かべながら、部屋に入ってきた。会話を聞かれたリティルは、ルキを捕まえると誤魔化すように頬ずりした。

 リティルの上を気にしながらそばに来てくれたインファは、椅子を寄せると座った。

「顔色いいですね。父さんほどの精霊でも、自分の力がどれほどのモノか、わからないことがあるんですね」

「うーん、そう言われると凹むけどな……。原初の風が、未だにオレを守ってくれてるんだよ。なあ、ルキ、オレ、まだ危険なのか?」

『いいや?もうその危険はないよ。今は、体と精神を休ませることだね。早くその凄まじい力収めないと、ノインが寂しがるんじゃない?』

「寂しがるあいつなんて、想像できるかよ!」

気持ち悪い!と、リティルは動かない体で身震いした。

だが、ノインが心配してくれているのはわかっている。平然と部屋の真ん中までは入ってくるが、無理をしているのが見ていてわかるからだ。それでも、律儀に報告と称して部屋にきてくれる。しかし、セリアがいるときに限って訪れて、彼女を弄るのはなぜなのだろうか。やりとりが面白くて、毎回笑わせてもらっているが、セリアには災難だろうなと、リティルは漫才コンビな二人を思い出して小さく笑った。

 そういえば、風からの報告でルディルとハルが城にきているらしいが、彼等はこの部屋に入れるのだろうか。そんなことを考えていると、廊下を走る足音が部屋の前で唐突に止まった。

「父さん!父さん!死んだって聞いたけど、生きてるよね?」

バンッと扉を乱暴に開いて、レイシが飛び込んできた。しかし、部屋の中程までしか入れずに立ち止まってしまった。

「あ、無事だ」

「生きてるよ!何だよ、おまえも近寄れねーのか?」

「うん、無理。何の鳥なのかな?もの凄い瞳でこっち睨んでるからさ」

レイシの目には、リティルを守るように縞模様のある大きな翼を広げて、こちらを睨む猛禽類の姿がはっきりと見えていた。これ以上近づいたら、食い殺されそうだ。

「鳥?インファ、おまえも見えてるのか?」

「ええ。父さんには見えないんですか?彼女はオウギワシですね」

「鷲なのか?おまえと一緒だな」

「オレはイヌワシです。父さん、彼女に威嚇するのは止めるように言ってください。白鳥のインリーは父さんの姿すら見られませんから」

ボク猫だけど平気と、ルキがニンマリ笑った。そんなルキに、下手したら食われますよ?とインファは冗談を返した。

「言って聞くのか?おーい、フロイン、オレの認める奴まで睨むのはやめてくれねーか?」

リティルの声に呼応するように、フワリと、荒々しくも優しい風が部屋の中を駆け巡った。

「余計怖いよ!」

リティルの枕元に太いかぎ爪を置いて、金色のオウギワシが具現化していた。レイシの目には、小柄なリティルが捕らえられて見えて落ち着かなかった。しかし、こちらに向けられた殺気が消えていた。

 レイシは恐る恐る近づいた。

「!」

座るインファの隣に立ったレイシは、リティルに腕を掴まれて驚いた。

「おまえは、大丈夫か?」

「弱ってるように見える?……大丈夫だよ」

レイシは鋭い瞳をリティルに向けると、すぐにフイッとそっぽを向いた。リティルに会うのは本当に久しぶりだった。無事な姿に、もの凄く安堵したのに、どうやら素直になれないらしい。

「師匠に、もう帰っていいって言われてる。もうずっと風の城にいるよ」

「そっか……よかった……」

リティルは顔しか動かせない状態だった。リティルの解かれた髪が、枕の上に乱れて広がっている。髪を縛ることもできないんだと、レイシは唐突に思った。リティルの黒いリボンは、シェラと夫婦である証なのに、それすら身につけられない状態にあることがわかった。そんな父の姿が痛ましい。

それなのに、リティルはどんな無理をして、今、この腕を掴んでくれているのだろうか。

腕を掴んでいる手の力が弱々しすぎて、レイシは何の力にもなれなかったことに苛立った。こんな状態なのに元気な方を気遣って、ホッとしている顔を見ていると、怒りが込み上げてくる。

「父さん、こんな時くらい、自分の心配してよ。みんな、オレには隠してて、セリアが教えてくれなかったら、知らないままだったよ!」

レイシは憎らしげにリティルを睨んだ。

ルディルとハルが血相を変えて風の城へ走ったとき、レイシはルキに呼ばれてルキルースに行っていた。リティルの暴走を感じたルキが、レイシが邪魔をしないように遠ざけたのだ。もしあの場にレイシが行っていたら、原初の風の欠片が共鳴して、レイシも暴走させられていたことだろう。そうならないように、ルキはリティルに代わってレイシを守ったのだった。そのことを、ルキはレイシに告げていない。すべてが終わった後、何食わぬ顔で太陽の城に返した。そしてセリアに、レイシにリティルのこと教えてあげてと、連絡したのだった。

「ごめん……どうにもならなかったんだ」

「父さんは、いつもそうだ!一人で抱えて、それでみんなに迷惑かけてさ!一瞬でも消滅したなんて!そんなこと……!オレ、許さないからな!」

レイシの鋭い瞳から涙が流れ落ちていた。

「レイシ……ごめん。ごめんな」

リティルがそういう目に遭ってしまったのは、何も父のせいばかりではないことを、レイシにもわかっていた。けれども、謝罪の言葉しか繰り返さない父に、レイシは怒りばかり募ってしまった。こんなに優しい父を、気遣う余裕すらない。激しく責めるレイシと、それを受け入れるリティルを、静観しているインファの余裕さにも、苛立った。

こんな、こんな、思ってもらう資格ないのに!レイシは腕を掴んでいるリティルの手を振り払うと、怒りを剥き出しにした鋭い瞳で激しく睨んだ。

「しばらく許さないからな!」

レイシはそう叫ぶと、涙を拭いながら怒って部屋を出て行ってしまった。

 激情に流された弟の背を見送って、インファはダラリと力を失ってベッドの縁から落ちているリティルの腕を取ると、労るように優しくリティルの腹の上に乗せてやる。

「レイシの怒りは当然ですよ?なぜ、早くオレに原初の風の欠片を、渡してくれなかったんですか?渡すと、言っていましたよね」

インファは諭すように優しく、リティルの行いを責めた。

「それな、フロインが不安そうにしてたんだ。おまえに渡して、おまえに何かあったら耐えられねーよ」

インファはオウギワシを見て、フロインと言うんですねとつぶやいた。そして、静かな怒りの籠もった瞳をリティルに向けた。

「父さんらしい理由ですね。オレは候補者として認められていたんでしょう?多少の苦痛許してくださいよ。本当に……そんな理由で、一回死なないでください」

そう言って、インファは溜息交じりに笑った。

「ごめん」

『ホント、ホント。君の命は、君だけのモノじゃないんだよ?もっと、自覚持ちなよね』

ルキはトンとベッドから降りると、そろそろ帰らないといけないからと、化身を解き、じゃあねとルキルースへの扉を開いて帰っていった。

去って行くルキの背中に、またな!と声をかけて、リティルはそばにいてくれるインファに視線を戻した。

「インファ、もう一つ、怒られそうなこと言っていいか?ずっとシェラに逢ってねーんだけど、あいつ、どうしてる?」

はい?今なんて言いました?あなたは目が覚めてから今日で何日目ですか?何を悠長に!そういうことは初日に聞きますよね?あなたは何をしでかしたのか自覚ないんですか!

全部怒鳴らなかったことが、不思議なくらいだった。インファはこれでも、かなり感情を抑えた方だと思った。

「……あなたという人は!あれからずっと逢っていないんですか?何をしているんですか!何よりも先に母さんに逢わなければいけないでしょう!フロイン、控えなさい。王に苦言を呈するのは、副官であるオレの仕事です。邪魔を、しないでくれませんか?」

ガタンと立ち上がったインファの瞳が、絶対零度に冷えていた。そして、インファの静かな怒りに反応したオウギワシが威嚇しようとしたが、彼の剣幕に押されて、弱々しく鳴くことしかできなかった。

「あ、あのな、ゲートで話しかけても応えてくれねーんだよ!オレが寝てるときには、来てくれてるみてーなんだけどな。なあ、シェラ、どうしてる?シェラ、ちゃんといるよな?」

うわ!怖っ!予想以上の息子の怒りに、リティルはたじろいだが、何とか状況を説明できた。リティルの言葉を聞いて、インファの瞳に温度が戻ってきた。

「避けているのは、母さんでしたか……。声を荒げて、すみませんでした。……連れてきますから、待っていてください。フロイン、王と王妃を邪魔することは、この雷帝が許しませんよ?心得ておきなさい」

インファは何とか怒りを収めると、オウギワシを一睨みして、足早に部屋を出て行った。

「……フロイン、怒られちまったな。ははは、オレの副官、優秀だろ?」

リティルは戸惑うオウギワシを仰ぎ見ると、そう言って信頼した笑みを浮かべた。


 応接間には、ルディルとハルが来ていた。

シェラとノインが対応し、そのそばに、セリアが控えていた。

「そうか、原初の風がな」

ルディルは腕を組むと、風の城の奥へと通じる扉を見やった。そして、ハルを促して諦めたようにソファーに腰を下ろした。

レイシを送ってきたついでに、リティルを見舞うつもりだったが、原初の風が威嚇していると聞いて、会わない方がいいかと判断したのだった。

「今は刺激しない方がいいわ。大丈夫、原初の風はリティルを護りたいだけだから」

「わかった。リティルが動けるようになるまで、オレ達は遠慮するわ。だがなぁ、おまえまで閉め出されるってのはどうなんだ?インファは平気なんだろう?」

平気じゃなくても行くのがインファだけどなと、ルディルは笑った。だが、すぐに真顔になってシェラを窺った。

「いいの。わたしは……今、リティルが生きているということだけで、いいの」

シェラは寂しそうに、けれども噛みしめるように天井を見上げた。

その様子が臆病に見えて、ハルは少しシェラが心配になった。もしかすると、原初の風のことは言い訳で、シェラがリティルの所に行かないのは、別の理由があるのでは?と、思えた。

「母さん、あなたが遠慮してどうするんですか?あなたは風の王の妻ですよ?傍らに居なくてどうするんです?」

「インファ、でも……わたしは……」

城の奥へ続く扉が開いたかと思うと、インファが鋭く飛んできて、シェラの座るソファーの後ろに舞い降りた。

「フロインとは話をつけました。風の王妃、王に逢いに行ってください」

「フロイン?」

「原初の風ですよ。王が名をつけて具現化しました」

感じませんでしたか?と、インファは言った。ルディルは、こんな何かに睨まれてるような空気の中、そこまで感じ分けられるか!とツッコんだ。城の住人には感じないが、来客達はどうやら、応接間にいてもフロインの威嚇を受けていたらしい。

「具現化したのか?あの力がか?」

そう言われてみれば、あれだけ感じた殺気がなくなっているなと、ルディルはやっと気がついた。

「自ら望んだように見えましたよ?よほど、父さんを生かしたいんですね」

インファの言葉に、ルディルはどこか納得したように腕を組んだ。

「リティルなあ……何か、放っておけねぇんだよなぁ。危なっかしいっていうのか?放っておくと、いきなり死にそうでな」

「そうそう!案外強いのに、なぜか守ってあげたくなるのよね」

「ここにいる面々は、皆、同じようなことを言いますよ?オレも同感ですけど。母さん、父さんが待っていますよ?行ってあげてください」

「行ってやれ、シェラ。風だ花だと関係ねぇわ。おまえはおまえだろう?リティルが動けりゃ、即飛んで来てるぞ?今は、おまえが行ってやれ」

シェラは自信なさげに両手を胸の前で合わせていたが、深く頷くと席を立っていった。

「リティルに手が届かなかったことが、相当哀しかったのだそうだ」

シェラの行った扉を見つめながら、静観していたノインがつぶやくように言った。

「そりゃ、切ないわ。風は本来、花を傷付けるだけの力だからな。あれももしかすると、リティルがシェラを傷付けないようにするための、原初の風なりの優しさだったのかもな」

ルディルの言葉を聞いて、セリアはきっとそうだったんだと思った。あの時、原初の風は、自分の力を抑えきれずにリティルを引き裂きながら、助けてと言って泣いていた。

とても優しい意識だったのだから。

 ルディルはふと、セリアに視線を合わせた。

「それで?セリア、いつなんだ?」

「え?いつって、何?」

「とぼけるな。フロインを産んでやるんだろう?予定日はいつだと、聞いているんだ!」

「ちょっと!そういうこと、こんなところで聞く?」

セリアは隣に立つインファをチラリと見て、すぐに視線をそらすとアタフタした。

そんなセリアの様子に、あ、まだなんだと皆察した。

「あ?あのなぁ、まだ、そんなこと言っていやがるのか?フロインって名前からして、おまえらの子だろう?」

ルディルは、しかたのないとため息をついた。

「……フローライトの風。か」

ノインがクックックと小さく笑いながら、言った。フローライトとは、蛍石のことだった。しかし、違うとノインはわかっていた。

フロー――精霊の言葉で歌という意味で、歌う風という意味だろうなと内心思ったが、言わなかった。フローライトと精霊の言葉のフローが、たまたま一緒だっただけだ。

セリアはもう、心臓がどうにかなりそうだと、顔を両手で覆うとソファーの後ろに沈んだ。

「リティルの奴、いい名を考えつくものだな」

どうやらルディルもインファも、フロインの名の意味を本当はわかっている様子だった。けれども、冗談だとセリアに教えてやらないらしい。

「ええ、そうですね……」

そう言って、ソファーの後ろに隠れているセリアを、引き起こしたインファの左手の薬指には、トパーズと蛍石とダイヤモンドの小さな石が散りばめられた指輪が光っていた。インファの腕を掴んで、恥ずかしそうに立ち上がったセリアの指には、金色の羽根がクルリと優しく巻き付いた指輪があった。

「ね、ねえ、でも、リティル様の守護鳥と同じ名前にしちゃうと、紛らわしくない?」

「セリア……そういう心配はなぁ、作ってからしねぇか!」

「もおおおお!ルディル様、やめてってば!」

顔を覆って、再びソファーの後ろに座り込んでしまったセリアを見ながら、皆は前途多難だなと言って笑った。


 シェラは、リティルのいる寝室の前まで来たが、なかなか中に入れなかった。

実はフロインは、シェラを威嚇してはいない。それどころか、リティルが深く眠っている間に来て、すぐにいなくなってしまうシェラを、何度も何度も鳴いて引き留めようとしていたのだった。しかし、シェラは逃げるようにいなくなってしまう。実体のなかったフロインはとても歯痒かった。

 シェラが扉を開けられないでいると、不意に扉が開いた。中にはリティルしかいないはずなのに……シェラは驚いて、少し開いた扉を大きく開いていた。足下に、大きな大きな金色の鳥がいた。この鳥がフロイン?フロインはシェラが姿をさらしたことを見届けると、満足そうに廊下に出て、シェラを部屋の中に頭で押し入れると、扉を閉めてしまった。

「シェラ、オレのこと怒ってるんだよな?ごめん。謝るから、こっちに来てくれねーか?君を、捕まえに行けねーんだ。頼むよ、シェラ!」

扉の前から動けないでいるシェラに、リティルは寂しそうに微笑んだ。その微笑みを見たシェラは、弾かれたように駆け寄ると靴も脱がずにベッドに飛び乗っていた。

スプリングの効いたベッドが、大きく揺れる。

「……ごめん。ホントに、ごめんな?」

ギュッと抱きしめてくる妻に、リティルは重たい腕を何とか持ち上げて抱きしめ返した。

「わたし……こんなに自分を呪ったことはなかったわ……風の精霊だったら、もっと風と相性のいい精霊だったら!フロインも、あなたも、傷つかずにすんだのに……」

「はは、オレには、君じゃなきゃダメなのにか?君が花の姫だったから、オレはこれまで生きてこられた。君は無理にでも、オレに二人もくれた。それなのに、他の精霊の方がよかったのか?君は君だよ。全部ひっくるめて君なんだ。シェラ、ごめんな?オレとフロインは、誰も傷付けたくなかったんだ。君にも、インファにも傷ついてほしくなかったんだ。フロインは後悔してた。オレを引き裂いたとき、優しいだけじゃダメなことを知ったらしい。オレはそれでもよかったんだけどな」

「消えてしまってもよかったといいたいの?」

リティルは首を横に振った。

「ルディルは封印を完成させてねーよ。あと一文字、あの輪っかに書き足してたら、オレはしばらく眠ることになってた。消えたりしねーよ。ただ、しばらく逢えなくなってただけだ。あの魔法は、力を押さえる結界じゃねーよ。存在を維持したまま封じる、封印だ。ちょっと、えぐくて、それでルディルは躊躇ったんだよな。セリアが引き受けてくれて、助かったぜ」

精霊の言葉の描かれた金の輪、そこに四肢と首を鎖で縛り力を封じる。さらに、意識と魂を封じる剣を、対象者に突き立てて完成させる。セリアは、ルディルがリティルに、二本の剣を突き立てることを止めたのだ。

「ヒドイわ、リティル……」

「ああ、そうだな。オレはいつもヒドイことしてるよな。みんなの気も知らないで。オレはこれからも、自分を犠牲にし続けるぜ?シェラ、君に耐えられるか?」

シェラは顔を上げた。その瞳は泣いていなかった。

「それがリティルなのよ。だからわたしが、わたし達がいるの。あなたを守るために。あなたが、その身を投げ打って誰かを助けられるように、わたし達が守るのよ。リティルのそばにいるわ。あなたが望むなら、何度でも誓うわ。わたしは、何があってもリティルと共にあるわ」

「ありがとな、シェラ……。オレ、君がいねーとダメなんだ。はあ、やっと捕まえた。オレ、今度こそ嫌われたと思ったぜ……」

リティルの言葉に、シェラはあり得ないと首を激しく横に振った。

「ごめんなさい……リティルに手が届かなくて、それがとても、ショックで……もう、そんな我が儘は言わないわ。だから、これからも、そばにいさせてね」

「そばにいてくれなくちゃダメだぜ?離れないでくれよ?シェラ。君の事、離れられないように縛ってやるからな!」

リティルの手が、ゆっくりとシェラの頭を撫でた。シェラの髪に金色の煌めきが留まり、羽根の形をした髪飾りが現れた。

「オレの牙、壊れちまっただろ?だから、今度はもっと派手にオレのモノだって主張してやるよ」

「……リティル、体が動かせないくらい弱っているのに、こんな魔法使ってはいけないわ?」

「これくらい許してくれよ。オレのモノだっていう証がねーと、落ち着かねーだろ?シェラ、ゲート閉じるなよ?オレ、まだ動けそうにねーんだ。君にも代理を務めてもらわねーといけねーからな。ゲートで繋がってれば、寂しくねーから」

「ごめんなさい……声を聞くことさえ辛くて……。もう大丈夫だから……」

動けないリティルに代わって、シェラはキスをした。

「あれは……オレも堪えたぜ。君に手が届かないことが、こんなに辛いと思わなかった。シェラ、君に触れられる。まだこの体があってよかったぜ……」

リティルの噛みしめるように閉じた瞳から、涙が流れ落ちた。

「みんないてくれるわ。だから、時が許すかぎりずっと、わたしが触れているわね……」

シェラは靴を蹴り落とすと、リティルの隣に潜り込んでギュッと抱きしめた。そんなシェラに、リティルは安堵して頬を寄せた。


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