Ep.3 はじめての中間テスト⑫
「失礼します……」
「ああ……っていやいやいやいやいや」
見られるのが恥ずかしい、とかそんな次元を吹っ飛ばして一緒に入ることになるなんて誰が予想できただろうか、いや誰もできなかったに違いない。
若干混乱している頭で、反語を用いながら自分の思考を文字化していると、この状況を作り出した張本人、汐音が口を開いた。
「なんだか、久しぶりですね」
久しぶり……というのは、俺と一緒に風呂に入るのが、だろうか。確かに、思い返せば小学生の頃は一緒に入っていたな。
「……そうだな」
少し気恥ずかしさは残るが、あまり意識しすぎるのも良くないだろう。冷静さを少し取り戻した俺はそう答える。
「もう、どいてください。ボディソープ入れ替えられないじゃないですか」
「す、すまん」
「だいたい、兄さんはいつもいつも気が利かないんですから。この前だって……」
汐音は日ごろの俺への不満をぼやき始めた。小学生の頃は兄さん兄さんって俺の後ろをちょこちょこ付いてきてたのに、いつから立場が逆転してしまったんだろうか。
俺が補充されたボディソープを受け取り体を洗い始めると、「後ろ、絶対に向かないでください」と釘を刺してから汐音はシャンプーのボトルを手に取った。いや、妹の裸に興味は無いし、見たら命が危うくなるので振り向きませんて。
お互いに一通り体を洗い終えたので、背中合わせになって浴槽につかる。背中が重なっているためなんとも落ちつかないが、平常心平常心、と努めて自分に言い聞かせる。
「汐音、そういえば塾の方はもう慣れたか? 宿題、だいぶ多いみたいだけど」
「兄さんとは違いますから。先週の模試も、クラスでは2番目の成績でしたし」
ふふん、と心なしか誇らしげに答える汐音。「流石だな」と若干の驚きと羨望を含めて返すと、
「そんなことより兄さん……本当に良かったんですか?」
「あ? 何がだ?」
「私に塾に行く権利を譲ってくれたことが、です。前にも言いましたが、私は白河なら塾無しでも十分……」
「汐音、賭けの結果を蒸し返すのは無しだぞ」
(瑠美との賭けを強引な理由で有耶無耶にした俺が言うのは、説得力に欠けるけどな!)
汐音がそれを知らないのを良いことに、もっともらしいことを語る。それを聞いて、
「……そうですね。本当にありがとうございました」
とやけに殊勝な態度で汐音が感謝を告げてきた。
「……素直にそう言われると調子狂うな」
「ていっ」
思わず感情を吐露すると、背後から脇腹をつつかれた。
「ぐふっ……やめろよくすぐったい」
「ふん、兄さんの弱点なんていくらでも知ってるんですから」
どうも少しご機嫌を損ねてしまったらしい。さっきまでの殊勝な態度や何処に。
「話を戻しますが、兄さんこそ勉強の方は大丈夫なんですか? そろそろ中間試験ですよね」
「やらなきゃいけない科目も減ってるし、今回は勉強もかなりしてるから大丈夫……と思う……」
それは嘘じゃない。時間だけで見ても、放課後は毎日閉館まで図書館に籠って勉強しているし、音羽さんが効率性とか色々考慮しながらやるべき課題を決めてくれている。
何より、今まではテスト直前に範囲の教科書を読む程度しかしていなかった俺が、試験範囲の教材全てに目を通した上で出題されそうな箇所の目星までつけているんだ。色々してくれた瑠美に報いるためにも、これで悲惨な点数を取ることは許されない。
それでもなお、やっぱり不安は拭えない。高校時代に受けたテストで平均点を越えたことは数えるほどしかない俺が、たかが1か月弱勉強しただけで良い点数を取ることができるんだろうか。自信の無さで語尾が消えかける。
「兄さんって、すごいですね」
「え?」
一体何を考慮に入れればその感想が出てくるのか、思わず後ろを振り返ると汐音もまたこちらに首を傾けていた。髪を頭の上でまとめているため普段は見えない首元が見えて、なんだかいつもより大人っぽく感じる。
「今まで頑張ってきてない人は、たとえ受験が差し迫ってきても本当に直前になるまで焦りません。でも、兄さんは違いました」
顔を自分の正面に戻し、少し上を見上げて言葉を続ける。
「前に体調崩した時以来、兄さん寝る前にスマホを使わなくなりましたよね」
「……ああ」
「寝る前に弄りだすと、知らぬ間に時間が過ぎてっちゃいますもんね」
汐音が言った通り、俺は最近スマホに触れる時間がめっきり減った。
もちろん、調べ物をするときとか友人とチャットをするために使ってはいるが、動画を見たり、Twitterで下らないネタを見て笑ったり、そういう目的では一切使っていない。
寝る前に居間に持ってきて、そこで充電しているのを知ってたのだろう。汐音の声色は、どこか優しい。
「大丈夫ですよ、兄さんなら。勉強はとても正直者なんです。ちゃんとやっている人には、相応の結果が付いてきますから」
汐音は地頭がいいわけではないし、小さいころから塾や通信教材を与えられていた訳ではない。だからこそ、彼女が言うことは説得力があった。彼女自身、そうして現在の学力を、成績を手に入れたのだから。
不安が押し寄せていた心に、少しゆとりができた気がする。
「ありがとな」
正直、自信はまだ持てない。でもやるべきことは明らかだ。頭の上に載せていたタオルを手に取り、俺は浴槽を出た。
「頑張ってくださいね。兄さん」
汐音のエールを背中で受けながら、俺は手早く着替えを済ませ自分の部屋に向かう。そして、鞄に入っていた古典演習のテキストを取り出して、途中で終わっていた品詞分解の続きに手を付けた。
次回、いよいよ中間テスト!




