Ep.3 はじめての中間テスト⑨
俺がそう言うと、一瞬彼女は面喰ったような顔をした。
「そ、そうかもしれませんけど、でも……!」
「でも、じゃない。悪口を吹聴したのだって、皆に音羽さんを仲間外れにするように言ったのだって、全部そいつらの勝手だ」
先ほどの苛立ちは、一つには「音羽さんを自分の意に沿わないからという理由で攻撃した彼女の同級生二人」に向けられていた。
それと、もう一つ。
「なんでそんなに酷いことをされてまで、音羽さんはその人たちを……「あやちゃん」を庇うんだ?」
確かに、いじめの主犯格は違ったかもしれない。だが、「あやちゃん」は全く悪びれた様子もなく音羽さんのトラウマを掘り返してきた。
「だ、だって、あやちゃんは……」
「友達じゃない。嫌がるようなことを平気でしてくる人のことを友達なんて言わない」
小さい子に言い聞かせるように、俺はゆっくり、はっきりと告げる。残酷かもしれない。でも、きっと彼女は、自分では認めることはできないだろうから。
俺は、彼女が自分自身をあまりに卑下していることいどうしようもなく怒りを覚えていた。
「音羽さんは、ナメられてるんだよ。その人たちに」
「……」
「何かあったら自分が悪いんだって自分を責める。自分は悪くないのに、謝ってくれる。いじめる人からすれば、こんな格好のターゲットはいないさ」
いじめる人の心理について詳しいわけではないし、詳しくなりたいとも思わない。でも、彼らの中に「アイツより優位にいたい」「アイツを見下すことで、自分が“上”の人間であることを周りに見せつけたい」という思いがあるのは間違いない。
そんな人たちにとって、放っておいても自分より下の立場になってくれて、自己嫌悪に陥るだけで解決に向けて動き出そうともしない音羽さんはさぞかし“いじめがい”があっただろう。
初めて会った日にも言ったことだけど、と前置きした上で俺は言葉を付け加える。
「あんまり、気安く謝らない方がいい。相手が下手に出るとつけあがる人ってのはどこにでもいるんだ。自分が悪くないときは堂々とすることも、必要だと思う」
ニュースで見た近年のクレーマーの奇行を思い起こしつつ、彼女を諭す。性格的に難しいところはあるだろう。でも、今後のことを考えれば、何でもかんでも謝るクセというのは百害あって一利あるかどうか、といったところだ。
少し説教っぽかっただろうか。柄にもなく先輩風を吹かせすぎたかな、と心の中で反省をしていると、目の前から静かな嗚咽が聞こえてきた。
「じ……じゃあ……私は、どうすれば良かったんですか?」
「そうだな、一人で抱え込むんじゃなくて、周りの人に」
「頼れる人なんていなかったんですよっ!」
彼女は、いつもは鈴を転がすような綺麗な声を荒げた。やや慄く俺に構わず、彼女はところどころしゃくりあげながら言葉を続ける。
「友達に、相談しようとしたこともありました。でも、皆「大丈夫?」って心配の言葉をかけてくれるだけで、具体的な行動をしてくれた人は……お、お父さんだって! 私が学校に行けなくなって初めて、『転校するか』って……」
聡明で、心優しい彼女は分かっている。彼らが「ひどい」人ではないことくらい。だからこそ、怒りの矛先をどこへ向ければ良いか分からなかったのだろう。いじめた人に? でも彼らは友達だ。少なくとも、自分にとっては。じゃあ助けてくれなかった人に? でも、彼らにだって事情がある。
「だから……私が悪いんです。私が悪いから、私は、私がいじめられるんです」
自分に言い聞かせるように彼女は呟く。頬をつたう涙は、彼女が小さな手で拭っても拭っても止まる気配を見せない。
自分が悪いことにすれば、他の誰も傷つかない。心優しい彼女らしい選択だが、それは他人を傷つけない代わりに彼女の心に小さな傷を幾重にも刻んでいた。
もう我慢ができなかった。今も過去に囚われ自分を責め続ける彼女を前に、何もせずにいるなんて。
「自分が悪い」と呟きながら涙を流し続ける彼女の頭を、俺は自分の胸で抱き留めた。右手で頭を撫でる。突然の俺の行動に驚いた様子だった音羽さんも、やがて諦めたように俺に体を預けてなすままにされた。
その状態のまま、俺は静かに口を開く。
「音羽さんは、優しすぎるよ。もっと自分勝手になっていいんだ」
「……でも、そうしたらまた皆に……」
「本当に辛い時に、本当に困っている時に助けてくれない。そんな人ばっかりなのか? 音羽さんの友達って」
髪を撫でる俺の腕の下で、彼女の頭はしばしの逡巡の後にふるふると横に動いた。
「きっと、音羽さんのことを心配して、なんとかしてあげたいと思ってた人はいたんだと思う。でも、全部音羽さんが抱え込んでしまった。きっとその人たちは、音羽さんが大丈夫じゃないことは分かっていても、どうすればいいか分からなかったんだと思う」
これだけ魅力的で、友達思いの子だ。妬みを持つ子も少なくはないだろうが、それ以上に彼女の力になりたいと思ってくれる人もいただろう。彼女が手を差し伸べさえすれば、きっと誰かがその手を取ったに違いない。その勇気を、きっかけを彼女が作れば。
「……じゃあ、皐月先輩は……」
小さな、耳を澄ましていなければ聞き逃していたかもしれないほどの声量で彼女は俺に尋ねる。
「皐月先輩は、もし私がいじめられていたら、悪口を言われてたら、助けてくれますか?」
「もちろん助けるさ」とか「放って置くわけないだろ」みたいな返答が、彼女に何の意味ももたらさないことは分かっている。それを素直に受け止められるほど、彼女の過去は軽くはない。
だから、俺は正直に答えた。
「俺ができることなんて大してないし、次そういうことが起こったら、音羽さんだけでなんとかできちゃうかもしれないな。でも」
下を向けばすぐに彼女の整った顔立ちが目に入る。音羽さんは俺の発言を一言たりとも聞き漏らさないと言っているかのように、真剣な眼差しをこちらに向けていた。
緊張から乱れそうになる呼吸をゆっくりと整え、俺は自分の心の中で思っていることを素直に言葉で表した。
「こうやってまた、君の話をちゃんと聞くから。困ったときに頼れるような、君の……友達に、俺はなりたい」
自分の言葉が彼女に響いたか、それを確かめるのが怖かった。言い終わった後、俺は音羽さんの目を見ることができず、無言のまま彼女の頭を再び撫で続ける。
どのくらいの時間そうしていただろうか、気が付いた時には先ほどまで聞こえていた鼻をすするような音は、もう聞こえなくなっていた。それでも彼女は、押し付けた自分の頭をいつまでも俺の胸から離そうとはしなかった。




