Ep.3 はじめての中間テスト①(授業③「仮定法の倒置、他」)
「……次が最後の問題ですよ。準備はいいですか?」
「よしっ、来い!」
向かい合って互いを見つめ合う俺たち二人の間には、今までにない緊張感が存在した。
「これをもし間違えたら……ふふ、分かってますね?」
「ああ。男に二言は無い」
数日前、俺は音羽さんと『賭け』をしていた。今日、その結果が明らかになる。
(簡単には負けられない……!)
「最後は……これですっ!」
そう言って白い面が表になっていたプリントを裏返す音羽さんwith眼鏡。そこには、シンプルな英文法の問題一つと、その解答欄だけが丸っこい字で書かれている。
問:次の英文の誤っている箇所を訂正し、正しい英文を書け。※文章に誤りが無い場合は「なし」と書くこと。
Had it been not for your advice, I couldn’t have remembered the name of the city where I visited once before.
「たしか、『間違っている箇所を選びなさい』ってタイプの問題は、まず日本語の訳がどうなるかを確かめることから始めるんだったよな。『Had it been not for your advice』の部分は……あれ、これもしかして仮定法の倒置か!?」
「ふふん。制限時間は2分間ですからね♪」
肯定も否定もせず、ぶつぶつと呟きながら苦悩している俺に面白がるような視線を向けてくる音羽さん。この子、もしかして意外とSの気があるのか……? いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「仮定法の倒置だとすると……元の形は『If it had been not for your advice』か。たしか、『~がなかったとしたら』って訳になるんだよな。じゃあ、日本語訳は、『もしあなたのアドバイスがなかったとしたら、』が前半部分か。ここは……特に間違いは無さそうだな」
「あと1分20秒ですよ~」
「後半は『I could have remembered』だから『私は思い出すことができなかっただろう』か。で、『the name of the city』の部分が『市の名前』。次の部分は……あっ!」
順に問題文を読み進めて行くと、一つの違和感にぶち当たった。「本当にこれでいいのか?」と俺の中の何かが語りかけてくるような感じがする。
「『I visited once before.』で『以前一度訪れたことがある』だよな。この部分が『city』を後ろから詳しく説明しているから、『city』と『I visited once before』の間には関係詞が入るのは間違いないと思うんだが……これ、『where』でいいんだっけ……」
「さぁ、残り時間50秒くらいですよー! そろそろ間違っている箇所を見つけないと、答えを書く時間は無くなっちゃいますっ」
「いっそげっ♪ いっそげっ♪」と妙にウキウキなテンションでこっちを焦らせる音羽さんに気を散らされないように、目を問題用紙に落とし必死に英文を見つめる。
「……『visit』は確か、後ろには『行き先の名称』が前置詞無しで来るんだよな。ってことは、『where』以下の文は元々……」
ぶつぶつと呟きながら、解答用紙の余白に『I visited the city once before』と書く。……そうだよな、やっぱりそうだ!
この解答で間違いない。そんな確信をもって
「よし、出来たっ!」
迷わずシャーペンを動かし、自分の渾身の答案を解答欄に書き込んでいく。
「できたっ!」
「うんっ、ちゃんと時間内に回答できてますね! さてさて、先輩の書いた答えは……」
ごくりっ、と唾をのみ込む。いや、落ちつけ俺。ちゃんと間違いの箇所を見つけて直せたんだ。根拠だってちゃんと説明できる。だからきっと……
じーっと覗き込んでいた解答用紙から顔を上げて、こちらを見る音羽さん。次の瞬間、にこっと笑って……
俺の渾身の解答に無情にも×マークを付けた。
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「……聞いてないし。俺、間違っている箇所が二か所もあるなんて説明、されてねぇし」
「もうっ、拗ねないでください皐月先輩っ」
いや、これで拗ねるなという方が無理である。
俺の解答は、『Had it been not for your advice, I couldn’t have remembered the name of the city which I visited once before.』。
「今回の問題は、『I visited the city once before』の『the city』の部分が関係代名詞になるので、前置詞は含まれてないんです。だから、『前置詞+which』の代わりである『where』は使えない……というところまで気づけたのはよかったんですけど」
「まさか、二か所も間違いがあるとは……確かに、『If it had not been for』が正しい語順だもんな。『If』を消して倒置すると、『had』が先頭に出てきて『Had it not been for』になる……言われたら、気づけるけどさ」
俺は再び大きくため息をつく。正解は『Had it not been for your advice, I couldn’t have remembered the name of the city which I visited once before.』。惜しいところまではできていただけに、余計悔しい。
「でも先輩、10問中8問正解できたのはすごいと思います! ゴールデンウィーク中、毎日文法書の問題を解き続けた成果が、さっそく表れてますね!」
「まぁ、読んでも分からないところは音羽さんに解説してもらってるしな。それに、この問題だってテキストで見たことあるのばっかりだったし」
「入試問題だってそうですよ! 文法書に全く載っていないような問題を出すような学校は一部の超難関大だけです。ほとんどの文法問題は、市販の参考書を見れば絶対に似たような問題がありますから」
「そう言われればそうなんだが……」
大学図書館の休憩室にあるテーブル席は、すっかり俺たちの指定席と化していた。規模の割りに利用者が少ないようなので、休憩室で他の利用者と鉢合わせることはもともと稀だった。ゴールデンウィークに入って大学が休みになったのか、ここ数日はほぼ一日中休憩室にいるが人が入ってきたのを一度も見たことがない。
「それにしても、よく祝日なのに開館してたよな。てっきり使えないもんだと思ってた」
「一昨年までは土曜日と日曜日、そして祝日は閉館日だったみたいなんですけどね~。昨年からなぜか急に変わったみたいで。何があったんでしょう?」
「まぁ、助かるんだけどな。いつも通り勉強することができるし」
職員の人は休めているのだろうか、なんてことを考えながら俺は手にした単語プリントをパラパラとめくる。
正直、これを全部覚えたという自信はまだない。特に、似たようなスペルの単語の区別がニガテだ。『compose』『compel』『compromise』……ダメだ、心の中の野村〇斎が「やっやっこっしっやー、やっやこっしやー」と首を右に左に繰り返し傾げてる。
「ふふ、先輩。結局、『賭け』は私の勝ちですね?」
「うっ……ま、まぁそうなるな」
言われて思い出した。俺が音羽さんとした賭けの内容は、「ゴールデンウィーク最終日に音羽さん特製テストに合格できるかどうか」だ。テストは10問、全部英語の文法に関係する問題で、合格点は9割。つまり、一問しかミスできない。
結局、8問しか正解できなかったから俺の負けである。
「ちゃんとお礼したかったんだけどなぁ」
「本当に気にしなくていいんですよ。私も楽しくてやってるので!」
ぼやく俺を見る、音羽さんの目は優しい。眼鏡の奥にある彼女の綺麗な瞳を直視するのはなんとなく恥ずかしく、視線を明後日の方向に向けながら、俺は今回の「賭け」に至る経緯を思い出していた。




