Ep.2 勉強場所を確保せよ!⑫(授業②「単語勉強の仕方」)
「忘れるつもりで覚えるって……どういうことだ?」
「言葉の通りなのですよ♪」
謎かけか何かだろうか。首を傾げるばかりの俺を楽しそうに眺めながら、音羽さんは再び口を開いた。
「例えば、今週で1500個の単語を全部覚えることができたとしますよ? じゃあ、先輩はその単語を入試の日まで忘れずに覚えておけますか?」
「絶対に無理だな」
即答してしまった。情けないけど、こればっかりは自信がある。
「そうですよね。ほとんどの人はできないと思います。だから、目標にするのは細かい意味までぜーんぶを覚えることじゃないんです」
「……じゃあ、何を覚えればいいんだ?」
「皐月先輩、もう一回単語プリントを見てください」
言われるままに、手元に視線を下ろす。
「たとえば、そうですね……『observe』という単語がありますよね?」
「おぶざーぶ……これか。意味は「観察する」「述べる」「遵守する」……って、結構あるな」
「そうなんです。どの意味も入試問題で聞かれるので、いずれは覚えておいた方が良いのですが……とりあえず、今日は『観察する』という意味だけ覚えてしまいましょうか!」
「『observe』が『観察する』、か。観察する、観察する、『observe』、観察する……」
何度か口に出して、繰り返しながら覚えようとする。すると、音羽さんが目を輝かせて
「音読するのは、目と耳と、そして口を動かすので暗記のときはすっごく効果的なんですよ!」
と絶賛してきた。確かに、自習室で目だけを使って覚えようとしてた時とは違って「単語を覚えられている感じ」がする。
「あとは、単語を覚えた後に、その単語を使った例文を自分で訳してみるのも良い勉強法ですね。皐月先輩、『Please observe the apple more carefully.』という例文、日本語にできますか?」
音羽さんは非常に綺麗な発音で一つ例文を読み上げ、それを取り出したメモ用紙にも書いてくれる。メモ用紙には、この前使っていたLINEスタンプでも見た可愛らしいあざらしが印刷されていた。好きなのかな、このキャラクター。それはさておき、
「んー、『もっと注意深くそのリンゴを観察してください』……で合ってるか?」
「正解ですっ! 美術の授業でリンゴのデッサンをする生徒に対して、先生が『よく見て書きなさいね』と注意をしている時に使う……かもしれないセリフですね」
やたらと状況設定が細かい。たぶんこの例文を実生活で使うことはないだろう。うん。
でも、おかげで『observe』に『観察する』という意味があることはしっかりと覚えられた気がする。単語を見ただけで、さっきの例文まで思い出してしまいそうだ。
「ちなみに、単語のスペルまでは覚えなくてもいいんだよな?」
「はいっ! 英単語を見て、日本語の意味さえ出てくれば受験では十分ですよ」
プリントに載っている他の単語に目をやると、『exist』『include』『summary』……知らない単語がずらりと並んでいる。でも、とりあえず一つの英単語につき一つの日本語訳を覚えるだけなら、そこまで難しくはないんじゃないか?
「よし、まずは10個覚えてみるか」
「はいっ! 一気にたくさん覚えようとしないで、少しずつ、寝る前とか授業の休み時間とかのスキマ時間を有効活用してくださいねっ」
10個だけと決めれば気も楽だ。俺はプリントを睨みながらぶつぶつと、英単語の発音と意味を繰り返し音読する。音羽さんは、そんな俺を目の前からずっと見守ってくれていた。
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「ふぅ。4時間も居たのに、100語くらいしか覚えられなかったな。まぁ、途中に別のことをしてたからだけど……」
「し、仕方ないと思います! 学校の宿題も大事ですし。それに、その……一気にたくさんの単語を覚えようとすると、頭の中でこんがらがっちゃうので、あんまり短時間に詰め込み過ぎない方がいいかもしれません」
閉館した図書館を後にし、俺は彼女をバス停まで送っていた。音羽さんはもう眼鏡を外しており、いつもの引っ込み思案な(って言ったら失礼だが)彼女に戻っている。
とりとめもないことを話しながら歩いていると、彼女が使うバス停が見えてきた。
「今日もありがとう。本当に助かった」
「いえっ! 少しでもお役に立てのなら、良かったです」
音羽さんはそう言ってはにかんだ。天使だ。天使がいる。ただ、いつまでも頼りっぱなしというのも悪い、というか、先輩としてあまりにも情けない。
「ちょっと音羽さんを頼り過ぎだよな。これからはもう少し自分で頑張ってみるよ」
「いえ! 全然迷惑なんかじゃないです! むしろ……」
一呼吸置いて、彼女はたどたどしいながらも言葉を紡いだ。
「私、久しぶりに人に勉強を教えることができて、お役に立てて、本当に嬉しいんです。まだ他の学校の人達にこういうことをするのは、ちょっと怖いですし……。でも、皐月先輩は、私の説明を聞いて『ありがとう』って言ってくれました。『よく分かった』って、すごく喜んでくれてました。それが私、とっても嬉しかったんです。だから……」
(怖い? 怖いってどういうことだ?)
気にはなったが、今聞くべきことではない。
彼女の話している様子を見れば、社交辞令なんじゃないか、なんて疑う必要は全くなかった。本気で、本当に嬉しいと思っているのだ。俺なんかに勉強を教えることを。この子は。
「だから、もし迷惑じゃなければ……これからも、一緒に勉強をしませんか……?」
断る理由なんてどこにもなかった。ずっと黙っていた俺を、少し震える目で見ていた彼女に、はっきりと自分の思いを伝える。
「こちらこそ、もし音羽さんの迷惑じゃなければ是非お願いしたい……一緒に勉強するっていうより、俺が一方的に教えてもらうことになりそうだけどな」
確かに情けない先輩かもしれない。後輩に受験勉強を手伝わせているなんて。でも、彼女も俺も、それでいいと思っている。他の奴らにどう言われようとも、知ったことじゃない。
俺の返事を聞き、彼女は安堵の表情を見せる。だが、そこで何かを思い出したかのように表情を一転し、
「あっ……でも、皐月先輩って予備校に通われ始めたんでした、よね?」
と恐る恐る聞いてくる。
そういえば、彼女には「体験に行く」とは言っていたが、入る意思がないことは伝えてなかったな。
「ええと、実は……」
家計の状況、汐音との約束をかいつまんで伝える。体験は2週間だから、来週以降はまた図書館で勉強するつもりだということも。
「あっ……そうだったんですね。すみません、せっかくの貴重な体験期間にお呼びしてしまって」
「いや、どうせ行ったところでどう勉強したらいいか分かんなかったから、何もできなかっただろうし」
明日から日曜日までは、せっかくの機会だし予備校の自習室を利用させてもらうつもりだ。音羽さんと勉強するのも大変タメになるが、同級生のライバルたちの姿を見るのは良い刺激になる。
「そっか……よかった……」
「ん? なんか言ったか?」
小声で何かを呟く音羽さん。何を言ったのだろう、と聞き直すと、「ひぇいっ!? な、なんでもないです!」と動揺も顕わな反応が返ってきた。うーん、似たようなやり取りを前にもしなかったか?
彼女が乗るバスが、こちらに向かって走ってくるのが見えた。
「それでは、先輩。また月曜日に」
「ああ。これからよろしくな」
別れの言葉を告げ、音羽さんはバスの中へ入っていく。出発するバスを見届けると、俺も帰路についた。
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「そうか……もう、決めたことなんだね?」
「はい。すみません、色々とお世話になったのに」
日曜日の夜、閉室の間際に俺は長谷さんから呼び出され、是非正式に入塾しないかとの勧誘を受けていた。
「同じレベルの志望校を目指すライバルと競い合う」とか、「大手予備校にしかないノウハウで勉強することが受験の最短ルート」だとか、「浪人することを思えば現役の時に塾に行く方が安い」とか、入塾することのメリットをこれでもかってくらい挙げられたよ。
この武蔵野予備校は、講師の授業も面白かったし、英単語プリントはこれからも愛用するつもりだ。学校は違えども同じところを目指して真剣に勉強をしている人たちばかりで、正直に言えば、入りたいという気持ちが全く無いわけではない。
(でも……)
汐音を塾に通わせてあげたいという気持ちだけではない。ここに来なくても、俺には勉強する場所ができた。喜んで勉強をサポートしてくれる人と会えた。
「これからの受験勉強、是非頑張ってくれ。決して楽な道ではないだろう。でも、君が本気になればしっかりと取り組める子だということは、会って2週間しか立っていない私でも分かったよ」
残念そうな、だが経験上なんとなく察していたのだろう。割り切った表情で俺にエールを送ってくれる長谷さん。彼のはなむけの言葉は、俺の中に芽生えた小さな炎を大きくしてくれた。
「1年後、君が合格というハッピーエンドを迎えられていることを、心から祈っている」
こうして、俺の受験勉強は始まったのだった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。無事、第2話完結です。
次の第3話で1章は終わりとなります。ついに、音羽さんの秘密が明らかに……!
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