Ep.2 勉強場所を確保せよ!⑩
翌日、俺は学校を休んだ。
熱は平熱よりも少し高いくらいだったが、頭痛は相変わらず続いていたし体も鉛のように重い。とてもじゃないが、学校に行って勉強できるような体調ではなかった。
(何をやってんだろな、俺……)
ベッドの上で転がりながら、あまりの情け無さにふっ、と自嘲をもらす。
予備校の体験を始めた最初の2, 3日は、自習室という快適な空間で勉強ができることが楽しかったし、何より受験生としてこのくらい勉強するのは当然だ、と思ってた。
でも、「慣れ」が出てきたのだろうか、気が付けば「何を勉強しているか」ではなく「どのくらい勉強したか」ばっかり考えるようになってたし、なんとかして講座を終わらせなければという思いが先行し、授業に対する真剣さが欠けてきたことに気づきもしなかった。
(英語の5コマ目、例え長谷さんとの約束が守れなくなったとしても、ちゃんと受け直すべきだったな)
授業中に寝落ちして、見ないままに「分かった」ことにして終わらせてしまったことへの後悔が募る。
(昨日だってそうだ。ハルトが心配してくれてたのに、勉強時間をキープすることばかり考えて……)
何が「自分の体調のことは自分が一番分かっている」だ。自分のことをよく見てくれている人の方が、自分じゃ気づけないことに気づいてくれることだって十分あるのに。
(ハルトには明日謝ろう。今日はとりあえず体調を回復させることに専念しないと)
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次に目が覚めた時は、もう夕方だった。日中ずっと寝ていたからか、しんどさはだいぶマシになったが、代わりに喉が渇いている。できれば、何か食べ物も口にしたい。
自室を出て台所へ向かうが、母親はまだパートから帰っていないようだ。家の中には誰もいない。そういえば今日は平日だったな、と今更ながら思い出す。
何か食べれるものは残ってないだろうか、と冷蔵庫の中を物色してみたが牛乳や果物の他は調理を必要とするものばかりだった。
仕方ない、焼きそばでも作るか、と野菜、牛肉、麺を取り出していると、ガチャッという音が玄関の方から聞こえた。母親は平日いつも18時頃まで帰って来ないし、ということは……
「ただいま」
帰ってきたのは、思ったとおり汐音だった。そのまま居間に入ってくると、台所の俺をちらりと一瞥し、手に持っていた袋を食卓の上に置く。
「汐音、それは?」
「……もう体調は大丈夫なんですか?」
「え? あ、ああ。ずっと寝てたから、今はだいぶ元気になった」
「そうですか」
それだけ聞くと、汐音はすたすたと自分の部屋に戻ってしまう。いや、その前にちゃんと洗面所で手洗いうがいはしているようだ。
居間に目を向けると、汐音が置いていった袋が視界に入る。学校で使った何かだろうか。台所を出て中身を確認しに行くと、そこにはフルーツゼリーとスポーツドリンクが入っていた。
(もしかして、俺のために?)
そう思って彼女の部屋の方向を見たが、扉は閉まっていて中の様子は見えない。でも、本来中学生は登下校中にコンビニに立ち寄ることを禁止されているのに、わざわざ帰り道に買ってきてくれたということは、そういうことなのだろう。
早速ありがたくいただくことにする。取り出していた焼きそばの材料はひとまず置いておき、汐音が買ってきてくれたゼリーを食べる。桃のほのかに甘く、さっぱりとした味が口の中に広がった。スポーツドリンクの方も、一口飲むだけで喉が潤っていくのを実感できる。
食べ終わると、空腹感に苛まれるというほどではなくなった。だが夕食はいつもどおり21時を過ぎた辺りだろうから、それまでまだ時間がある。俺は一度取り出した食材を再び冷蔵庫に仕舞ってから再び部屋に戻り、それまでの間ベッドに寝っ転がって体調の回復に努めることにした。
(……ダメだ。寝れる気がしない)
寝ようとしたが、どうにも目が冴えてしまった。どうしようか、と部屋を見渡すとスマホやマンガなど暇つぶしになりそうなものはいくらでも転がっている。
久々にマンガでも読むか、と本棚に手を伸ばしたとき、
(いや待てよ)
と止める声が自分の内から聞こえた気がした。
(今日は学校にも行かず、予備校にも行かないんだろ? マンガを読んでる場合か?)
体の調子は、今は決して悪くはない。マンガで潰す暇があるなら、もっと有効活用するべきではないだろうか。
ふと、昨日学校と予備校に持って行った鞄の中に入っている、長谷さんから渡された英単語のプリントの存在を思い出した。鞄をベッドの近くに引き寄せ、中からプリントの束を取り出すと、ずっしりとした重みを感じた。
パラパラとめくってみるが、なにせよ数が多い。しかも、後半の方の単語はほとんど見たことがないものばかりだ。これを1週間で覚えるなんて、自分には本当にできるんだろうか。
(調子に乗って「来週までに完璧にしてみせます」なんて啖呵切っちゃったからなぁ)
「全く何てことしてくれたんだ、一昨日の俺!」と心の中で悪態をつきながら、どうするべきか思索を巡らす。
とりあえず、英語が得意なハルトに単語はどうやって覚えたら良いか聞こうとスマホを手にしたが、文章を打っている途中でアイツが昔『俺、小学校の頃父親の仕事でずっと海外いたんだよね~』と言っていたのを思い出した。帰国子女とそれ以外の人とでは、英語に関する経験が違い過ぎるから、たぶん参考にはならないだろう。
他に英語が得意そうな奴……と連絡先の画面をスクロールしていると、「おとわ」というアカウントのところで指が止まった。
(そうだ、音羽さんならもしかしたら……)
一縷の望みをかけて聞いてみようと思ったが、よく考えれば彼女のあのブロンドの髪は、日本人が自然に持っているものではない。たしか、ハルトが確か音羽さんのお母さんは外国人とかなんとか言っていなかっただろうか。
こっちもダメかぁ、と肩を落としていると、手にしたスマホがブーンと振動した。マナーモードの状態で何かしらの通知が来たのだろう、と思って画面を見ると、
通知を鳴らしたメッセージの送り主は、なんと俺が連絡しようと思っていた音羽さんその人からだった。慌ててメッセージを開くと、
『先輩にお話ししたいことがあって教室に行ったのですが、今日はお休みされていたと伺いました。体調の方、いかがでしょうか?』
という文面が書かれている。
(話したいこと、ってなんだ?)
特に思い当たる節がないため首を傾げたが、既読を一度つけてしまったのは向こうも見ているだろうし、あんまりモタモタと返信するわけにはいかない。
『寝ていたらすっかり良くなりました。心配をかけてすまない。それと、話したい事っていうのは?』
と手早く打ち込んで送信。すぐに既読がつく。
しばらく待ってみるが、返信は来ない。何か長文でも打っているんだろうか、と思ってぼーっと待っているうちに、再びスマホが振動した。今度は1回だけでなく、2回、3回……ってこれ着信じゃん!
「はい、皐月です!」
『あっ、もしもし! 体調がすぐれないときに申し訳ありませんっ! その、お身体の方は大丈夫でしょうか……?』
「ああ、うん。さっき送った通り、もう平気だ。心配してくれてありがとな」
「い、いえ。こちらこそこんな時にお電話をしてしまって……」
電話越しにもペコペコと腰を折っている様子が容易に想像できる。相変わらず、放っておいたらいつまでも謝り続けそうだ。こちらから本題を聞くことにしよう。
「で、音羽さん話したい事ってのは一体……?」
『あ、えっと昨日皐月先輩と職員室でお会いしました、よね。その後、職員室から出てきた金子先生が、「さっきの男子生徒見なかったか!?」って私の方に尋ねてきて……』
金子先生……顔は思い出せないが、職員室で「松井先生はもう帰った」と教えてくれた人だろう。彼は、いったい自分に何の用があったんだろうか。
『話を聞いてみると、先輩が職員室に問題集を忘れていたようで……えっと、「中級古典読解問題」って書かれている学校で配られるテキストなんですけど……』
「あっ!」
それを聞き、慌てて俺は鞄を探る。……ない。昨日職員室で先生を探すとき、確か入口付近の戸棚の上に一度置いた気がするが、回収し忘れてたのか。
「それを、音羽さんが預かってくれてるのか?」
『は、はい。「君、知り合いか? なら明日にでも返しといてくれ」って言って……それで今日の放課後、先輩のクラスに伺ったのですが……』
俺は休んでいて居なかった、という訳か。なるほど、経緯まで含めて説明するなら電話の方が早い。俺が返信してからしばらく間があったのは、電話をかけても良いか彼女の中で葛藤があったのだろう。
「預かっといてくれてありがとう。明日は学校に行けるから、その時にでも音羽さんのクラスに受け取りに行くよ。えーっと、5組だっけ」
『あ、そうです……けど……』
「あ、いやすまない。押しかけられるのは流石に嫌だよな。……どうしよっかな」
『いえ! そ、そんなことは無いんです! そうじゃ、なくて……』
慌てて否定した音羽さんは、しばしの間をとり、大きく息を吐いてからこう続けた。
『先輩は、その、明日も図書館には来ません……か?』
図書館、というのは音羽さんが教えてくれた例の場所のことだろう。明日はもともと予備校で勉強するつもりだったが、テキストを返してもらうついでに音羽さんに英単語の勉強の仕方を聞いてみたいと先ほどから思ってたとこだ。
そっか、1週間以上も行ってなかったのか、と軽い驚きを覚えながら答える。
「いや、明日は俺もそっちに行こうと思う。そこで渡してもらってもいいか?」
『ほ、本当ですかっ!?』
驚きと、そして喜びか何かの感情が彼女の声に乗っている。なんでだろう、手間が省けて嬉しい、とかじゃないのは分かるけど……俺に会えて嬉しい? いやまさかな。
「ああ。じゃあまた明日の放課後に。それと音羽さん、」
『は、はい! なんでしょうか?』
「えーっと……明日会ったときでいいから、英単語をどう勉強したらいいか教えてくれるとすごく嬉しいんですが……」
後輩に勉強のやり方を教えてもらう恥ずかしさから思わずまごついてしまったが、結局言ってしまった。
音羽さん、呆れてないだろうかと少し不安にも思ったが、返ってきた言葉を聞いて安心した。
『は、はいっ! 頑張りますねっ!』
そこから別れの挨拶を交わして通話を切り、スマホの電源を落とした。今から明日が楽しみだ。
(……ん? 俺、今あの音羽さんと電話をして、明日会う約束をしたのか? 学年問わず話題になるほどの美少女と一緒に図書館に行って、勉強を教えてもらう? それって、まるでデー……)
朝測ったときは、平熱よりも少し高い程度だったはずだが、今の俺の顔はそのときよりも熱くなっているだろう。万が一でも家族に自分の赤くなった顔を見られないよう、悠馬は布団にすっぽりとくるまって夕食の時間を待った。