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先生って呼ばないでくださいっ!  作者: 矢崎慎也
第1章 俺、どうやら受験生になったらしい。
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Ep.2 勉強場所を確保せよ!⑦

 


 土曜日の昼過ぎ、俺はハルトが通っている武蔵野むさしの予備校に無料体験講習の説明を聞きに来ていた。



 受付に行くとしばらく待つように指示され、近くのテーブル席で待たされる。することもなく手持ち無沙汰だったので、建物の中をぐるりと見まわしたが、視界に入った異様な光景に思わずのけぞった。



 プリントを印刷してくれないかと事務員に頼む生徒も、遅めの昼ご飯を食べる生徒も、みんなその手には必ず単語帳などの参考書を持っていたのだ。スマホでもいじろうか、と俺は考えていたけど、とてもそれが許される雰囲気ではない。



「君が皐月君かな? 待たせてすまなかった。私が校舎長の長谷はせと申します」



 突然声をかけられて驚いたが、気が付くと自分が座っていたテーブル席の傍に初老と思われる男性が来ていた。長谷、と名乗ったその男は、泰然たいぜんとした様子で俺の対面の席に腰を下ろし、一見して上品だと分かるスーツの裾を整える。



 体験の説明を聞きに来ただけなのに「校舎長」なんてエライ役職の人が出てくるとは思ってもいなかった俺は激しく緊張した。それを見透かしたかのように、長谷さんは苦笑を浮かべる。



「そう緊張しなくても大丈夫だ。今日は体験にあたっての注意事項や、受講する講座を決めるだけだからね」

「え、あ。はい」



 すっかり相手のペースに載せられている。汐音と約束したので体験入塾は元々するつもりだったが、電話で予約を取ったときは「説明だけ聞きたい」としか言わなかった。にも関わらず、会話の流れは既に俺が体験入塾をする方向に決定されている。



 ……「流されやすい兄さんが営業のプロの勧誘を断れるのか」と汐音は言っていたが、俺もなんだか不安になってきた。でも、兄さん頑張るからな!



「早速だけど、学校で受けた模試の成績表を見せてくれるかな?」

「あ、はい。これです」



 予約のために電話をしたとき持ってくるように言われていた、先週返ってきたばかりの模試の成績表を鞄から取り出し手渡す。「ふうん、どれどれ」と興味深そうに俺の恥ずかしい成績を見つめていた長谷さんは、ふとある一点に視点を落とし、そのまま俺に問いかけてきた。



「皐月君、この志望校というのは何か理由があって決めたのかい?」

「え? ああ、それは友人と合わせたというか、深く考えてはないです」



 長谷さんが見ていたのは志望校の欄だった。俺は明央めいおう大学や立習院りっしゅういん大学など、都内でも著名なところばかりを選んで書いていた。別にそこに行きたいと思ったからではなく、他に知っている大学名が無かったから、ハルトの第6、7志望あたりに書いてあったのをそのまま写してきただけである。



 難しそうな顔をして「うーん」と唸った長谷さんは、「あくまでこの成績表だけを参考にすればね」と前置きした上でこう言った。



「君の今の学力で、こういった有名私大に合格するのは難しいだろう。もう1段階、いやもう2段階くらい下のランクから志望校は選ばないと、最悪の場合どこからも合格がもらえず浪人することもあり得る」

「それは……今から勉強しても遅い、ということですか?」

「いや、もちろん今後の努力次第ではあるんだよ。ただ、これまで数多くの生徒を見てきたが、この時期にこれくらいの成績だった子が、最終的に成績を大きく伸ばして合格をつかんだ例はあまり無くってね」



 言外に、「君もおそらく無理だろう」と伝えてくる。



 長谷さんの言い方はとても温厚だったが、経験に裏打ちされたものだった。確かに、今までまともに勉強をして来なかった奴が多くの受験生が憧れている有名な大学に合格できるなんて、そんな旨い話はないだろう。



 しかし、俺は昨日汐音と約束したんだ。「自分の学力でいける一番上の大学を受験する」って。 だから、今ここで志望校を決めて選択肢の幅をせばめるような真似はしたくない。



「確かに難しいとは思います。でも、俺はまだ受験勉強を始めたばかりですし、これからの成績の上がり方を見てから、改めて志望校は決めたいです」

「……いや、そうだな。今まで勉強していないんだとしたら、それだけ伸び代があるってことだ。もしかしたら、ということもあるし、現時点の志望校はこのままでいいだろう」



 少し考えるそぶりを見せた後、長谷さんは俺の考えに納得してくれた。



「だが、もしこのままの志望で行くなら、それに見合うだけの勉強をしなきゃいけないってことは、覚悟しているよね?」

「……はい」

「そうか。だったら、これを見て欲しい」



 そう言って、長谷さんはタブレットの画面を俺に見せてきた。そこには、「5日間で完成! 入試頻出の必須英文法」「高校2年生のための基礎古典」「ベーシック世界史 近代西欧編」といった映像講座の名前とその説明が記されている。



 俺が一通り読み終えたのを確認すると、長谷さんは説明を始めた。



「この講座は、君が本当に明央大や立習院を受験しようと思うなら、本来2年生のうちに終わらせていなければならないものだ。体験期間は今日から数えて2週間。その間に……いや、できれば来週の日曜日までに、必ずこれらの講座は全部受講を終えて欲しい」

「全部、ですか?」

「ああ。1つの講座は90分×5回の授業からなっているから、3つの講座を終わらせようと思ったら450分×3で1350分、つまり20時間以上はかかる。それに加えて講座の予習や復習、講習内容の確認テストもあるから、一日あたり最低でも5時間くらいは勉強しなければ、まず終わらないだろう」



 一日最低5時間の勉強……この前、音羽さんに誘われて図書館で勉強したのは4時間くらいだったか。そのときでさえだいぶ疲れは溜まったのに、一日5時間の勉強を、それも1週間に渡って続けて行うなんて、俺にできるのだろうか。



 試すような長谷さんの視線から逃れるように、周囲を見回す。校舎内のそこかしこでテキストを開いている彼らは、皆受験生だろうか。



 焦りや不安、それらを全部吞み込んで勉強に向かっている彼らの姿が、俺にはまぶしく見えた。



 視線を再び長谷さんの方に向け、ぐっと拳を握りしめる。そして、悠馬は一度深呼吸してから、静かに告げた。



「やります。絶対に終わらせます。今日から、よろしくお願いします」


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