Ep.2 勉強場所を確保せよ!⑤
俺は音羽さんを近くのバス停まで送り届けて、それから帰路についた。
彼女の家は、この大学からだいたい20分くらいのところにあるらしい。学校からの距離を考えると、徒歩だけで通学しようとしたら40分くらいはかかるんじゃないだろうか。
あの後は、二人とも終始無言のままだった。お互いに自己紹介を終えた後の、なんとも形容しがたいくすぐったいたさは、結局バス停に着くまでで晴れることはなかったが、バスに乗り込もうとする音羽さんにLINEを交換しようと持ちかけることができたのは、俺にしては上出来だった気がする。
歩きながら勉強のし過ぎ(といっても4時間だけだが)で凝り固まった肩を、ぐいーっと伸びをすることで解きほぐそうと試みる悠馬。ふと腕に巻いた時計を見ると、
(やべぇ、もう22時前!? 親に連絡するの忘れてた!)
うちの家族は、現代にしては珍しく家族皆がそろってご飯を食べるのが習わしだ。時父親の帰宅時に合わせているため、夜ご飯の時間は毎日21時30分くらいだが、そんな時間とっくに過ぎている。
恐る恐る、勉強に少しでも集中できるようにと切っていたスマートフォンの電源を入れると、画面が明るくなるや否や着信が……
「はいっ! すんません!」
『悠馬、あんた今どこにいるの!? もうお父さんも汐音も帰ってきてるわよ!』
「いや、その、今ちょうど大学を出たところでして……」
『えっ、大学!? ……いいわ、とりあえず早く帰って来なさい。今日はご飯先に食べてるから』
「あぁ、うん。そうしといてくれ」
「悠馬が、大学?」と不思議そうに呟きながら母親が電源を切るのを聞き届けると、悠馬はふぅ、っとため息をつく。
普段は19時頃には家に着いている帰宅部の息子が、22時近くなっても連絡を寄こさなかったら、まともな親なら心配して当然だ。帰ったら怒られるだろうが、全面的に悠馬に非があるので、甘んじてお叱りは受けなければならない。
この大学は確か、ちょうどうちの家と白河高校から同じくらいの距離の場所にあったはずだ。高校からここまでが30分かからないくらいだったので、急ぎ足で行けば20分ちょっとで家につける。
なんとしてでも22時30分までには家に着こう、と思い悠馬は歩くペースを少し早めた。
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帰宅すると、玄関で待ち構えた両親には予想通り烈火のごとく叱られた。「次からは、どこへ行くかと何時に帰るかは、必ず出かけるまでに連絡します」という約束をさせられたときは、自分が本当に高校3年生かどうか思わず疑ったが。
ただ二人とも、普段より少し消耗している様子の俺を見ると、10分少々で説教を終え、早くご飯を食べて風呂に入るように促した。昼ご飯以降、腹の中に物を全く入れてなかったため、普段はあまり好みではない焼き魚も、今日はまったく気にならなかった。
食べ終わった後の食器を片付け、自分の部屋で寝間着を取ってから浴室へ向かう。浴室の電気は……よし、点いてない。以前よく確認せず突入して、着替え中だった妹と出くわしたときは、そりゃもう大変だったのだから。人間は同じ過ちを繰り返さない生き物なのだ。
体を石鹸とスポンジでこすってからシャワーを浴び、湯船の中に使ってからほぅっと一息つく。なんだか、ここ二日間でずいぶんと疲れが溜まった気がする。勉強という慣れないことをやっているからだろうか。あと1年間弱続くんだけどなぁ……。
風呂から上がり、自分の部屋へ戻ると、先ほど寝間着を取りに行った際床に置いた学校の鞄が開きっぱなしになっていることに気が付いた。悠馬は中から今日終わらせた模試の世界史の問題用紙を取り出し、ベッドに腰掛けながらパラパラとめくる。
世界史は、他の科目に比べたらまだ得意な方だが、何しろ覚えなきゃいけないことが多すぎる。
(暗記は、小学生の頃友人とハマっていた遊〇王のカードを、自分が持っているものは名前だけじゃなくステータスまで全部覚えることができていたくらいだから、決してニガテではないと思うんだけどなぁ)
覚えようとする気力の問題か、と問題用紙に羅列されたカタカナたち(〇世ってついてるしたぶん人名)を穴が開くほど見つめていると、コンコン、と遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。この叩き方は両親ではない。あの二人は息子の部屋に入るときに、ノックなんていう文明的な手法は取らずバーンっといきなり扉をあけ放ってくるし。
「汐音か?」
「うん。兄さん、入ってもいいですか?」
「ああ。いいぞ」
そう伝えると、パジャマ姿の少女がカチャりとドアノブをひねって俺の部屋に入り、それからまた静かに扉を閉める。
彼女の名前は皐月汐音。家の近くの公立中学校に通っており、この春3年生になったばかりの俺の妹だ。
身長は160cm以上で、これは同年代の女の子の中では比較的高い部類に入るだろう。父親が180cmを超えているため、その遺伝を色濃く受け継いだのだろうか。まぁ、かくいう俺も、日本人の平均身長は優に超えているんだけど。
吸い込まれてしまいそうなほどに綺麗な漆黒の髪を、うなじに差し掛かるか差し掛からないかの辺りで二つ結びにしている。その髪の毛の先はまだ少し湿っているのがこの位置からでも分かった。学校では「しっかり者」「優等生」「クールビューティー」などと同級生や後輩からもてはやされている人気者らしいが、家では案外ずぼらであることはどうもバレてないらしい。
「髪の毛の先っぽ、ちゃんと拭かないと風邪ひくぞ」
「分かってます。風呂上りだからって上半身裸で寝て風邪引いた兄さんにだけは言われたくない」
「いや、それ何年前の話だよ……。さすがに今はそんなことしないって」
「本当に?」
小学校の頃の俺の失態を挙げてきた汐音に反論してみるも、ジトっと目を細められてしまった。どうやら兄は妹の信用がないらしい。
「で、どうしたんだ。お前も明日は学校だろ?」
「ええ。だから用が済んだらすぐに寝ます、だけど……」
いつもサバサバしている汐音にしては、珍しく歯切れが悪い。 どうしたんだろう、と首をひねる俺に向かって、彼女は一息つくと、部屋の入口に立ったままにこんな質問をしてきた。
「兄さん、今日図書館に行ってきたの?」
「ああ。中央図書館じゃなくて、大学の付属図書館だけどな」
「近くにある私立の? ああいうところって、学生じゃなくても入れるんですね」
「俺も今日までは知らなかったよ」
音羽さんが教えてくれなかったら、きっと卒業するまで知らなかったに違いない。っていうか、なんで音羽さんはあんな場所のことを知ってたんだろう。誰か知り合いの先輩が通ってる、とかだろうか。
「そうですよね。兄さんも、もう受験生ですもんね」
「お前も今年受験生だからな? 俺はまぁ、あんままだ自覚がないけど……」
「嘘つき。ちゃんと今も勉強してるじゃないですか」
ベッドに腰掛けている俺の膝の上に世界史の問題集が置いてあるのを見て、汐音はクスっと笑う。まぁ確かに、眺めていただけとはいえ今までの俺ではあり得なかった光景だろう。
「で、兄さん。本題なんですけど……」
「ん、どうした」
「その……」
やはり今日の汐音は何か変だ。親には相談しづらい悩み事でもあるのだろうか。もしそうだとしたら、俺が役に立てるとは到底思えないが……
再び息を大きく吐いて、彼女はようやく本題に入った。
「兄さんは、予備校に行こうとは思わないんですか?」