Ep.2 勉強場所を確保せよ!③
人生って不思議なものだ。一昨日まではあり得るはずもないと思っていた、というより、想像すらしていなかったことが、こうも連続して起こるなんて。
桜が散り始めた4月の中旬にも関わらず、ひんやりと肌寒い夕暮れの遊歩道を歩きながら、悠馬はここ24時間の出来事を思い出していた。
(まさか、俺が放課後にYoutubeのおもしろ動画じゃなくて、勉強するための場所を探してるなんてな)
一体どうしてこんなことになっているのか、いくら考えても、原因は目の前を歩く小さな女の子の存在を置いて他には思いつかない。
『その、もし先輩がよかったらなんですけど……えっと……一緒に、図書館に行きませんか?』
閉室していた図書室の前でそう提案してきた音羽さんに、一にも二にもなく「もちろん行く! 是非連れてってくれ!」と頭を下げたのは今から20分ほど前のことである。長い校舎の階段を降りて彼女は2階の、自分は1階の昇降口で靴を下足に履き替え、正門で再び合流した。
「なぁ、音羽さん」
「はっ、はい! なんでしょう!」
俺を先導してくれるかのように、前を歩く音羽さんに後ろから声をかけると、彼女は一瞬ビクッと肩を跳ね上がらせた後こちらを振り返った。
突然声をかけられたから驚いただけで、きっと俺の声に怯えての反応ではない、と信じたい。
「今から行くのって図書館なんだよな?」
「は、はい! そうです。ここからあと5分ほど歩きますが……やっぱり、ご迷惑だったでしょうか……」
「いや、そんなことはない! 勉強できる場所をちょうど探してたところだから、その、本当に助かる……ってそうじゃなくて」
恐縮そうにこちらを仰ぎ見る音羽さんに、慌ててそんなつもりではないとかぶりを振る。
というか、その、目だけで見上げたその表情は俗にいう「上目遣い」とかいうやつではないのか。庇護欲を掻き立てられるようなその様子に、思わず動揺して声が震える。
夕日以外の何かで頬が赤く染まるのを感じた悠馬は、慌てて話題を元に戻した。
「図書館って、この近くにある中央図書館だよな? あそこって、閉館時間5時とかそんなもんじゃなかったっけ」
「えっと、中央図書館は、この時期は確か18時で閉館してしまいますし、自習室の利用時間はその30分前までですね」
「え、じゃあどうするんだ? 今16時半だから、使えても1時間くらいしかないぞ?」
昨日までの俺からすれば、1日に1時間でも勉強すれば大したもんだったが、授業の予習と、できれば昨日返ってきた模試の復習を全教科終わらせようと思うと、1時間では少なく感じる。
まぁ、出来るところまでやってから残りは家でやればいいか、なんて考えている俺を見ると、音羽さんはふふっと少し悪戯っぽい表情を浮かべ、俺が思い違いをしていることを気づかせてくれた。
「えっと、大丈夫なんです。今から行くのは中央図書館じゃなくて……その、近くの大学の付属図書館ですから!」
……へ?
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辺りは静寂に包まれていた。いや、時折機械が書籍の貸し出し処理をする音と、ペンが机を叩く音が館内に木霊している。
(うぉっ……高校の図書室とは雰囲気が全然違うな。なんというか、重々しい感じだ)
近くにある私立大学の一画を占める大きな建物に入った悠馬は、その中が図書館であると気付くまでに少し時間を要した。少なくとも、自分が知っている図書館は、子どもたちが本を取り合っていて、また偶然来ていた主婦同士が周囲の邪魔にならないよう小声で会話をするような、そんな場だったからだ。
入館してすぐのゲートを通った先にある机では、学生と思しき眼鏡をかけた若い女性がしきりに文献のページをめくっており、貸し出し専用と書かれた札が立っているカウンターでは、初老の上品そうな男性が、貸し出し処置を終えた複数冊のハードカバーを手提げ袋に入れている。
「先輩、こっちです」
荘厳な雰囲気に呑まれている俺に、音羽さんが周囲の迷惑にならないよう声を潜めて呼びかけてくれた。慌てて彼女の後について、階段で二階へ上がる。
階段を上がりすぐのところを左に曲がると、そこには「閲覧室A」と書かれたプレートが掲げられている部屋があった。
ここで? と部屋を指さし、無言のまま音羽さんに問いかけると、ぶんぶんと彼女は首を縦に振る。俺は初めて来た場所を探検しているような、そんな少し沸き立つ心をぐっと抑え、静かに部屋の扉を開ける。
部屋の中は学校の教室2つ分くらいの広さで、机と椅子が40個ほど設えられていた。そこでは15、6名ほどの人机に向かって何かをしており、そのうちの一人が俺たちの来訪に気づいたようで、頭を動かしてこちらを見たが、すぐに興味を無くしたようで再び机に顔を元の方向に向けた。
おそらく、ここは大学の自習室のようなスペースなのだろう。部外者の俺たちが使ってもいいのだろうか、と思わず周りをキョロキョロ見回してしまった。
先輩、と俺の制服の袖を少し引っ張り音羽さんがこちらに向かって彼女のスマートフォンを見せてくる。そこには、
『ここは夜の21時まで空いてます。1Fの休憩室でなら飲食も可能です。私は時間いっぱいまでここにいますが、先輩はどうしますか?』
というメッセージが書かれていた。悠馬も自分のスマートフォンを取り出し、メモアプリに
『俺も21時までは粘ろうと思う。お互い頑張ろう』
と、シンプルな文面を書き込んで彼女に見せる。
それを見た音羽さんは、目元を細めコクン、と一度頷くと、いつの間にか鞄から出していた参考書を抱えながら部屋の奥にある机に向かって移動を始めた。
それを見届けた後、悠馬も自分の席を探し始めた。部屋の奥の方の机は全部埋まっていたので、仕方なく入口付近の机まで戻ってきて腰を落ち着ける。
ふと前を見ると、そこにいたのは疲れた顔をした30歳くらいの男性だった。おそらく、自分と同じくこの大学の学生ではないだろう。どうも、このスペースは部外者が使っていても平気なようだ。
懸案事項が一つ減り、晴れた気持ちで鞄から英語の教科書と辞書を取り出す。まずは今日課された宿題をやらなければ。
帰るまでには絶対に終わらせてやる、と強く決意し、悠馬は教科書の知らない英単語に次々とマーカーを引き始めた。