第32章 喪失 2
「……ハルはあたしを恨んでないの?」
「何回目?」
ハルは笑った。
「あ、違うや。『怒ってないの』と『憎くないの』だっけ」
「だって」
「怒ってたよ。だから、アキラにはこっちのことを全部忘れて悲しまないでほしいって思ったけど、テミストは悲しんで一生引きずればいいんだって思った」
一体そのどこが、自身を死に追いやった原因に対する怒りだというのか。
「テミストが平気で裏切ったわけじゃないことはわかるもの。……コトを赦す気にはなれないけど、あの人には秘宝がすごい意地悪をしたし」
コトを大目に見ておいてテミストを責めるのはおかしい、という理屈には反論できないけれども。
ハルがそうして自分を責めないのも、秘宝の影響ではないかとテミストには思えてならなかった。心を作り変えてしまう、というほど大袈裟なことではなくても。波立つ心を鎮めたり、煮えたぎる心をなだめたり、糾弾と容赦の間で揺れ動いている心を優しい方へそっと押しやったり、そうしてさりげなく促す形で。そうでなくてどうして、命さえ落としたあの一件を、表面的な言葉の行き違いや好みに基づく喧嘩程度に語れるだろう?
納得が行かないと、ありありと表情に出ていたのだろう。ハルは微笑んだ。
「言いつけを聞かないで、お母様に何かされるのが怖かったんでしょう」
「……お見通しね」
脅されたわけではない。盾に取られたわけではない。ただ、ありうると考えただけだ。ありえないと一笑に付すことができなかっただけだ。母の居場所は既に教えてしまった後だった。
墓所で目覚め、山を下りて、父に会った。自分が殺された事情を聞き、母が追放されたことを聞き、異母兄のクレイが死んだことを聞いた。母を捜すと主張すると父は反対したが、折れないとわかるとあの髪飾りと旅費を用立ててくれた。黄色の片方を父に預けて、テミストは発った。
秘宝が自分を蘇らせたこと、それを願ったのが母であったことは理解していた。母が払った代償は知らない。母は語らなかった。いや、曖昧に誤魔化していたけれど、二度と再びボイルの地を踏めないという、本当の原因はそれだったのかもしれない。
再会した母に、桃色の髪飾りの片方を預けて。黄色の髪飾りを頼りに、父の元へと戻って。そのとき既に、カダは父の正妻に収まっていたはずだけれども、自分は失念していたし、父も触れなかった。無事でよかったと迎えられて、母の息災を告げればやはりよかったと頷いて、しかし追放を解くわけにはいかないと首を振って。
旅の話をしているときに、ハルの名を出した。それが間違いであるなどと、どうして事前にわかっただろう。引き渡せと、父は命じた。呼び出して、眠らせておけと。連れ去るための人員は別に派遣するからと。──母の、テュカの、追放を解いてやろうと。妻の座に再び据えてもよいと。顔色を変えて。
母でない方を選べなかった。単純なことだ。
「君を罰するためだけに、テーベにいるテュカ様に手を出すことはないと思うよ。コトも動けないし」
「今はそう思うわ」
「……今だからかもしれないね」
黄緑の光を浴びたときから、疑う気持ちが薄れたのかもしれないし。父の上にも降り注いだであろうあの光が、父の中からそうした選択肢を除いたかもしれないと思う。証拠はないと自らに言い聞かせつつも、あの光が、即ち秘宝が、一切を変化させたのだろうと、テミストは疑っていなかった。自分を生き返らせたのが秘宝であると、誰から教わらずとも理解していたように、自分に対する秘宝の影響を、今度も感じ取ったのかもしれない。
世界を開闢まで巻き戻してやり直すことだって、あの秘宝は可能にするよ。そんな風に言ったのはレイだった。個人に、国に、エルに留まらず、この世界全体に影響を及ぼすことも可能だと。異世界にだって手を出せるしね、と嘆息したのは千梨だった。晶の願い、一つだけの願いが、エルの、それともこの世界の全てを、変えたとしてもおかしくないのだ。秘宝のはその力がある。
ケアルにトーランを襲わせたのはコトだと、これもレイが断定していた。同じ人物が使った魔術は、少なくともレイやマリッカには見分けがつくらしい。が、この推測が間違っていたとしても、黄緑の光は真犯人にも降り注いだだろうから、案ずることは恐らくないのだ。




