第32章 喪失 1
「すみません、チリさん。〈鍵〉があれば帰り道はすぐ作れると思うんですけど」
「いや、そこは心配してないけど。マリッカたちがちゃんとみつけてくれるだろうから」
頬杖をつく千梨の髪先に赤は残っておらず、虹彩は茶に、瞳孔は黒に変じて、否、戻っている。血水晶が任せた使命を、無事に果たしたことを意味するのだろう。自分が属する天の下へ、もう帰って構わないことも。
テミストはラリサの館に滞在していた。千梨もそうだった。二人をここへ連れてきたマリッカは、レイと共にすぐさま再出立してしまった。同じ館で過ごす破目になったらその方が気づまりだっただろうけれど。
「アキラは何を願ったのかしら」
呟いた問いは、初めて浮かんだものではなかった。あのときから、変わったことは幾つもあった──ただ一つの願いがそれらの原因であったとしたら、それは一体、どういうものだったのだろう?
全てが秘宝の効果であったと決まったわけではない。コトが鳴りをひそめているのは、余命をつきつけられたためかもしれない。ゼラムやケアルが大人しくしているのは、マリッカの制限が効いているだけかもしれない。自分が父を諦め、母の復位を諦め、無自覚に抱えていたかもしれない自身の復位を諦め、故郷を諦めて、母と平穏に暮らせることで満足できそうな心境になったのは、あの一件の後では自然なことかもしれない。マリッカの弟に対する態度が、テミストにはわからないけれども周囲に言わせれば、少しばかり軟化したのも、命を再び与えられた恩によるのかもしれない。間違いなく秘宝の恩恵であると確信できることといえば。
オレンジの瞳を隣りへ向ける。
「ハルを生き返らせて、だったら、多分目までは治らないわよね」
「元に戻して、っていうのはどう?」
ハルはそう返した。
「コトだって、実質的に二つの願いをかけたようなものでしょう。言い方次第でやりようはあるのかもしれないよ。──代償を恐れなければ」
「代償」
テミストは目を伏せた。
「そうね。たくさんのことを叶えて──代わりに、アキラが消えちゃった」
晶が〈扉〉の向こうへ消え、閉じた〈扉〉も消え失せた後。後悔と自責と悲嘆の涙にくれるテミストの腕の中で、ハルは静かに呼吸を再開し、黄緑に染まった目を開けた。黄緑の、小さな、無数の光の粒が、粉のように、雪のように天から降り注いでいたことに、テミストはそのときまで、否、そのときも気づかなかった。千梨もレイもマリッカも、遠くはラリサもその光を見て、秘宝が言うなれば腰を上げたことを感じ取ったというが。
ハルの瞳が、確かに、自分を映したこと。テミスト、と柔らかに、穏やかに、愛おしげに呼んだこと。──アキラは? と続いたこと。その問いかけに、明瞭な答えを返せないこと。黄泉路から帰ってきたハルを迎えるべきは、自分ではない、あの友人だった──こと。泣き出したくなる出来事が幾つも押し寄せる中で、舞い散る光に注意を払う余裕などあるはずもなかった。
──あれきり、晶の消息は知れない。
「故郷に帰ったっていうことはないかしら。本当は帰りたくないんだって、言ってた」
「代償として成り立つぐらい、本気で?」
「家庭や学校……環境によっては、ありうると思う」
同じ天の下の住人である千梨はそういう意見だった。
「海堂晶。……名前覚えといたってみつけらんないだろうなあ」
ニュースになったら、ネットで見たら、と虚空を眺めてよくわからないことを呟いている。晶になら通じるのだろう。何のこと、と訊けば考え考え教えてくれるのだろう。想像すれば切なくなった。




