第31章 連れていって 2
「……ハル?」
……だって。さっきは、無事で。
最初は、膝をついて。次は、座り込んで。最後に、倒れて。体を支えるのも段々と辛くなっていったことは、傍目にも明らかだったけれど。……けれど。
手の力はいつの間にか抜けていた。放せば、落ちてしまう。そうわかったのに、自分の手の方が震えて滑らせてしまった。とさ、とハルの手は重力に従って落ちた。
青ずんだ別の手が伸びてきて、瞼を閉ざした。
呆然と、晶は見上げた。アティスの横で、テミストが両手で口を覆っている。一人と一匹が近づいてきたのを、耳は聞いていたのだろう、そこに驚きは生じなかった。
使い魔はいつもの無表情のまま、片膝をつき、片手を胸に添え、頭を深々と垂れた。
「代償は」
「ないわ」
マリッカの簡潔な問いに、コトもまずは簡潔に答えた。
「どういうことかわかる? 本来わたしに与えられて然るべきものだからよ。何と引き換える必要もない、わたしのものだからよ!」
高らかに、誇らかに、そう続けたが。
相向かう娘はしかし、女の主張を一つも採用しなかった。
「鏡を見ることだ。素顔で」
意味が取れなかったのだろう。コトは訝しげに口を閉ざす。
マリッカの隣りに、レイが並んだ。
「願いをかけたとき、あんたは何歳だった? 今、あんたは何歳だ? 今のあんたは明らかに、前に俺と会ったときよりも若い」
ニタ、と唇を裂いた。
「計算してみるんだね。あんたに残された時間は──赤子に返って消え去るまで、あと何年──何日?」
「出任せを!!」
血相を変えて、コトは掌に炎を生むや、至近距離の二人を貫けとばかりに放った。二人は身軽く避けた。
「次代のボイル領主の、唯一無二の生母」
歌うように、レイ。
秘宝が聞き入れたはずの、いずれ実現する願いの一部である。次代ボイル領主の生母となせ。
「跡取りを産むまでは生きられるかな? 残念、クレイがいる。とうに死んでる? 火炎蝶々にそんなことは関係ないね!」
コトが新たに子を儲けることなく世を去ったなら、そのとき秘宝はクレイを蘇らせるだろう。クレイが領主の座に就けば、領主の生母に該当するのは無論、コトになる。
「テミスト嬢とテュカ殿を迫害することが、生涯の目的だっていうならともかく。時間を大事にした方がいいんじゃないかな?」
忠告とばかり、青年は結んだ。
女の手に今度は不穏な黒が宿ったが、マリッカは直接、ぴしゃりと叩いて散らした。
「コト=ボイレスカあるいはカダ=ボイレスカ。ボイル領主エルク=ボイレスクの館より外へ出ること、並びに太陽の光を浴びることを三月の間禁ず」
「なっ」
コトの姿は掻き消えた。
「随分本気じゃないか。ケアルを唆したのもあんただと言ってやるつもりだったのに」
「あれはハルを殺した」
レイは眉を上げた。
絶えている。息も、脈も。
そんなはずがないと思ったから、確かめてしまった。確かめてしまったら──呆然と抱きかかえるしか、なかった。へたり込んだテミストを責めることも思いつかなかった。
ハルの光はコトの光を避けて進んだ。まともにぶつかって相殺したり、こちらだけが散ったりせず、確実に届くように、だろう。その代わり、コトの光も──届いた。マリッカが鎮めたと思ったけれど、きっと、間に合わなかったのだ。
自分を守ろうとしなかったのか、守ろうとしても遅かったのか。少なくとも守りきれない可能性は考えて、晶とテミストを自分から引き剥がした。髪飾りを持たせて、髪飾りを使う力は残して、結界で包んで、自分はそこから離れた。
「レイ……」
千梨が背後で呟いた。
「俺が見たものとは違うけど。人間が同じなら、やることも大体同じだな」
応答は別の方向からあった。




