第31章 連れていって 1
ぱこん、と椀を伏せたように。光が消え音が消え、外界から遮断されたように。
空気を失った火が尽きていくように、魔術の気配が小さくなった。くすんだ空が青に戻り、荒野が草原に戻った。
コトの近くに、後ろ姿が一つ、ふわりと降り立った。まっすぐな黒髪でなかったとしても、一度も会ったことがなかったとしても、マリッカであることは明らかだったろう。
一、二歩、コトは後ずさった。
「カダ。コト」
「……これはこれは、殺戮の君と名高きマリッカ殿」
二頭立ての馬車が着陸した。尤も、そうとわかったわけではない。誰かが降りてきたことと、走り寄ってきたことは、聞こえていたかもしれないが。
「ちょっと!」
「……あ、俺、は、大丈夫」
ザッと傍らに膝をつかれて、晶は目を瞬いた。動く方の手をついて身を起こそうとし、反対側の腕も首から下のどこも、普通に動くことに気がつく。手を貸すのは千梨だった。
マリッカならば一ひねりだろうと自分の無力に苛立ったとき、はたと思い出したのだ。千梨と二人きりで話したときに、連絡用にと土鈴を渡されたことを。直接連絡がつく相手はレイだけれども、自分も大概は行動を共にしているだろうからと言って。とはいえそのときはレイに放り出されている真っ最中だったわけで、今みたいなときもあるけど、と頬を掻いたのだったか。
──ああ、君がアキラか。チリに用事かい?
土鈴を転がせば、余裕のある声が頭の中に響いた。何を伝えてどう頼んだものか、咄嗟にはまとまらなかったが、向こうで察してくれたらしい。
──緊急事態のようだね。急行する。チリとマリッカが一緒だ。
真面目な調子になって、レイは的確な答えをくれた。持ちこたえて、と注文を添えて。
期待したよりも時間はかかった。ケアルのときにすぐさま駆けつけられたのは、縁の深い場所であったためかもしれないし、ハルが引き綱か目印の役割を務めたのかもしれないし、馬車を駆っていなかったためかもしれない。
「これは、間に、合ったの……?」
千梨が呟く。はっとして晶はハルを探した。そう遠くないところに、こちらに足を向けて、倒れ伏しているのが見えた。
立ち上がり、駆け寄る。何度あっても慣れるものではない。ケアルに襲われたときも、月の砂を使ったときも。
──否、自覚がないだけで、実際には慣れ始めていたのだろう。どこかで高を括ってはいただろう。
抱き起こしたハルの手から杖が落ちたときも、ぎくりとはしたが、気を失っているのだろうと思った。魔術を使いすぎたか、それとももっと単純に疲れすぎたか何かだ。少なくとも見てわかるような傷はない。貸してねと言い置いたことからしても、今の自分が動けることからしても、案の定体力を本当に吸い取ってはおらず、果ては返してきたわけだから、ここで力尽きるのも無理はない。
だから、唇が動いたことに、却って、少し驚いた。声は聞き取れなかったが。
「あ……起きてたのか。ハル」
「どう、なったの」
今度は聞こえた。
正直に伝えたものかどうか、迷う。
「マリッカが来てる。大丈夫だよ、もう」
笑みが浮かんだのは、安堵だろう。こちらこそがほっとする。マリッカの名を出さない方がよいのではないかと思ったのだ――マリッカがじきに来るからと先に告げておかなかったのも、マリッカに自分を助けさせるなど耐えられないのではないかと思ったからだった。トーランを助けたときでさえ、ああだったのに。
「……アキラ」
目を開く。手を上げて、宙を探った。晶がその手を取ったのは導いてやるつもりだったが、何に触れたい、それともどこへ向けたいと問う前に、ハルはそのまま握り返した。
「帰りなよ。君の天の下へ」
目を瞬く。何を――唐突に。
「夢なんだ。起きれば、僕は、最初から……いない」
一語、一語、区切って。誤りなく、伝わるように。
それきりだった。




