第30章 ここに 3
はっと振り向けば、コトが霧を打ち払っていた。禍々しい黒の塊が手の上に膨らんでいき、同時に赤みを帯びていく。深紅に染まっていく。機嫌の悪そうな、尖った目が睨みつけているのは。
「ヤバッ、こっちに――!」
叫び終わらないうちに、ハルはそちらへ向き直って構える。魔術で見たのか魔術の気配を感じたのか殺気を感じたのか。晶は自分も杖の後ろをつかみ、もっと右、と方向を調整した。
「やめて、やめて!」
「生憎、夫の望みなんでね! あなたもお父様の意に従ったらどう!」
応じながらも視線はこちらから離さない。
「おかしいわ、おかしいわよ。あなたはヒュレイを憎んで殺そうとしたじゃないの!」
テミストはその場から動こうとしなかった。一度止まってしまったら歩けなくなったのかもしれない。黒い蔓草の這った地面は、焼かれてからも踏み込めそうにないありさまになっているのかもしれない。
コトは口の端を吊り上げてテミストを見た。自分が呼び出した友人たちの最期を見ておけという意味なのか、──それとも矛先をテミストに変える前兆なのか。ああ、いや、どちらでもよいのだ。そのときやりやすい方に放てばよいだけだ。
「来るぞ!」
「わかってる!」
これまでとは比べ物にならない目映さと激しさを具えた深紅の雷が、狙い澄まして一直線に飛んできた。
右から左へと大きく斜めに、ハルが杖を振り上げる。それでも反射的に、晶は両腕で顔をかばった。
ダンプトラックが最高速度で激突したような振動が、大音響を伴って辺りを満たした。
地面も体もついでに鼓膜もびりびりと震えたが、何とか防ぎきったらしい。腕の陰でつぶっていた目を開けた晶は、蹲るように崩れ落ちたハルに慌てて手をかけた。
「ハル、おい!」
「……ちょっと、無茶した」
体を二つに折るようにして、押さえているのは腹なのか胸なのか。
二人の前には例の光る壁が、煉瓦ほどの厚みを持ってそびえていた。幅があるなとは一見して感じたものの、端はどこかと確かめれば、あろうことかあの赤黒い一帯まで伸びている。雷が突き刺さったらしい位置から、蜘蛛の巣のようなひびが広がっていく。
どちらを狙うかわからないと、ハルも判断したのだろう。だからといって。
「無茶苦茶だろ、俺だってわかるわ!」
「思い、つかなくて。効率、いい、やり方なんて」
「あたし知ってるのよ! ヒュレイは死罪になるところだったのよ、恩赦っていうことで追放に下げたのよ、あなたはヒュレイを死なせるために陥れたのよ!」
テミストの絶叫が響く。
「どうして今はヒュレイのためにハルを殺そうとするの!?」
「ボイルに戻さないためよ。あなたも戻ってこようなんて考えなけりゃよかったの」
けらけら笑うコトは口調も声音も顔つきも意地悪く歪んでいて、本性が表れてきたかと見えた。しかしそんなことよりも、手の上に再び湧き出している黒い光が問題だ。もう一撃、同じところに受けたら。
横にずれればよいのだ。これだけ広範囲に展開した壁を生かさない手はない。閃きを伝えればハルは頷いたものの、上半身を起こすのが精一杯で、そこから動き出せそうになかった。コトの掌では光が赤みを帯びていく。
あと何秒。猶予は何秒。何ができる?
……余計なことを告げて、動揺を招いても意味がないどころか逆効果だ。自分が無力なら、誰ならできる――。




