第2章 魔術師のいる世界 1
少年は立ち上がり、袖で目元を拭うと、社交に耐えうる笑みを浮かべた。その様が痛々しく映ったのと線が細いのとで、少年と思ったのは間違いか――少女だったかと、一瞬思ってしまった。深い青の瞳は円く素朴で、肌の色は日本人より薄い程度、童顔は丸みと、今は赤みをも帯びている。
「何か?」
「何か……って、そっちこそ」
ここで泣き腫らした目に頓着しない者もいないだろう。
ああ、と少年は目を伏せた。
「会いたかった人に、会えなかったものだから。君は、どうしたの?」
大して説明になっていなかったが、自分のためにも相手のためにも追及するのは躊躇われる。相手がこれで済ませたのだから、後から気遣いが足りないと責められる謂れもないよなと自分を納得させて、晶はただここはどこなのかと問い――コルカの近くだという答えに苦笑した。役に立たない質問だった。コルカというのは地名であろうが、それを聞き出して何になろう。
少年は僅かに首を傾げた。
「ひょっとして、魔術にでも巻き込まれた」
晶は目をしばたたく。
「……多分、そんな感じだけど」
無論、正確なことはわからない。厳密には魔術ではないとか、術というより道具の性質だとか、生物の特性だとかいうことはあるかもしれない。が、大雑把に『魔術的な何か』と考えて差し支えないものではあっただろう。通じるだろうし、というのは願望を交えた推測だったかもしれないが。
「この辺の人とは肌や服の雰囲気が違うもの。旅人らしくもないし、コルカの名前を聞いたこともないようだから、遠くから魔術で飛んできたかなって」
「信じるわけ」
ガラス製かプラスチック製などと、思い返せば馬鹿なことを考えたほど、赤く透き通った女性像の出現は自分にとって衝撃だったというのに、日常に起こりうる出来事のように言われればどうも理不尽な気分になった。
先ほどよりほぐれた笑みを少年は浮かべた。
「僕は魔術師だよ」
僕は小学生だよ、とでも言うような口調で、それらしい格好とは思っていたけれど、流石に一瞬、言葉を失った。小学生だと言い出せば、それはそれで寧ろ驚きだが。
「君の国では魔術師のローブは黒くなきゃいけないの? それとも子供の魔術師がありえない?」
軽く声を立てて笑った。屈託のない様子、とはいかない。努めて明るく振舞っているのは感じ取れた。もっと露骨であったなら反感を覚えたかもしれないが、少なくとも晶の気に障らない程度にはさりげなかった。
「ていうか、魔術師自体いないから」
「それじゃ驚いたでしょう。ああ、だから僕が信じるかどうか心配したんだね」
「魔術師……かあ」
魔術師。生まれて初めて会ったどころか、実在するとも思っていなかったのに、一方で馴染み深いような気にもなったのは妙な気分だった。女性の形をした、像のような、しかし動く何か、という正体の見当もつかないものにぶつかった直後だからだろうか。
少年は自分の背中を見やるようにした。
「未熟もいいところだけどね、こんな大きな杖……。でも、君が国へ帰りたいなら、腕のいい魔術師を紹介するから」
「いやっ、そんな、別にわざわざ」
晶はいささか慌てた。冗談ではない、折角寒々しい日常から逃げ出してきたのだ、とっとと追い返されてたまるものか。帰りたくなればいつでも帰れる、というのはありがたいことかもしれないが、それにしたって展開が速すぎる。いや、展開する前に終わってしまいそうだ。
「僕もちょうど会いに行きたいとこなんだ。伝えなきゃいけないことが……あって」
遠慮はいらないという意味なのだろうが、逆効果である。こうなると断るに断れないではないか。
晶は呻り――気がついた。晶がまさか別世界から来たとまでは、この少年は考えていないだろう。といっても晶の方にこそ、ここが別世界であると判断した明確な根拠はないのだが、日本であるとも地球であるとも思われない。どんなに速い自動車も新幹線も飛行機も、日本とこことを結ぶことができないように、いかに腕のよい魔術師であろうと、ここから日本へ自分を送り返すことはできないのではなかろうか?
それはそれであまり嬉しい推測ではなかった。帰る方法がない、一生帰れないかもしれない、となればそれも由々しき事態だ。虫がよいようでも安全保障は欲しいものである。




