第14章 研究対象 1
少女の後ろ姿は階段に消えようとしていた。速いな、と内心舌打ちをして、思い出す。
足首に巻いた、青と緑の飾り紐。
何だっけ、と記憶を探って、教わった呪文を口にした。ほんの一言、単語一つ。そうして床を再び蹴れば、すごい速さで体が前に進んだ。一瞬ぎょっとしたけれども、同時に興奮したのも確かだ。自分自身の能力でもないのに強くなった気がして、恐れが減じたかもしれない。
あっという間に階段に着いた、そのとき階下でまた不穏な音と叫び声がする。駆け下りていくとテミストが廊下で足を押さえて蹲っていた。一度破ったためか、先ほどの仕掛けは動かなかったらしい。
「おまえマジで何やってんの! 転んだ?」
半ば呆れて身をかがめる。守りの術はどうしたのだとも思ったが、自分から転んだ分は助けてくれないのかもしれないし、本当はもっと派手な怪我をするはずだったのがこの程度で済んだのかもしれない。
「あ、あたし」
テミストは泣き出しそうな顔を上げた。
「何もないの、あたしは何でもないの、何も」
「落ち着けって」
両肩をつかむ。オレンジの瞳は動転して、また怯えているようだった。
「おまえもなんか言われたの?」
「……あ」
余計なことを言ったとばかり、青褪める。その顔色を見れば嫌でもわかった。別世界の人間に匹敵するような、研究者魔術師の興味をそそる何かが、この少女にはあるのだ。
だが、そこを追及している場合ではない。
言葉をなくして、数秒経ったのだろうか。視界の隅にふわりと色が生じて、晶ははっとそちらを向いた。半ば透けた紫の揺らぎが、煙のように壁から滲み出ている。あの感覚がまた湧いてきて、それがあれであることを悟った。
「やば、立って!」
「ちょ、痛ッ」
手首をつかんで引っ張り上げようとしたものの、先ほどとは違う悲鳴を上げてテミストは蹲る。そうだ、足を痛めているのだった。咄嗟に自分も膝をついて抱きかかえ、左手を振り上げる。袖に隠れた、紫と桃色の飾り紐に意識を向けて。
先ほどと同じ呪文を叫んだ途端、透明な半球が二人を覆った。好奇心に曝される不快感がぷつりと消えた。揺らぎは結界を越えられず、その向こうに蟠る。安堵するには早かろうが、一息吐いて晶は力を抜いた。結界の種類など知らないが、身を守るための結界と聞いたから問題ないだろう。
テミストが恐る恐る頭をもたげる。
「こ、これ」
「とりあえず大丈夫」
「濃くなってきてる」
言うなよそういうこと!
いや、指摘通りなのだ。紫はどんどん濃さを増して、結界を包んで景色を塗り潰していく。注目される感覚こそなくなったが、代わりに視覚的な恐怖が芽生えた。この結界はどのくらい頑丈なものだろう?
その紫が、突如、散った。
杖を降り下ろしたハルの姿が向こうに見えた。目が合ったのは一瞬で、無事を確認するには十分だったのだろう。すぐさま二人と結界を背にして杖を構え直す。対峙する位置に紫が集まる。もう透けてはいなかった。
「ラリサの客に手を出すか、ロアーデル!」
少年魔術師は一喝した。
気のせいか、紫が後退した。
「ラリサの甥を迎え入れながら、その連れを手土産扱いするか!」
はっきりと発音したラリサの名は、権威があるのか縁があるのか、寧ろここでは武器として機能したらしい。声の大きさに怯んだわけではあるまい。ロアーデルの生きた時代にラリサは既に生まれていたのか、と一瞬疑問に思ったけれど、この様子では生前も死後も関係ないのかもしれない。
ややあって、紫はふわふわとほどけて広がり始めた。広がるにつれて薄まっていく。脅威が去っていくことを示しているように思えて、ほっとしたのは束の間だった。淡くなったそれがハルにまとわりついていくのだ。




