第1章 ここでないどこかへ 3
実を言えばこの声は後ろの方で、晶の意識が蘇る前から誰かに何事か訴えていた。悲痛な叫びは唐突に、雑音だらけだったラジオのチューニングを合わせたように、突き刺さったのである。地に伏せていて前も後ろもないのかもしれないが、要するに顔を向けているのとは反対の方向から聞こえた。教室の前と後ろ程度に離れているようだった。
身動きせずに耳をそばだてる。声の主と相手は聞くからに取り込み中だ。
「一目で、……いいですから……」
少年だろうか、泣き出しそうに甲高い。戸惑うように持て余すように、拒む言葉は聞き取りづらかった。
もっと近くに、靴が草葉を掻き分ける気配を感じた。木の陰から覗いてでもいるのだろうか。こちらには気づかないらしい、死角になっているか、繁みが覆い隠しているかであろう。先の少女かもしれない。
やがて扉が開き、第三の、それとも第五の人物が現れたようだった。つまりはそこに建物があるのだ。蝶番の軋みは妙に緊張を掻き立て、自身の鼓動が急に感じられるようになった。
少年の訴えがやんだ。しゃくり上げる気配はなおも途切れ途切れに続く。
「……レイ、さん……」
「いつからそんなことを言える立場になったんだい」
ようやっとこぼれた呟きに、レイなる人物はそっけなく答えた。二十歳前後か、今少し下か、声音からして若いようだし、敬称からして少年よりは上だろう。
またも、沈黙。わけもなく息を殺す。手の甲の蟻はいなくなっていた。
立ち上がる気配、ではこれまで膝をついていたのかと思い当たる。大層なことだ。
「いえ……わかっています。……すみませんでした」
弱々しい声に返事はない。頭を深く下げてから、足を引きずって去っていくようだったので、晶は少年に同情とひっかかりを覚えた。膝までついて叫び訴えた割に、諦めるのが早すぎはしないか。時間的なことを言えば、今の沈黙はそう短くもなかったとはいえ。
「それと、そこにいる」
心臓が一気に喉元へせり出した。
「えっ、あ、いやっ、立ち聞きしてたとかいうわけじゃ」
慌てた返事はあの少女である。自分ではなかった、と晶は力を抜いた。
「さっきの赤い光は君だろう?」
「あたしっていうか……あれ、でも、要するにあたしのこと?」
「俺の連れが、あんたを呼んだんだと思う。さあ、――入って、と言うのは気が早いか。信用してくれるかな、まずは」
幼い少年を冷たく突き放した声は、早くもそのことを忘れ去ったように響きを変えていた。戸惑いながらも少女は応じて、家か小屋か館か知らぬが入っていったようだった。扉が閉まると人の気配は残らなかった。
たっぷり三分は待って、起き上がると髪と服の土を払った。案の定ここは森であり、鬱蒼というほどではなく生い繁っている。すぐそばに大人が三、四人並んで歩けそうな道があった。地面は剥き出しである。向こう側には石造りの、なかなかに厳めしい館が建っていた。館と呼ぶにはやや小さい気もしたが。
雑木の間から道へ出ていく。太陽の位置は夕暮れ時より二時間分ほど上だった。晶は扉の前に立ち、叩いたものかどうか迷った。壁石は鼠色で苔生しており、木の扉も古めかしい。が、雰囲気に臆した、というわけではなかった。
「呼ばれてない、もの、な」
呟いてみる。赤い女性は少女を連れ去った。晶には一貫して興味を示さなかった。嫌味でもなく譬えでもなく、晶は勝手に巻き込まれたのだ。
勝手に押しかけてきたところに、椅子が用意されているはずもない。ずっと過ごしていた、暮らしていた場所にさえ、ないのに。




